わたしたちに語られる神様のみことば  

2015年、この年も神のみことばによって、歩むことができますように
4月5日
「死からの復活」 Tコリント 15:20〜22
今日の箇所はよみがえられたキリストについてです。「死んだ人がよみがえるはずがない」と一般には信じられています。もちろん人間、その通りです。仮死状態か、死んですぐならともかく、死んで何日もたった人間が生き返るはずがありません。ここに書かれているキリストは人間として地上に来られたイエスという人についてのことです。イエスは自分の力でよみがえったのではありません。創造主である父なる神の力によって、よみがえらされたのです。同じ15章の3節から6節に書かれています。確かに死んで葬られたイエスという人が、三日後によみがえったというのです。しかも500人以上の目撃者がいるのです。これはどう説明したらいいのでしょうか?集団で幻を見たのでしょうか?あるいは全員で口裏を合わせて嘘をついているのでしょうか?嘘をついて何の利益があるのでしょう。かえって神を冒涜することになってしまいます。こんな嘘をついて偽りの希望を持たせるなら一番哀れなものと、パウロが言っている通りです。イエスがキリストとしてよみがえらされたのは神のご計画です。何とかして人を救おうとされる神の愛です。十字架において人の罪が解決された後で、人間の初穂としてよみがえられたキリストイエスに続いて、私たち人間が後に続くことができるという希望が与えられるためなのです。なんと幸いなことでしょうか。だから私たちは言うのです。「イースターおめでとうございます」と。22節にあるように、「キリストにあってすべての人が生かされる」ためなのです。これこそが神の大いなる愛です。神はあなたを愛しておられます。みわざをなしてくださった全能の神を見上げましょう。

1月18日
「病気の試み」 ヨブ記 2:1〜13
いつの頃かわかりませんが、ヨブという人がいて、大変なお金持ちでした。しかしそのすべてが失われ、子どもたちも亡くなり、しかも治る見込みの無いような病に陥りました。さあ、こんな時私たちならどうするでしょうか?普段からあまり物を持っていない人よりもたくさんの物を持っている人の方が無くしたときの喪失感は大きいでしょう。現代の日本は物質社会で、多くの物にあふれています。より便利なもの、より高度なものへとつぎからつぎへと買換えへの誘惑があります。車やスマートフォンなどなくても生きていくことができますが、現代社会では必需品のようになっています。そんな物に囲まれているとすべて無くなった時のショックは想像するに余りあるものがあります。自分の持っているすべてが無くなり、そのうえ病気になる。こんな時は本当にやるせなく、いっそ死んだ方がましとさえ思うかもしれません。自分にとって良いもの、得になるものだけをいただいて、損になるもの、嫌なものはいらない。これは自分中心の考え方であり、他のものは犠牲になっても自分が良ければそれでいいという考え方です。しかしヨブは違いました。生まれてきたときは裸であった。そしてたくさんの恵みで生かされてきた。これらは自分の力ではなく、神からの賜物であると理解しています。良いものをいただき、食べる物もたくさんいただいているのだから、病気や災害などはいらないというわけにはいかないと受け止めています。これは自分にばかり目を向けているのではなく、恵みを与えてくださるお方、いのちの基であるお方に目を向けている理解の仕方です。これが私たちの生きる生き方ではないでしょうか。いのちを支えておられるお方、恵みの神に目を向けましょう。

1月4日
「新しい年の祝福」 申命記 11:8〜16
今日のこの箇所だけを読むと、神様は「言うことを聞きなさい、そうすれば土地を手に入れることができるし、また長生きすることができる」と言われているかのようですが、これは交換条件ではありません。また、言うことを聞かなければ不幸になるぞー、と脅しているのでもありません。神様はロボットのようにただ言うことを聞かせたいと思っているのでもありません。この箇所のすぐ前に書かれています。神がした偉大なみわざを、あなた方は見ている、神の力によってあなた方は奴隷状態から救われた。そのように神は人間の幸せを願い、どうしたら平和に平安に生きていくことができるかと考えて、「わたしの言うことを聞きなさい」と言われているのです。まず神の恵みが先にあるのです。しかし人間は自由意志が与えられていることをいいことに、自分勝手に自己中心の道を歩んでいます。自分中心では争いがおきます。神はこれを憂いておられるのです。人と人とが争っているのを嘆いておられるのです。人々が皆平和を保ち、平安のうちに希望を持って、全ての人々が仲良く助け合って歩んでいくためには神の言われることを聞くしか道はないのです。どうかあなたも全世界を創られ、あなたのいのちをも創られた神様に思いを向けましょう。

11月23日
「キリストによる和解」 エペソ人への手紙 2:11〜18
聖書にはイエス様に出会ったたくさんの人々が出てきます。今まで見てきたように、人生の目的がわからずに苦しんでいる人々が劇的に変えられました。人間は生まれながらには神がわからず、なぜ自分が生まれてきたのか、なぜこの地のこの家庭に生まれてきたのか、生きる目的は何かなどわからないことだらけです。それは創り主である神を知らないからです。12節にあるように、この世にあって望みもなく、神もない人なのです。ですから人を見ても、神が創られた同じ人とは見ずに、自分の考えを理解しない人、自分にとって得な人か損な人か、愛してくれる人かそうでない人か、という風に見てしまい隣との間に壁を作ってしまうのです。自分中心で自分さえよければいいという考え方です。これではこの世は争いが絶えません。こんな私たちを憐れんで、また愛しておられるが故にイエスキリストを地上に送ってくださり、人が作った壁を打ち壊してくださったのです。これが十字架のわざなのです。これこそが平和への道なのです。今日私たちは救い主イエスキリストを見上げましょう。このお方こそが人と人との和解を実現し、平和へと導いてくださり、望みを与えてくださったお方なのです。

11月2日
「生まれつきの盲人」 ヨハネの福音書 9:1〜3
今日イエス様に出会ったこの人は生まれたときから目が見えない人でした。弟子たちがイエス様に質問をしたその内容によって、当時の人々の考え方がわかります。目が見えない人が生まれてくるというのは理解できないことであるから、きっとこれは誰かが罪を犯したために目が見えなくなったのだろう。両親が罪を犯したのか、先祖の誰かが罪を犯しその結果としてこの人の目が見えなくなったと考えられていたのです。果たしてそうなのでしょうか?この世界、不条理な事が多い。受け入れがたいようなことが起こると、原因を探り、そこから解決の道を見つけようとします。でもそれだとこういう病の場合など責任の持っていきようがなく、真の解決にはなりません。イエス様はそうではありませんと答えられました。「神のわざが現れるため」と答えられたのです。どういうことでしょうか?原因探しは結局人を責めるのか、自分を責めるのかになってしまい、自分に目が向いている結果です。そうではなく、「神に目を向けなさい」と言われているのです。神は人が勝手に神から離れていき、自分勝手に生きていくことを選択してしまったのに、人を愛され人と共におられるお方です。この盲人にもたくさんの支えてくれる人がいることでしょう。人が人を責めて、病の持っていきようがなくて人を恨んで生きるのではなく、互いに助け合って交わりの中に生きていくことを望んでおられます。自分を見て「私はなんと不幸なのか」と嘆いてばかりいるか、誰かを恨んで生きるかではなくて、恵みを与えてくださる神を見上げて歩いて行こうではありませんか。この神があなたを招いておられます。


栄聖書教会は、プロテスタント(新教)のキリスト教会です。エホバの証人(ものみの塔)、統一協会、モルモン教等の新興宗教諸団体とは一切無関係です。

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Lastupdate 2015/04/05