蒼蒼ロゴ

第67号


中台間の緊張をどう読むか 高井潔司(読売新聞北京支局長)
《季刊 中国現代小説》第一期完結に際して 市川 宏(法政大学教授)
連載中国的なるものを考える8「年齢階梯組織と秘密結社」 福本勝清(明治大学助教授)
連載エッセイ「逆耳順耳」矢吹 晋


中台間の緊張をどう読むか
高井潔司 (読売新聞北京支局長)


《解説》 本論は筆者の最新刊の著書『中国情報の読み方』の第一章第6節全文の抜粋です。『中国情報の読み方』は、中国報道に対する批判、問題に第一線の現場から答えた方法論を中心とする著作ですが、脱稿に際して、「台湾海峡波高し」状況に遭遇し、蒼蒼社編集部の要請に応え、急遽、本論を書き下ろされました。

軍事演習で緊張たかまる台湾海峡
 台湾初の直接投票による総統選挙(九六年三月二十三日)に向けて、中国は台湾独立の動きをあらかじめ牽制するため、台湾近海へのミサイル発射演習に加え、陸・海・空軍合同の大掛かりな上陸・海上軍事演習を敢行した。
 李登輝総統の訪米以来、中国は台湾独立の動きに警告するため、軍事演習を重ねてきたが、台湾の北東部と南西部の主要港湾都市の基隆市と高雄市の目と鼻の先の海域にミサイルを撃ち込み、さらに戦争前夜であるかのような印象を与える大規模な演習を実施したことは、台湾の住民だけでなく、周辺の国々にも大きな脅威を与えた。台湾での民主化推進とは対照的な、きな臭い、そして強圧的で、無神経な演習の実施に対して、中国封じ込め論者は、わが意を得たとばかり、中国批判を繰り広げた。
 中国は一方的に演習の実施を通告するだけで、その狙いや演習の規模、そして実施に至った背景、今後の対外関係の進め方などについて全く明らかにしようとしない。その不気味なやり方に、中国脅威論が再び頭をもたげ、日本のマスコミでも、台湾や香港、アメリカなどの未確認情報やその論評に沿って、いまにも戦争が起きかねない興奮した記事が目立った。
 筆者も、北京から特派員として、かなり激しく中国当局の無神経ぶりを批判する論評を送った。しかし、それは中国脅威論に与くみしたからではない。中国自身が台湾島内や国際情勢を考慮せず、挑発に乗って、正確な情報に基づかず、あまりにも感情論にとらわれ、内向きの思考方法で、拙劣な選択をしてしまったと判断したからだ。その手段のまずさ、タイミングの悪さ、台湾側の反応の読み違えなどから、当分の間、中国脅威論は市場を得て、対米関係そして今回は対日関係も冷却化し、その結果、台湾との関係修復に中国は相当の犠牲と時間をかけざるを得なくなるだろう。
 何よりも、九六年から始まる第九次五カ年計画と二〇一〇年までの長期計画を策定する全国人民代表大会の開会当日に、ミサイル演習の実施を発表する無神経さには驚く。台湾独立を許さないという強い決意を示したといえばそれまでだが、全人代の当日に発表しなくても、その決意はいやというほどわかる。今後の経済計画執行にあたって、海外との経済協力、交流がさらに重要となるにもかかわらず、演習発表によって、全人代開催の意義が薄れてしまった。演習問題がさらにこじれ、対外関係に大きな支障が生じれば、中国が至上課題としている経済建設にも陰りを落とすことになるだろう。
 だが、中国脅威論者が説くような中国による武力侵攻といった事態が起こることは、偶発的事故でもない限り、ほとんどありえない。正確な情報の困難な中で、本書の執筆と同時進行の事件の将来シナリオを描くことは難しいが、中国報道のあり方を見直す格好の材料なので、あえて挑戦してみよう。

