現代政治 - カンボジア

                      

            総選挙から新政府樹立までの歩み

                  (1998年7月26日〜1998年11月30日)

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1993年総選挙

1989年7月に始まったカンボジア和平パリ国際会議は、途中中断後、1991年10月に再開され、同年10月23日、カンボジアを含む19カ国の代表により、パリ協定が調印された。

新憲法公布までの期間は、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による国連の平和維持活動が行われた。

ポルポト派の妨害もあったが、1993年5月23日〜28日、ほぼカンボジア全土で、たいした混乱も無く、総選挙が実施された。総議席120のうち、フンシンペック党が58議席、人民党が51議席、その他の政党が残り11議席を獲得。制憲議会が設立され、新憲法が採択された。

1993年9月24日、新カンボジア王国憲法が公布されると同時に、シハヌークの国王最即位及び、連立内閣による新政府誕生(第1党のフンシンペック党党首ノロドム・ラナリットを第1首相に、第2党の人民党党首フンセンを第2首相とする)

 

1998年7月26日    

122議席を争う総選挙5年ぶりにカンボジア全土で行われた。心配された大きな混乱は見られず、投票自体はスムーズに行われた。

 

1998年8月5日  

 

全国選挙管理員会は、総選挙結果の中間発表を行った。人民党だけで全議席122の2/3以上を単独獲得できず、連立が必要となった。一旦は、挙党一致内閣構想も明らかにしていたフンセン氏の人民党であるが、サムリャンシー党を排除してフンシンペック党とだけの連立する工作を進める。この場合、ラナリット氏の処遇が連立成否の大きなポイントであった。

 

19998年9月1日 

 

選挙管理委員会が正式に総選挙結果を発表490万の投票中、フンセン氏率いる人民党203万票(得票率約41%) ラナリット氏率いるフンシンペック党155万票(得票率約32%)サムリャンシー党70万票(得票率14%) 残りの票は36の他の政党が得票したが、議席獲得には至らず。議席は、総数122のうち、人民党が64議席を獲得した。 しかしフンシンペック党・サムリャンシー党とも総選挙の集計作業に不正があったとして、総選挙結果を認めず。8月24日より続いていた反政府抗議活動の首謀者サムリャンシー氏への逮捕命令が出されるなど一旦は、緊張が高まった。

 

1998年9月16日

 

ラナリット前第1首相が、シエムリアプでシアヌーク国王と会談。フンシンペック党が、9月24に開催される新国会に参加することを約した。

 

1998年9月22日

 

シエムリアプで、シアヌーク国王の仲介で、3党首会談が実現。新政府の枠組みについては、この会談では合意に至らなかったが、9月24日に開催される新国会には3党とも参加することが確認された。

 

1998年9月24日

 

シエムリアプにて総選挙後、初めて新国会が開催された。しかし当日ホテルからシアヌーク国王官邸に向かう途中のフンセン氏をロケット弾で狙う暗殺未遂事件が起こり、波乱の幕開けとなった。結果、三党会議は決裂。2党首は九月末より国外で活動し、国外での政治交渉を要求する。

 

1998年11月13日

 

シアヌーク国王は、人民党とフンシンペック党との連立合意により、今回の重大な政治危機は既に解決したと声明発表した。これは、国王がカンボジアを離れ、北京に療養に行く前日の13日までに与野党が政治討議をするなら、王宮を会談場所として提供すると提案。最初は国内での政治討議は身の安全が保障されず対等な討議ができないとしていたラナリット氏が、12日、9月末以来の帰国をし、国王、フンセン氏と新政府樹立に関する討議で合意に至った。この結果、新政府の首相は、人民党党首のフンセン氏が単独で就任し、ラナリット氏は、国会議長になることになった。焦点の前国会議長のチアシム氏については、新設の参議院議長の席を用意。

 

1998年11月30日 

 

フンセン氏を首相とする新政府が樹立。蔵相、工業相、商業相、農相、労相、外相など主要ポストは人民党が獲得。観光相、情報相、保険相、教育相などがフンシンペック党に割り当てられた

 

1998年12月7日

 

第53回国連総会が開かれ、カンボジアでの国連総会での議席回復が承認される。(97年9月に国連での議席が認められていなかった)