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第68号


インターネットで得る中国情報 加藤貞顕(横浜市立大学商学部経済学科四年)
主体(チュチェ)の国再訪 田辺義明(立教大学産業関係研究所)
連載中国的なるものを考える8「土匪は復活するのか」 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」 矢吹晋


インターネットで得る中国情報
加藤 貞顕(横浜市立大学商学部経済学科四年)


Windows95の発売以来パソコンとインターネットが流行しています。時代に乗り遅れはしまいかとパソコンを買ってはみたがどう使ってよいかわからない、これから買おうと思うのだが、どんな事ができるのかわからないという方もいらっしゃるかと思います。そこで、ここではインターネットを使って中国情報にアクセスする実例をいくつか紹介していきます。  初めに、以降の話の理解のために、インターネットの仕組みを少しだけ解説します。
 この後しばしば、「アメリカの〜につなぐ」、「中国の〜につなぐ」などさまざまな国のサーバー(ネットワーク上のコンピュータをこう呼びます)に自分のパソコンを接続する話が出てきます。どんなに電話料金がかかるのだろうなどと心配する方もいらっしゃると思いますが、私がNTTに払う電話料金は、三分十円の市内料金のみです。他に、プロバイダーと呼ばれるインターネット接続サービス会社に月々二千円の固定料金も払っています。思いの他安い料金で驚かれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。インターネットが、特に海外と頻繁にやり取りする企業などから絶賛されているのは、便利さのほかに安いということもあるのです。

ニュースが読めるホームページ
 さて、そろそろ中国情報の話に移ります。
 もともとインターネットはアメリカで開発されたシステムであるため、情報の質、量ともにいまだにアメリカが先頭を走っています。そこでまず、アメリカのいくつかのホームページを紹介していきます。ホームページというのは、聞いたことがある方も多いと思いますが、マウスのボタンを押す(クリックといいます)だけで雑誌をめくるように世界中を飛び回れる仕組みです。
 まず、ニュースが読めるホームページをいくつか紹介していきます。こういうページはたくさんあるのですが、主に二種類に分類されると思います。テレビや雑誌ですでに情報を提供している会社が、同じ事をインターネットでもやっているというタイプと、インターネット上のみで情報を提供している団体の二種類です。まず後者のタイプから紹介していきます。

CNDホームページ
 一つ目は、CND(http://www.cnd.org)というホームページです。括弧の中はアドレスといって、インターネット上での住所みたいなものです。ホームページを見るソフト(WWWブラウザといいます)にこれを入力してやるだけで、そのホームページにつながるのです。
 CNDホームページはChina News Digest Inc.という非営利団体の運営で、中国関連ニュースをインターネット上で無料で提供しています。ここではいくつかの電子新聞が閲覧、入手できます。政治、経済、スポーツ情報などが書かれた一般誌は、英語版と中国語版があります。『CND-Global』という名の英語版は隔日発行で、『華夏文摘』という中国語版は週刊です。これらは、電子メールで自動的に送ってもらうこともできます。雑誌の定期購読のようなイメージでとらえるとわかりやすいと思います。CND Readersというページによると、四十三の国・地域の五万人以上が購読しているそうです。国別読者数リストを見てみると、日本からは英語版が百十人、中国語版は百七十七人です。他の国では中文版より英語版を購読している人が圧倒的に多いのですが、日本人では中文版を購読している人の方が多いのは興味深い。あるいは、この文章を読んでいる方にもすでに購読している方もいらっしゃるかもしれませんね。
 CNDのような非営利団体がニュースを提供しているページは他にもたくさんあります。China Window(http://china-window.com)というページは、自前の情報の提供の場というよりも、インターネット上の中国情報へのインデックス集のようなところです。その項目は、Entertainment, Business and Economy, Coming Events, Education, Financials, General Infos about China, Government, Investments, News and Analysis, Miscのように多岐にわたります。ここから関連する世界中の中国情報ページへリンクが張ってあります。
 リンクというのは、その場所への「道しるべ」みたいなものです。ネットワーク上では、そこをクリックするだけで世界中どこへでも行けます。ドラえもんにでてくる、「どこでもドア」という開けただけで世界中どこへでも行ける扉のようなイメージでとらえると、わかりやすいかもしれません。プチプチとマウスをクリックしているだけで世界中を飛び回れるので、さっきまでアメリカにいたはずなのに気付いたら台湾にいたなんてこともよくあります。