中国国内におけるナショナリズムの高まり
 中国の武力侵攻がないと筆者がいうのは、次の理由による。
 まず、演習実施をめぐって、中国側は緊張の原因が演習にあるのではなく、「台湾の一部の指導者が外国勢力の支持を受けて台湾独立をすすめようとしたことにある」(三月十一日の記者会見での銭其●(王+深−水)外相発言)と説明してきた。
 これが客観的に正しいかどうかは別として、中国当局は、問題の発端がアメリカの李登輝台湾総統に対する訪米許可にあり、それに伴って中国側は一連の行動を取らざるを得なかったのだと認識していることを示している。中国側は、この局面は全く守勢だというのだ。しかも、それは外からだけの圧力ではない。
 中国国内では、「なぜ当局は独立の動きを座視しているのか」という突き上げの声が外部の想像以上に高い。近代の歴史において、中国は列強に侵略されたのであり、台湾は奪われた中国の領土で、それを回復するのは国家の当然の義務だという認識が国民の間に行き渡っている。台湾が民主化したから、あるいは台湾が経済的に繁栄し大陸と大きな格差ができたからといって、独立を宣言するのは、中国人民を愚弄した言い方だと憤激してやまないナショナリズムが一部に根強くある。
 李登輝総統の訪米から総統選挙に至る過程は、大陸の人から見れば、台湾が独立に向けて、突き進んでいるとの印象を与える。軍部や党内の保守層からの突き上げに対し、当局者はどうしても強い対抗措置の採用によって応えざるを得ない側面がある。  九五年十二月の立法院選挙をめぐって実施された軍事演習では、台湾住民の間に不安が広がり、株価が下がって、選挙でも独立派の一部が落選し、それなりの効果があった。対台湾強硬派の気勢が一段と上がるのは当然の成り行きだ。今回の演習が内向きだというのは、まさにこの点にある。
 筆者は、演習実施発表直前に、しばしば中国のマスコミで強硬な評論を発表している中国の台湾問題研究家に話を聞いたが、彼らの発想には、統一に向けて今とるべき政策は何か、今後の中国の経済建設にとって最適の台湾政策は何かという問題意識はなく、統一と独立のどちらが正義か、日本は中国と台湾のどちらを選択するのか、という問題の立て方しかない。アメリカや日本の一部にある中国封じ込め論に挑発されて、あまりにも感情的な反発をしているのである。軍事演習をやれば、台湾独立を画策している李登輝への反発が強まり、李登輝票が減ると信じ込んで、中国への反発が高まるかもしれないという留保はまるでない。
 もちろん、これでは、将来を展望する議論は出てこない。こうした感情論を抑えることができないところに、江沢民政権の脆弱さを指摘できようが、これまで述べてきた中国の国情を考えた場合、中国国民のナショナリズムをベースにしている感情論を抑えるのは、かなり困難な仕事である。軍も昨今の装備の近代化に加え、軍事演習も、陸・海・空合同の総合演習への取組みが必要になっており、総選挙をめぐる保守派の突き上げを利用して、演習の実施を主張したと推測される。
 また、全国人民代表大会開会当日のミサイル演習発表について、一九五八年に大躍進政策が北戴河会議で採決された際に行われた金門島への砲撃と同様に、全人代での重要政策決定への景気づけと内部結束の強化を狙ったものとの見方もある。冷戦時代と違って、台湾とさえ大規模な経済交流があり、対外開放の一層の推進によって、経済建設をすすめているわけだから、それだけでは今回の意図を説明できないだろう。ただし、全人代の李鵬報告の中で、軍事面や外交面だけでなく、経済建設が外部からの圧力に直面しているとの指摘もあり、内部結束を図る必要もあったにちがいない。実際、二十一世紀の大国を目指すには、この程度の緊張に耐えなければ、その実現は困難であり、指導者たちの意識の中では、外部で騒ぐほどの強い危機感がないのかもしれない。

当局には武力で台湾を統一する能力も意思もない
 いずれにせよ、今回の演習実施は国内向けという要素が強い。しかも、感情論は一時的に優勢を占めても、実際に演習による牽制効果がなければ、いずれ静まらざるを得ない。いつまでも感情論が幅をきかすわけではない。
 次のような冷静な考え方も、中国国内にはある。
「平和統一の実現にはプロセスが必要で、統一的な計画を立てて徐々に実施していくべきだ。台湾問題を解決する最も根本的な条件は中国が自らのことをうまくやることだ」(李鵬首相の江沢民提案一周年記念演説)。
「両岸が分かれ隔たってから久しく、政治理念もそれぞれ違う。“一国二制度”の方針で統一を進めるといっても当然一朝一夕というわけにはいかない。互いにパイプを通し、接触し、交渉し、早く平等な協議を進めてこそ、双方が受入れられる解決方法を探しだすことができる」(『人民日報(海外版)』九六年二月二十六日付、○(曜−日)象乾論文「“一国二制度”は台湾人民の根本利益に合致する」)。
 また、長期的に見た場合、不幸中の幸いなのは、今回の手段があくまでも公海上あるいは中台間の中間線から中国寄りの海上での軍事演習であり、後戻りできない決定的な衝突を起こしたわけでないことだ。独立の動きを牽制するために行った政治的な警告であり、軍事作戦ではない。次のステップは必ずしも手段のエスカレートとは限らない。まだまだ事態の推移を見ながら、修復の道を探る選択の幅はあるということだ。アメリカも日本も強い懸念を表明し、自重を求めることはできても、タテマエとしての軍事演習に対して、制裁をする根拠はない。
 外と内からの圧力によって、演習という強い手段を選択したが、演習の結果によって、新たな情勢が生まれれば、前進するのか、後退するのか、選択の余地は十分にある。ましてや、当局者はまだまだ冷静であり、だからこそ演習の最中、外交当局は米中外相会談の設営を準備するのだ。
 もちろん、様々な要因が絡んでいるから、今後、緊張が強まる可能性も否定できない。
 さらに、中国には当面、武力で台湾を統一する能力も意思もないという点を忘れてはなるまい。中国は台湾問題に関し、武力行使を放棄しないともいっているが、それはあくまで外国勢力が干渉し、独立の策謀を進めようとした場合との条件をつけている。最後の手段として使うということであり、もともとそれだけの能力がないのだから、自身の側から武力を使って統一に動くということは考えられず、むしろ独立の動きを妨害するといった程度と考えるべきだろう。ましてや、演習を実施するからといって、即武力侵攻などと考える方が穏当ではない。その演習でさえ、台湾側の独立攻勢の中で、ぎりぎりの手段として採用したに過ぎないのだ。

