第2次世界大戦後のフランスによるラオス再植民地化の後、1949年7月19日、締結された「フランスーラオス協定」で、フランス連合内でのラオス王国の独立が承認された。しかしこの「独立」をめぐって、これまで反仏・完全独立を掲げて活動展開してきたラーオ・イッサラ(自由ラオ)運動は、スパヌヴォンらの急進派とプーマらの穏健妥協派に分裂した。ラオ・イッサラ勢力の軍事基盤の弱さを痛感していたスファヌヴォンは、次第に次第にヴェトミンよりの姿勢を強めていく。
途中、2度にわたる連合政府(1957年及び1962年)が成立したものの、共に1年も持たない短命内閣となり、右派・中立派・左派の3派による対立・内戦が再発・継続する。
こうしたラオス内戦も、北ベトナム軍の支援を受けた左派・パテトラオが解放区を広げていき、1969年頃には軍事的に優位に立つようになり、70年代から終結に向かいつつあった。
ヴェトナム和平のためのパリ会談が進行し、ラオスの両派も1972年10月から和平交渉が始まった。
■1972年10月
ヴィエンチャンにて王国政府と愛国戦線の間で第1回目の和平会談が開催。年末まで会談を重ねていき、両者間の合意がまとまった。
■1973年2月21日
1973年1月にヴェトナム和平協定がパリで調印。これを受け、ラオス和平協定(「ラオスにおける平和回復及び民族和解に関する協定」)が、ヴィエンチャンにて2月21日調印された。この協定で、ラオス全土にわたる現状位置での停戦(翌2月22日正午より発効)が決められた。ひきつづいて、この協定を具体的に実施する議定書の交渉が行われた。
■1973年9月
ラオス和平協定(「ラオスにおける平和回復及び民族和解に関する協定」)付属議定書調印。付属議定書に基づき、中央合同委員会発足
■1973年12月〜1974年3月
中央合同委員会会議が数次に渡り開催され、ヴィエンチャン・ルアンパバーンの中立化を保障する合同防衛軍・合同警察に関する合意書が調印された。この合同防衛軍・合同警察は、左派・右派両派が同数の人員を供出して構成するものであったが、左派・愛国戦線側が質的に右派王国軍を圧倒していた。
■1974年4月
臨時3派連合政府(第3次連合政府)及び政治諮問評議会が樹立された。首相は、スヴァナ・プーマー、政治諮問評議会議長には、スパヌヴォンが就任した。
■1974年末から1975年前半
ラオス各地で右派・王国政府派の軍人・官吏の追放を求める住民デモ発生
1975年5月には、王族・高級軍人・議員とその家族、がいこくじんなど多数がタイ側に
避難・脱出。連合政府の右派閣僚5人が学生グループなどの圧力で辞任
■1975年5月〜6月
反米デモ隊が、アメリカの国際開発局と広報文化局を占拠し、アメリカは両機関を閉鎖
■1975年8月
各地の地方行政機関で右派高級官吏が左派グループにより打倒され、革命行政委員会が代わりに設置される。8月18日にルアンパバーン、8月23日にはヴィエンチャンでも革命行政委員会に改組された。
■1975年11月25日
ヴィエンチャンにて臨時連合政府と政治諮問評議会との特別合同会議開催。同会議にて、両組織の解体及び新政府組織と新国民議会組織の設置が決定される。
■1975年12月1日・2日
全国人民代表大会開催。臨時連合政府(プーマ首相)、政治諮問評議会(スファヌヴォン議長)の解体、サワン・ワッタナー王の退位、王制の廃止とラオス人民主共和国の樹立による共和制への移行が全会一致で採択された。
■1975年12月2日 ラオス人民民主共和国樹立
12月2日、ラオス人民民主共和国が樹立され、憲法制定を任務とする最高人民議会(議長はスパヌウォン)と、中央行政機関たる閣僚評議会(議長はカイソン)が設置された。大統領(元首)には、スパヌウォンが、新政府の首相には、ラオス人民革命党のカイソーン=プムウィハーン書記長が就任した。尚、退位したサワン・ワッタナー前王は、大統領顧問に、前プーマ首相は新政府顧問とされ、無血革命が達成された。
新大統領(元首):スパヌウォン
新首相 :カイソーン=プムウィハーン
副首相 :ヌーハック=プンサワン
プーミー=ウォンウィチット
(主たる参考資料:『東南アジア現代史』山川出版社、1977年)