SJIC/HP・ワークショップ
 

    「デジタル時代のジャーナリズム」  報告者:平松 斉

第1回(5月19日)
    (P)ワークショップ運用について
(1)ジャーナリズムとはなんだろう
  その多義性と変質
  規範原理と成立の要件
  時事性の流動、拡散
(2)インターネット・マガジン、HPサイト、メール・ジヤ一ナリズム
     ネット宅配と書店
  フリー・ウェア
  私信の共同化、個人性、個人と巨大メディア
  スピード、時間の断片化
  無責任と情報選別・編集
(3)在来メディアの対応と展望
  ニュース・サイトの変化
  利用者層の差別化
  顔のみえる送リ手・受け手
  新聞資本主義と報道の自由
(4)ジャーナリズムの意義
  大量情報のなかの社会
  権戚の空洞化、価値の並列・相対化
  マス・メディアの無力
  取材・編集機能と公論形成の楊

第2回(6月30日)
    (1)デジタル・メデイアーインターネット・サイトの特性
    *不透明な責任の所在、チェック機能(機構)の欠如
*民間地震予知連の場合
*情報の選別、受容、判断は利用者の自己責任
*免責を明示。保証なし
*速報、交流、修正のプロセス・メデイア
(2)私性
*ジャーナリズムの語源ー日記、日々の記録
 私事の発信ー自分史、ミニコミ、パブリック・アクセス・チャネル
*多メデイア化と私事のニュース化
*個人の心象風景に政治・経済の構図組み込むー村上龍のメールマガジン「失われた10年」
*個人的発信とマスメデイアノ併存、混在
*見分け、区分けのリテラシー、責任、無責任メデイアの選別。
*情報再構成のためのフイルターモ必要
(3)表現の自由ー報道・取材の自由と特権
*デジタル・メデイアによる在来メデイアのチェック機能
*個別アクセスに通信傍受法
*伝送ビジネスとコンテンツ・ビジネスの連携、統合
 住みわけ未分化、境界区分あいまいに。
 内部的自由の懸念
*拡散する時事的情報
 「気持ちのよいニュース」「お好み情報」だけを届ける「マスターベーション」方式。
*微調整ではすまぬ倫理基準
(文責・平松)

3回(7月8日)WS「デジタル社会のジャーナリズム」論点・検討メモ
   (1)時間性
      周期性から随時性へ
    ローカルからグローパルへ
    不連続、時間の断片化
    プロセス化(発信、交流、修正、蓄積、加工)
    生活リズムと記号世界の現在性
(2)時事性・関心
    送り手の選択基準の変化
     受け手の共通関心(社会常識、価値感、欲求構造)
  受容過程の重層化
  小集団関心のコミュニティ
  私事の現場発信
  マスとパーソナル
  異端と正統
  無意識層の集団意識
  流動化−不確実性の増大−メディア依存
(3)送り手/受け手関係
  受け手から送り手へ
  コア・ユーザーの関わり
  個人化(ひとり放送局)
  企業と個人、メディアと個人−顔のみえる関係へ
  小集団の群立
  権威の空洞化、相対化
  メインとオールタナティブ
(4)リアリティ・アクチュアリティ
  現実世界と記号世界
  マルチメディアのイメージ喚起度
  編集・加工能力向上成果の両義性
  発信源の無責任
  自己責任とセーフティネット
  メディア・リテラシー
  デジタル・デパイド
  情報遠別機能
(5)関係性
  マスメディアと受け手大衆の関係はどうなる
  受け手の受動性と能動性
  小集団の分散
  マスとの併存・混在
  記号世界と現実体験
  リンク構造とネットワーキング
  コラボレーションと集積
  電子コミュニティ
  拡散と連帯
  複合社会のバラドックス−国家と市場の生活世界浸透
  自衛と管理
  新しい公私観
(6)表現の自由と人権
  表現の自由の三極構造
  スペクタクル社会・大衆ファシズム
  アナーキズムとネット公害
  メディア間のメディアチェック
  報道の自由の限界
  公的介入・管理の強化
  メディアの姿勢・内部的自由
(7)メディア産業
  メディア融合と産業融合
  棲み分け
  メディア統合
  ユニバーサル・サーピスと差別供給
  産業再編・メディア職場の変化とジャーナリスト
(8)ジャーナリズムとジャーナリスト
  情報選択、議題設定機能
  公論形成の場づ<リ
  メディアの限界
  オールタナティブ・ジャーナリズム
  デジタル社会のジャーナリスト

第4回会合・報告(9月9日・有楽町マリオンにて)
     
