第50回定例会 11月16日(火) :青山メトロ会館
                         
 

分科会「パーソナルコンピューター再考」 第3回ワークショップジャーナリズムとしてのパソコン再考

パネル討論スピーカー:    音 好弘氏(会員)上智大学新聞学科講師・元民放連研究所主任研究員    田中善一郎氏(会員)日経BP社常務取締役発行人    服部 桂氏 朝日新聞社「ぱそ」編集長    浜野一成氏 「パソコン批評」元編集長 参加会員:    大竹修 半導体総合研究所代表取締役    久保悌二郎 江戸川大学社会学部教授    中北宏八 呉大学社会情報学部助教授    平松 斉 情報通信ジャーナリズム研究会代表    堀口真寿 NTTソフトウエア医療プロジェクトリーダー    岡田猛弘 日本フィッツ葛Z術担当理事 司会:    金澤寛太郎(会員)ジャーナリスト、元広島市立大学教授

司会 論客に集まっていただき、ジャーナリズからパソコンをどう見るか、忌憚 のない意見交換をし、考えるヒントをいただきたい。(出席者紹介略)  このワークショップは今日で第3回だが、これまでの流れを最初に簡単に紹介させて いただく。発端は中村浩氏の朝日新聞への投書(パソコンは家庭用としては使いにく い)だった。第1回のワークショップでこの中村氏をお招きした。中村氏のメッセージ はスペックを競う高価な汎用機への疑問から、ビギナーや家庭向けに機能を絞ったやさ しいパソコンを出してほしいという内容であった。別の表現をすれば、汎用機は使いこ なせないから、素人用専用機を、という提案である。  続く第2回は、NECパーソナルコンピューター事業戦略室長の高須英世さんから、 メーカーとしての考えをうかがった。汎用機の使い勝手の改良には超えられない「壁」 があり、メーカーとしては、今後も汎用機とゲーム機などの専用機の二筋の道を行くこ とに変わりない。ただ、専用機のウエートが従来より高くなる可能性はあるのではない か、という趣旨の説明があった。  以上、パソコンの問題を、汎用機中心のスペックを競う高度な商品が素人には使いに くいという問題として、これまで考えてきた。   これを踏まえて、今日は、ジャーナリズムとしてのパソコンの捉え方を考えてみたい。  冒頭司会の独断で問題提起をさせていただきたい。  ジャーナリズムのパソコンの取り上げ方は、われわれパソコンに悩む情報弱者からみ ると、メーカーの側の視点というか、あまりにも強い立場に立ちすぎているように見え る。パソコンにおける消費者主義不在といってもいいのではないか。  パソコン雑誌も、スペック競争そのものを全く肯定してしまって、インターフェース の使い勝手も現状肯定、OSの問題も現状肯定、といったぐあいだ。現実論としては読 者への情報提供のためには仕方がないことかもしれないが、これでユーザーの立場に 立っているといえるのだろうかと、考えさせられた。  「ASAHIパソコン」(98.11.1)の特集記事が、おもしろい比喩でスペッ クの問題を考えている。カメラの場合は激しいスペック競争の果てに、誰もスペックを 気にしないでカメラを買うようになったという事実を指摘、カメラの本当のスペックと は「誰でも撮りたいように撮れる」ということであることがわかった、として、パソコ ンもやがて(10年後には)スペックが意味を失うことになるという趣旨の記事であ る。  しかし、カメラの「誰でも撮りたいように撮れる」といういわば「究極のスペック」 からパソコンの場合を連想して気がつくのは、「誰でも思った通りに使える」というこ とこそパソコンのスペックの理想であるはずなのに、「専門家がどのようにでも使え る」パソコンを目指して進んでいるように見えることだ。  生活の場面でふれるもの、パソコンの接点の問題を切り口にした話を進めたい。  これからパネラーのみなさんに、まず10分づつお話を。

