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第69号


香港返還問題と中国経済 稲垣清(三菱総合研究所香港支社長)
連載中国的なるものを考える9「土匪・緑林・軍閥」 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋


香港返還問題と中国経済
稲垣 清(三菱総合研究所香港事務所長)


一九九七年に香港が返還される。
 時計の針は七月一日に向かって確実に時を刻んでおり、一分一秒の単位で香港が変化している。
 景気の落ち込みの中で、失業率もアップし、犯罪も多発している。返還への備えを行う高所得者の消費手控えによって、香港経済の六割を担う個人消費は一%台の伸び率にとどまっている。海外への移民も一九八九年の天安門事件以来の六万人規模に達する勢いである。
 といっても、外目には大きな変化はない。観光客も順調に伸びている。「買い物天国」「食の天国」が消えたわけでもない。変化を感じるのは香港人と香港に住む人々である。しかし、大きな変化は香港が中国の主権下に戻るという事実であり、そのことによって、現在の香港および九七年以後の香港がかつての香港ではなくなりつつあるということである。
 今、香港では九七年以後の香港人の国籍、パスポート問題で大きく揺れている。
 また、一九九五年九月の香港の民意で選ばれた立法議員の任期が打ち切られ(いわゆる「直通列車」の否定)、中国の主導の下での臨時立法会が組織されることで中国への不信感が強まっている。台湾へはミサイル演習で民主化を阻止し、香港へは「香港基本法」という一見合理的ではあるが、露骨な介入という武器によって、香港の民主化が否定されようとしている。
 これでは、中国が国際公約した「一国両制」(一つの国に社会主義と資本主義の二つの制度の併存、香港の資本主義制度は五十年不変)は結局守られず、「両国一制」(中国と香港の二地域とも社会主義という一つの制度)となる可能性が強い。
 
香港返還の意味するところ
  一九九七年返還後の香港については、その見通しは極端に分かれる。
 米国『フォーチュン』は昨年“香港の死”と評価し、物議を呼んだ。在香港の日系企業は総じて楽観的である。筆者はやや悲観的見方に属するが、その理由は中国の将来をやや厳しくみていることと、その不安定な中国の香港への介入が強まることが、「香港の安定と繁栄」を損なうとみているからである。
 「五〇年制度不変」「一国両制」「繁栄と安定」という一三年前に調印した中英共同宣言、香港基本法の主旨は、返還を決めた□(登+都−者)小平その人の時代の終焉とともに、幻想に終わる可能性が強い。ただし、中国の安定が続き、香港への介入が弱まれば話は別である。つまり、香港に対して中国が口を出さないことが「香港の繁栄と安定を維持」することになるのである。しかし、コトはそうはいかない。
 香港への中国の介入という意味でのいわゆる香港の「中国化」は、すでに立法議会の扱いのほか随所で見られるが、問題はそれでもなお、「香港の繁栄と安定」あるいは「国際金融センターとしての機能」を維持していけるかどうか、という点がポイントである。香港はいうまでもなく国際金融センターとして君臨してきたわけであり、その機能は「中国化」が進んでいる今日においてもいささかも揺るぎない、ともいえる。しかし、同時にこれまでのようにアジアにおける金融センターとしての独占的地位を確保できる時代は終焉しつつあるともいえる。それは、一九九七年以降の香港の将来に一定の不安があるとともに、他の周辺諸国・地域の台頭あるいは市場の成長によって、香港の国際的競争力にやや陰りが生じて来ているためである。
 香港は国際的金融センターであると同時に、アジアにおける企業の地域拠点でもある。この企業の地域拠点としての香港にも少なからぬ変化が生じつつある。
 地域拠点を香港からシンガポールに移す企業も出始めている。あるいは、営業拠点の一部を北京や上海に移す企業もある。
 これらは、すべてが香港の地域拠点としての機能が薄れたことによる移転ではなく、むしろ中国でのビジネスを強化するために、北京や上海に直接乗り込むことが有益との判断によるものと思われる。アジアにおけるビジネス拠点は今後とも香港、シンガポール、北京、上海あるいは台湾と共生して行かざるを得ないことは確かといえよう。
 香港の存在は中国の改革・開放政策の推進、とりわけ香港に隣接する広東省にとって決定的に重要であった。今日の華南経済圏の発展は香港の存在なくしては実現し得なかったことは確かである。
 中国にとっての香港は「金の卵を生む鶏」であることは否定すべくもないが、だからといって、中国が香港に何も介入しないことにはならない。基本法を遵守することすら危うい。はっきりいえるのは、「五〇年は制度不変」であるが、五〇年後には今の香港の機能を上海にもっていこうとする考えが見えかくれしていることである。
 