ナンセンスな独立か統一かの「悪魔の選択」
 演習を実施するというと、日本のマスコミがたちまち双方の戦力比較などをやって見せ、開戦前夜にあるかのように煽りたてたのは、同じマスコミ人として恥ずかしくなる。もちろん、最悪のケースを想定するこても必要だが、それより前に必要なことは、これまで述べてきたように、なぜここまで対立が深まってしまったのか、軍事演習の実施がどの程度の意味を持つのかを冷静に分析し、対立を解消する道筋を検討してみることではないのか。
 北京でも見ることのできるアメリカの衛星テレビ報道番組で、キャスターがクリストファー米国務長官に対し、「イラクがクウェートに侵攻した時のように、中国が台湾を侵攻した場合、米国は介入するのか」という質問を浴びせていたが、これはほとんど扇動に近い質問ではないだろうか。筆者も、逆に中国の強硬派の評論家や香港の記者から、台湾が独立に動いた場合、日本はどちらの側につくのかと、執拗に質問された経験がある。いずれも、台湾問題の現実を見ていないし、内向きで、相手の状況や考え方に目を向けようとしていない。
 現状では、双方が自身の壊滅的な犠牲を覚悟しないかぎり、独立にも統一にも動き出すことはできない。そして、中国の人も、台湾の人も、そのような犠牲を望んでいないということを、すべての関係者が銘記すべきだろう。ほとんどの人が、そんなことは当たり前のことだと言いながら、「独立」か「統一」かという「悪魔の選択」を迫るのである。

双方に必要な緊張緩和のための宥和策
 さて、今後のシナリオだが、双方が「悪魔の選択」を望まない限り、修復を模索しなければなるまい。そもそも、両岸の交流拡大は双方にとって経済的に有利であることはいうまでもない。そして、拡大こそが双方の安全保障を強化してきたのだ。「統一」にしろ「独立」にしろ、その将来の可能性は、交流の拡大の基礎の上にしかない。どちらの選択も、双方の理解が進み、双方の合意があってこそ実現可能なのだ。
 もちろん、現状はそうした冷静な状況にない。とくに、今回の緊張、対立の中で、中国側が、李登輝総統を明確に「台湾独立勢力」「敵対分子」と位置付け、台湾の封鎖を想定したような形でミサイルを撃ち込み、軍事演習を展開したことで、修復の道を険しくしてしまった。そこに、中国側の大きな見通しの誤りがあった。誤りを承知で、ある程度まで突っ走らざるを得ない状況にあったともいえるが、台湾側が宥和策を発表すると表明している段階での軍事演習の実施は、国際社会での中国の立場を悪くした。
 双方が妥協をしにくい問題だけに、修復にはかなりの困難が予想されるが、まず中国側がこれ以上、演習を継続しないことが必要となってくる。続いて必要なのは、選挙後、台湾が本当に緊張緩和のための宥和策を発表することだろう。ここでボタンをかけ違うようなことがあると、ますます問題をこじらせてしまうことになる。ボタンのかけ違いというのは、当選に勢いを得て、再び訪米などという中国を一段と刺激する行為をしないことだろう。それは、双方に犠牲をもたらすだけでなく、周辺、関係諸国にも大きな影響を及ぼす。
 中国側は本当に統一をいうなら、口だけでなく、行動で示せ、それこそ緊張緩和を図る最善の方法だと主張している。その行動とは、アメリカ訪問をしないこと、軍備の拡張をしないことなどを指すと見られる。だが、李登輝総統がそこまで譲歩する余地はないだろうし、国際世論を背景に中国側の要求をはねつける事態も十分予測できる。しかし、ここで、米議会から招侍を受けながら、いったんアメリカの招待を遠慮するというような宥和策を発表すれば、事態は大きく好転することは疑いない。それができなくても、中国側が要求し、実際に台湾側も必要性を認めている三通政策(通信、通商、通航)を前進させることも、少しは事態の改善に役立つだろう。
 米政府の役割も欠かせない。腰の座った対中外交が望まれる。
 中国は演習を実施する一方で、アメリカとの対話の準備を明らかにした(三月十一日、銭其●(王+深−水)外相記者会見)。これは、対話の枠組みを一方できちんと確保しておくことで、様々な要因から高まった今回の緊張を、これ以上エスカレートさせたくないという意思のあらわれである。判断材料が乏しく、時間との競争の報道とはいえ、そうしたシグナルを読み取れず、銭其●(王+深−水)外相の記者会見内容を、「中国強硬論崩さず」といった報道しかできないのは、あまりにもお粗末だ。
 中国脅威論などを煽って問題をこじらせることは、誰もが望まない方向に事態を動かすだけである。冷静に問題解決の環境、雰囲気を作っていく必要がある。

