参加活動記  (NGOスタディーツアー参加体験)

  ミャンマーでのボランティア医療活動に参加して

                        菊池 恭子

                                     (神奈川県横須賀市在住、61歳、元看護婦)

            第1回  旅への準備からヤンゴンでの病院見学まで  

投稿者より

昨年初、横浜YMCA主催のミャンマーでのボランティア医療活動の旅に参加する機会を得た。60歳となり退職をし看護界から手を引こうと考えていた時、このボランティア医療活動の話を聞いた。看護の仕事をして過ごした最後の思い出に、ぜひ参加し

てみたいと考えるようになった。

 

事前研修会で得た知識から『貧困』(*注)とは自分がかつて子供の頃の体験をイメージしていた。しかし、ミャンマーで実際に見たものは、豊かな自然、子供の笑顔、親子の絆、生真面目な人々や、人々の心の豊かさである。

 

教育や医療の進歩の違いで、紙・鉛筆・クレヨンがない、マラリヤの治療薬がない、高熱で伏した時、褥創(床ずれ)を作らない方法を知らない、夜盲症や脚気にならない方法を知らないだけだという印象を受けた。戦後、日本経済が高度成長を遂げ、50年かけて得たものも大きいが、失ったものの大きさもこの旅が教えてくれた。

 

広大な土地を持つ国ミャンマーの旅で私が見たものは、動物の象にたとえれば、鼻のごく一部分であろうから、その一部分を見て象の姿は語れないかもしれないが、この旅で得た若干の知見を書き留めておきたいと考えた。

 

(*注)『貧困』

私の考える貧困とは、金銭に乏しく物資が買えず、いつも空腹で、笑顔が少なく、心も貧しいことをいう。

私は5歳の時に父が戦死したが、その知らせが届いたのは9歳の時で、4年も過ぎていた。戦後の混乱であたりまえの日本の事情であったのかもしれない。残された母と姉妹の5人家族は、いつも空腹で飢えていた。笑顔が少なく、心も貧しかった気がする。これは私達だけでなく、周囲にもたくさん空腹で飢えていた子供達がいたし、戦争で夫や父を亡くした日本の多くの母子が同じ体験をしていた。両親を亡くした戦争孤児はもっと貧しかったはずである。このような貧しさを私は貧困と考えていた。

 

≪自己紹介≫

1939年横須賀生まれ。5歳の時父親戦死。小学1年の時、終戦を迎える。中学卒業後、家計を支えるため某会社に就職。2年後進学のため退職。1956年から准看護学院で勉学。1958年から61年まで横須賀共済病院で准看護婦として勤務する傍ら定時制高校で勉学。1961年から63年まで休職して看護学校で勉学。卒業後、9年間看護婦として勤務。1972年から99年4月定年退職するまで、27年間、横須賀市医師会看護専門学校で看護教員として勤務。

 

 

               1、旅への準備

            事前研修会は以下の通り4回行われた。

 

●第1回目(1998年11月15日)

 

 YMCAとミャンマー連邦の紹介あり。

 ミャンマーは日本の約1.8倍の広さを持ち、主要民族は、ビルマ族69%、カレン族7%、シャン族9%ほか。ミャンマーでは全人口の80%以上が農村地帯に住み、就業人口の60%以上が農業に従事している。古来、インド文化の影響を強く受け、国民の大多数は仏教徒で、キリスト教徒は5%である。ミャンマーの人たちは温厚で、日本人に相通ずる人情を持っている。

 医療活動援助は衛生状態が悪いから保健衛生教育も含めて行う。水がない。冷蔵庫がない。トイレの未整備など、現地の生活状況を聞く。世界の衛生統計を参考に勉強会を行う。ミャンマーの平均寿命は59歳乳児死亡率(人口1,000人に対する比率)は日本が4.3に対し85と非常に高い。成人識字率は89%(1995年)。統計指標を対比してみると、日本国を40年遡った衛生状況であると感じた。わが国は、戦後、経済成長とともに、上下水道の完備食品の管理衛生思想の普及などが乳児死亡率を下げ、平均寿命を高めたことを確認した。

 参加者の顔合わせがコミュニケーションを深める。

 

●第2回目(1998年11月27日)

 