人民日報がタダで読める
 次は、人民日報がインターネットで読めるという話です。EGIS(http://www.egis.com) という、人民日報の中国版、海外版などが読めるホームページがあります。ただ、残念なことに、九六年三月一三日から新しい記事への更新が止まりました。先日私はこのホームページの管理者にメールで問い合わせてみたのですが、まだ返事がありません。このページは他に、マレーシアやシンガポールなどいろいろな中国語新聞のホームページへのリンクも充実しています。また、中国語を読むためのソフトを入手できるページへのリンクもここにあります。私はここから得た"Union Way" というソフトの体験版で日本語Windows95上で中国語を表示させています。

CNNの中国情報
 次に、テレビニュースで有名なCNNのホームページ(http://cnn.com)を紹介します。ここでは、CNNのニュースが過去からずっと保存されているだけでなく、常に最新のニュースも提供されています。政治、経済、国際などに分類されていますので、ただ見ていくだけでも十分使えるのですが、なんといっても検索機能が便利です。キーワードを指定して、CNNが過去に報道した膨大なニュースを検索することができるのです。例えば、中国の貿易に関連する記事を検索したいときは、検索のページに行って、“china and trade"とキーワードを指定します。すると、ずらずらとその二つのキーワードを含む記事のタイトルが出てきます。あとは読みたい記事をクリックするだけです。
 画面に出てきた記事や写真は、自分のパソコンの中に保存して後でゆっくり見ることもできます。電話料金の節約のためにはむしろそうしたほうがいいでしょう。いくら市内料金でいいとはいえ、こうやって世界中を飛び回っているとすぐに一、二時間くらいたってしまい、なかなかお金がかかります。私は、少しでも気になる記事はすぐに保存しています。最近はハードディスクという高密度記憶装置も非常に安くなりまして、保存スペースの制約は事実上なくなりました。また、検索機能をフル活用すると、データが増えすぎて何がどこにあるかわからなくなるというようなこともありません。

中国のホームページ
 さて、次は中国大陸のホームページです。中国ではまだ、大きな大学や研究所などくらいしか自前のホームページを持っていません。全般的に言って、中国のホームページには、情報源としてお勧めできるところはあまり多くありません。これは日本の役所や大会社のホームページにも言えることですが、つまらない形式的なことしか書いてないところが大半です。さらに、中国のホームページは接続してからこちらのパソコン上に表示されるまでのデータ転送に時間がかかる場合も多いので、ただ読んでいくだけでいらいらします。これは中国国内の回線の整備がまだまだ遅れているためでしょう。
 その中では、神州学人(http://chisa.edu.cn)というページが面白いので紹介します。ここは一番最初にあげたCNDのようなページで、政治経済からスポーツ芸能まで様々なニュースを週刊新聞の形で提供しています。英語名は、China's Scholars Abroad Chinese Magazine(CHISA)と言います。内容も少しだけ紹介しますと、例えば、最新号の「経済大視野」というコーナーの記事のタイトルは「固定資産投資大幅回落」というものでした。ここも電子メールでの自動発送サービスを行っています。

日本の中国情報
 日本の中国情報ページとしては、China Online Magazine(COM)編集部のホームページ(http://www.come.or.jp)があげられます。ここも、最初にあげたChina News Digestと同じような非営利団体です。『華声和語』(日本語)、『東北風』(中国語)といった中国情報誌が読めます。これらもメールでの購読が可能です。また、パソコン通信のNIFTY-Serveの中国フォーラムのホームページもここにあります。

最初は検索ページから
 最後に、広大なインターネット上で、どのようにしていままで紹介してきたようなページを見つけたのか、という話をします。インターネット上には「検索ページ」と呼ばれるホームページがいくつかあります。こういったページは、ロボットプログラムを使ってインターネット上の様々なホームページの情報を収集して、検索サービスを提供しています。まず最初は、こういうところを使って探します。
 AltaVista(http://www.altavista.digital.com)という有名な検索ページを例にしてお話します。例えば、上海の浦東開発区について調べたい場合、キーワードを入力する欄がありますので、そこに“shanghai pudong"と入力して“Submit"と書いてあるボタンをクリックします。すると数秒後には検索が終わり、結果が画面にずらずらと順に出ます。そして、その中から行きたいところをクリックするという具合です。例えば、浦東の長江ハイテク区のホームページ(http://www.utexas.edu/ftp/depts/ic2/zjhitech/)があるので行ってみると開発区の海外の企業向けの宣伝ページでした。また、だいたいのページは関連サイトにリンクを張ってある場合が多いので、それらをたどっていくとさらに情報の幅が広がります。
 情報を得た後の活用法に関しては、読者の皆様のほうが私よりも詳しいと思いますので、主に情報を得る方法に絞って書きました。皆様のお役に立てば幸いです。

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主体(チュチェ)の国再訪
田辺義明(立教大学産業関係研究所)