中国の将来と香港返還
  返還後の香港がどのような社会となるかを判断するポイントは中国がどうなるか、という点である。中国経済は一九七九年以来の□小平路線による改革・開放が曲がり角にある。ポスト□小平は実質的に始まっているが、その姿は依然不透明である。
 江沢民体制は□小平の後継体制ではあるが、その安定度は脆弱である。□小平路線の否定の上にたって、いかに地域格差を是正し社会の安定化を図っていくか。一九九七年という年は中国にとっても、党大会という大きな節目を迎える。ポスト□小平の権力闘争は必至であり、台湾問題、香港問題の処理が権力闘争の火種になることは明らかである。
 中国経済も□小平路線の下での高度成長から安定成長路線への転換期にあり、国際化の波の中で、国有企業改革の成否が今後の中国経済の軟着陸(ソフトランディング)のカギとなっている。
 香港はこうした中国経済の趨勢に大きく左右される時代に入った。これまでは香港返還を目的として、華南経済(広東省)の自由化を許容してきた中国であるが、今後は「華南のための香港」から「中国のための香港」となり、主権回復とともに、香港が中国経済の中により深く取り込まれる可能性が強い。しかし、そのことはこれまでの香港の繁栄と安定にはプラスに働かない可能性が強いのである。
 香港が国際的ビジネス拠点としての地位とその機能を維持していけるかどうかを占うのは、なによりも中国の安定と市場経済化への継続的政策である。さらにいえば、一九九七年返還後の香港が国際的金融・貿易センターとしての地位を維持出来るかどうかのカギは、香港における西側最大の権益を維持する日本企業が香港に踏みとどまり、中国にモノ申していくことであり、そのことが「香港の繁栄と安定」を保証していく唯一の方策となるであろう。

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中国的なるもの考える9

 土匪・緑林・軍閥 
 福本 勝清(明治大学助教授)