30日の「前橋フォーラム」をも視野に、論点整理に入る。フォーラムで参考にしていただければ。
       
  (1)既存の社会システムへの不信とバブルの構造
    警察の不祥事、医療過誤、そして雪印乳業や三菱自動車などなど、いずれも仲間うち優先の論理と心理。
     責任不在の日本型公私秩序(丸山真男)ー1億総懺悔こそバブルの構造に。
    仲間うちの相互依存の相対的安定と安心に安住。
    社会的な正義、公正にもとづく信頼関係がない。
   
  (2)バブル破綻後の変化
    日本型企業社会のもたれあい、交換関係がくずれた。
    調査報道のきっかけを提供してきたわずかな内部告発が、インターネットで発信力を高めた。
    個別に内々で澄まされていた消費者のクレームも、ネットのこだまがこだまを呼び、情報の不均衡をくつがえし始めた。
   
  (3)ネット発信の挑戦ー異端と正統
    デパート、スーパーから地元商店街への回帰にみる既存ブランドへの疑問。
    予知情報の交錯にみる学界の権威への挑戦。
    事件、災害報道やマスメデイアの論評と現場からの自前のニュースと論評。
  公的サービスや企業、商品、店舗、さらにNPO についても、評価、格付けの可能性も。
    ただし対人地雷禁止の成功例のように、情報の公共化を進めるには、コアグループの起爆剤が必要。
   
  (4)ネット・ルール
    ただし、無責任なデマ,中傷、ためにする情報も交錯するネット、なんらかの歯止めが要る。
    責任の所在不明は、インターネットの本質。Y2K問題も。
    といっても、責任をおカミにもとめる傾向がマスコミにも少なくない。
    ネットのセキュリテイは、ユーザーの自己責任。
    通信の傍受など、通信の秘密に優先する規範はなにか。生命の危険とか、正義、人権をおびやかされるとか。
 
  (5)個人化について
    中間集団の会社社会の求心力低下をはじめ、社会のあらゆる領域で、個人かがいちじるしい。
    ケータイもヒモ付ではなく、いとも簡便、安易な出会いの道具となった。代わりに、落とし穴も、現実回避も。
    ネットで、形を変えた「仲間うち」の、小集団の群立もすすむ。「私」の肥大化と拡散。しかも「少数意見の異口同音」がこわい。
    (文責・平松)

第5回会合・報告(10月21日・有楽町マリオンにて)
(1)  デジタル・メデイア、ネットの中核的特性は「私」性と「リンク構造。その社会的機能は両義的。
(2)  在来マスコミ論の概念装置、理論仮説の妥当性。新聞学の今日性も。
(3)  「日本の」インターネットのボランテイアリズムに基づく市民的公共性再構築の可能性は。(下田氏「日本人のインターネット」
(4)  情報消費大衆として、私化、拡散の深化を促進のおそれも。
(5)  それは、いまの日本社会の状況を反映している。デジタル・メデイア、ネットのむこうに、社会の構造をすかしみることが必要。
(6)  ボランテイア活動にも、他者の痛みや要求を自分のもととして受け止め支援、共同するものと、いわゆる自己実現のためとがある。「自己実現」の対象、手段。もうひとつ、教育改革会議の強制的ボランテイアまである
(7)  日記の公開、グループ記録など、個人ビデオのPA番組とともに、自己表現の解放、現場情報の発信と、オールタナテイブなジャーナリズムの萌芽。 反面、私的領域の公共化には、タレントのスキャンダル・報道も公共的との面もある。
(8)  利用者に「自己責任」を強調。しかし選択、判断に必要な情報が前提。電子政府、企業の開示など、説明責任は。
(9)  自己責任の強調は、責任主体不在のまま、結果責任を末端に押し付ける日本型責任体制。
(10)  資産形成の自助努力とも。企業の福利厚生の破綻と 40(1Kの日米の違い。
(11)  インターネットにもリストラへの声少ない。個別化した労働紛争、雇用管理に、労組も労働行政も無力。無法地帯ともいえる日本の雇用関係に、雇用契約の権利意識も希薄。
(12)  バブル崩壊後、求心力を失った「会社共同体」から、セーフテイネット未整備の労働市場で、「あなたの値段はいくら?」
(13)  共同体の解体、国家、市場の私的生活領域への浸透は、公共性を国、企業にゆだねて豊かさを享受する消費大衆を一般化。「沈黙の螺旋理論」やハンナ・アレント「エルサレムのアイヒマン」などにみる「はずれることの怖れ」
(14)  拠り所をもとめての全体主義、終末論、情報消費。マスメデイアのオウム出現当時の扱いかたをみよ。国柱会などの日本ファッショとナチ、幕藩体制とヨーロッパの封建制との違い。 同質化、あいまい化、情緒的日本。そしてつねに「天皇」がある。
(15)  地方にいまなお「隠れ念仏」など、土着的な異端が西欧近代の普遍的キリスト教につながる不思議。
(16)  しかし、今や内面的規範を欠いた個別主義、私的優先をどうみるか。
 フリーターの調査をして、一定のライフ・ステージで社会性を自覚するとき、保守化とラデイカルに二極分解する。ゴーマニズムに酔う世代。ネットで、自分に都合のよい情報、理論だけを集める若者。
(17)  在来メデイアはデジタルにゆれている。放送のデジタル化で、地方局は埋没しかねない。 CATVは電話やインターネット接続で生き残りはかるCANET、いずれも再編、ビジネス形態変容はさけられない。コンテンツへの影響も。
(文責・平松)