 19時より、医療援助関係者のみ横須賀YMCAに集合。前回の参加者Tさんから医療活動状況の報告を受け、今回の活動計画を話しあう。隊長の広瀬誠医師は、「これまでの6年間は、集まってくるミャンマーの人々への医療に専念してきたが、今回は、ゆとりを持って、友好を深め、イエジンYMCA診療所で働くマリーナさんの後ろ姿から学び、集まってくる人々の生活を見つめて欲しい・・・」と話をされる。

 腰痛体操指導は、関本冨美子さん、大野葉子さんが担当。看護学生は手洗い指導ポスターを作成するなど仕事の分担を決める。

 人々の生活を見つめなければ問題が見えてこないと感じた

 

●第3回目(1998年11月29日)

 

 現地でいろんな参加プログラムが用意されており、その希望がとられた。子供との交流、学校訪問、家庭訪問、民家に泊まる、安全な水の確保のための調査、農業プロジェクト見学、病院見学、ディケアセンター(保育園)見学など、私は活発に名乗り出る。

 

●第4回目(1998年12月13日)

 

 現地に持参する医薬品、歯ブラシ、文房具、お土産用サンダル等が配られた。この頃は勤務が多忙で、事前学習をする余裕がなく、看護教育カリキュラム改正のための準備に追われている日々を過ごしていた。

 

      2.タイ経由でミャンマーへ

 12月25日、19時25分成田発の飛行機でバンコクへ。深夜0時40分バンコクのドンムアン空港に到着。空港に近いアジアインターナショナルホテルのベットに横になれた時は、深夜3時を過ぎていた。

朝6時には、ミャンマーに飛び立つためにホテルを出発した。8時40分発の飛行機でミャンマーの首都・ヤンゴンに向かった。どこでも飛行場は町の郊外にあるとはいえ、ヤンゴンの飛行場のまわりに大きな建物は見当たらない。入国・税関手続きを終え、乗ったバスは日本製の大型中古バスであった。町の中でも札幌中央交通、神奈川中央交通など日本製の大型中古バスが化粧直しもせずに走っている。自家用車も日本製の中古車が目立つ。この日はヤンゴン市内見学である。気温は高いが湿度がなく、サラッとしていて暑さを感じない。

      3.ヤンゴン市内の「さくら病院」見学

 ヤンゴン市内にある『さくら病院』は元ホテルを改築して建てられた。玄関を入ると中央に薬局が広くあり、周囲は机や椅子が並び待ち合い所となっている。上を見上げると吹き抜けの2階の回り廊下になる手すりは洋風で、イギリス植民地時代の文化を取り入れた元ホテルの面影を残し、モダンだ。医師からミャンマーの医療(*注)や、さくら病院の経営などの説明を受け、病院内を案内してもらう。

 病床は160床あり、全て個室である。専属医師は20人いる。入院患者数は1日平均60人、外来患者数は1日平均200人。分娩件数は月平均15人である。医師の中には日本で勉強した人もおり、病院名から感じられるように日本人に好意的である。さくら病院は独自の経営が困難なので、日本大使館の支援を受け、東芝がスポンサーとなっている。医療機器はエコーもあるし、CTもあるが、検査室には近代的機器は見当たらない。

 治療費は100%自費。海外旅行者は大使館から送られてくる。例えば、日本人が腹痛のため受信すると、ジェネラルDr(大学卒業)の医師に診てもらうと1回10ドル、スペシャルDr(大学院卒業)ならば、診療費はもっと高くなる。診てもらう医師によって料金が違う。ミャンマー人の場合は少し料金が安くなる。

 案内された病室は8畳ほどの広さをもつ個室で、暗い。3人の家族が付き添っている。ナースコールがない。病院食もない。1階薬局の隣の8畳ほどの広さの部屋で自炊ができるようになっている。食事制限があるときには、その必要性の説明はするが、病院食を出していないため、視覚、味覚の指導はできない。

 ナースは8時間勤務。夜勤は1週間に1回。ナース室はない。エレベーター前のスペースに机と椅子を置いてナースステーションとしているようだ。ナースキャップは布地でなくプラスチックである。横に一本の色線がある。紺はチーフ、緑は婦長、赤は助産婦ピンクは見習いである。 

 さくら病院は、近代的医療機器のエコーやCTはあるが、入院設備については自炊をすることなど、私の子供の頃の日本の医療(*注)と同じであるとの感じを受けた。

 