 最近はただ漫然と新聞(一般紙)を読んでいるだけでも、中国社会の様々な出来事、とくにその病巣ともいうべきものに触れた記事に出会うことが多くなった。ミャンマー・雲南・香港の麻薬ルートの摘発、武装警察官、元公安局員、元解放軍兵士からなる強盗団、そして勝手な名目で農民を絞り上げる地方幹部が、払えない農民に警察を使い銃や警棒で脅す等等。いつものことだが、事態は我々の甘い予測を超えてずっと先まで進んでいる。軍警の及ばない辺鄙な地方を根城とする土匪は、現在の中国ではまだ発生しそうもないと述べたばかりだが、これも事実によってあっさり乗り越えられている可能性が高い。
 ビリングズリー『匪賊』(筑摩書房)は、中国を「辺境と中央」の視点で捉え、貧しく、行政や軍警の力の及ばない辺境の、暴力が支配する世界と、豊かで、行政や軍警の力が行き届いた中央の、安定して秩序だった世界を対比させている。そして、民国期は、辺境と中央の境界があいまいになり、中央の辺境への転落が趨勢であったと述べる。いたるところ辺境であるがゆえに、いたるところ剥き出しの暴力が支配し、軍事万能な社会となった。いたるところに土匪、緑林、軍閥が溢れていた。彼によれば、共産党はその社会の保守や反動に行きかねない匪賊の自然発生的なエネルギーを新社会の建設に利用したということになる。しかも、匪賊のエネルギーを利用してつくりあげた新社会は、匪賊を発生させた辺境と中央の落差そのものを消滅させようとしていた社会であった。
 今度は辺境の中央化が起こったのである。新社会では、どんな辺鄙な農村に行っても、党支部および党の青年組織があり、民兵、公安が社会の隅々まで目を光らせていた。それ以上に辺境の住民自身が中央の指導者に絶対的な忠誠を誓っており、政治的な異分子ばかりでなく、社会的異分子の摘発や排除にも自発的に協力していた。
 いったいこの「新社会」を今、どう呼んだらいいのだろうか。全中国的な規模では、一九四九年以後、おおよそ三十年間だけ続いたこの特異な社会。それ以前にはそのような社会は存在しなかったし、今後も多分復活することはないだろう。新しいものも、いずれは古くなる。新○○と名づけられたものも、旧「新○○」とならざるをえない。とすれば、旧「新社会」、旧「新中国」とでも呼ぶしかないだろう。すでに過ぎ去った以上、新たな視点から「『新社会』三十年史」が書かれるべきである。
 九〇年代に入り、中国では、土匪、幇会、江湖を冠する書籍が数多く出たが、今のところ、その深みにおいて、このビリングズリーの著作に及ばない。蔡少卿編の『民国時期的土匪』も、よく整理されているという印象以上のものは受けない。ただ、ビリングズリーの『匪賊』は、共産党史研究について八〇年代以降の研究に疎く、袁文才・王佐事件の真相を知らなかったり、共産党と匪賊の関わりを、主に張国・『我的回憶』に依って論じているところなどに不満が残る。
 本題に戻り、土匪と緑林の違いについて考える。一般的には、土匪とは土地の匪賊、盗賊で、緑林は山林などに集まり、土豪や官吏に対抗した武装集団、群盗、ということになる。が、実際には両者にどれほどの違いがあるか、かなり怪しい。というのも、土匪にも「ウサギは、巣穴の周りの草は食べない」のとおり、自分の村や近隣を襲わない輩がおり、また賊の首領のなかにも、何らかの形で自分たちの「大義」のようなものを掲げ、いっぱしの義賊を気取る者がいる。逆に、緑林といえども、食い詰めれば、普通の土匪がやっている非道を行わざるをえないからである。
 土匪は縄張り内の住民を、潜在的な人質(肉票)とみなす。河川や街道が縄張りだとしたら、そこを通る船、通行人はすべて略奪対象である(同じようにいえば、軍閥はその支配下の人民を致富の手段、略奪対象、兵士の供給源とみなす)。
 問題はこの潜在的な人質、略奪の対象から誰を除外するのか、である。身内を除外するのは当然である。次に誰を身内に準ずるものとみなすのか。例えば白朗軍は、貧者にはやさしかったと伝えられている。ゆえに白朗は土匪ではなく、緑林である。もし抗日軍を名のる時には、日本人およびそれに協力的な者以外の中国人は、略奪の対象からはずさねばならない。
 身内以外の者を、義により略奪の対象からはずす時、彼は緑林になる。ホブズボームのいう社会派匪賊(なげやりな革命家)の誕生である。
 では土匪と軍閥を分けるものは何か。数千、時には数万の勢力を率いる白朗や老洋人クラスの匪賊と、わずか一、二千、時には数百の軍勢しかもたない小軍閥の間に、いったいどんな違いがあるのだろうか。住民にとっては土匪も軍閥も略奪者であることには変わりはない。強いていえば、まだ土着性の残る土匪は、住民から心底嫌われては行き場がなくなるので、手心を加える可能性が高いということぐらいである。
 だが、実際には土匪、特にその首領たちは、小軍閥になり、やがては大軍閥になりあがる夢を持つ。首領たちは、何とか招安を受け、正規軍に編入され、将官になりたがる。どうしても招安を受けたい連中のなかには、孫美瑶軍のように欧米人を人質にとり、外圧により政府の譲歩を引き出そうとする輩も出てくる。この時期、賊こそ官への近道であった。彼らは単に軍費や武器の支給を待ち望んでいるのではない。軍閥は合法的な略奪者であり、その日暮らしの土匪とは大きく異なる。略奪の対象は飛躍的に増加し、従って実入りも増し、羽振りも良くなる。