第6回会合・報告(11月17日・有楽町マリオンにて)
大山さんから「デジタル社会のジャーナリズム仮説」の提議 提議をめぐって討議
(1)表題検討の座標軸ないし枠組みとして
  1)「情報化技術の進展」と「高度大衆社会」をベースとする 情報技術による産業、ことにメデイア産業の変容が
ジャーナリズムのこんごにかなりの比重をもつ
2)この2要因による意識の変化
3)それに伴う技術、産業、社会の変化
4)上記を視野にいれたジャーナリズムの方法と志向性
(2)情報技術の進展
  1)情報による情報の制御 情報による情報の制御はわかりにくい。情報の生産と管理の問題。社会の複合システム。
2)生産の仕方の進化(多元システム、ネットワーク化、双方向化、無限コピー、マルチメデイア化、バーチャル化、ハイパーリンク化、高速、即時化、個人化、グローバル化・・・)
(3)意識変化
   1)思考補助手段の紙から時間軸をもった3次元CGへ(産業連関表、建築設計、立体スケッチ帳、CGによる論理計算、世界視線の上昇) とも関連して、ジャーナリズムが扱う時事的情報の変質が重要課題ではないか。
2)人の変化
(分析還元、アナログ化、相反する要素結合、人ネットワーク、シミュレーション化、価値の相対化、情報のプロセス化、共有化と差異化、感覚拡大、情報漂流ーフイルター需要、身体環境志向、随時化、個人化)
(4)高度大衆化による人の変化
    1)「知識人の大衆化」仮説  受け手大衆の変化の行方は両義的だ。オールタナテイブ・ジャーナリズムの芽生えと、一層の情報消費型の受動的大衆。「公」を国家や市場にゆだねて消費・享受する「私」の肥大化と、一方で、新しい公共性への再転換をはかる市民。「公」と「私」の両義性も軸にしたい。
2)大衆社会と高度大衆化(オルテガ)
3)日本的ムラ社会の存続(責任不在、中くらいの幸福ー旧石器の発見批判)
(5)日本的システムの反映
     1)発明。発見時代の立ち遅れー量産、歩留まり技術  責任不在はいま「自己責任という無責任」時代をまねいた。私的所有権は、封建制の違いでもある。しかし、バブルが土地本位制といわれたように、土地、家は不動産という貨幣価値に変質した。個人の資産形成も、「私」の欲求、動機t優先という意味での個人の解放によって、バブルのカジノ資本主義まで、現出した。戦後近代化の意味のひとつだ。
2)私的所有権概念の違いー個人資産形成は異端
(6)コーデイネイト型ジャーナリズム
  1)「報道班員に始まるジャーナリストの地位向上と大衆化
 仮説ーはぐれものから尉官,佐官へ
 マスメデイア・ジャーナリズムと、市民のオールタナテイブ・ジャーナリズムの両面を考える必要がある。マスメデイアだからこそ出来ることもあれば、だからこそできないことも。問題はエデイターシップの見直しではないだろうか。
2)コミュニケーション型言論の場の舞台回し、議題設定など運営機能、集団による総合化
3)高度情報化のマイナス面除去機能

(付)マスコミ論の下位に一していた在来ジャーナリズム論のさまざまな理論仮説や概念装置のどれが有効なのかも、過渡期の混沌のなかでさぐって行きたい。
次回は1月下旬、まとめにむけて討議続行。提議してくださるかた、メールを下さい。                        (平松)

連載コラム「デジタル時代のジャーナリズム」を参照されたい。

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