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《季刊 中国現代小説》 第一期完結に際して
市川 宏(法政大学教授)

 《季刊 中国現代小説》は「一九八七年春号」をもって創刊して以来九年、このたび一九九六年冬号によって第一期を完結し、秋から第二期に移行すべく休刊期間に入っている。この機会に思いつくまま、この九年三十六号をふりかえってみたい。

めでたくもあり……
  九といい三十六といい、なかなか落ち着いた数字であり、それ自身に完結性がある。しかしこれが当初からの目標というわけではなかった。最初考えもなしに「第一巻第一号」としてしまったのだが、一年たつと「第二巻第一号」にならざるをえない。しかし「一号、二号、三号、四号」が重なると区別がつけにくいという問題点に気づいて、にわかに通し番号で行こうということになった。そうなると「いくつまで?」という疑問が自然に発生してきた。
 蒼蒼社中村社長からそうきかれて、とっさに「三十六」という数字を挙げ、「三十六計逃げるに如かず」と言ったか言われたかした記憶がある。四で割って「九」という答にたじろぐというより、夢見るような気分を味わった。九年! いったい人生にいくつの九年があるだろうか。

八から十四へ
 創刊号の同人数は八人だった。第一期最後の三十六号では、それが十四人になっている。新人はもちろん若い。とはいえ創刊当時の平均年令を維持するほどの若さでは(面倒なので計算はしないが)ないだろう。なお毎月の研究会にはもっと多くの人が参加しているが、その人の翻訳が雑誌に載った時点で「同人」として奥付に載せるようにしてきた。雑誌の反響のひとつとして、同人に参加したいという希望が寄せられたこともある。その方々には研究会に出ていただくようお願いした。したがってどうしても東京近くの人にかぎられてしまう。遠い人と郵便でのやりとりもあったが、結局、例外的にひとつ十一号の高橋さんの張賢亮〈ジプシー〉が載っただけだった。研究会での直接のつつきあいが原則である以上、投稿という形はむずかしいということにならざるをえない。
 あるいはそういう要望に答える形の雑誌なり講座なりがあってもいいとも思った。もちろんそれはこの雑誌とは別のことだが。
 同人の構成ということでいえば、最初の八人が種となり、人間的つながりで広がったわけなので当然「偏り」がある。翻訳という作業の性質として、細工は流々ということはあるにしても、さほど「観点」にはこだわらないから、だれでも参加できる道理ではあるが、物理的心理的な垣根がどうしても邪魔するのだろう。

九牛の一毛
 こういう例えを、この雑誌についてどこかで使ったかもしれない。いまここでいくつかの数字を挙げておきたい。いずれも三十六号巻末の一覧による。
 作家数:八十五人。
 作品数:百六十八篇(連載は複数に数えてある。)
 ついでのことに訳者の「成績」を発表しておく。数字の数えちがえはお許し願いたい。なお二段組みの頁数は五割増しとした。
井口晃  三五本  一一〇二頁
杉本達夫 二〇本   七四七頁
牧田英二 一五本   五五一頁
田畑佐和子一五本   五〇九頁
市川宏  一六本   五〇三頁
近藤直子 一五本   四六二頁
飯塚容  一四本   四五三頁
大石智良 一五本   四〇三頁
渡辺新一  二本   一五八頁
千野拓政  四本   一五五頁
和田武司  三本   一四二頁
竹内良雄  三本   一一五頁
岸陽子   四本   一〇六頁
金子わこ  一本    一五頁
 多ければいいというものではないが、かりにランク付けを行うなら、特上一、上一、中三、並三、下六というところだろうか。なお頭の番号は中途参加者の登場号数。考慮の上で見ていただきたい。
それにしても歴然としていることは、特上・上の二人に負うところ大であったということだ。量的な功績とともに、全体のバランスを整えた点が大きい。

将来の問題
 さて、以上見てきたところから、おのずと将来の問題点は浮かびあがってくる。なるべく明るい方向を見るようにして、それらを列挙しつつ展望に代えたい。

1内容の問題
 第二期への移行にともなって、あるいは内容の見直しがあるかもしれない。たとえば情報提供の強化として、主要作家の作品発表情況・日本での新訳の発表情況の紹介などが思い浮かぶが、それ以上の評論・研究的要素は控え目にしたほうがよいのではないか。あるいは訳・解説の分量に融通を持たせることで、そういった欲求を満たすこともある程度可能だろう。九年の経験・伝統を生かして、持続を基本的な理念としていくのが妥当かと思う。