◆いいわけ
 筆者は、自称「中国社会学者」である。三菱総研さんの『中国情報源』なる権威ある書物に「日本のチャイナウオッチャー」として挙げて戴いたのには、熱烈に感激した。中国への妙な「貞操観念」からか、お隣の女房である朝鮮には、深入りは避けて来た。とはいっても二度目のお招きを受けることとなったのである。

◆平壌へ
 ゴールデンウイークも始まろうとする四月二十九日、名古屋国際空港一番サテライトには平壌ダイレクトの高麗航空六〇八便のツポレフ一五四型が、筆者を待っていた。折しも隣のブリッジには大韓航空七六一便釜山行きのエアバスA三〇〇型が翼を並べる形となった。高麗航空はチャーター便で、在日朝鮮人や一部の日本人を乗せて一四時に離陸した。飛行ルートは、日本海を北上しシベリア上空から、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)へと向う。これは韓国の防空識別圏を迂回するためである。飛行時間は二時間半足らず、現地との時差もない。機内では、終始革命歌が流されていた。さすがに、北朝鮮の領空に入ると、地上の写真撮影はスチュワーデスによって制止された。
 五年振りの平壌国際空港である。以前より拡張されたとみえて、タキシーウエイ(誘導路)がヤケに長くなった。途中に川が流れ、橋も掛かっていたばかりでなく、自動車道路との平面交差まであった。筆者は政府招待なので一応空港のVIPルームに通されたが、その晩のテレビニュースに出るとまでは思わなかった。かつての「古い友人」という言葉が、いまも通用しているようだ。

◆市内へ
 労働者の退勤時間であったために、道路沿いには隊列を組んで帰宅する集団が多くあった。空港から市内まで丘を二つ越えて三〇分ほどのハイウエイであるが、馬車も走っている。自転車はなく、自動車は極端に少ない。筆者はべンツであったが、多くの車は右側通行にも拘わらず右ハンドルである。つまり反対側である。よく見ると日本語の標記があり、日本の中古車だということがわかる。バスまでが左ドアで、乗客は道路の中央から乗り降りする。平成六年の排ガス規制で、日本が中古バスを多量に放出したためだろう。交通信号機はなく、警官の手信号である。筆者の車には、愛想よく敬礼をしてくれる。ほとんどが若い女性だけに、独身の筆者は照れ臭い。
 市内に入ると、五〜十階だての労働者アパートが果てしもなく続く。その林の中央でそびえるのは柳京ホテルの威容である。高さ三〇〇メートル、一〇〇階建の東洋一を誇るこの建造物だが、建設は中断したままである。クレーンが垂れているが、外見も五年前と変わりない。三角錐の設計はピラミッドを思わせるが、それが却ってむなしい。

◆宿舎にて
 宿舎は市内の西端にあり、前回九一年の訪問と同じ政府の科学者招待所である。新館が二棟新築されていて、平壌市内にいながら山梨の清里あたりの風情である。三方を山に囲まれ、眼下には田園が開ける。都心からここに来るまで、光復街というニュータウンを抜けなければならない。この街は、三〇階だてのマンションが林立する近代都市の典型で、中央の通りは幅一二〇メートル、四万世帯が入居しているという。
 宿舎の自室に入ると、ローソクとマッチが戸棚に備え付けてある。しかも使い掛けである。むかし中国の田舎を旅した筆者は、「これは置き場所を覚えておかなければ」と思い、かつそれを机上の中央に置いて、入浴することにした。ボイラー係には、連絡が行っていたので、すぐに湯が使えたが、突然に電灯が消えた。案の定、停電である。すぐに手探りで、ローソクに火を灯すと、薄明かりに自分の裸が鏡に揺らいだ。心地のよい姿ではなかった。そのまま服を着たが、係員が部屋を回って来て、筆者の手際のよさに感心してくれた。大学で「発展途上国社会論」を三年教えたのは、無駄ではなかった。
 ローソクの下で朝鮮料理と、寿司・天麺羅といった日本料理のいわば和朝折衷の夕食を取るが、あたかもキリストの「最後の晩餐」といった雰囲気だった。三時間の停電。平壌市内の交通は、トロリーバス、地下鉄、路面電車と、電気駆動が中心である。その間、市内交通はマヒしていたのだろう。しかもトンネルの中の地下鉄乗客はどうしていたのだろうか。路面電車は、前回九一年の 訪問の際に開通していたのであるが、今回判明したのは、空気ブレーキがついていないという驚くべき事実。電磁吸着ブレーキという、極めて特殊な方式で、つまり磁力でレールを吸い付けて電車を止めるというもので、いわばリニア・モーターの反対原理である。しかし、停電したならば、電気磁力が生ぜず止まれない。現実にどうやって安全運行しているのか、次回には必ず確かめたい。