 ところが正規軍には定員があり、将官の数には限りがある。まして、軍政の要職ともなると、ますます数少なくなる。軍閥とはねずみ講みたいなもので、初期にノミネートされてしまえば、その後も利権を一人占めすることができる。後続は、前任者が居座っているかぎりチャンスがなく、とって代わるためには寝首をかく以外にない。それに対し、民国のような社会的下降期、今日よりも明日のほうが食い詰める可能性が高い時代には、土匪は次から次へと溢れ出てくる。
 軍閥は実態はどうあれ正規軍のパテントを必要とする以上、上位の権力(例えば、省級ならば北洋政府や広東軍政府・広東革命政府、二八年以降は南京政府。省以下ならば地方実力者とか省政府を牛耳る者)の承認を得なければならない。住民や通行人から税や釐金をとりたければ、上位の権力からお墨付きを得なければならない。
 しかし、正規軍に編入されたとたん、上官の命令を聞かねばならない。軍閥間の戦争にも従事しなければならないし、攻守ところをかえて土匪の討伐にも精を出さなければならない。大体において新参者は、もっとも危険で割の合わない弾除けの役割を負わされる。そこで兵を減らせば、元手を失ったも同然であり、その地位をまっとうすることはできなくなる。もし、それが嫌で命令をサボれば、正規軍ではなくなり、悪くすれば討伐の対象となる。そのリスクを首領は慎重に計算しなければならない。
 一九一〇年代から二〇年代にかけ、最も知られた土匪は老洋人(張慶)であろう。また、二〇年代から三〇年代にかけては劉黒七(劉桂堂)がなんといっても土匪らしい土匪である。老洋人は正規軍に取りたてられながら、結局、身を滅ぼすことになったし、劉桂堂は各軍閥の間を泳ぎ回り、土匪と正規軍の間を行きつ戻りつしたあげく、日本軍の走狗となり惨めな死に様をさらすことになった。
 確かに土匪を軍に編入するといっても、それはほとんど方便であり、筋金の入った土匪を討伐するより、正規軍編入を餌に、投降させたほうが安上がりだからである。が、受け入れる方の軍側にとっては、たかが軍閥軍とはいっても将校たちには正規軍としての自負や、またそれぞれの軍官学校出身者であることに誇りを持っている場合が多い。だから、土匪あがりの軍人たちは、最初から邪魔物扱いされ、機会あれば始末されるか、たたき出されるか、いずれにせよ、排除の対象であった。
 いつもうまく立ち回り、危ないところで戦線を離脱し、匪賊に戻り、ほとぼりがさめた頃また正規軍に取りたてられる、などといった芸当がそうそう簡単にできるわけはない。また、ビリングズリーのお気に入りの樊鐘秀のように、戦いに敗れようが、せっかくとりたてられた正規軍から弾き出されようが、ひとたび故郷(豫西)に戻れば、その人柄を慕ってか、数千の荒くれ男たちが結集してくる、というような人物はそれほどいるわけではない。
 岸田五郎『張学良はなぜ西安事変に走ったか』の中で、華清池の蒋介石を襲った東北軍の部隊の、騎兵第六師団師団長白鳳翔と第十八連隊連隊長劉桂五はともに緑林出身であったとある。実戦経験のない孫銘九(中共党員)たちだけでは事をしくじるかもしれないことを懼れた張学良が、肝っ玉が太く射撃の名手であった二人を助っ人に出したということである。
 事実、白鳳翔は、一九二〇年代、熱河西部、北部一帯を荒らしまわった土匪であった。綽名を白三閻王という。二八年、彼の率いる部隊は東北軍に改編され、騎兵第六旅旅長となる。どのようにして張学良に気に入られたのかわからないが、三四年には廬山に派遣され中央の軍官訓練団で訓練を受けており、その時にはすでに期待される間柄になっていたのであろう。白鳳翔がつね日頃から張学良に忠誠を誓い、それを張学良も認めていたがゆえに、蒋介石捕縛という重大な任務を直々に与えられることになった。ところがその張学良が南京に囚われの身となり、白もまた下野せざるをえなくなる。抗日戦争勃発後、熱河先遣軍総司令に任命されるが、三九年日本軍に投降し、東亜同盟軍総司令とされる。が、四三年にはモルヒネ中毒で死亡。多分、張学良がいなくなったことで、忠誠の対象がなくなってしまったのだろう。もし張学良に会わなければ、彼の一生は、他の土匪あがりの軍人と同じように、正規軍と匪賊の間を行ったり来たりしているうちに命をすり減らすだけのものになったであろう。  同じことは、より規律の厳しい、共産党軍にもいえる。共産党系抗日軍に参加した緑林部隊の運命もまた、緑林たちの目から見れば過酷なものであった。勇敢な抗日ゲリラであった三十数人の緑林部隊が、工作員の説得に応じ、抗日聯軍に参加する。リーダーの綽名は「庄稼人」(農夫)、いかにも抗日緑林部隊の首領にふさわしい。が、彼らが参加した部隊が敵と遭遇、激戦の末、その数を大きく減らす。彼らも部隊と運命をともにする。
 もちろん、抗日聯軍に入ることは日本軍から目の敵にされることを意味する以上、覚悟の上でのことであっただろう。が、匪軍ならば、万余の大部隊でも、それぞれの首領が率いる土匪部隊の寄せ集めであり、方針は首領たちの合議によって決める。もし気に入らなければ、個々の部隊の得失を計算して、それぞれ部隊毎に離れていくことも可能であったからである。
 参加した軍から身内だ、同志だと思われないかぎり、そう簡単に昇進は望めない。また、減らした兵員や武器の補給もままならなくなる。が、身内だ、同志だと信頼されるためには、リスクを引き受けなければならない。我が身ばかりを可愛がっては、よそ者のままにとどまり、いずれは弾き出される。が、老洋人や劉桂堂は、ハナから他人のために危険を冒す気などなく、身内として扱われるなどといった期待や希望とも無縁であった。結局は似た末路を辿ることになったが、そこが惚れ込むに足る領袖と出会えた白鳳翔との違いであろう。
    『チャイニーズ・ドラゴン』
 一九九六年七月一六日

