大山街道景観形成協議会
二子の活動の開始から条令告示まで(2006年8月〜2009年7月)

 二子の場合は、さらに3年掛かりのステージを分けて記述する方が良いと思います。

商店会会長交代と引継
(ステージ3-1)

準備委員会の推進
(ステージ3-2)

実行委員会の推進と告示
(ステージ3-3)

 ステージ3-1
  1. 二子は、溝口推進の2005.6〜2006.3までは活動は停止していました。私達もそこまで並行的に実施する力はありません。2006年春二子の商店街の会長がMKさんよりHKさんに代わりました。今まで二子の商店街から委員会への参加はMKさん一人、気の優しい方でしたから「俺が出ておくからよいよ」と他の人への出席依頼はしていなかったようです。MKさんは勿論知り合いですが、会長を交代したばかりでは大変ですから、秋口からの再スタートを打診し、了解を得て推進することにしました。

  2. ここからHKさんのご苦労がはじまります。HKさんから見れば、突然降って来た景観条令、少し考えてみれば大変さもわかる。と言うことで、同じ地域の同世代の中心かつ重鎮であるIHさんと相談されたようです。IHさんの「やろうよ」と言うことで二子の推進が実質決まった以降、この御両名は欠席することなくすべての会合に出席していただくことになりました。

  3. この年は、記憶では3回ほど私と事務局長、役所、二子数人で会合を持ち来年からの開始を決定しました。二子の場合は、雰囲気作りのために1年間は準備会合を継続し、次の1年で実施に向けての実行委員会を開催することにしました。
     さらに、反対派が出てきてセットバック項目に最初から反対を唱えはじめれば一歩も進まないのはわかっています。そこで、規約を更に改定し、反対意図で委員になろうとする人は、お断りすることにしました。


 ステージ3-2

 このステージでの議論は次のステージの議論と混じり合っています。正確には私もどちらのステージであったか記憶は極めて曖昧です。こんなことで、こちらのステージに寄せるようにして記述しています。ここと次のステージは私にとってはちょっと忍耐のいるものでした。何故ならば、溝口で一連の流れを経験しているただ一人の人間で繰り返しだったからです。
  1. いよいよ二子のスタートとなります。課長が三代目のKさんからWさんに代わりました。Wさんは10年ほど前から知っている景観条令を制定した方でした。

    •  この段階では毎月会合を開始しはじめましたが、内容的な記憶はあまりありません。
    • はじめて景観条令とそれを行うことに触れる人がほとんどでしたから、当初は案の説明と質疑応答を繰り返していたのだと思います。
    • その後、突っ走ってしまった溝口での地固めをさらに精緻にしようと言うことで、ある所有面積以下の緩和条件なども検討し、狭い土地所有者が比較的多い二子地区への配慮をすることにしました。狭い土地でも形状は様々で、奥長の土地であれば景観条令への影響は少ない、などがあり影響は単に土地が広い狭いだけではなく様々です。緩和規定を設けても、形状によっては景観条令に賛同いただける方はいると考えています。
    • 歩行者空間の幅1.5mなども妥当性を再確認しました。

  2. 溝口の条令は「である調」でしたが、意見が出て役所での確認後「です、ます調」に変更しました(ステージ3-3?)。

  3. 広告物の制限についても「既存広告物への条件緩和」を検討しました(ステージ3-3?)。

  4. この段階で静かにしている人Cさんが居ました。自分近くのある建物の建築で普通の人ならつけないようなクレームをつけ、私の知り合いを困らせた事もあるようです。こんなことで、本音はこうだろうとも私は考えていました。ある会合の後「個人的に聞きたいことがある」と言ってきましたので「いつでもどうぞ、結構細かい点までホームページに記述してあるので見てから来て欲しい」と言いながら「ただし、反対のために来るのでなければ」と付け加えました。この人は結局来ませんでした。地域では「私に断られたとか言って」その後の会合も出なくなり、商店街の役員も断ってきてやめた、と言うことでした。理路整然と話すことも出来ないような人であることは知っていましたので「本音が出た」と思いながら、その後気にはしませんでした。