 最初に朝日新聞の服部桂さんから。

服部 「ASAHIパソコン」は、パソコン雑誌がホビーユーザー中心になり過 ぎていることへの疑問から出発しており、初心忘れるべからずということでやってきた が、最近の誌面はスペックを肯定する論調もあって、書く側として反省すべき面も感じ る。ただ、メーカーに対してはユーザーの立場で厳しく対してきたつもりだ。業界誌と いう見方もあるが、わたしが関わっている「ぱそ」は初心者を対象に作っている。30 代の女性、50以上の男性に読まれている。  いまのパソコンは米国で価格破壊が起こっていることからも分かるように、値段を下 げて家電化へ向かっている。しかし、パソコンを作っているのはオタクなので、当然ス ペック中心の競争という側面もある。しかし、素人が使いやすいパソコンにするために は、逆に高度な性能が求められ、100倍早くなければならないという面もある。シン プルなパソコンとともに、ユーザーのために高スペックも必要に。ジャーナリズムが基 本を押さえるとともに、スペックの動向も見届ける必要あるのではないか。 浜野 「パソコン批評」出版社の雑誌と違う視点で。内容がメーカーの広告主 導でいいのかという立場。パソコン雑誌は技術解説からはじまっている。技術解説が出 発点。パソコンの世界の変化の早さから、言葉の解説に追われ、ユーザーが何を必要と しているかが抜け落ちている。パソコンがなにに必要かも抜けている。ほんとは必要で はないのではないか。  現状のスペックで何ができるかを知らせるとともに、ユーザーに必要かどうかも明ら かにしていく必要がある。  銀行のATMは、インターフェースがやさしくできていて、パソコンのひとつの行き 方を示している。パソコンをどう変えていくか、何に使いたいのか、目的に特化して使 い易くしていかないと、いまのパソコン市場のジレンマを解決できないのではないか。 しかし、単一機能化することで汎用機のもつ可能性を失ったものは、われわれはパソコ ンとは呼ばないだろう。 いまのパソコンは、新しいものを生み出す母なる存在といえる。何かを生み出す母胎と してのパソコンの可能性を信じたい。 田中 パソコンが使いやすくなるかどうかということだが、10年前からパソコンは 絶対使いやすくならないと言ってきた。なぜ使いやすくならないかというと、汎用機と いうことのむずかしさもあるが、もっと基本的に、機械は、人間がやりたいことを認識 するということができないのだ。コンピューターが生まれた時、軍用目的のほかに認識 を機械にさせたいということが、目的になっていた。その時以来、認識に関しては全然 進歩していない。ブレークスルーが全くない。たしかにCUIからGUIになったとい うようなことはあるが、つまり、文字ベースからグラフィック・ベースになったという ことはあるが、これとて根本的な使いやすさの改善ではない。  なぜコンピューターに「認識」ができないかというと、組み合わせ問題という議論が あって、新聞を20回畳んだらどのくらいの高さになるか、組み合わせ問題の例だが、 2のN乗、富士山の高さになる。40回、50回で月の高さに。この議論やりだすと絶 対パソコンは使いやすくならないとわかる。パソコンがワープロもスプレッドシートも できる、通信もできるといった汎用機であるものに、人間の認識をやってもおうと考え ること自体無理なことなのだ。コンピューターの能力が3年で4倍くらいになってい て、いまのスーパーコンくらいのことは10年くらいでパソコンでもできるようになる だろうが、そのレベルと認識のむつかしさとは全然桁違いだ。  たとえば音声認識も94〜5パーセントくらいまではある程度いくが、あと0.1% 能力をあげるのに、1000倍とか10000倍になっても、ことは成らない。エンジ ニアは認識をさらに高めよう高めようとするが、絶対できないので、あとは機械と人間 の対話でやっていこうということになっている。メニュー方式で、人間のやりたいこと をインタラクティブに機械と対話しながら、機械に認識させるというやりかただ。  いまのパソコンの使い勝手では、アメリカの家庭の40%の普及率という話があった が、それ以上は絶対いかないと思う。単機能にするのならともかく、汎用機としてのい まのパソコンを使いやすくすることは、無理がある。 音 パソコンを使いやすくというこの場の議論は日本人のまじめさ。パソコンを使えな いより使える方がいいというのは、ある種の科学信仰がある。  