ファン・ディン・フン(潘廷逢) 1847年〜1895年
ハムギ帝の勤皇運動に共鳴してゲアンを中心に反仏抵抗闘争を展開した、フランス植民地時代初期の反仏運動の指導者。
1847年、ベトナム中部ハティン省ドンタイ村で生まれた。
29歳の時に、科挙の進士の試験に合格。翌年、フエの全国試験で哲学博士の資格を得る。
1883年7月、阮王朝第4代皇帝・嗣徳(トゥドゥック)帝が死去した際、後継者をめぐってフエ政府は一時混乱。実権を握っていた反仏強硬派の2人の摂政、グエン・ヴァン・トゥオン(阮文祥)とトン・タト・テュエット(尊室説)が新帝を廃して殺した時に、宮廷で勤務していたファン・ディン・フンは、廃立に反対したため、捕縛され監獄に繋がれたあと生地に追い返される。しかし翌年、罪を取り消され、ハティン省の地方行政官として任命される。
1885年7月、フエ政府の実力者であった2人の摂政に率いられた反仏強硬派が、軍事クーデターを企図し、フエ市内の香江南岸に駐屯していたフランス軍や大使館を襲撃した。しかしこの襲撃の失敗。襲撃開始の翌朝には、トン・タト・テュエットは、ハムギ王とその一族、更に5,000人の兵と共に宮廷を脱出。フランス軍はフエを制圧した。
ハムギ帝は、北にあるキムロン(金龍)村まで逃げ、そこで「勤皇の檄」を発した。これをきっかけに、国家危急存亡の事態に全国の王制を支持する者たちは、この檄に奮い立ち、反仏抵抗運動に結集した。
ハムギ帝がフエを脱出して山中にこもり、クァンビン(広平)に到着したとき、ファン・ディン・フンは、国王に会いに行った。トン・タト・テュエットの彼への高い評価により、ハムギ帝は、ファン・ディン・フンを軍事司令官に任命。
ファン・ディン・フンは、現在のゲティン省省都ヴィンの南方の山地の要衝で南北縦断鉄道が通っているフォンケに根拠地を築き、ハティン、クァンビン、ゲアン、タインホアの4省でゲリラ活動を展開した。ファン・ディン・フンの決起で勤皇運動は一挙に拡大。優秀な若き軍事指導者・高勝(カオ・タン)の活躍もあり、ゲリラ活動勢力は力をつけていきフランス軍を大いに悩ました。しかし1893年11月、省都ヴィンへのゲリラ側からの大攻撃作戦の際、カオ・タンが罠にはまり死亡すると、中部の抵抗運動は次第に力を失っていった。
1895年7月、フランスはファン・ディン・フンの根拠地の総攻撃に踏み切り、抵抗勢力側も踏ん張るも次第に追い詰められ、同年11月11日、ファン・ディン・フン
は、ジャングルの中で病死した(享年49)
(主たる参考資料:『物語 ヴェトナムの歴史』(小倉貞男 著 中公新書)