サ  ム

SOME評 論

斎藤 浩

★★★ 是非一度ふれてみて下さい。おすすめマーク。

★★  機会があればふれればいいように思います。

★   時間の無駄です。ふれるなマーク。

 

映画 舞台・ライブ 美術 文芸

 画

忘れやすい日本人がアフガンのことを現実に感性で覚え続けるために、優れた映画を観ることもその一つの有力な方法である

 

「カンダハール」

英語原題もKANDAHAR。イラン・フランス作品。アメリカの二〇〇一年のアフガン・アルカイダ・タリバン攻撃でわが国でも高名な土地となったカンダハールである。私はこの作品の筋もさることながら、アフガンの「自然」と「人」と「戦争被害」に息をのみ続けた。激しい衝撃を受けた。二〇〇〇年撮影の作品。圧倒的に迫力ある映像であった。「自然」は険しい山と砂漠である。アフガンを巡る多くのテレビ映像は本作品の自然描写の百分の一の実態も伝えていない。岩と砂の国である。「人」は女がかぶるブルカの意味(タリバンによる抑圧であるとともに民衆の感情にも根づき、女性自身の防衛手段ともなっている)と宗教の意味(イスラムの神学校は貧しさから逃れる唯一とも言える場所である)と人心の荒廃(部族対立、山賊、詐欺、援助物資の横流しなど)である。「戦争の被害」は地雷による義足の必要性と栄養失調、人心の荒廃の大半を帰結している。援助として投下される義足を求めて足を失っている民衆が松葉づえで疾走するシーンは人間の業の究極の悲劇を描く。アフガンの姉妹のうち妹が地雷で片足を失い祖国に残り、姉はアメリカ、カナダに渡りジャーナリストになった。姉のイメージは実在の人物。妹からの切迫した自殺予定を聞いた姉の妹探しの旅である。監督はイランの巨匠モフセン・マフマルバフ。俳優を使わずすべて現地のアフガン人(ブラックムスリムの元アメリカ人も含め)で成り立った作品である。この作品が描いた本当のアフガンを私たちはいつまでも心にとどめなければならない。 ★★★

「ムーラン・ルージュ」

原題もMOULIN ROUGE。一九〇〇年のパリ、ナイトクラブのムーラン・ルージュを舞台にした劇中劇。ムーランのトップスター、サティーン(ニコール・キッドマン妖艶に力演)は高級娼婦でもあり、本当の女優になるため脱出を計画していたが、モンマルトルに住む放浪の若い貧乏作家クリスチャン(ユアン・マクレガー)と恋に落ちる。クリスチャンがサティーンとムーランのために書く脚本の内容を巡り、ムーランへの財政援助と引き換えにサティーンを狙う公爵との攻防を織り交ぜ、クリスチャンを支援するボヘミヤンたち(自由な芸術家の意味、ロートレック、サティなどが登場する)を加えて「劇的」、華やかに描く。結核で死期の近いサティーンへのオマージュでもある。単純な筋を、音楽と歌、カンカン・レビューで飾り立てた良質でドタバタな娯楽ミュージカル作品である。ニコールとユアンの歌唱力はたいしたものだ。「ロミオ&ジュリエット」(九六年)のバズ・ラーマン監督。

★★

「スパイゲーム」

原題もSPYGAME。CIAの師弟エージェントの信頼関係を描くから、題材自体は誉められたものではないのだが、俳優のよさ(ロバート・レッドフォードとブラッド・ピット)、舞台展開のよさ(CIA本部の会議室での約二四時間を基本舞台として、蘇州、ベルリン、ベトナム、ベイルートを回想を含め時空を大きく超えて飛び廻る。それぞれの都市はロケで作ったようだが、きわめてよく出来ている)、ストーリーのよさ(アメリカという国家が駒のように人間を使い捨てることへの異議申立であり、国家と人間の関係を根本的に考えさせる)から、華麗な作品になっている。筑紫哲也とおすぎが、現実に九月に起きた同時多発テロの衝撃があまりにも大きかったので、映画の迫力が小さくなってしまったのに、この作品だけは、リアルな迫力を維持していると話していたが(一二月上旬の「ニュース23」)、まことにその通りで、中でも圧巻はベイルートにおける内戦の凄まじさ、難民キャンプ、自爆テロなどの光景である。レッドフォードは「モンタナの風に抱かれて」(本誌四四号で絶賛)以来、ピットは「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(同四二号で絶賛)以来であるが、私の好きな役者同士の師弟愛である。トム・ビショップ(ピット)がベイルート時代、ネイサン・ミュアー(レッドフォード)に贈った携帯用ウイスキー筒に「ディナー・アウト」という名が付いており、これをミュアーはトム救出の作戦名に使う。ピットは瀕死の拷問を中国官憲から受けながらも、救出ヘリの中で作戦名を聞き、誰が国家を敵に廻し、全財産を費やしてまでも自分を救出してくれたのかを察知し嗚咽する。人間性を失ったのではとの師への反発は一瞬にして吹き飛ぶのである。観るものもそこで突然目に変化を生じ画面が曇る。監督は「エネミー・オブ・アメリカ」(同四五号で絶賛)のトニー・スコット監督。組み合わせも好い。