◆主体(チュチェ)思想に触れて
 筆者は、金日成主席が創始したという主体(チュチェ)思想に関心を持っている。前回五年前の訪問も、その研究が主目的であった。しかし、あくまでも「批判的摂取」ということを念頭に置いている。しかし、北朝鮮の労働党中央委員会の某書記を初めとして、彼らは元来、思想を異にする筆者をも、信義と友情を持って迎えてくれた。これには、彼らの寛容さに感謝をする以外あるまい。
 ロシアを筆頭に東欧社会主義陣営の崩壊、中国の市場経済への転換。北朝鮮には決して好材料とはいえない世界環境が揃っている。北朝鮮の彼らは、東欧社会主義の弱点は、マルクスの「教条主義」にあったとしているようである。彼らも、主体思想がマルクス理論の上に構築されたことは認めている。しかし、マルクスはヨーロッパの一思想家であって、朝鮮革命の指導者ではない。彼らの指導者は金日成主席と、後継者の金正日書記なのである。今年二月、モスクワで主体思想の国際セミナーが開催され、世界各国からオピニオンーリーダーが参集した。そこでは、新たな社会主義の戦略と戦術が討議された。しかし、朝鮮労働党の某書記は、個人の立場で言った。「各国には、それぞれの主体主義があってしかるべきなのです」。彼は続ける。主体主義とは、「人間」中心の思想であるという。この言い方をすれば、宗教は「神」中心の思想である。資本主義は「金」中心の思想である。そこで三つの改造を、提唱している。まず人間改造。自然改造。そして社会改造……。筆者は、ここで個人的見解を述べることを目的にしている訳ではないので、あくまでも彼らとは、対話と協調の立場で接したとしか表現の仕方がないのであるが、北朝鮮が、マルクスを超越した社会主義路線を提唱していることを紹介したい。
 実を言うと、筆者は東アジアの軍事バランスの妙に関心を抱いている。その種の議論を期待はしなかったが、彼らも一線をわきまえているようだった。地元テレビでは、メーデーに際して特別番組として、陸海空三軍のデモンストレーションを流していた。陸軍は、グレネード・ランチャー(手榴弾投射機)を付けた新型突撃銃。海軍は、かなり旧式のミサイル艇、空軍は一世代遅れたMiG21戦闘機であった。

◆国際関係の狭間で
 『朝鮮時報』三月二十八日付、第一面は日本の山崎拓政調会長の写真入りの談話であった。これは、日朝国交正常化に関する共同文書から一周年を経たことにちなんだものであり、その下に社民・さきがけ両党の談話があった。日本共産党のものは無論ない。
 労働党中央委員会の最高幹部某書記は、韓国・アメリカに対する批判は口にしなかった。もちろん日本についてもである。しかし、中国・ロシア両国が、ドルまたはバーター取引きにしか応じなくなったのには、対する口調が厳しかった。そして「とにかく工場を動かすこと、それが何より先決問題だ」と強調した。
 民衆は、国際情勢をどう考えているのであろうか。メーデーの日に平壌サーカスを見物に行った。五年前よりも、残念ながら芸の質は落ちていたようだ。客の入りも良くない。そこではピエ口が、韓国の官憲と軍人の賄賂合戦、また将校と下士官のスパルタ教練というドタバタを笑い物にしていた。観衆は一応笑ってはいるものの、子供のかん高い笑い声ばかりが響き、大人のそれは心なしか義務的に聞こえた。

◆農村は
 農村は立ち遅れているといわれるが、主力の共同農場を国営化する試みが始まっていた。筆者はヘビー・インダストリーの研究が専門で、農業問題は苦手だが、農村もある程度の機械化は進んでいるし、農民の住宅は、見るところすべて三階だてのアパートになっていた。農村は、前回に国内各地で視察したので、誤りはないであろう。食料事情は『朝鮮時報』が四月一日付で報じたところでは、一日一人あたりの主食配給量が、六〇〇グラムから四五〇グラムに引き下げられたという。しかし、あくまでもこれは、公式発表ではなく、友好的な外人記者の伝聞として取り上げられていたものである。

◆明日の北朝鮮は
 朝鮮の建造物はすべてにおいて大きい。平壌の凱旋門はパリのそれよりも、ひとまわり高いという。人民大学習堂は、基本的には図書館を拡大化したものといえるが、閲覧室は六〇〇ほどあり、テレビの備わったLL教室も見学した。保育所では、四〇〇人の子供たちが筆者を出迎えてくれた。子供には、とくに筆者は弱い。この子たちの将来が、明るく希望に満ちたものであってほしい。
 最後の日、光復街ニュータウンの中央を労農赤衛隊(民兵)が、AK47ライフル(突撃銃)を構え早駆けをしていた。その横を、九〇年代に敷設された路面電車がドアを開けたまま通り過ぎて行った。

