特集1

岸和田 だんじり祭り

全国に数あるだんじり祭りの中でも全国区として名を高めているのが岸和田。毎年数十万人の観光客が押しかける。一体どこにその魅力があるのか。岸和田だんじり祭りが始まって三百年目の今年は、例年以上に盛り上がっている。

そうしたなか、練習中の事故で死者を出し、尚且つ本番でも死者を出すという悲惨な事態も生まれている。事故死は不可避なのか、地元の人はだんじりとどう向き合っているのか、町中が祭りモード真っ只中にある岸和田を訪ねた。

 

三郷(さんご)の寄合で一気に祭りモード発進

九月一日午後七時、祭り本番の宮入とパレードの順番を決める三郷の寄合がだんじり会館で開かれた。三郷とは昔の浜方、町方、村方を指し、三百年の伝統が今に生きている。

岸和田地区二十一町の各「年番」と代表数人計百人を超える男たちが会場をぎっしりと埋める。祭りの最高責任者「年番長」が開会挨拶、会合はトントンと段取りよく進む。市長、警察署長、だんじり祭礼町会連合会長の挨拶が続き、いずれも「事故のない祭り」を強調する。

数日前、練習中の事故で一人の青年が亡くなっている。その「藤井町」の代表が前に並び神妙に詫びた。しかし、事故の状況説明はない。事故を防ぐための対策もこの場での議題にはならなかった。どこかで再発防止の方策は議論されるのであろうか。

会合はすぐさま抽選に入る。まずはパレードから。予備抽選で一番を引いた「中町」の本抽選に会場中が注目する。引いた番号は十六番、会場からどっと笑いが起こる。一番を引いたのは「春木南」、会場から「あー」の歓声ともつかぬため息。続いて宮入の抽選。四、五番手あたりがいい順番のようで、引くと大きな歓声が揚がる。四十年ぶりに参加する「別所町」は抽選はせず、しんがりを取った。

抽選が終わるともう閉会。開会から一時間も経っていない。皆足早に会場を後にした。

順番が決まれば、一気に祭りモード。鉦や太鼓を打ち鳴らすだんじり囃子が町のあちこちに響いている。

ところで三郷の寄合は女人禁制? 会場内は全て男、誰一人として女性がいない。取材に入った編集部のうち二人は女性。役員の視線が気になったが、入って良かったのだろうか。誰にも叱られはしなかったが。

 

三百年記念祭りを兼ねた試験曳き

祭りは九月一日の三郷の寄合に始まり八日・十三日と二回の試験曳き、十四日宵宮そして十五日本宮へと盛り上がっていく。八日の試験曳きは、例年の試験曳きとは違う三百年記念祭の位置づけが加わり、本番同様のだんじりパレードが行われる。今回、四十年ぶりにだんじりを復活させた「別所町」も含め、二十二台(本番は春木地区と合わせて三十四台)のだんじりが勢ぞろいするのも三百年記念祭ならではのことだ。市民にとっては、三度の飯より好きなだんじりが記念祭と本番と年に二回も楽しめる又とない機会、いやがうえにも加熱する岸和田魂。

八日、三百年記念祭に沸く岸和田の街を取材した。

午前十一時、南海岸和田駅前は、やりまわし(スピードを落とさず角をまがる)を一目観ようと溢れんばかりの人の波。駅前通り商店街を駅方向に駆け抜けてきただんじりが次々に駅前ロータリーでやりまわしをしながら通過していく。小学生以下の子どもから壮年まで百人から二百人の曳き手が揃いの法被に捩り鉢巻すがたで「ソーリャー、ソーリャー」と掛け声を一つにだんじりを曳く。スピードがあがる。だんじりの大屋根では大工方が両手にもった団扇で舞うように合図を送る。緊張が走る。四トンもの重量のだんじりがスピードを落とすことなく九十度向きを変える。観客から大きな歓声があがる。この瞬間こそ、岸和田だんじり祭りの醍醐味なのだろう。

 

