走り高跳びで世界に挑戦する

先生ジャンパー 青山 幸

 

▲ 陸上部員と。バーの高さは、青山先生がクリアした1.90メートル。

 

大阪の中学で体育教師をしながら、世界陸上選手権(八月パリ)、更には来年アテネで開かれるオリンピック出場をめざしている女子走り高跳びの選手がいるときいて七月一五日、吹田一中を訪ねた。

青山幸がその人。吹田一中陸上部の顧問でもある。グランドでは、夏休み前の短縮授業を終えた生徒たちが熱心にクラブ活動に励んでいる。野球部、サッカー部、テニス部にメインを取られた陸上部が片隅で練習している。その中に、真っ黒に日焼けした身長一七二センチの青山先生がいた。

 

日本陸上選手権(六月六.八日・横浜)で参加標準A(一・九五メートル)をクリアし世界選手権への切符を手にするのが今期最大の目標だった。ライバル今井美希(ミズノ)が一・九二(参加標準B)で優勝、代表に決まったが、青山は一・八九メートルの記録で二位に終わり、代表選考からもれていた。

 

――日本選手権は残念でしたね。

 

調子は悪くなかったのですが、体力的に疲れていたのか、緊張感がなくて朝から試合という感じがなく、気持ちの上で自分に対する追い込みが足りなかった。

「折角のチャンスやったのに、何であそこで跳べなかったのか」と、終わった週には落ち込んでしまい「あれが今のベストの状態なんや」と、引退も考えました。

教師の仕事も忙しくて、練習もできず一週間ぐらいへこんでいたのですが、生徒の試合の応援をしている時に「跳びたい」と思いました。

 

――そしてまた跳び始めた。

 

次の週の大阪選手権でピットに立ちました。一・九〇はだめでしたが一・八五を跳び、大阪代表として五大都市大会(七月一五日・京都)に出場しました。前日、生徒の試合を応援し、京都に入ったのは夜一〇時半、翌朝五時半に起き試合に臨みました。しかし腰痛があり、アップしていても身体が重く動かない。今日は記録無しに終わるかも知れないと思っていたが、跳んで行くうちに調子がよくなり、雨が激しくなってきたのも気にならず、踏み切りも安定してきました。一・九〇の時にすごいやる気が出てきて二回バーを落としても落ち着いていて、三回目試技の前、アドバイスもいただいて絶対跳べると。そして、跳ぶことができたんです。雨の中の悪コンディションでも跳べたことがすごくうれしかった。

今年二回目の一・九〇でしたが、今回は試したことが上手く行って、すごく浮いて余力を残して跳べた。自分でもすごいなと思いました。

 

五大都市大会は、今年で幕を閉じる最後の大会だったが、青山は昨年自らが出していた大会記録を塗り替えて、大会新で優勝、名前を残した。

 

――次への自信になった。

 

技術的な改良を試したことが成功し、あの跳びを南部記念大会(七月二六日・札幌)でも出せば、一・九五は行けるのではと思っています。

最後まであきらめないで狙っていきます。

南部の前日まで中学陸上の大阪大会があり生徒の試合の応援。全部終わってから夜、飛行機で札幌へ。次の日、早ければ一〇時に試合開始。一日も休んでない状態なので肉体的疲労は仕方ないが、気持ちだけは落とさないで試合に臨みたいと思います。

 

――教師をしながらの選手活動は大変ですね。

 

教師はやりたかった仕事だし、走り高跳びもやっていたい。だから今の生活は充実しています。

でも、教師の仕事がこれほど大変だとは思ってなかったです。授業はともかくとして、それ以外の雑用、学校運営に関わる部分が多くて。部活の顧問の仕事もある。講師時代には分からなかったですね。忙しすぎて、倒れている先生が三人(一中で)。過労死もあるなあって思う。

生徒が「先生、いつ練習してるの?」って聞くくらい練習する時間がない。腰痛になったのも練習不足が原因。今まで自分でやってきたことを少ない時間の中で最低限押さえて試合に出ている状態です。それでもそれなりの結果が出せてるのは、指導者になった以上は、結果を出してこそ生徒に信頼してもらえる、との思いがあるからでしょうね。

