大山街道景観形成協議会
大山街道景観形成協議会(以下「大景協」として示す)発足(2005.2)から溝口への条令告示(2006.2)まで

発足(2005.2)

条令文面の審議
(2005.3〜2005.6)

地区別実施の決断と溝口地区先行
(2005.7)

実施(2006.2)
  1. 発足会合は、街道の主要者達には委員をお願いし、委員の公募も行っておりました。発足会合は少々何かあったかも知れませんが、ほとんど何事もなく終えたような記憶があります。何人かの委員が自発的に加わってきました。

  2. 発足会合では「直ちに条令文面の審議に入る、多くの行政事のように1ヶ月間隔での会議はチンタラするし前の事を忘れて後戻りするので隔週でやる」を宣言し、3月の終わりから審議に入りました。役所の課長さんもSさんからKさんに代わりました。

  3. ここからもめ出すのですが、自発的に参加してきた委員は反対委員で条令化を阻止する意図を持った人々でした。数回会合を実施しても、最初に条令文の最初にある建物のセットバック(正確には1階だけの壁面後退)にこだわり、先には進みません。
    賛否の状況を反対者から問われた、二子の商店会会長であるMKさんが「二子は反対者が多い」と発言してしまったのです。「反対者もいるが賛成者も多い」と言うのが実際のところですから、そう発言して欲しかったのですが、こう発言されては先に進めません。そこで、溝口と二子を分け、溝口先行で条令化を進めることを即決宣言しました。
     何故、これが出来たかと言えば、溝口では支援者の振興会の役員などは皆既に同じ認識になっていてやりやすい(商店街の中で話し合っていた)、二子の場合には地域でのそのような話しが今までなく、これから雰囲気作りをしなければならない、溝口と二子では環境もこれら背景が異なる、などがあったからです。

  4. この間1回か2回、反対者と接してみると行政から言われ、考えることもなくお願いしたところ「夜遅くまで繰り返し同じ事を言われ進捗はなかった、大変だった」と報告を受け「申し訳ないことをした、今後は必ずそのようなときは我々も一緒にやる」と言うことにしました。

  5. 他の地区も加えたらと言う話も一瞬ありましたが、それでは時間が延々とかかり実行困難になる、私達も大変である、商店街が仲良い溝口と二子の範囲でやる、他の地区はその地区でリーダーが出てきてから着手すればよい、ということでお断りしました。

  6. 二子を切り離してからは、溝口の審議は進み、8月には住民説明会、9月には実施という予定をたてました。今、考えるとこんなことに「大山協の景観部会発足から1年、大山街道景観形成協議会発足から半年程」ですから、行政のかかわり事としては随分と早い(拙速ではありません)計画をたてたものです。

  7. 8月の溝口の住民説明会を進めていた7月終わりに「溝口からも反対が出た、乱暴で過激な話しぶりだった、知らないはずの内容まで知っていた」と言うことがありました。8月の住民説明会にはこの人が出てきて、まあ常識のない発言をしていました。下記の反対者のBさんでした。

  8. そこで、条令化がここまで進んでいれば、焦って告示することもない。告示予定ということで建築者にお願いすれば同じ事と言うことで、告示は2006年1月、実施は2月としました。規約も改定して「趣旨に賛同できる人だけを委員とする」ことにしました。丁度、小泉内閣の参議院選圧勝の時期でした。

    • B(一部は親と)さんとの話し合い・・・Bさんは反対運動を盛り上げようと地区内を歩き回ったようですが誰も相手にはしなかったようです。
      ・しかし、それも困るので地区の人がこのまま進めることは出来ないだろうとこちらに配慮して私抜きの会合1回、
      ・それでは決着せず今度は私入りで会合1回で再度会合は持たないことを宣言(この時は親が出てきてBさんは納得はしていないが黙っただけ)、
      ・さらに、私を含み地域の推進者とBさん親子と1回
      会合を実施しましたが整合は期待できない「努力はしたという実績づくりの会合」であって馬鹿馬鹿しいものでした。
    • Bさんには「ある宣言」をして形だけの決着をつけてしまいました。

    •  その後は、
    • 役所と委員会の役割分担のさらなる明確化(民側の要求もあった)
    • それらを含む、印刷物の原稿の仕上げと印刷
    • 告示準備
    •  などを進め2006.2の実施となりました。条令の配付は、役所も同席しましたが、民での配付としました。
      これで大山街道活性化推進協議会準備から5年、発足から3年経過しました。

  9. 私的なことですが、疑いから約8ヶ月ほど経過観察していたのですがPSAの値も徐々に高くなり2006.5月に精密検査を受けることになりました。通して約100回程の会合で、この時1回だけは精密検査で欠席してしまいました。精密検査の結果は黒でしたが、景観条令がここまで来た今この時期に長期不在も出来ないので、先生には当面暫定策としてのホルモン治療をお願いし、転移防止だけ計っていただくことにしました。
    さらに、10月には手術、2週間足らずで退院、その後失禁が続いていましたが、机上作業ではあまり問題はないものの、条令の配付時の2月は何回も失禁パッドを交換しながらの配付でした。前立腺癌の進行は遅い、などの情報は得ていましたから、不思議と消沈はしませんでしたし、手術して退院後は直ちに仕事に復帰しました。


反対者
 こんなこともチラリと話しておいた方が良いかと思います。当初の二子地区の反対者の中には「私は教授だ!福祉系をやっている」と名刺を差し出した同世代の女性Aさんが居ました。名刺で圧力がかかると思ったのかも知れませんが、私は知り合い教授など結構居ますし、日本の教授は所詮同じレベルと思っていますので何も感じませんし、こんな事をされると逆に人格を疑います。
 Aさんの地区は後回しにして、切り離してしまったのですが、溝口の住民説明会前に突然言語や態度的に乱暴な反対者がBさん出てきました。役所が対応に苦労したようです。最初はわからなかったのですが、少しして老人福祉を仕事にしている近場の知り合いの人であることがわかりました。住民説明会でも乱暴な口をきいていましたが、会議後に役所の人が、氏名を尋ねますと「俺の親父は元町会長の××だ」なんて言ってました。この親父さんは、当初のセットバック依頼で陳情書などにも記名押印した人なんですが、高齢だからそれも忘れてしまっているのかも知れません。
 これからは、推測なのですが「福祉のネットワークを利用しての共同反対」だったようです。Bさんの親は大地主の一人でしたし、地域重鎮の一人でもありました。福祉の人が反対?と言うことは理解できませんでしたが、Aさんはどうも弱者を利用する何でも反対の某党員らしく、習慣が抜けなかったようにも思えます。何故ならば、数年後の二子の実施後「愛想良く挨拶するようになった」と推進者の一人であるHKさんが喜んでいるからです。Bさんにはこんなことがありました。私は町会事にも少々係わっているのですが(と言ってもほとんど出られない)「町会の総会に是非出てきて欲しい、前回はBさんに噛みつかれて大変だった」と言うのです。Bさんの態度は相変わらずのようです。