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中国的なるものを考える8
土匪は復活するのか
福本勝清(明治大学助教授)


 二年ほど前、中国関係の書店で本棚を眺めていた時、異なった著者による『民国時期的土匪』と題された著書が二冊並んでいるのが目に入った。一冊目の著者は貝思飛(ビリングズリー)であり、そのあと半年ほどして『匪賊』のタイトルで邦訳されている。もう一冊は蔡少卿主編とあり、おもわず手にとって中身を確かめることになった。というのも蔡少卿はこれまでずっと会党史の研究家として知られていたからである。著名な会党史の研究家がどうして土匪などに関わることになったのか、少し不思議だった。
土匪も会党も同じアウトローである以上、会党の研究者が土匪を研究して何の不思議もないはずである。が、従来、会党史は明清史研究の重要な一翼であった。天地会、哥老会などの会党は農民叛乱や反満蜂起の立役者といっても過言ではない。農民戦争史観ともいわれた毛沢東主義の歴史観からみれば、会党はやはり別格に扱われるべき存在であった。土地のならずもの、ごろつきの類の土匪とはとても同一に論じられないものであった。
その会党史研究の権威である蔡少卿が土匪に手を染めるというは、どういう心境の変化があったのか、さっそく後記に目を走らせてみる。そこにはまず、イギリスの著名なマルクス主義社会史学者エリック・ホブズボームの『土匪(Bandits)』(一九六九年)の出版によって、匪賊の研究が一つの流行になっていること、そして同書に深く啓発されたことを述べている。また、ホブズボームは中国の土匪に対しては未だ深く研究しておらず、それは大きな欠陥だと言わざるをえないとも述べている。おそらく、それが、土匪研究に手を染める切っ掛けとなったものであろう。
ホブズボームの著作を最初に読んだのはおそらく一九七〇年代の初めか、その数年後のことだったと思う。共同体論争に興味をもっていた頃、『共同体の経済構造』を読んだのが最初であった。当時、ホブズボームに『Bandits』なる名著があることなどまったく知らなかったと思う。留学から帰った後、『反抗の原初形態』や『Bandits』を読み、ジャズ評論家でもあるというホブズボームの多彩な活動を知ったわけである。
それゆえ、蔡少卿が自分の土匪研究にとってホブズボームの著作が重要なきっかけとなっていることを述べるくだりやビリングズリーが冒頭でホブズボームの二つの著作に言及するところから議論を始めているところは、やはりそうかと思い、納得してしまった。

 もちろん、蔡少卿が土匪に関心を向けた背景には、八〇年代に入り、旧社会への回帰ともいうべき社会現象が次第に深まりつつあるという事情もあったはずである。様々な、雑多な社会事象への関心の深まりがあり、その中の一つに土匪や幇会もあったということだろう。七、八年も前のことになるが、あるシリーズ本の編集に参加した時のこと、「現在の中国社会で起こっていることは、だいたいが民国時代にもあったことばかりだ」と述べ、例として械闘、墓葬、民間信仰、迷信、シンジケート(幇会)、農民暴動などをあげたことがある。解放後三〇数年間、押さえつけられていたものが、経済の改革開放路線のもと、一挙に吹き出しつつある、そう感じていた。
 が、歴史は二度も同じ道を歩んだりしない。単純に民国期に戻りつつあるなどとは思っていなかった。たとえば、『チェン村』の最後では、文革後の末端の指導者像の変化について触れ、指導者がもっとも好ましいと思っている指導のスタイルは、むしろ伝統的な中国の紳士のそれであった、と述べている。つまり、自分の宗族や友人や取り巻きたちとの関わりに重きをおき、施恩や情実によって、他の村人の黙従を手に入れるという伝統的なスタイルこそが、末端の村落の指導者の理想であるというわけだ。が、本当に古い村落支配のスタイルがそのまま復活するとは到底思えなかった。
 『中国人のはらわた』(連根藤)というえげつないタイトルの著作がある。そこでは、伝統中国においては、中央集権的な官僚機構も、その権力が及ぶのは県城までであり、県城を離れれば、その地方ごとの有力者がそれぞれ自分の縄張りを好き勝手に支配しており、田舎の勝手がまかり通っていたと書いてある。そのような「田舎支配」がまかり通っていたからこそ、社会にはたくさんの隙間が存在し得、そこでは無数の農民叛乱も起こりえたし、民国期の中国共産党のように自己の農村組織を何とか維持することもできたのである。それに対し、解放後は、末端に至るまで中国共産党の支部組織がつくられ、村の隅々までその統制が行き届くようになった。さらに重要なのは、解放後の社会では、末端の民衆が中共政権の統治に自発的に従っていたことである。このような統制が行き届いた社会においては、民国期のような反対党が社会の片隅で生き延びるなどということはまったくといってよいほどできなくなる。また、改革開放路線のもとでは、その統制は確かに緩んではきているが、田舎の勝手を認めるほど緩むことはないであろうとも書かれてある。