★★★

「バニラ・スカイ」

原題もVANILLA SKY。マンハッタンに住む金持ちでプレイボーイ、出版界の若きヒーロー、デヴィッド(トム・クルーズ)が、親友リーのガールフレンドソフィア(ペネロペ・クルス)と恋に落ちる。しかし元の恋人ジュリー(キャメロン・ディアス)が彼を道連れに自殺を図り、その自動車事故で醜く顔が潰れたデヴィッドの生活は非現実的な様相を呈し始める。早朝だろうか、人影の全くないタイムズスクエアをデヴィッドが歩くシーンは、幻想だが息を飲む。豪華さを極めたデビッドの部屋、美術品、車、ファッションには目を奪われる。セックスシーンも過激である。過去にあった現実か、想像の世界か判然としないままに、デヴィッドは元の自分を取り戻す究極の手段を選択する。少しビールを飲んでから観に行ったのでウトウトとしてしまってその分理解不足になったのと、シャンとしているときにも難しく、仮に二度観ても私にはよくわからないだろうと思える。感動を呼ぶ旅への招待とキャメロン・クロウ監督は言うけれども、どうかな。少なくとも感動はしないのではないか。映像は美しいが。

★★

「ハリー・ポッターと賢者の石」

原題はHarry Potter ANDTHE PHILOSOPHER'S STONE。イギリスのJ・K・ローリングの原作とともに大ヒットしているアメリカ作品。キャスティングはイギリス人。監督はクリス・コロンバス。子供向けの大作でアニメ以外では「ネバーエンディングストーリー」(八五年の本誌二号で絶賛した)以来のことではないか。遺伝的に魔法使い一族の末裔のハリーの、人間社会での虐げられた環境、魔法の世界でのエリートとしての能力開拓、父母の死の犯人探しの旅である。CGI・SFXの技術はますます磨きがかかっている。時代設定は一九世紀と現代との行き来である。人間界と魔法界の接点の工夫や、イギリスの食・衣装を含む風俗、自然が丁寧に入れ込まれて、重厚な作品に仕上がっている。ジョン・ウィリアムズの音楽も基本フレーズをくり返し使いながら、非常に多様で豪華である。主題は、少年少女に夢を捨てるな、理想を描けとのアピールであろうか。ただ、魔法界エリートのハリーの夢、理想が、観客の少年少女のそれに重なり合い、心が共振するかについては疑問が残る。続編が成功するかどうかはそのあたりの描き方にも左右されよう。

★★

「バンディッツ」

原題もBANDITS。オレゴン州立刑務所からの脱獄囚二人の銀行強盗ツアーである。一人がブルース・ウイリス、もう一人がビリー・ボブ・ソーントンにより演じられる。銀行の支店長の家に前の日に押し入り、泊まり、いっしょに早朝に出勤して、あらゆるシステムと暗証番号を突破し、誰をも傷つけずに大金を盗む。その行動は、テレビで報じられ人気者となり、押し入られた支店長の家族達はむしろ面白がって歓迎する。ひょんなことから仲間に入る結婚生活に退屈しきった若い女ケイトをケイト・ブランシェットが演ずる。徹底した喜劇タッチで、ケイトが二人の男を同時に愛し、ベッドを共にするから、男達はやはり面白くない。その点で唯一の不安材料を抱えながら、ロスでの大仕事に挑む。警察の必死の防御で二人は生死をさ迷いながら、葛藤しながらもう一度成功させる。そして一夫多妻の逆の一婦多夫の生活に移っていく。オレゴンとカリフォルニアとは南北の隣同士だが、さすがに大きな国であり、えんえんと旅は続いた。バリー・レビンソン監督。

