じぇい・こうやま

1959年大阪府生まれ。シンガー。1990年、ニューヨークアポロシアターのアマチュアナイトで東洋人初のグランプリを獲得。1995年に本格派ゴスペルクワイアJAYE'S MASS CHOIRを結成。日本語でのオリジナルナンバーを中心に、ゴスペルの本質を踏まえつつ、日本国内での新たなるゴスペルシーンを刻んでいる。代表理事を務めるNPO法人ジェイズ・マス・クワイアは福祉施設等でのライブなどの活動を行なっている。著書に「唄おう!感じよう!THEGOSPEL」(シンコーミュージック)共著に「ゴスペルってなんだ―心のバリアフリー」(いのちのことば社)がある。

 

ニューヨークの教会で、俺の中に「イエスがいる」と言われて歌えなくなってしまった

 

「たくさんの人と一緒にゴスペルを歌ってる時が一番楽しい」というJAYE公山さん。しかし二八歳の時、ゴスペルを歌えなくなった。

 

――ボイストレーニングのためニューヨークに行ったんですよ。ブロードウェイの元ミュージカルスターで「オズの魔法使い」のお婆さん役をやっていたワニタ・フレミングスっていうクリスチャンの方に教えてもらったんです。

今はゴスペルの聞ける教会はたくさん観光コースになっているけど、その当時はあんまりなくて「実はゴスペルが好きなんです。どこかないですか?」って聞いたら、君好みのすごい所があると、ブルックリン・テンプルって教会を紹介してもらった。行ってみたらめちゃくちゃこわいとこで、人相の悪い黒人が何十人もたき火にあたってて、すごいやばそうな所だったんですよ。駅からの一〇分は長かったよー。

教会は五〇〇人ぐらいは楽に入る大きな礼拝堂。地元の人でいっぱいで真ん中に俺たちメンバーの席を空けててくれたんよ。みんなその席に座らせてもらって、しばらくすると礼拝が始まった。賛美の言葉に、ドラムが鳴って楽器がついてきて、自然にクワイア(コーラス)が前に出て来て歌い出して、半狂乱やね。ものすごい衝撃やったよ。

 

「ゴスペル」とは、「God loved so」ではじまる聖書の一節の頭文字から来た言葉。「God's spell」つまり神の言葉であると言われている。三〇〇年前、奴隷としての苦役を背負ったアフリカからの移住者、黒人の歴史の中で生まれたニグロ・スピリチュアル(黒人霊歌)がルーツであり、神を賛美するための言葉または神のメッセージを歌う。特に教会は、奴隷制度のなか教会で礼拝することだけが許されていた黒人たちのストレスを一気に発散させる場でもあった。

 

――だから日本人が持っている「解放」というものと違って激しいのよね。失神して担架で運び出されたり、ハンカチくわえて走り回ったり……。俺もかなりの興奮状態で、これやー、レコードで聴いていた熱狂ゴスペルやーって感じで……ついにめぐり合えたっていう興奮やねぇ。

そうすると牧師さんの前に連れて行かれてね、牧師さんが俺の頭に手を置いて「Jesus is here!(イエスがここにいる)」って言われたんよ。その一言で興奮していたはずの俺は一気に「え?」って目覚めて、「イエス? 居てないで自分の中には」って素面にもどってしまったんよ。その時周りを見ると信者さんたちがブゥワーって寄ってきてて、俺の着ているものに触りはじめてたんです。足の不自由な人や手のない人たちが│。「Touch theHem of His Garment(長血をわずらう女)」という曲がすぐ頭に浮かんでね。

 

それはJAYEさんがゴスペルをやるきっかけとなったサム・クックというシンガーの歌。長い間病に臥せっている女の人が、自分の町をイエスが通ると聞いた時、彼の衣に一指触れれば治るといううわさがあったので触りに行った。そうしたらすべてが癒されたという。

 

――皆その中にいる人たちはそんな話当たり前のように知っているから「Jesus is here!」と言われた俺にすがってきて、俺は動けない状態。そのあと席に戻って、頭抱え込んだね。信仰もない俺が大それた事言われて、おまけにメンバー達には「お前詐欺やで」と追い討ちかけられるし、何て申し訳ない事してきたんや――と。それからは歌うことがこわくなった。口から出てこなくなった

 

阪神大震災がきっかけでゴスペルを再スタート、ボランティア活動を始める

 

それから六年間は、ゴスペルを歌うことも聞くこともできなくなった。人は騙したらあかんな、という思いにさいなまれて。「神様ごめんなさい、でもいつかまた歌わせてください」とずっと思っていた。そして一九九五年。阪神大震災が、再び歌い始めるきっかけとなった。

 