 実は民国期の土匪もまた隙間だらけの伝統的な田舎支配のもと隆盛を極めたのである。一九四九年以後の国民党統治下の台湾において土匪が跋扈しなかったのは、村落末端まで徹底した軍事統制を敷くことが可能であったからである。流入した国民党及び国民革命軍関係者は二〇〇万から二五〇万人といわれ、それが六〇〇万人の本省人を支配した。
 現在大陸の中国共産党員は五千万人以上、解放軍もまた三〇〇万以上を数える。当然、その家族を含めればその数倍となり、それが一二億もしくは一三億の民を支配している。が、党の実態は次第に支配者クラブとでもいうべきものに近づいている。その点では国民党幹部と共産党幹部に果たしてどのような違いがあるのか、今や怪しくなっている。能書きやスローガンがちょっと違うだけではないのか、そうも言いたくなる。
 さてその中共の統治の下、すでに幇会が復活をとげている。九〇年初めには、全国ですでに五〇〇以上の組織がつくられており、広州だけでも一〇万人のメンバーを擁するという話もある(石田収『香港黒社会』)。香港にちなんで「黒社会」と呼ばれるようになったこれらの組織は、あきらかに民国期の幇会と同じ性格の組織である。ただ、民国期の幇会とは系譜上、直接つながることはなく、まったく新しくつくられたものである。
 今日、幇会=黒社会が何故復活し、再び暗躍し始めたのかを理解するのはたやすい。まずは都市に流れ込んだ膨大な数の寄る辺なき大衆の存在があげられる。以前のようには国家が食い扶持を保障してくれない以上、彼らは食い扶持にありつくためには何でもする気になっているし、もし食い扶持をあてがってくれる者が出てくれば、それがどんな奴であろうと彼らは躊躇せずについていく。開放後、共産党が人民の自発的服従をあてにできたのは、彼らが人民の衣食住を保障していたからであった。上海のような大都市でさえ隅々までその統制力を及ぼすことができたのも、人民の衣食住を単位(danwei)社会のなかに囲い込むことができたからであった。が、そのような囲い込みもすでに不可能になっている。統制の緩んだ大都市は幇会にかっこうの隠れ家を提供することになった。
 さらにもう一つ見逃すことができないのは、都市や沿海部におけるビジネス・チャンスの増大であり、利益の相当分を官に還流させることによって、官吏たちを彼らのビジネスのパートナーや保護者にすることが可能になったことである。
 以前、出身のよくない非党員の幹部や教師が真面目に勤め、民衆から信頼されたり支持をえたりすると、「君は党と大衆を奪い合うつもりか」などと脅された話がよくあったが、今後は本当に党と幇会が都市の下層大衆を奪い合う時代が来るのかもしれない。
 若き日のマーロン・ブランド主演の『波止場』にはマフィア労働組合が登場する。ただのチンピラだった主人公が、最後には労働組合を乗っ取ったマフィアのボスと一対一で殴り合い、闘いの決着をつける(チャンピオン・シップ)といういかにもアメリカ的な終わり方であった。マフィア労働組合があるのならマフィア社会主義だってあるはずである。幸運にも偶然に国家権力を手に入れた輩が、社会主義を名乗り、人民を絞り上げ、あげくのはては麻薬にだって、偽ドルにだって、平気で手を染める、そんなことだってありうるのだ。