★★

「オーシャンズ11」

原題もOCEAN`S ELEVEN。オーシャンとその盗賊仲間(コンピューター、爆破、曲芸、スリなど各専門技術を持つスペシャリスト集団)による、世界で最も厳重な「要塞」の一つであるラスベガスの地下金庫からの一億六千万ドルの盗出作戦である。オーシャンにはジョージ・クルーニー、その右腕にはブラッド・ピット。スリの天才のマット・デイモンなどを揃える。狙われるラスの新帝王にアンディ・ガルシア、その情婦でオーシャンの離婚寸前の妻にジュリア・ロバーツという豪華な顔触れ。ラスベガスの虚飾の豪華さを基礎に、これまで色んな映画が考案した「技術」などもオマージュ的に取り入れて、退屈させない筋の展開となっている。音楽も映像も迫力がある。会話のユーモアセンスも抜群である。監督は「トラフィック」で絶賛(本誌四八号)したスティーブン・ソダーバーグ。

★★

舞台・ライブ

綾戸、こまつ座、三谷は私の定番だが、やはり心が騒ぐ

 

綾戸智絵「LIVE 2001.いつも心はJAZZ」

(Bunkamura オーチャードホール)

迫力と熱意を込めたコンサートだった。曲の合間に大阪弁を駆使して彼女が話したことは、音楽と自分の関係、どれほど音楽が素晴らしいものであるかである。過去にも増して情熱的に。曲で気付いた点は、どの曲もフレーズが何番まであっても、二番までで押さえて、なるべく多くの曲を楽しまそうとの配慮である。新しいCDは、「原信夫とシャープス&フラッツ」との共演の「LIVE! U」というものだが、この収録曲も歌いながら、二時間をきっちり歌い上げた。オルガン、ピアノ、ハーモニカ、ギターは日本人の、ドラムスとベースはニューヨークから呼んでいた。好感の持てる熱い二時間だった。

★★★

こまつ座「連鎖街のひとびと」(新宿・紀伊国屋ホール)

日本敗戦直後の大連、目抜き通り連鎖街での喜劇である。満州国が一瞬にして消えて(皇帝以外に国民はいなかったということをこの芝居で初めて知った)、ソ連が占領した暗い境遇での、言葉遊びを駆使した喜劇。大連だけでも難民を含めて二六万人の日本人がいたのであり、私の貧しい歴史認識では、これらの人々が塗炭の苦しみに喘いだと思っていた。何となくシベリヤ抑留の様な印象があった。もちろん軍国政府と関東軍のしり馬に乗って進出していた人々であるから(私の母方の祖父も満鉄に勤務していた)、ソ連占領下で苦労はしたけれど、昭和二四年には引揚げが終了したのであり、もう少し本格的にこのあたりの歴史を勉強したいと思わせる作品であった。そこには日本人の経営者、文化人が多くおり、中国人、ロシア人と社会を形成していたのであり、その風俗の一部を巧みに切り取って井上ひさしが作品とした。隅々まで時代を研究し尽くした、井上独特の考証作品である。若い音楽家と著名な歌姫との恋を、周辺の作家や中国人がもり立てようとして起こる、対ソ連的、男女の機微的ドタバタである。辻萬長、牙勝己、藤木孝、松熊信義、石田圭祐という芸達者と順みつきを配しているが、とりわけ石田の演技は本作品にピタリとはまる熱演であった。よく笑った。自分の笑い声が劇場中に響いたのには驚いた。鵜山仁演出。

★★★

パルコ・プロデュース「彦馬がゆく」(テアトル・銀座)

こまつ座と並び、わが国で最も活きとノリのいい三谷幸喜作・演出の芝居である。この作品は、坂本竜馬、近藤勇、高杉晋作の写真を同じ写真師が撮っていたという史実を元に(三谷はそういっているが、解説パンフではその写真師と弟子とで坂本らを撮ったという)、三谷が創作した奇抜な喜劇である。写真史も克明に織り込みつつ史実を元に構想を膨らませる手法は井上ひさしの「紙屋町さくらホテル」(本誌四八号で絶賛)と同趣旨である。舞台は浅草、時代は文久元年(一八六一年)から慶応四年=明治元年(一八六八年)。この写真館は五人の家族(彦馬のほか、妻、長男、次男、長女)と長男の許婚とで営まれている。そこに上記の三人のほか、桂小五郎、西郷吉之助、伊藤俊輔が訪れ、彦馬(小日向文世好演)に「これまで人生で一番楽しかったときのことを思い出して下さい」と言われて、必死に表情を止める。最初の桂を写したころは四〇秒だが、段々と七年のうちに技術が改良されたらしく、近藤の最期の写真は確か一五秒にまで縮まっていた。三谷はいくつものテーマをこの喜劇に混在させ演劇という布を織っている。明治維新を成し遂げた者も、幕府に殉じた者も、同じ人間として見れば、美点もあれば弱点もあることを鋭く描きつつ笑わせるのである。高杉(本間憲一)は鼻持ちならぬエリート意識のカタマリで武士階級を誇り農民出身を侮る、農民の伊藤(大倉孝二)はその逆でコンプレックスのカタマリ、近藤(阿南健治)は武骨の中に優しさを帯有し、坂本(松重豊)は非情な目的貫徹型、西郷(温水洋一)の威風堂々は周囲からの作られものであること、桂(梶原善好演)は柔軟な世渡り上手である。写真館の六人が中心に座り、重厚な舞台回しの役割を軽妙に演じている。筒井道隆、酒井美紀、伊原剛志、瀬戸カトリーヌ、松金よね子も好い味を出している。彦馬に促されて、それぞれが一番楽しい時を思い出すとき、その表情を見ながら観客は自分の人生を振り返る。もう少し生きようと思う。芝居の醍醐味である。