祭りモードの街を歩く

何台かのだんじりを観たあと、街の探索に入る。駅前通り商店街で出番を待つ地元「宮本町」だんじりを近くで観察。大坂夏の陣の名場面を克明に彫りあげた見送彫刻がだんじりの周りを飾っている。一台を作るのに三、四年かかるのも納得の力作だ。

次に目指すは、だんじりグッズの専門店。もともとは人形店。数十万円のだんじりミニチュアからペナント、キーホルダーまでだんじりに関係するあらゆる商品が並んでいる。陳列してある太鼓を祭り囃子のリズムで叩いて遊ぶ子ども。店員が「それは商品。遊んではダメ」とたしなめる。子どもの気分もすっかり祭りモード。そんな店の軒先すれすれにだんじりが駆け抜けていく。

だんじりの後について紀州街道に出る。江戸の昔、紀州の殿様が参勤交代で通った街道は、今も古い家屋の町並みが残る歴史の街だ。途中二ヵ所、鉤型に道が曲がっている。そこがやりまわしの見せ場で、角家の軒先には赤い布がぶら下げられている。だんじりがぶつかって壊さないよ注意してほしいとの目印だ。横の電柱はクッションがわりの敷物を紅白の布でぐるぐる巻きにしてある。だんじりの曳き手が怪我をしないようにとの配慮だ。

岸城神社への宮入観覧に絶好の場所が市役所前のこなから坂。道の両側に、細かく切ったガムテープが点々と区画を作って地面に貼ってあり、マジックインキで名前が書いてある。場所取りなのだ。何日前から貼っているのだろうか。場所取りの争いがあるとは聞かないから、もしかしたら何年も前から場所が決まっているのかもしれない。

次に訪ねたのはだんじり祭り発祥の宮、三の丸神社。住宅街にひっそりと佇む。意外に質素な神社だ。由緒書きには、だんじり祭りの発祥を千七百四年と記述してある。エッ? これが真実なら、今年は二百九十九年目にあたるが…。

紀州街道に戻り、だんじり曳きを見ながら岸和田駅に向かう。時刻は午後四時すぎ。朝からだんじりを曳く人たちにも疲れの色が滲む。休憩で、道にへたり込んでいる姿も目立つ。時折、救急車のけたたましいサイレンが鳴り響く。怪我人が出ているのだろう。取材中にもだんじりを曳く途中で突然痙攣をおこし倒れ込む人、熱射病で倒れ意識不明になり救急車で運ばれる人を目撃した。

汗まみれになってぐったりしながらもポイントポイントでは全力で走り、声を張り上げる。まるで町全体が大きなグランドで、そこで一日中障害物競争をやっているような一年に一度の大運動会。そしてお正月。岸和田市のカレンダーは九月から始まり、翌年の九月で終わる。

 

死者三人、最悪の「三百年記念」

本番を数週間後に控えた八月、「藤井町」の練習中に一人の青年が死亡するという痛ましい事故が起きた。練習中の事故というのはあまり聞いたことがない。関係者に話を聞いた。

亡くなったのは二十三歳の青年団員。一人っ子だった。

「昔の練習はランニングだけだった。いつのころからか、やりまわしの練習になった。今回の事故は、十人くらいをだんじりに見立てて、その十人で綱を止めておいて、別の者七十人くらいで引っ張るという練習をしているときに起きた。最近ではどの町でもやっているらしい」。

「三人が鉄柱に激突、一人が即死、一人は頭蓋骨骨折で耳から出血する重傷、もう一人は軽傷だった。グランドでやっていれば危険もなかったのに、臨場感を出すために岸和田駅前でやっていた。練習には見物人もいた」。

保険は曳行時間内でないと適用にならない。一切支給されなかった。試験曳きも含めて公式の曳行には保険が掛けられている。万が一、事故で亡くなった人には保険金が支払われる。それに比べて、練習中の事故死は無惨としか言いようがない。ここ数年、練習の仕方も変化してきていた。フォークリフトや軽トラックをだんじりに見立て、曳くなどの練習もあった。危険は予測されたはずだ。危険な練習は止めさせるなどの万全の措置が何故講じられなかったのだろうか。