 幇会が復活した以上、土匪もまた発生しうるのだろうか。台湾の旅行客が多数惨殺された千島湖事件ではその所業がいかにも土匪的で、人々をぞっとさせるに十分であった。台湾が中国を土匪国家と批判したのも理解できないわけではなかった。が、それらの賊が本当に土匪かといえば、まだ疑問があった。というのも、土匪にはやはり官憲の手の及ばない山地や沼沢を根城にしているというイメージがつきまとうからである。過去、三不管、四不管と言われ匪賊が割拠していた省境地帯など、今どこを探しても見つかるとは思えない。
 それ以上に、現在人々の目は経済発展に沸く大都市、沿海地方に向いている。何を好んで貧しい辺境に活路を求める必要があろうか。不便で、かつ明日食べる食糧もままならない田舎ぐらしより、繁栄に酔う都市に潜り込んだ方がまだ希望がある。
 そう考えると、民国期において何故多くのアウトローが、あえて不便な辺境地帯に逃げ込んだのだろうか。もちろん、交通が未発達な当時においては限られた数の大都市に逃げ込むには金もかかり、また道中大きなリスクが伴ったことは明らかである。
 だが、アウトローたちが農村を、何もないところ、経済的に価値のない場所とは見ていなかった点に注意を向けるべきだろう。土匪たちはそこの住民をみな人質(肉票)とみなし、拉致もしくは脅迫しては法外な身代金を取り立てていた。彼らにとり農村であれ都市であれ住民はみな略奪の対象であった。さらに、耕作可能な地面は阿片畑であり、阿片はすなわち金であり、富の源であった。どちらにせよ、自らの不埓な所業をビジネスとみなし、人を人と思わない冷酷さを発揮するものであった。
 現在のところ阿片ビジネスが辺境の農村にどの程度浸透するのか、まったく見当がつかない。これまでのように抑え切ることができるのか、それとも国境を南に越えたラオス、タイ、ビルマ(ミャンマー)の山岳地帯のような繁栄を迎えるのか定かではない。それほど、官の腐敗の深まりは急激であり、かつ汚れたビジネスの繁栄は顕著であるといえる。
 長征期に南方の各革命根拠地では、両面政権なる戦略がとられたことがある。国民党に服従を誓っている村の指導者を様々な手段で篭絡し、表面的には国民党の支配秩序を維持しながら、秘密裡に紅軍のために種々の援助をさせるというものである。共産党シンパが村の指導者となり、国民党に従いつつ、ひそかに共産党のオルグ活動を続けるのは白皮紅心と呼ばれた。これらが可能なのは末端の村政府などが行っている地方の支配というものが一種の請け負いだからである。ある程度うまくいっているうちは上級は下級の政府に対しあれこれ口を挟まないのが普通であった。
 末端の権力(基層政権)が両面政権化し、日ごろは共産主義の能書きを並べて上級に追従し、その信頼を獲得しつつ、密かに国内外のシンジケートと結びつき、汚れたビジネスで巨富を手にする、これは現在においても可能な筋書きである。ただそれぞれの私兵の根城としては、従来の山岳地帯や沼沢地帯よりも、見知らぬ人で満ちあふれた大都会の方がずっとふさわしいはずであり、発見され討伐されるリスクも少ないはずである。それゆえ、土匪が復活するかどうかは、中国社会の有り様を映すリトマス試験紙でもある。
      