2対中国問題
 これまで原作者に対しては(中国が万国著作権条約に加盟して以来)この雑誌に一回のみ訳載するという条件の下に(「掲載料」を支払って)原作者の了解を求めている。連絡がとれた場合は、ほとんど好意的返事を頂いている。このような評価・評判を確立し維持していくようにしたいものだ。交流・外交という面では、内気な同人が多いせいもあってほとんど実績はない。たまたま訪日中の作家・文学研究者が研究会のあとの飲み会に参加したことがあるくらいだ。その程度が限度ではないか。 3経営問題  これは一に蒼蒼社の存続如何にかかっている。ともあれ流通に乗せ、必要に答えるという形で雑誌の理念も経営もなりたつわけだから、これを担う蒼蒼社なしでは印刷済みの紙の山が虚しくつみあがるのみであろう。「会」と「社」との関係は、毎号出るたびに現金決済を行うという原始的かつ堅実なものであったが、ほとんどとんとんの状態が続いたせいもあって、決済が滞りがちである。たぶん「会」のほうが少し優勢な立場にあると思われるので、新執行部の非情な取立てが始まるかもしれない。結局、「黒字」の中身を考察してみると、翻訳作成までの諸費用の訳者負担分でなりたっているということになるだろう。直接的にはコピー代と切手代である。これが一作品あたり少なく見積もって五千円、一号で二万円。三十六号で七十二万円となるが、現実にはそれほどの貯金にはなっていない。将来は電子的やりとりも考えられるが、そうなると雑誌自体が電子的発行でもいいようなものであり、まああまり乗り気になれる感じではない。ともあれ、蒼蒼社の弥栄を願うのみである。

4理念問題
 理念といったものはないが、雑誌の目次裏あたりに「中国の大地に生きる……」に始まる詩?と、○季刊《中国現代小説》は……という四項目ばかりの文句がならんでいて、これが「宣言」と見えなくもない。これは雑誌発行前に《暮しの手帖》を念頭において宣伝用につくったものだが、一部手直しして載せたものだ。とくに「決議」を経たものではないが、当初の気分を表しているとはいえよう。考えてみれば、他の国の文学について例えば《現代米国小説》とか《現代仏国小説》とかいうのはなかなか想像しにくい。曲がりなりにも《現代中国小説》がなりたつについては、それなりの背景があるのだろう。とかく味つけの濃くなりがちの中国関連の諸活動のなかで、このような無味ないしは薄味の活動も意味があるものと思う。人は代わり世は代わり、なお続くことで、いくらかの作用をもつと信じたい。

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年齢階梯組織と秘密結社
福本勝清

 その昔『毛沢東を批判した紅衛兵』(日中出版)という本があった。権威にはいつも猛然と突っかかっていくものだと考えていた当時、その書名は我々の感性にぴったりするものだった。多分、そこが当時の毛派の人々と違うところであったろう。文革後、中国語を学ぼうと中国語学校に足を運び、それが親中国派の人々と初めてつきあうきっかけになったが、毛沢東を批判するような雰囲気はどこにもなく、大きな戸惑いを感じたものだ。
 指導者をどうして批判していけないんだ、それが我々の偽らざる気持ちであった。スターリン批判が自明の理であった全共闘世代にとって、最高指導者に対する信仰や帰依は、とても奇妙に見えたし、そのような信仰や帰依を標榜する組織(セクト)は、我々の目にはひどく権威主義的に映っていた。変革を唱える若者たちが、権威ある存在を持ち上げ、それへの忠誠を競う、などということは、どのように説明されても納得しがたかった。
 なんだ、彼らは大人たちに利用されているだけじゃないか、そう感じた。親中国派の若者たちは、自分がよく知っていた新左翼(セクト、ノンセクトを問わず)活動家に比べ、なんとなく人が好く、純朴で、誠実な感じがしただけ、逆にえたいの知れないところがあった。もう少し、言いたいことを言わせてもらうと、民青の若者たちが持っていたような「こわばり」を、彼らのなかにも感じた。その「こわばり」は、指導者や組織に対する見方や振る舞い方の違いばかりでなく、家庭や性に対する意識の違いでもあったように思う。その後、日中関係の団体に務めた折、同僚の女性職員から、「あなたはアナーキストだから」と指摘されたことがあるが、たしかに我々は、どのような組織論を唱えようと、実際の組織関係においては、ルーズであり、アナーキーであった。
 我々は大人たちに利用されることを極度に嫌った。だから、民主青年同盟や創価学会青年部に所属する同世代の若者たちと、そりがあわなかったのは、統制のきつい大組織に所属している彼らに、大きな違和感を感じていたからである。どんなすばらしいことを主張しようと、結局は大人たちには逆らえないのではないかと、疑っていた。
 それゆえ我々は、大人たちと共闘したり、提携したりすることには消極的であり、むしろそれと一線を画すことに積極的であった。学内の各勢力と提携して有利な情勢を作り出すなどということはほとんど考えなかった。逆に、理解を示してくれる教職員を窮地に陥れるような、硬直した戦術を好んでとりつづけた。大学当局との交渉も強硬一本槍であり、ましてや彼らに妥協したり取り引きしたりすることは、ほとんど不可能であった。もしそれに応じたとすれば、戦線から追放される危険性を覚悟しなければならなかった。
 もう思い出す人もいなくなったであろうが、一九六七年(あるいは一九六八年)春、闘争継続よりも組織維持をはかったブント明大指導部が、大学当局と取り引きし勝手に闘争を終結させたとして、学生運動の世界から追放された事件があった。この明大ブント事件は、ボス交のかっこうの見本として喧伝されたが、その後の全共闘運動において、大学当局との交渉を、代表どうしの交渉よりも、大衆団交による一気呵成の決着を選ばさせ、かつ流行させるきっかけともなった。