藤井町は事故後、練習に綱を持ち出すことを一切禁止した。他の町もそれぞれ対策をとったという。そのような統制を事故前からとらなかったのは残念だ。

葬式には、町会、青年団、若頭わかがしらが香典を集めて持っていったという。しかし親は納得しておらず、訴訟にも発展しかねない雰囲気だ。

「昔は事故があると、十年くらいは自粛するという雰囲気だった。九〇年代以降、規制緩和の中で商業主義に煽られ、人命軽視の雰囲気が大きくなった。人命軽視の傾向は歴然だ。だんじりが新調するたびに大きくなっているのも事故の一因ではないか」。

今年は三人の死者が出た。「藤井町」のほか、十三日の試験曳きで「下野町」のだんじりが横転、乗っていた四十七歳の男性が全身打撲で。更に十五日の本番中に一人、曳いている間に熱中病で死んだ。もともと心臓が弱かった。親も一緒に曳いていた。

体調の判断も、すべて個人任せでいいのだろうか。健康や安全の視点がもっと重視されてよい。

 

事故をなくしたい−マスコミを意識しすぎか、体力の使い過ぎか

最近は全国の十大祭りにも数えられ、テレビで映像が流されるようになっている。テレビはかっこよい場面を欲しがる。観客もやりまわしの派手なシーンを喜ぶ。そんなこともあって必要以上に見せ場を作ろうとして練習が加熱気味になり、やりまわしや曳き方にも無理が出ているのではないか。

一日の三郷の寄合でも「安全第一」が強調されていたにもかかわらず、死傷者を出してしまった。試験曳き二回、宵宮、本番と八日間の間に四回も運動会のような体力消耗の日を過ごす。その前の激しい練習もある。

疲労の蓄積も並大抵ではない。マスコミを意識して必要以上に派手に見せようとする気持ちや動きに知らず知らずのうちに無理が重なって、事故に繋がっているのではなかろうか。

この数年死者は出ていなかったのに、今年は三人の死者。しかし、数年間事故死の無かったことがむしろ偶然ではないのだろうか。三郷の寄合での事故に対する無策とも言える対応、危険な練習の中止や練習の保険適用や参加者の健康チェック、一日四十キロメートルは走ると言われる過重な運動等々すぐにでも改善できる課題だ。全国区に甘え、生命尊重・安全第一が疎んじられている。

地べたに座り込んだ疲れ切った表情でぐったりしている法被姿の子どもたち。本当に祭りを楽しんでいるのだろうかとの疑問が重く脳裏をよぎった。

もっと楽に、そして安全にまつり本来を楽しんでほしい。観光客のためでも、マスコミのためでもない、岸和田市民のための本来の祭りを続けてほしい。三百年の伝統を連綿と未来につないでいってほしい。他の町の住民は、町中の人が一つになって夢中になれるものを持っている岸和田人を羨ましく思っているに違いないのだから。

 

女性は裏方。だんじりは男の祭り?

 男の祭りというイメージが強いが、女の子も鉢巻き、法被姿でだんじりを曳いている。

 地元大北町に生まれ育ったY・Uさん(二十八歳)に話をきいてみた。

 「子どものときからとにかくだんじりが好きだった。ご飯時以外は綱放さへん、って感じ。本番では、法被に塩が吹くぐらい。普段なら走れないような距離でも、だんじり曳いていると不思議に走れる。掛け声掛け合っていたら、しんどくてもバテバテでも走り通してしまう。やっぱり岸和田魂なのかな」。

 女性がだんじりを曳くのは高校三年生まで。成長した女性や主婦は、祭りの裏方である。

 「おもに食事の用意ですね。どこの家でも遠くの親戚などがやって来るので接客が忙しい。ワタリガニなど豪華なものを用意します。また、町の婦人会に入っていると、だんじりが出ていくときにお神酒を配ったり、だんじりが出ていったあとの掃除をしたり、本番のお昼におにぎりを作ったりと大変なんです」。

 成人した女性が祭りに参加できるのは、子どもが三.四歳になったとき。後梃子うしろでこの後を子どもの手をつないで走る。でも法被は着れず、町名の入ったTシャツを支給される。