ビデオが使えない学生のレポートで経験したが、マニュアルが機械嫌いには対応でき ないレベルや分類になっている。パソコンについても同様に、デザインの問題があるの ではないか。よいデザインとはなにか。汎用機の話にあったように、なんでもできるこ とは、何もできないことだ。  科学主義信仰から、「使えないことは悪いこと」という風潮がある。それの見直しの 作業をジャーナリズムがやるべきなのかもしれない。  関西のマルチメディア実験や、山田村の全世帯パソコン配布などで、お年寄りなど家 庭内に生まれた機械に対する拒否反応に関心があって調査しているが、この問題の解決 には「お助け人制度」みたいなもの、しろうとに耳元でささやくような、ソフトな仕組 みが必要だと考える。  テレビはスイッチを入れるだけで使えるが、パソコンは最初の壁が高かった。 司会 ここで参加者の質問とかご意見を。 平松 最初の壁が問題。アメリカのシニアネットの例のように、ボランティア的に広が るのが望ましい。しかしハードの準備などはボランティアだけでは無理。産業界の協力 も必要。ジャーナリズムでは、パブリックの批判勢力をつくっていく媒体としてのいき かたもあるおではないか。   司会 家電屋がもうOSの時代ではないといいはじめていることが象徴するように、 専用機やキラーアプリケーションを使って単機能を追うテレビ屋的なアプローチから も、パソコンが見えてきているのではないか。 音 テレビはアマチュアリズム性あり、常にわかりやすく、常にたくさんの人に参 入してもらうのが、ある種放送の思想だったとすると、この観点からのパソコンの見直 しをもとめられている。マイクロソフトの戦略(プッシュ=ブロードキャスト)からも わかることではないか。 服部 みなさんはコンピューターを誤解している。未来のコンピューターはタマ ゴッチだと思っている。それを通して自分のやりがいを見つけることができる。家電の チップなど、すでにいろんなところにコンピューターが入り込んで、みえないコン ピューターの時代へ。さらにその先、ウエラブル・コンピューター。パソコンは持ち歩 くのではなく、服や家電や環境になる。いまあるコンピューターに悲観するのはいかが か。大きな視点やうねりの中の問題として見ることがメディア側にも必要ではないか。 田中 テレビも冷蔵庫も使い方は単純、家電の世界は簡単な使い勝手だ。それでも、 情報家電でちょっとでも使いやすくするとなると、大変なこと。しかし、パソコンのむ ずかしさは別。チップの話とは全然違う。いまの仕事に使うパソコンがそっちへいくと いう話にはならない。単機能の家電にはOSは不要。いまのパソコンをどうするかとい う話とは違う。 音 40%の新しいもの好きを相手に商売するかどうか、そうではなくて、99%の ユーザーを相手にするのか。パソコンが問われているのでは。  メディア・リテラシーが重要になる。一つは、工学系、コンピューターが使えるか、 機械的な使い勝手の問題。もう一つは教育学系、インターフェースが重要に。使い勝手 の悪いコンピューターのとらえ直しが必要に。認知科学の教育の仕方のアプローチがあ る。いろんな人が使えるようにするところにデジタル化の意味あるはず。40%以上に 使えるようにしないと、知識格差をパソコンが生むおそれがある。 久保 平成15年に、普通高校でパソコン必修に。3つの選択コースがある。 Aは体験できる、自由に使える。Bは工学系教育、ブラックボックスの中身を教える。 Cは社会科学系、社会的応用をやろう、というもの。情報リテラシの涵養のためのコン ピューターの使い方。これが実施されると、困るのは先生。  うかがいたいのは、こどもに対してどうするか。学校での問題をどう見るか。 服部 生徒が先生に教える時代。心配ない。こどもたちは秋葉原とか家庭で学 んでいる。こどもに教えることはコンピューター以外の分野の方に大切なことが多いの では。 久保 すでに文部省の方針は既定の事実になって動きだすだろう。  司会 コンピューター教育導入時から、「コンピューターの教育」が始まってしまい、 「コンピューターの使い方」(コンピューターで何をするか)の教育が忘れらている。 浜野 どうやったらウインドウズが使えるかに終始。何に、どうすれば、使えるか、 目的意識、創造的な教育が必要。コンピューターを利用する、コンピューターをどう使 うかを教えるのが必要。 音 こどもはコンピューターの中身は問わないで理解できる。