  5.  とこんな記憶程度しか残っていないのです。

 ステージ3-3

 このステージは実施に向けた、住民の合意を取り付けることを主体とする段階だったと言えるでしょう。

     記憶しているのは、こんなことです。

  1. 反対する人の反対のポイントはただ一つ「セットバック部分」でした。他はほとんどの人には何の影響もありませんし、関心もなかったはずです。Aさんと近場のCさんです。わかっていましたので、私や行政数人で2回ほど会合を持ち、同道巡り討論をしています。録音したいというので「どうぞ」と言ってやりましたが、こちらが「写真を撮りたい」と言ったら困ると帰ってきたでしょう。国会議員ではありませんから、こんな事は何の圧力にもならないのですが、彼女にはそう思えないのでしょう。「全体には賛成なのい委員に入れてくれない」と言う声が聞こえはじめました。必死に入る理由を考えてきたのでしょう。私は無視したかったのですが、行政としては委員に迎えないのはまずい、と言う意見でしたので「ここまで賛同者の意思が固まった段階では入れてもよいだろう」という判断をしました。

  2. 入ってくると、早速該当個所への反対をはじめました。そこで、条項の位置変更(緩和が全体になり緩やかになる場所)などに移動しながら、賛成委員の力を得ながら押し切りをはじめました。こんなことを数回繰り返したでしょう。

  3. こんなこともありました。ある市議会議員下の党の地域情報誌があります。そこに、私の名前入りで「こんな事をしている人間が居る」と記事が掲載されたのです。一つは「見せてくれ」というと持ってきてくれましたが、二つめは持ってきてくれませんでした。編集者も知っている人です。誰が持ち込んだのかも内容から推察できます。市議会議員も知っています。「内陸に住む人(圧倒的に多い街道に面しない人)は喜んでいる」と無視してしまいましたが何も起こりませんでした。
     これにはこんなことがあります。何かの会合や懇親会で、その市議会議員には会います。他の市議会議員と一緒にたむろしています。私が近づきますと、その議員はこそこそと他に行ってしまうのです。後ろめたいのでしょう。ある党派の議員に「地域のためにこんなことをやっているので何かの機会に宣伝などバックアップを頼む」と何回か言ったことはるのですが、何もありませんでした。反対者も居る中で選挙での票が減るとでも思っているのか、議員ながら全然関心がないのかはわかりません。今までも市議会議員には多く接しており、能力や行動には多々疑問を持っている人も多いのですが、こんな事は一層疑問を深めることになりました。県会議員も同様です。

  4. 住民への説明会は2実施した記憶があります。二度ともA,Cさんは出てきました。委員会の中で決まったことまで、蒸し返しています。委員長の立場から、少しは我慢していますと、ある夫の代行で出てきたと言う老人の女性が「私の土地は狭いがよいことであるから条令には協力する」と強い口調で発言してくれました。そこで決をとりましたところ、A,Cさん渋々いやいやながら低い位置で手を挙げて、賛同を表明しました。ところが、その会合で先に進み何かありますと、決を取った事を無視してまた蒸し返しをはじめます。ここまでくればと思い「一旦決を取ったものを蒸し返すことは許さない」と私が一喝して終えることになりました。

  5. 溝口を含むここまでの流れで、強い賛成意見を言ってくれた人は「唯二人」でした。はっきり賛成を言えないという日本人の特性というものは、本当にこんな事に対しては期間や時間がかかる結果を招きます。Silent Majorityは言うときはもっと言ってくれなければ困ります。一委員ならば強く言えるのだが、と思ったことは限りなく多くありました。

  6. 3.11の東日本大震災で九州の電力会社が原発への賛同を関連企業や下請けに促して問題になったことがあります。こんなものも、Silent Majority問題だと思います。原発賛成者と反対者はある割合では居ます。決して前者と後者が1:10ではないでしょう。ところが会合には反対者が多く出てきます。賛成者が出てきても黙っています。報道も「Silent Majority問題もある」とは決して言わず、反対が多いとも思えるような報道をして国民を欺いているように思えます。かなり多くがそれに騙されます。ある種の組織はそれを利用して、味方を増やそうとします。

  7.  と言うことで活動内容的には溝口と同じということでした。こんなことで足掛け7年を経過することになりました。