 Uさんも、高三になってだんじりを曳けなくなったときは、子どもを産んだらまた曳けるというのが励みになったという。現在は結婚して泉佐野に住んでいるが、子どもが四歳なので、祭りのたびに実家に帰って泊り込み、子どもと一緒に走っている。

 裏話も聞いてみた。青年団は上下関係がとてもはっきりしている。青年団は高一からだが、例えば高三になってから入ろうと思っても、ビール運びなど下っ端から始めなくてはならない。女の子の場合は、みなだんじりが大好きだから集まってきて一緒に走っているというだけ。

 「それでも小さいときから毎年来ている子たちにとったら、初めて見る顔は、あんたどこの子?っていう感じ。女の子のなかでも、後ろの方(青年団の前あたり)は曳きやすいので、毎年曳いてる子、年長の女の子が曳く場所と決まってる。そこに新入りが混ざってたら、あんたなんでここにいてるの(もっと前ちゃうん)という感じ」。

 全国的にも有名になり、見物人も多いことがさぞ誇らしいだろうと思ったら、「こんなに有名になったのはここ十年くらい。それまではもっと素朴な地の祭りだった。いまは見物客が多すぎて走れなくなり、迫力がなくなってつまらなくなった」。十月十二、十三日に行われる山手のだんじり祭りの方がよっぽど迫力があるそうだ。

 一方、怪我や死亡事故は減ったという。ここ七年くらい祭りで死者は出ていなかった。しかし今年は三人亡くなった。

 「午年は昔から暴れ馬といって何か事故があると言われています。今年もやっぱり暴れ馬やなあ、とみな言ってました」。

 

岸和田の祭りと暮らし−犯罪は、就職は、当日のゴミは?

 休日と重なった十四・十五日、六十一万人がだんじり祭りを堪能した。

 幼いころから毎年一度、町中あげてのお祭りモードを体験していたら凶悪犯なんて育たないのでは、ふとそんな考えが浮かび、岸和田市観光協会に聞いてみた。

 「凶悪犯罪がよその市に比べて少ないかどうかはわからないが、引ったくりは多い。ただ暴走行為をしていたりする子は祭りに参加できないので、祭り直前には悪いことを控える傾向はある」とのこと。

 昔はへんな茶髪にしているだけでもだんじりを曳かせてもらえなかった。祭りの運営には町会での縦のつながりが強い。また、家族で参加することが多いので、大人の力が大きい。ここでは「強いお父さん」が生きている。

 岸和田の人は就職先に市内を選ぶことが多い。

 「祭りの日が土日になるとは限りませんから、仕事を休んでも理解のある職場でないとつらい。市内やったらたいてい会社も休みです」。

 特に役にあたると、土日ごとに祭りがらみの用事がある。遠方にいては移動だけでも大変、近くで就職するにしくはない。日本人が盆と正月は休むものと思っているように、岸和田人は、休んで祭りに参加する。

 また、祭りを体感して驚いたことのひとつは、ゴミの多さ。観光客が捨てるものが圧倒的に多いが、だんじりの上でたばこを吸って、走り出す前にポイ捨ての光景も。おいおい、折角さっきまでエエカッコやったのに。そしてだんじりが小休止を取ったあと、周辺に残された空き缶やペットボトル。集めて回る人もいたが、祭り本番ではもう全然追いつく量ではない。

 「祭りのあと、町内は各町会が、駅前は商店街が、メインストリートなどは年番組織と市の観光課が掃除をした。今年は羽衣学園の高校生がボランティアで手伝ってくれた」。

 暑いなかを走り回るから水補給は必要だし、飲んだあとのゴミからは出来るだけ身軽になりたい、そのため後片付けをする人もいる。これは理解できる。せめて観光客は自分の飲んだ空き缶やびんを足元に放り出さないでもらいたい。屋台が立ち並ぶ場所には、もっとゴミ箱がほしい。祭りが大きくなればなるだけゴミも増えるのは仕方ないが、マナーの悪さまで比例しては祭りに対して失礼だ。