――震災で被災した友人やライヴハウス、クラブも多かったしね。ひょっとして街角で神戸のためにボランティアで募金集めるという名目なら、神様は歌うことを許してくれるんじゃないかなと思って。それで梅田の高架下で一人で歌いだしたんです。これがゴスペルの再スタートとボランティア活動の最初です。それからすぐJAYE'S MASS CHOIR(JMC)を立ち上げ、今年で八年目になりました。

CHOIR「クワイア」とは教会の聖歌隊、一般的には合唱団を指し大所帯を特にMASS CHOIR「マスクワイア」という。)

 

JMCは、NPО団体の認可を申請。一番難しかったのが設立趣旨だ。「歌・音楽を通して障害・高齢者および児童に精神的情操面からの向上を図り、癒しを図っていく」。そんな趣旨を持ったグループは今までなかったので最初は「こんなのは難しい」と言われた。

認可までにたぶん二、三年かかるだろうと腹をくくっていたが、二〇〇一年一二月に認可を受け、法人格取得となる。

――そもそもNPОとは非営利団体やから、お金を稼いでもいいけれどその一〇〇のうちの九九は使いなさいよということになっている。それをつかう方法が問題で、いいところに使いなさいよ、収支はちゃんと報告しなさいよってことなんですよ。

だから本当にやりたい人しか残らなくなった。一番多いときは四五人いてたけど、今JMCのメンバーは八人やもんね。もうとにかく本気でこれをやりたいっていう者だけ。

周りの対応や反応も変わったね、今までは海のものとも山のものともしれない、単に歌好きで歌うたっているミュージシャン集めた連中がワーワーやってるだけだったのが、ちゃんとした団体になった。今までならどこの施設に行っても介護者とか窓口の担当と話してきたのが、いきなりトップの人が出てくるようになったり。

 

ここ最近特に小さなお子さんに町なかで気づかれるようになったと言う。土曜日の早朝放映中のポンキッキーズ(幼児向け番組)で歌い出したからだ。

JAYEさんの作る歌はほとんどが日本語?

 

――まだまだ日本人で英語の分かる人ってそんなにいないと思うし、英語がベラベラ出来る人でも聞いた時の伝わり方が全然違うじゃない。アメリカの借り物ではなくせっかくある自分たちの言葉、日本語でダイレクトに伝えよう。ものすごい照れくさい言葉もあるけどね。そうすると伝わるんですよ。

 

これを歌える自分なのか――自問自答、戒めながら曲をつくり詩をかく

 

JAYEさんは、一九九八年から毎年一回開かれる「なにわゴスペルフェスティバル」をプロデュースしている。関西で活動中のゴスペルシンガーが集結するゴスペルの一大イベント。障害や国籍、年齢や性別、立場や肩書きなどを超え、歌い手と聞き手の間にある垣根も取り払おうというバリアフリーなステージが展開される。

五回目となる今年は、去る八月二日なんばハッチにて開催された。

そのプレライブの日のこと。開場の時間、入り口の受付横で少し白髪交じりの初老の男性と、ころころと太った小学生の男の子が声を上げて抱擁し始めた。久しぶりの再会の様子で名前を呼んで頬をすり寄せたり頭をなでたり。どうやらおじいさんとお孫さんらしい。ここ最近見ない濃厚なスキンシップ。

これがJAYEさんのお父様と息子さんだったとライブのあとに知って驚く。どんなに温かく、どんなに大切にされ、大切に育てているのか? どんな家族なのか?

 

――そうやったん? そんなん見てたの? 俺は正直、家族と話すことなんかなかった。家庭をかえりみないし、すごい事やってきたわ。家出して放浪して、子供が生まれても可愛いと思えなかった。

でもこの ”なにゴス“ というイベントをきっかけに自分は変えられたんやと思う。

子供は親を見るよね。うちの夫婦もけんかばっかりしていた時、子供は情緒不安定で小さい時は親を慕わなかった。俺らが会話をしだし、家にも帰るようになってからえらいもんで子供が変わってきたんや。

え? 子供ってこんなに親に影響されるんか? じゃあ逆にどう行動するべきなんやろって。こんなことしてていいのかって。自分が作る歌も一緒。自分で作った曲・詩をはたして歌っていいのか?ものすごい苦しみと葛藤の中悩んだりする。「家族の愛」なんかは特にみんなに伝えようというよりむしろ、自分を戒めるためのチャレンジの歌。本当にこの歌を歌える自分なのか――と常に自問自答ですわ! ホント最近です。家族と仲良くなったのは。

 

JAYEさんをはじめとするJMCの歌を聴いて今まで動かなかった体が動いた、話せた、笑えたそんな子供たちがいっぱいいる。

 

――医学ではどうしようもない病気や障害をかかえた人たちの奇跡を目の当たりに見ただけで、自分がこの場にいてよかったと思う。何かしてあげよう、とかではなく自分がうれしい事楽しい事をしたい。

何のためにゴスペルを歌っているのかって聞かれたら最終的には自分のため。これが究極の答えやね。