 話を文革に戻すと、我々は文革で実際に何が起こっていたのかを知れば知るほど、より大きな違和感を感じることになった。なかでも紅衛兵のリーダーたちが、それぞれ党や軍の指導者や文革小組のメンバーにつながり、自派の勢力拡大ばかりか、各人の地位の上昇をはかっていたことには、違和感を通り越し、嫌悪感さえ感じ、暗澹たる気持ちにならざるをえない。
 逆に血統主義批判を掲げ殺害された遇羅克や、毛沢東さえも批判の対象とした省無聯(湖南省無産階級革命派聯盟)、林彪の覇権に抵抗しようとした広州紅旗などに対し、変わらぬシンパシーを感じるのは、理論的、実践的なものというより、心情的なものによっている。また、広州紅旗の流れをくむ李一哲グループや、出戻り下放青年(知識青年)たちによって担われた民主の壁時期の活動に対しても、深い共感を覚えることになる。
 一九八九年の民主化運動においては、学生リーダーたちと趙紫陽グループの結びつきが云々されたが、それに何かしら不快な印象を受けた日本人が多かったであろう。そのような不快な思いは、権力闘争に巻き込まれるのを承知で、敢えて一方の権力者(大人)に接近した学生たちに対してばかりではなく、自己の権力保持のため学生たちを利用しようとした大人(この場合は趙紫陽)に対しても、向けられたはずである。
 このような結びつきに対し、中国人自身はどのように感じているだろうか。もちろん、権力闘争の過程における一方の権力者と青年たちの結びつきは、相手側から悪し様に非難されることになる。だが、抗争中のどの派も、青年たちを取り込み、その鉄砲玉に使おうとするのが普通である。また、取り込まれる方の若者たちも、ただ受け身に振る舞っている、利用されているというだけの存在ではない。その機会を利用し、自派の勢力拡大を目指し、羽振りのよさをいっそう誇示しようとするばかりでなく、その後の出世や昇進の糸口をつけるために、自己の売り込みにさらに奮闘する、ということになる。
 留学中、一九三〇年代の『東方雑誌』を、ずっと読み続けたことがあった。その中に、学潮(学校紛争)についてのコラムがあった。全国いたるところで頻々と起きている学潮の原因は、誰もがすぐに連想しがちな赤化分子の扇動によるもの、思想的な背景を持つものというよりも、むしろその大半が、校内の派閥(派系)間の抗争に生徒たちが巻き込まれた結果、生じたものであるとのことであった。当時、気になった文章は、ノートをとっていたはずであるが、おそらく北海道の生家に送った段ボール箱の底に眠ったままになっており、今のところは残念ながらたしかめようがない。
 この記事は、二〇年代、三〇年代の左翼運動、共産主義運動を、基層レベルから捉えなおすことを心がけていた筆者にとっては、十分ショックに値する内容であった。民国期ばかりでなく、新中国成立以後の学生運動、学潮を検討する際にも、この記事の指摘をいつも頭の隅に置きながら見ることになった。だから、八九年民主化運動(天安門事件)の渦中、学生リーダーたちと趙紫陽の結びつき云々の報道を読んでも、いつも起こることがまた起きていると思っただけであった。が、一面、これは日本の読者(新聞)や視聴者(テレビ)に悪い印象を与えるだろうと危惧したことを覚えている。
なぜ我々は、権力者や当局(○○当局)と学生リーダーの結びつきに強い違和感、不快感を覚えるのであろうか。学生リーダーを青年運動や青年部の指導者と呼びかえても同じである。この疑問は逆にいうと、なぜ中国の若者は権力者や当局と、容易にしかも頻繁に結びつこうとするのだろうか、ということになる。
 結論、といってもただの仮説、まだ思いつきのレベルにすぎないが、それからいうと、このような日中の差異は、過去(および近い過去)の社会における年齢階梯組織の有無に基づいていると考えている。
 決定的に重要なのは、若者組や娘組といったティーン・エイジャーの段階である。村の少年たちは数年間、若衆宿(それがない時には大きな家のはなれ)などでともに寝泊まりすることによって、村落共同体の一員として一人前になるように訓練を受けたといわれる。そこで得られた一体感が、彼らが一家の長となり、ともすれば各家の自己利害のみを追求することによってばらばらになりがちな村を一つにまとめる紐帯となったのである。  西日本を中心として、若衆宿は、夜這いの出撃拠点でもあった。自分たちの村の、「娘と後家さんは俺たちのものだ」と、いきまく若者たちに事欠かなかったのである。性についてばかりでなく、村のさまざまな事業や行事に横やりを入れ、村の長老や壮年組を悩ませたり、徒党を組んで隣村の若者たちと争いを繰り返し、やりたい放題だと、大人たちを嘆かせるのも、ごく自然のことであった。
 今、村落共同体も残っていなければ、若者組や娘組も残っていない。まれに漁村などに若衆宿の痕跡が残っていたりするだけである。だが、中国でもそうであったが、農村における人間関係の組みかたは、彼らが都市に移住した場合にも、そこに第二の村をつくることによって、形を変えて残り続ける。都市で生まれた若者たちも、彼らがつくる集団や組織のなかに、古い人間関係の組みかたを織り込んだまま行動することになる。
 当然のごとく我が団塊の世代もその例にもれない(が、我々の子供たちはどうであろうか? クラス、班、子供会、登校班、部活などが、今の子供たちにとってただの桎梏にしかなっていないことをみると、我々との間にはある種の断絶があるようだ)。そこでは大人たちとの交渉にすぐれたものがリーダーになるのではなく、仲間をうまくまとめるのがリーダーなのである。そして、すぐれた交渉力ゆえに大人たちと取り引きし、うまく立ち回る可能性のあるリーダーより、大人たちに向かい玉砕覚悟で猛然と突っかかっていくリーダーの方がましだと思っているのである。
 その結果、我々の学生運動は、権力者や○○当局と互角に交渉できるリーダーを生む可能性を自ら封じることになった。このような我々にもっともふさわしい若き指導者とは、けっして、若いにもかかわらず様々な経験の結果抜きんでた指導力を持つにいたったタフ・ネゴシエーターではなく、それらとはむしろ正反対の、勢力や実力とはほぼ無縁の、霊的に優れたシャーマン・タイプのリーダー、たとえていえば天草四郎型の指導者であろう。そして、先ほどの百戦錬磨のタフ・ネゴシエーターとは、日本人が若き毛沢東や周恩来に抱くイメージにきわめて近いはずである。
 中国社会には年齢階梯組織がない。筆者は文化人類学や社会人類学については単なる一読者にすぎないが、それは常識であるといってよいだろう。そうなると中国の若者たちは、特に筆者がもっとも関心を寄せている民国期の若者たちは、新しい行動や組織に織り込むべき人間の組み方を、いったいどこから継承したのだろうか。我々の年齢階梯組織に相当するものは何だろうか。多分それは、会党とか、幇会とか呼ばれるものに違いない。幇会というと、紅幇、青幇などのチャイニーズ・マフィアのイメージが強く、あまりよい印象を受けないが、家族を離れた中国人どうしが結ぶアン・オフィシャルな人間関係の根本に、幇(bang)そのものが存在する。
 インテリ中心のルーズな政治組織として出発した中国共産党が、それほどの時間も必要とせず過酷な弾圧に抵抗しうる地下組織に変わりえたのも、強大な中央集権的な専制国家のもと、数百年にわたりそれに抵抗を続けた秘密結社の存在、その組織原理の継承抜きでは考えられない。立花隆の『日本共産党の研究』(文藝春秋)などを読むと、そのような伝統ぬきで急遽、強力な天皇制国家とその警察権力に立ち向かわざるをえなかった戦前のインテリたちが、如何に無残な敗北をきっせざるをえなかったのかが、痛いほどわかるはずである。