生徒たちには「一生懸命やればチャンと結果が出る。中途半端にするな」といってます。そして、陸上部の生徒たちは練習でやった以上の結果を試合で出してくれているので、うれしい限りです。

 

――競技はいつ頃から。

 

中学から始めました。背が高かったので何となく跳べたんです。中学では日本一、高校・大学では二位がベスト。理論も含めて一生懸命にやりだしたのは大学二年からです。甲南大時代は、野中悟先生(走り高跳びの元日本代表・鳥羽高教師)に理論を教わりました。

大学では教職課程を取っていなかったんですが、教師になりたくて中京女子大学院に進学し、阪本孝男先生(元オリンピック選手・陸連走り高跳びの強化コーチ)に指導してもらいました。教職課程をとりながらだったので教科数がとても多く、忙しい中での練習でした。この後の講師も含めた三年間はあまり記録も伸びず、下積みの時代。今になって調整の仕方や精神面の調整もやっとわかるようになってきました。

 

――体育教師のやりがいは?

 

今春、念願の体育教師になれました。一・二年女子の体育を受け持つと同時に、陸上部顧問として四五人の部員の指導にあたっています。

保健体育、苦手な子がすごく多いんです。実際には、運動する機会が少ないから筋力がついていないだけなのに。そうじゃないと言ってあげることで、本人たちがやっていけば身体は成長するし、驚くほど運動能力が高まる。動きがよくなると楽しくなる。そんなところにやりがいを感じています。

生徒たちには、学習ノートを書かせているんです。点検するのはとても大変ですが、生徒たちの考えがよく分かります。苦手な子が楽しくなってくれたらうれしい。生活するのが大変な時代、体育を通じて最終的には、自分の身体を管理できる子になってほしいですから。

先生をしながら、陸上の現役を続けるというのは、幸せな人生だと思っています。

 

――コーチはいないんですか?

 

野中先生に時々チェックしてもらっていますが、コーチはいません。自分が指導者になった以上は、自分が人に付きっきりで見てもらうというのはできないですね。自分でやってきたことを少ない時間の中で確認して試合に出ています。

 

――陸上競技は年齢によるピークがある?

 

あるとは思いますが、個人差があるし、競技にもよるのでは。走り高跳びはメンタルな要素の強い競技だし、技術的な改良を重ねて行って、年齢的なことは克服できると思っています。

(「ハンマー投げの室伏選手も三〇歳近いのにどんどん記録を伸ばしている。まだまだこれからですよね」と口をはさむと)

室伏さんはプロ。すべてを競技に打ち込んで行ける環境にある。プロスポーツ選手はほかの仕事はしていないから、私とは条件が全く違う。仕事をしながら現役を続けていくというのはそうやさしいことではないと思います。

実は、私の中では競技生活は来年のオリンピック(出場の可否は別にして)で終わりと思っていたんです。でも今回オリンピック出場がだめでも、あきらめたらあかんと思うようになってきています。時間がかかるかもしれないけどやったことは必ず実を結ぶ。次の四年後の北京オリンピックを目標にすればいい。それが実現しなくてもそこから学ぶものは大きいので、続けられる限りやってみようと思ってます。走り高跳びの大好きな一教師として。

 

《後記》 

七月二六日、世界陸上大会への切符を手にする最後の機会である南部忠平記念大会が行なわれた。青山は女子走り高跳びで優勝したが、記録は一・八六に終わり、世界大会への出場は果たせなかった。

負けず嫌いでガンバリ屋の青山は、参加標準Aクリアに向かってあきらめることなく挑戦を続けるに違いない。教師にも競技にも全力でぶつかる姿勢に心からのエールをおくる。

 

青山幸

あおやま・みゆき

大阪生まれ。26歳。女子走り高跳び選手。

大阪・吹田市立吹田第一中学で体育教師。