       4.ヤンゴンでのシュエダゴンパゴダ見学

 修理中で全容は見られなかったが、竹材の足場、竹材のシートが異国情緒を感じさせ、貴重な風情をみることができた。

 ここで行き交う人々は信仰が厚く、時間を気にせず祈りをささげている。また驚くのは観音像や仏像の前で横になって昼寝をしている姿である。1人や2人の話しではない。広い寺院、観音像や仏像の置かれた部屋の数は多いのであるが、あちこちの部屋で昼寝姿を見かけた。聖書の一節『なんじ労する者、重荷を負う者、われに来たれ、われ、なんじらを休ません』を思わせるが、ここは仏教の寺院なのだ。

 夕日に輝くパゴダも美しいが、夕闇にライトアップされたパゴダもまた美しい。新しく建設されたパゴダを見学する。大木を思わせる柱に続く天井壁画は、これまたエデンの園を思わせるが、やはり、ここは仏教の寺院なのだ。随分長時間パゴダにいたが、広大なパゴダの敷地全域を満足行くまで回る事は困難だ。

 夕食は、海鮮シャブシャブで舌づつみ。遅れて12月26日に日本を発ったグループと合流する。これで参加者32名全員が集まったことになる。

 この日はヤンゴン市内のホテルに泊まる。6階建ての近代的なホテルだ。湯はぬるかったが、これがこの旅で湯を使えた最後の夜であった。

                        (続く)

 

        

  

スタディーツアー概要

日程:1998年12月25日

   〜1999年1月2日

        (計9日間)

 主に、ミャンマー中部マンダレー管区イエジンの診療所でのボランティア医療活動

 

 

  投稿者による注釈

 

ミャンマーの医療事情

 

ヤンゴン市内の病院数は、10ヶ所以下。診療所はたくさんある。

ミャンマー政府が建てた病院は、設備が整っているのでたくさんの患者が集まる。公立病院は貧しい人たちが利用していたが、現在は有料なので利用者は少ない。

 

民間病院は、日本の企業の寄付でまかなっているが、患者にも治療費を請求している。入院は貧富で差がつく。金持ちは個室、貧乏人は大部屋である。医科大学はヤンゴン市内に3ヶ所(軍医の養成学校1ヶ所を含む)、マンダレーに1ヶ所ある。

 

医療関係の学校は人口1万人に1校の割合である。大学は1校で、訓練期間がかなりあり、短期コースである。大学卒業資格が取れる。助産婦は6ヶ月で養成。診療所ではこの人たちがナースの役割をしている。

 

出産費用は100ドル以上であるが、収入の程度で、費用の額も多少前後する。都市では病院で分娩する人が多いが、地方ではほとんど自宅分娩である。診察票と分娩票は分かれている。政府レベルでは、家族計画指導、コンドーム支給などが行われている。

 

私が小学生低学年の頃

 

私が小学生低学年の頃、通学路に避病院(ひびょういん)と呼ばれる伝染病収容施設があり、そこの副院長の娘や職員の子供が同級生にいた。誘われて遊びにいくと、その病院の敷地内に大きなザクロの木があり、赤い大きな実がたくさん実っていて、いつも空腹だった私には美味しそうにみえて、ここに住む同級生を羨ましいと思った。家に帰ってその話をすると、母はひどく私を叱り、「もう2度とあそこにはいってはいけない」と約束させられた。私は子供で、伝染病の怖さを知らなかったのだ。

 

この頃の日本の医療は、入院は布団持参、食事も完全給食ではなかった。今車の通る道には牛車が通っていた時代だが、一般の家には牛はいないから、病人がでると布団とともにリヤカーで運ぶ。毎日のようにリヤカーで患者が運ばれていく。時々リヤカーで薪と死者が火葬場に運ばれていくのを通学路で見かけて過ごした。

 

1945年終戦後、GHQの介入で、日本の看護は進歩を遂げるが、GHQの査察があると、事前に自炊道具を片付け、付添い人たちを一室に閉じ込めて、査察時にはGHQの指導を守っているように印象づけた経緯がある。

 

GHQの指導があって付き添い人をはずしたことは、『親を思う気持ち』『家族愛』などを薄くしていったのではないか。徐々に失われつつある肉親の愛、これらはGHQがもたらした短所のようにも思えた。