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逆耳順耳
矢吹 晋


室蘭のナロードニキ
 だいぶ昔から私が勝手に「室蘭のナロードニキ」とあだ名をつけている城谷武男(昔は古本屋の亭主、いまは北海学園大学教授)が「中国語との出会い」を書いていることに気づいた(『TONGXUE』第十一号、一九九六年春、同学社)。

 「一九五八年だから、三七年も昔のことになる。わたしは目白の柳家小さんの家の数軒先の下宿から大塚の予備校に通っていた。近くに住んでいた兄が、当時、外語大の学生であった榎本英雄氏を自宅に招いて、中国語を習っていた。出入りしていたわたしが、合格したら中国語を選ぼうと考えたのは自然のなりゆきであった。中国語が選択できる科目として設定されていたことと、将来的に中国語は必要になるだろうと考えたことも、選択理由に加えておかねばなるまい。
 当時、文系は文1と文2という二つの分類であり、文2にかろうじて引っかかった。さっそく駒場寮に入ったが、サークル単位での入寮だったものだから、中国研究会に入った。一年上に矢吹晋さんがいた。五月に入ってすぐだったと思うが、かれに首相官邸へのデモに連れてゆかれ、機動隊に取り囲まれて恐怖した。
 中国語は文系だけに開かれてい、選択した学生は二十名弱だった。二千名の文系学生のうち、わずか一%の選択者である。マイナーもいいところだ」(以下、略)。