パターン認識できる 世代は問題ない。むしろ教師がついていけるかが問題。 服部 コンピューターは目的意識いらない。この世界には何かをしたいという気持ち にこたえるものがない。電話は目的意識なしに発明された。教育で、パソコンを何に使 えと教えられないだろう。混乱のなかにある現場。 田中 学校はインターネットを引くこと嫌がる。学校幹部の秘密主義が壁になって いる。しかしこどもは違う。教えなくても生徒はすぐ使えるようになるし、興味をも つ。問題は導入の支援体制にあり、企業のボランティアなどで学校にインターネット のおもしろさを紹介することが、もっと行われるべきではないか。 中北 インターネットは運転免許並の普及段階にそろそろ入る。だからこそ、誰でも 使えるパソコンでなければならいのではないか。 司会 IMACの使いやすさもその意味で注目される。MITメディアラボのネグロ ポンティがウィンドウズを批判しているのも、MACにみられるパソコンの初心のよう なものとの比較でだ。ウインドウズは誰が悪いのでもない、みんんで使いにくくしてし まったという批判だ。パソコンは使いにくいものだとあきらめる前に、まだまだやるこ とがあることを、IMACが示しているのではないか。 中北 パソコンの使い方でつまずくところは、あらかじめヘルプ情報に入れて おくとか、まだやることがあるのではないか。やさしくすることはできないのか。 田中 機能を絞ればすぐにもできるはずだ。それがビジネスにならないから出さない だけであって、たとえばインターネットの設定を特定のプロバイダーに決めておけば、 接続もすぐできるようになる。マックでなくてもできる。 大竹 半導体という面から見ると、競争という面が大きい。日本に対抗するた めにアメリカが考えたのは3S、スピード、ソフトウエア、スタンダードだ。これは日 本にはない。いま半導体で日本はやられた。日本得意の家電は「変化しない」もの。パ ソコンは3か月で変えていく。アメリカは「変化」による覇権競争に強い。 堀口 いまのパソコンは技術の進歩のうえに商品があると思う。技術の進歩は 進歩として追求していかなければならないが、技術のあるステージで消費者が必要とす るものについて、(メーカーとして)どうこたえていくかという商品性の問題が、パソ コンをどうするかの問題に欠落しているのだと思う。技術の進歩の中で、使う人には使 う人の目的があるので、ジャーナリズムがそれを取り上げて言っていくことが必要では ないか。ヒューマンインターフェースと技術の進歩は別々に考えていいのではないか、 ところが技術の進歩にインターフェースをただプロットするだけになりがち、新しい技 術に引きづられて使いやすさの追求を忘れてしまう傾向がある。電話機のプッシュ式の 開発で、パルス式の良さを捨てて、トーン式に走ってしまったことがいい例になる。 (つかいにくくなってしまった。)アメリカでも同様のことがあったが、失敗だったと 考えている。本当に使いやすいヒューマンインターフェースは技術の進歩とは違うとこ ろにあることを、使う立場から訴えていかなければならないのではないか。 パソコンのユーザーとしては、技術の進歩にのっているだけのありかたに疑問がある。 岡田 技術はずいぶん無理している。ATMだって銀行にいきたびに思うが、よく動い ていると思う。ちょっと間違えばうまくいかない秘術だ。こんなことをいうと専門家に 叱られるかもしれないが、ほんとにぎりぎるの技術なのだ。大きなシステムはたいてい 無理をしている。使い手の方と仕組みがやっとバランスしているにすぎない。 使い勝手まで考えも及ばないし、機械の能力もまだ足りない実状だ。 音 アメリカでは、業界紙技術開発グループとウオール街とのトライアングルのような 関係があって、業界紙が批判すると、ウオール街で株価が下がる、すると技術開発が進 む、という関係が成立。アメリカには競争の中にユーザーの立場も補完される。 中北 バグをなおしても説明なく、メーカーは横暴だ。 堀口 こういうことをどんどん言っていただかないとだめなんです。 司会 まだまだ勉強を続けたいが、きょうはこれで。お忙しい中、ご出席ありがとうご ざいました。                                      以上  (報告 金澤 寛太郎)


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