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逆耳順耳
矢吹 晋


リンボー先生の台湾話
“では、この店の「屋号」の後半分たる「黒輪」とはなんだろう。
 この屋台は、片方にガラスケースがあって、そこには「寿司」が置いてある。もう一方に、あたかもおでん鍋のような大鍋が設置されて、そのなかであたかもおでんのようなものが煮えている。薩摩揚げのようなもの(なにしろ、正確な名辞を知るに及ばなかったので、こういう情けない言い方しかできないのである)、蒲鉾のようなもの、椎茸(らしいもの)、大根(これだけは間違いなくダイコンです)、そこへなにか黒いぶつぶつの餅めいたもの、それらがどう見てもおでんのツユのなかでゆるゆると煮られている。あれやこれやと指さし注文すると、売っているおばさんは破顔一笑、分かったよという表情になってうなずき、一度鍋から上げてあったやつをもう一度熱いツユに浸してしばしあっため、ドンブリのようなものに入れてくれる。「ハイヨッ」という気合いである。おまけにスープをカップに一杯、これにて五十元(二百円)とはいかにも安い。
 食べてみると、なにしろこれはおでんである。おでんだけれど、そのどれをたべても、かすかに中国的香りが付着している。これすなわち前記のごとく町のどこへいってもそこはかとなく漂っている、あの独特の匂いにほかならぬ。
 (中略)
 翌日、台湾在住の友人T君を煩わして聞いてみてもらったところでは、どうやら、この「黒輪」というのは、「竹輪」のことらしい。おでんに欠かせないアイテムである竹輪、それが、台湾において独自の発達を遂げるに従って、いつのまにか竹が黒に変じたということだろうか。なんだか良く分からぬけれど、ま、どなたか、本当に正確なところを教えて下さる博雅の君子はおられぬか”(JCB社刊『ザ・ゴールド』一九九六年七月号、二六頁)。