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逆耳順耳
矢吹 晋


『□(登+都−者)小平文選』のキーワード研究
 『□小平文選』電子版(第一巻は一九三八〜一九六五年までの著作、第二巻は一九七五〜一九八二年までの著作、第三巻は一九八二〜一九九二年までの著作を収めている)に挑戦してみよう。
 ここにはサンプルとして二五のキーワードが用意されている。これらのキーワードの出現頻度数を調べると別表のごとくである。
 この電子版の編集者たる「北大火星人」が選んだ二五語のなかで頻度数一位は「発展」(一〇六六回)であり、「社会主義」(九四九回)は二位である。「中国的特色をもつ社会主義」や「社会主義市場経済」など、社会主義の四文字は目立つが、□小平がそれ以上に語っているのは、実は「発展」である。ここから「発展」途上国・中国にとって、発展こそが最大の課題であり、「社会主義」は実は、そのための方法にすぎないともいえるわけだ。「白猫黒猫」論であれ、「姓資姓社」論への反駁であれ、□小平のお気に入りが「発展」であることは、注目を要するであろう。中国ではいま市場経済への道を急いでいるが、「経済」や「改革」をみると、第一巻から第三巻にかけて、言及回数がふえている。これはますます力点をおくようになった語彙である。では言及することますます少なくなったのはなにか。最も典型的なのは「民主」である。革命期の著作を収めた第一巻では二一二回語ったが、八〇年代の著作を収めた第三巻では九二回に減少している。これは「経済改革から政治改革へ」という戦略を構想する□小平にとって当然のスタンスであろう。
 ここでサンプルから離れて、自分でキーワードを選び調べてみよう。進歩という日本語と中国語の進歩(jinbu)とは、基本的に同じ意味である。進歩という日本語のツイになるのは退歩である。進歩の段階が先に進んでいることを先進といい、そのツイは後進である。先進といい、後進といい、いずれも『論語』に見える言葉だから、古い漢語であり、日本に輸入されてからも古い歴史をもつ。現代中国語では先進のもう一つのツイとして、落後(luohou)を用いることが多い。これは元来は行進において同行者の後になること、つまり落伍である。中国文明はアヘン戦争で敗れるまでは先進と理解されてきたが、それ以後は後進というよりも落後と認識されるに至ったわけである。
 この進歩と落後の使い方から、□小平の「進歩観」を探ってみよう。
   巻   進歩  落後
  第一巻  四〇  一八
  第二巻  三六  三八
  第三巻  一四  四三
   計    九〇  九九
 ここから分かるように、□小平は「進歩」を九〇回、「落後」を九九回用いている。時期ごとに頻度数をみると、第一巻では進歩四〇回に対して、落後は一八回と半分以下である。ゲリラ戦争の名参謀□小平は、進歩を訴えていたことが分かる。第三巻では進歩一四回に対して、落後は四三回と三倍である。毛沢東なきあと中国の事実上のトップの地位を占めた□小平は、落後の側面をより強調するようになった。
 具体的な用例を調べてみよう。初めて進歩という言葉が出てくるのは、一九三八年二月一二日、国民革命軍第一八集団軍総政治部の出版した『前線』週刊(第三、四期合併号)に掲載された「新兵の動員と新兵への政治工作」である。この文を書いたとき、□小平は八路軍政治部副主任であり、まもなく第一二九師団の政治委員に昇格した。  「新兵の動員方式を改善し、部隊の政治工作を強化するならば、戦略戦術の進歩と呼応して、最大量の、優良な技術をもった最高の戦闘力をもつ国防軍隊を鍛えることができ、最後には日本帝国主義に勝つことができる」(第一巻、七頁)。
 ここでは進歩は「戦略戦術の進歩」である。
 最後の進歩は、有名な南巡講話である。これは一九九二年春節前後に武昌、深●(土+川)、珠海、上海などを訪れて、改革開放の堅持を訴え、天安門事件以後低迷していた中国経済にカツを入れて、高度成長路線を復活させたものであることは、最近のことなのでよく知られていよう。
 「この十数年、わが国の科学技術の進歩は小さなものではなかった。九〇年代においては、進歩がなおいっそう速いことを希望する」(第三巻、三七八頁)。
 ここでは進歩は中国の科学技術と結びついている。
 □小平が生涯において九〇回用いた進歩は、このように最初はゲリラ戦争の新兵教育のための戦略戦術の進歩に始まり、最後は科学技術の進歩を喜ぶ基調で終わったことになる。
 では落後はどうか。初めて落後という言葉が出てくるのは、一九四一年六月一六日付で一二九師団政治部が出版した『抗日戦場』(第二六期)に掲載された「一二九師団の文化工作の方針任務とその努力方向」である。これは八路軍一二九師団の模範宣伝隊コンクールでの報告要旨である。□小平は日本帝国主義と中国の親日派を批判していう。
 「彼らは旧文化、旧道徳、旧制度を提唱し、復古、迷信、盲従、落後を提唱し、封建迷信団体などを組織し、もってその淫をいましめ、盗をいましめ、毒化、奴隷化政策を実施している」「敵が文化侵略を行う方法は多様である。その特徴は落後した大衆と農民の心理に迎合し、巧みに数をもって質的弱点を覆い隠し、巧みにいくつかの中心的スローガンの宣伝を繰り返し、巧みにチャンスを利用して、若干の具体的問題をとらえて欺瞞宣伝を行うものである」(第一巻、二三頁)。
 落後した大衆と農民がおり、それは帝国主義の政策のためだという認識である。
 では最後の箇所はどうか。一九九〇年一二月二四日、□小平は中共中央の数人の責任者と会い、「巧みにチャンスを利用し、発展の問題を解決せよ」と語った。
 「資本主義と社会主義の区別は、計画か市場かという問題にあるのではないことをわれわれは理論的にはっきりさせなければならない。社会主義にも市場経済はあるし、資本主義にも計画的コントロールはある。資本主義にもしコントロールがないとしたら、どこに自由があるのか。最恵国待遇もまたコントロールじゃないか。市場経済をやるのは資本主義の道であると考えてはならない。そんなことはないのだ。計画と市場はいずれも必要だ。市場をやらなければ、世界中の情報さえ得られない。落後に甘んずるのみだ」(第三巻、三六四頁)。
 ここでは計画経済のみをやり、市場経済をやらなければ、世界経済の情報を得られず、落後すると述べている。市場経済を通じて世界的市場経済の動向にアクセスし、世界経済から落後しないようにしたいという□小平の悲願が端的に述べられている。
〔補注〕私は村田忠禧教授(横浜国立大学教育学部教授)とともに「日本と中国との情報交換用漢字コード体系の比較研究」を昨年行った。その成果の一端を発表する中間報告会が九六年四月一六日に横浜国立大学共同研究推進センターにおいておこなわれた。上記は、この研究の一部である。

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