浪 速 人 物 往 来〈28〉
倉橋 健一
質屋の丁稚が見た戦時大阪――桝谷優
今号は少々趣向をかえて、一般には地味であるが、なかなかユニークな気骨のある浪速物をかいた、枡谷優ますたにまさるの小説世界を紹介しておきたい。たまたま少年時代、義務教育を了えると、北大阪淀川べりにあったとある質屋に丁稚奉公して、戦争の深まりのなかで軍需工場へ徴用、満十七歳九カ月で兵隊に行くまでの、昭和十五年からの約五年を主題にした結果、言わず語らずのうちにバックボーンとしての大阪が浮かびあがったという、なによりも浪速をうがってかいていないことに惹かれたからである。
かんたんに作者を紹介しておこう。大正十四年の生まれであるから今年七十八歳。戦後復員して十年ほどは故郷の吉野で山仕事に従事、以後、商社勤務のあと貿易業をいとなみ、現在にいたる。自営業に転じたあたりから小説をかきはじめ、第一回小島輝正文学賞を受賞した。私が今テキストにしているのは、昨年夏刊行の三篇の連作を収めた作品集『北大阪線』であるが、その前にもう一冊短編集『馬』がある。こちらもペーソスに満ちた好短編集。
と、こんなわけだが、なんといっても興味深いのは、地の文自体のもつ語り口の洒脱さにある。
「二月は質屋の端境期はざかいきである。人も物も動かない。財布も固くなっている。夜八時には人通りも途絶え、北風に煽られて路地を走る古新聞の乾いた音がする」とあって、そこへ常客のズケラこと瑞慶覧さんが入ってくる。「『おこしやす』ひょっとしゃっくりを繰り返した。相当呑んでる」
この路地を走る古新聞の乾いた音につづいて、入り口の戸車があき、「おこしやす」と大阪訛りがかぶるところに、昭和十五年当時の下町の冬景色と、こんな日に質屋にたよらざるをえない庶民の暮らしぶりがひとつになる。そのすこしあとで、今度は六月のシーンがあって、「宵八時でもまだ電柱が長い影をひいている。淀川の堤の散歩から帰る人たちが、子供の手を引いたり、犬を曳いてぼくの店の前を通る」とあるから、店は堤防下の通り途にあるにちがいない。
昭和十六年に入ると、物価統制令や総動員令が施行されて、質草のほうもスフの混じった服や交織の銘仙が多くなり、質値も安くなったが、逆に絹や純毛品は高くなった。そこに、ぎょっとしたくなる挿話がはさまれる。「この頃はスプリング刀と言われる新刀がよく質に入る。軍刀は十円均一である。流れると聖天通りの骨董屋『天龍子』が十五円で引き取る。『名刀なんかいりまへん。刃がついとればよろしい。人間が斬れたら』」
ここで、なぜという背後関係が語られないところが、かえって時代のぶ気味さを感じさせる。それを聞いて、〈ぼく〉は「ぞくっと背筋が寒くなり、尻こぺたが粟立っ」たとあるが、事実そうだったろう。谷町あたりには内緒で軍隊のものを売っている店もあったらしいともいう。このあと、対米英戦争に突入して、週に二回、青年学校に強制入学させられて、皇国史観や軍事訓練を受けるようになると、この天龍子がいつのまにか剣道の教官になっていて、〈ぼく〉をびっくりさせる。主人に話すと、「うまくもぐりこんだな、徴用のがれか、校長に軍刀でも贈ったかな」と、裏取引があることをほのめかす。
さて、昭和十七年秋も終わりの頃、〈ぼく〉は質流れ通知を配る途中、十三大橋にさしかかったところで、異様な光景に出会う。大橋の上から釣り糸を垂れていた人たちが三、四十人も、トラックの荷台にのせられて、憲兵に連行されているのである。時局をわきまえない罰として、砲兵工廠で作業させられると噂では聞いていたが、現実にみたものは、犯罪者をあつかうように手荒く、犬捕りのような険悪な空気であった。
風景という点では、中津で砲塔のない戦車の行進に遭ったというのも、戦時ならではの風景といっていいだろう。キャタピラが轟音を響かせ、天六のほうの造兵廠へ、軍需工場から納められるものであった。同じ日、帰りにまた中津の陸橋で、軍属に引率され、梅田貨物操車場へ行く、アメリカ人の捕虜の行列にも出会った。途中、公用腕章をした軍曹が通りかかると、突然六尺棒をもった軍属が、「歩調とれっ! 頭かしら左っ!」と号令をかけ、捕虜たちが部隊の敬礼をするのに〈ぼく〉はびっくりしている。この他、土手につくってある誰かの南瓜を盗んだとして、白い朝鮮服を来て座りこんでいる女の人を取りかこんだ、近所の長屋の人らしい男たちや、灯火管制を布かれた大阪駅前広場での、軍用列車に乗った兵士を見送る風景など、とぼけたようすながら哀切に描かれている。先にのべたとおり十八歳に満たずに兵隊になったのだから、この少年の眼差しに徹し切ろうとしたからであろう。つぎは入営を目前にした別れの風景である。
「煤煙と油と馬糞で汚れている町並み、トラックが巻き上げる砂塵がうず高くつもっている窓枠、馬蹄の音、エンジンとダイナモのうなり、マシン油やペイントの臭い、北大阪線に沿った工場、延原製作所、日本ペイント、神戸電気、日本メリヤス、凸版のコンクリート塀、毛馬の閘門(こうもん)から淀川と平行に分流する運河にポンポン蒸気が団平船を曳航し、河底の藻が生き物のように揺れ、染工場では運河で洗った染物を幟のようにはためかせ、侘しい夜、停留場でシュッパタンとステップの音をたて、やがてウィーンウィーンとダイナモの電力を上げて行く路面電車。淀川をわたる機関車のするどい警笛、鉄橋をわたる轟音、北大阪線界隈、ぼくは再びここに立ち帰ることはあるまい」
ますたに・まさる
1925年奈良県生まれ。45年復員後、吉野で山仕事に従事。船場の商社勤務を経て、65年より貿易業を営み現在に至る。「北大阪線」で第1回小島輝正文学賞受賞。天王寺区に在住。