 ながながと引用したが、売れっ子の文章はさすがである。『蒼蒼』六五号の読者なら先刻ご承知の話だが、「黒輪」とは、オデンの音訳であり、漢字に意味はない。それを「竹輪」と関連づけたT君はかなりのマヌケである。台湾人なら誰でも知っていることを折角台湾に住んでいながら聞こうとせず、勝手に文字面だけから解釈しようとする。この手のマンガチックな「台湾通」「香港通」「中国通」がどこの世界にもゴロゴロいて、それが世論を作るから怖い。

看破紅塵 
 ある日の香港電がこう伝えた。
 香港返還に向けた中国の香港特別行政区準備委員会第三回全体会議が開かれ、江沢民主席は今年一月の発足以来初めての演説を行った。用意された草稿を読み上げず、二十五分間の即興の演説だった。
 主席は、「看破紅塵(カンポホンチェン)」と強調した。「あれこれ考えないで、心静かにしていなさい」という含意を、英国に伝えるものだ。「かたくなに抵抗しても必ず負ける」ともいった(『朝日新聞』九六年六月二六日付八面、香港、津田邦宏特派員電)。
 「看破」とは、基本的に日本語と同じ。「看透」も同じ。要するに、見破る、見通すことである。紅塵とは、紅色の塵だが、転じて、この世の虚飾、うわべのみせかけを指す。さしずめ、マスコミの書きまくる香港情報なぞは「紅塵」そのものである。その世界の住人が「紅塵」を理解できないのは、ムリからぬことか。
 これを「あれこれ考えないで、心静かにしていなさい」という含意と解説する特派員の言語感覚を私は疑うのである。
 もしかしたら中国語を英語にホンヤクし、それを日本語にハンヤクしたのかしら。もう少し勉強してほしいですね(こういう記事を読むと、私は生ぬるいビールを無理やり呑まされたような不快な気分に陥るわけですが、これはおそらくビョーキなのでしょうね)。

『参考資料』
   およそ一〇年ほど前、すでに名が知られていた『参考消息』のほかに、『参考資料』というよりヨリ重要な情報誌の存在することを知って、その別称が『参考消息』の「小参考」に対比して「大参考」と呼ばれる旨を書いたことがある(『中央公論』八六年五月号、のち小著『ペキノロジー』二〇頁に所収)。しかし、「大参考」の現物にはお目にかかる機会がなかった。
 ある日、突然、『参考資料』のサンプルが届いた。私の昔の「談話」が掲載されているというので、届けてくれた奇特な方があったのだ。むろん、現物ではなく、そのコピーだが、こう書いてある。
 新華通訊社、内部刊物、不得転載『参考資料』一九九四年一二月一日、星期四、第二五〇五四期。その二頁から四頁にかけて「日本横浜大学教授矢吹晋談中国経済発展的前景」がある。リード文は「中国はいま生産と消費の両面で高度成長の始まった段階である。大局から見ると、楽観的観点を持つべきである」とある。(単に「横浜大学」と誤記するのはましな方である。中国から来る手紙は、「横浜国立大学 矢吹宛てのものが多い。「市立」でなく「国立」と書くことがあたかも尊称と誤解しているのか、それともそれぞれ別の大学であることを知らないためか(私は友人の転居前の住所を誤記して、切手を貼り直し、投函することが少なくないが、この種のアバウト住所で中国から手紙が届くから不思議だ)。
 ところで、ニュース・ソースは「新華社東京一一月二八日日文電、『日本経済新聞』は今日、一篇の報道を掲げた。題して「過熱の中国経済はどこへいくか?」である。『日本経済新聞』のインタビュー(九四年一一月二八日付)を新華社は三日後にキャリーしたわけだ。
 知的所有権に対する認識がもう少し深まった暁には、翻訳転載料を請求できるかもしれない。かつて私の書いたものはブラックリストの長い行列を作ったらしいが、これはブラックではなさそうだ。とすれば、何色であろうか。

