水銀灯の形状や業者決定
- 防犯灯の老朽化から、
- 1998年役員で建てかえようという気運になり、市へ補助金の申請など方法の調査を開始した。落下事故なども発生していた。
- 翌年の1999年に補助金を申請した。
- 同時に形状などは、船頭ばかりになるのはいやだから、「感性の高い婦人部に決めてもらった方がよいだろう」と言うことから婦人部中心で形状や業者決定をすることになった。とは言え予算面もあるから、一部の役員もこれに加わっていた。
- この時期、一見商店街が有する防犯灯に見えても、6水銀灯会がブロック別に存在し管理していたのだが、横の交流やとりまとめなどは何もない状態だった。商店街の役員が重なってそれらにはかかわっているので、商店街で水銀灯会をとりまとめて推進することになった。もっとも、市は水銀灯会などは認知していないから、商店街が形式的にでも動かざるを得なかったのである。
お金の集金方法も額も地区別に異なっていた。ある地区は十分な建て替え予算を持っていたし、ない地区は特別徴収しなければならない状況だった。商店街からもお金の補填を決定した。
結果的には、水銀灯会はおんぶにだっこで商店街に更改をしてもらったことになる。
- 婦人部では、
- クラシックな感じのもの、街道が狭いから1灯式のもの、清掃で手間がかかるのは嫌だから下は抜けているものにしよう、を中心にして大きさなどを検討し現状のものになっている。
- この途中で、神奈川県(川崎市?)に指導者が居るからというので、来てもらった。ぞろぞろと沢山の役人とコンサルタント(10人も居ただろうか)が来て、後日図面入りの提案書が届いた。
- しかし、この提案書は完全に無視されることになった。当方の予算も考えず、街道をまたぐアーチ式にしよう、2灯式などなど環境との整合、予算との整合など何もなかったからである。今でも「あんな多人数で来てビックリした、何の意味もなかった、税金の無駄遣い」と笑い話になっている。
- こんなことで、いくつかの業者に声をかけたところ、業者が提案を持ってきた。中には婦人部のイメージに合わせて試作を持ってきた業者もいた。
- 業者は婦人部を中心とする関係者の多数決で決定しようとしていた。ところがある地区から多数決時だけ多くの人が集まり施工業者が決定された。これはある地区の幼稚な行動で不愉快な出来事だった。今の形状は試作を持ってきた業者の形状をいただいて、多数決で決まった別の業者が製造・設置したものである。
二子大通り商和会は2年後に更改をしたのだが、それ以前から二子大通り商和会とは交流会などを持っており、こちらからお願いした訳ではなく、二子大通り商和会側から「同じ街道で隣同士だから、同じようなものがよいね」とあっさり合わせていたけただのである。