 たしかに城谷の書いたような時代に、そのような雰囲気のもとで中国語を学びはじめたのであった。そのころ、人民公社の後の運命はもちろん、いわんや文化大革命、そして□(登+都−者)小平路線の展開などまったく視野になかった。時代の激流を横目で眺めながら右往左往してきただけだ。
 大学を出て数年後、私はアジア経済研究所にいた。そのころ、城谷は北大の大学院に舞い戻り、もう一人の友人丸尾常喜さん(現在、東大文学部)は北大の少壮助教授であった。シバレル札幌の呑み屋で、そして雪道を歩いてたどりついた室蘭の居酒屋で身欠きにしんをかじりながら呑んだ酒のうまさは忘れられない。三十年を経て、なにもかも変わったが、城谷のロマンチシズム、そして丸尾の底抜けの生真面目さは少しも変わっていない。私が投げた石ころを丸尾はさっそく拾ってくれ、「秋老虎と小陽春」(『蒼蒼』前号)について丁寧な説明をしてくれた。ありがとう。

個 酒
 〈烟酒〉はタバコと酒のことであるが、よく似た発音に〈研究〉がある。従って「今夜、研究会を開きましょう」という言葉は「今夜、飲み会をやりましょう」という合図なのであった(筆者はK氏。『東方』一九九六年一月号、「販書随録」)。
 旧臘、中国に短い旅行があり、「酒席代表」を繰り返し、白酒(パイチウ)をしたたか飲んだ。「沿海地区発展戦略」の成功のために、大宴会をやりましょう、とは二昔前の冗談であった。ただしこれは中国人には通じない。いまや内陸シフトの時代であるから、これは時代遅れだ。しかし「首席代表」にはなれないし、「主席」にもなれないが、「酒席代表」としてなら、誰にも負けない飲みっぷりを示してみせる、という豪傑はいつの時代にもいるから、この「主席」と「酒席代表」の語呂合わせが消えることはないはずだ。  日本の古い俗言に「一杯は人が酒を飲む。二杯目は酒が酒を飲む。三杯目は酒が人を飲む」がある。「酒が酒を飲む」といった言い方は、とても便利な表現であり、高度成長時代には「投資が投資を呼ぶ」として、設備投資主導型成長を説明するために頻繁に用いられたキャッチコピーである。ある人の曰く、これは救世軍の禁酒キャンペーンのスローガンではないか。ナルホド! 「酒が酒を飲む」という言い方は、モデストな表現である。性悪説では、「酒に呑まれる」という。「呑まれる」客体たる呑んべえ、呑み助を批判したものだ。「酒が酒を飲む」には、非難がましいところはなく、客観的なところがよい。
 あるとき時間をもてあまして、東京駅の地下街でひとりチビリチビリ始めた。退屈なので、周囲を観察して驚いた。私と同じように、一人でチビる中年、あるいは退職寸前氏が酒場の一角を占めている。みな静かに、人生のわびしさに湛えながら、一人用テーブルでしずかに呑んでいる(バーカウンターに非ず)。「広場の孤独」さながら、群衆のなかの孤独に沈潜し、「百年の孤独」なぞを呑む。
 現代は「個食」から「個酒」の時代なのか。

『語録』
『語録』といえば『毛沢東語録』を指した時代ははるかな昔。おそらくいま『語録』といえば、十中八、九『□(登+都−者)小平語録』(という本はないが)であろう。ふと『毛語録』を想起するのは、ほとんど化石の世代だが、化石であれ、隕石であれ、その時代に生きた者にとっては、それしかなかったのだ。
 北京のアパートの水道管が壊れて一〇階の部屋へのエレベーターが動かなくなったある記者の嘆きである。
 「十階の階段を登る時、毛沢東語録で中国を学んだ私は、〈社会主義が私を鍛えてくれている〉と、言い聞かせている。だが、たまに、市内に目立ちはじめたカラオケバーなぞをうろつき、〈市場経済〉に染まって、深夜帰宅すると、やはり十階の階段はきつい。〈社会主義〉も少しは改革してもらわなければと、しみじみ感じさせられる夜である」(北京・高井潔司)。
 某紙九六年二月某日の「垂涎から水漏れのアパートに」というコラムの結びである。
 わかるね、その気持ち。
 林彪事件からおよそ一年後のころ、私の住む香港のアパートの地下室が台風で水没し、電気系統がマヒした。一八階であったか、二二階であったか、忘れたが、真っ暗な階段を私もそんな類のスローガンを想起しながら、昇り降りした記憶がある。昔話を突然想起するのは、おそらく「老いるショック」第三期症候群あたりか。

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