ホームページの可能性
   私がホームページを開いたと宣言・宣伝しても、ほとんど誰も信用してくれまい。私を知る友人は、ほとんどが私の宣言を虚言と思い込む。これは当然至極の判断である。昔から言うではないか。「士は三日会わざれば、刮目して待つべし」と。数学オンチ、花甲間近、窓際に限りなく近い中年族でも、契機と動機があれば、「開くに至る」のである。動機はもしかしたら、インターネット・ポルノがお目当てか。
 契機 これこそが肝心だ。
◇景気がよくて、たまたまウインドウズ95 を買ったので、ということか。
◇計器 グリニッジ標準時を意識することなしに、アメリカあるいはその他の友人・知人・未知人学者と安く連絡がとれるからか。
◇継起 オアシス・デスクパワーの後継機種としてか。
◇京畿、私が初めて受け入れた韓国からの大学院学生鞠昌煥修士、あるいは突然帰国した私のゼミ監視人趙武●(草+倍)さんに強引にオアシスを推薦したハンセイからか。
 そのいずれでもあり。いずれも決定的理由ではない。答えは、私の学生が「学生のブンザイ」で自分のカネでホームページを開いたのを知ったからである。
 スポーツ選手が私の運動能力の何倍優れていてもこれは天然自然の成行である。ハンサム学生がどんなにモテテも気にしない。私を驚かせたのは、わが学生が「国際電脳網絡」の中国情報の可能性を考えていた事実である。
 私はこの分野では完全に脱帽し、この学生に私淑することにした。この学生が初めて私の研究室に「相談がある」といって訪れ、「ゼミに入りたい」と言った日のことをいま想起している。私はインターネットなぞを使ったところで「まともな中国情報が入手できるとは思えない」と述べた。
 せいぜい「中国を旅行したら、トイレのドアがなかった」「臭かった」といった類のおしゃべり情報の交換と認識していたのである。まもなくこの分野の彼の知識程度がなみなみならぬものであることを理解した。直接的にではない。別の学生(といっても、私よりも年上で、コンパでは、いつも私が学生と間違われる)が教えてくれたからだ。この社会人学生は自分の息子ほどの学生から教わっているという。
 私が決定的に参ったのは、『人民日報』論争である。
 ある日の『人民日報』を示して、「インターネットで読めると書いてあるが」と問題を提起した。彼は「プロバイダーがアメリカだから、おそらく英訳でしょう」と答えた。私は『人民日報』を即日英訳なぞできるものか、と反論した。ここでは私の勝であった。
 次のゼミで「『人民日報』が中国語で読めた。ただし、ダウンロードには失敗」という報告が届いた。『人民日報』記事の読み方自体は私の理解が正確であった。だが、いきなりそれにアクセスして、確かめたわが学生の行動力に脱帽した。
 そこで彼を「老師」と仰ぎ、悪戦苦闘。ついにホームページhttp://ux01.so−net.or.jp/ ~yabuki 開設にこぎつけた。メデタシ、メデタシ。

(注)矢吹先生の現在のアドレスはhttp://www2.big.or.jp/~yabuki/です。



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