★★★

 

美 術

行く機会はなかなか持てないが、いいものをじっくり

 

「MOMA.ニューヨーク近代美術館名作展」(上野の森美術館)

日弁連用務の合間のぽかりと空いた朝、ゆっくりと絵を(ほんのわずかに彫刻も)散策した。今回の展示は二〇世紀初頭から五五年までの作品だから、今の我々にはいずれも巨匠なのだが、二九年に創設された時のこの美術館の理念は過去の巨匠ではなく、同時代に生きる現代美術を対象にした。むしろModernの邦訳は「現代」のほうが理念にフィットするかも知れない。本誌一三号でいささかの評論をしたが、この美術館は、その理念を今も生かし今を生きる芸術家の作品を収蔵し続けている。無名の人にもチャンスを与えるとも言う。いま二〇〇五年始めに向けて巨大な新館を準備している。そのような美術館が豪華な作品を七五点も日本に一時貸しだした(セザンヌ、シャガール、キリコ、ダリ、ゴッホ、マチス、ミロ、モディリアニ、ピカソ、ルソーを含む)。圧巻はマチスとピカソである。マチスが一八点、ピカソが一一点。私はマチスを愛すること久しという感じだが(ボルチモアのブルーヌードとピンクヌードについては本誌三九号で論じた)、今回のものではやはり「ダンス(第一作)」ではなかろうか。踊り子のリズム感、躍動感と単純な色彩が強い印象を与える。

★★★

第三三回日展(大阪市立美術館)での武藤初雄「海辺の光景」。特選

一〇〇号の大きさながら地味な作品である。作者が、日展のホームページの特選受賞者の言葉で書いているように、「大阪湾に面した防潮堤をモチーフに選びました。ただのコンクリートの壁にすぎませんが私にとっては大きな意味を持ちました。コンクリートの壁はどこにでもあるものですが、私にとってはその場所の壁面が必要だったと思います。それにサビた色。この色が好きです」というものである。作者は「ドックの片隅」で世に出て、そのシリーズと、「泉南の海辺」シリーズとがある。モチーフ、テーマはいつも地味で、濃い茶だとか本作品のコンクリート色が主体で、いつも対象物はサビているのである。サビている対象の光と影を描くのである。本作品はこの二つのシリーズの接点のような趣だが、「ドックの片隅」に近い。光は淡くなり、ジェントフリケーションが高進し、その中での微妙な変化、時代の染みを抱いている。上品さが激しさを上回ったのであろうか。この人の水彩画を観て久しい。本誌でのおつきあいはまず一一号から二〇号記念特別号までの表紙絵である。表紙絵の性格から色彩は鮮やかであった。名画がある。いずれ原画展をしなければならない。そして二一号から現在まで続く「街かどスケッチ」である。これには現編集長の詩とも独白とも言える不思議な文章がついて、黒光り、いぶし銀の趣である。さらに短編小説や評論の挿し絵がある。私の家には六〇号の初期の名作、「ドックの片隅」の一枚があり、毎日眺めているのだが、私は武藤の激しさが好きなのである。

★★★

 

文芸

遅まきながらの「沈まぬ太陽」、悪戦苦闘の「ルイ・ジュヴェ」

 

山崎豊子「沈まぬ太陽 一五」(新潮文庫 二〇〇二年)

早く読まねばといつも気になっていた作品である。遅れたのは文庫化を待っていたことと、どうせこの文豪(私は「大地の子」を評論した本誌二四号以来山崎を文豪と敬している)の作品では涙にむせぶのだから時機を見ようと敢えて放置していたことによる遅読である。京阪電車で読むと泣き顔を公衆に見せるから、今回は家で二月の連休を利用して集中して読んだ。文庫化で再びベストセラーとなり、主人公恩地元のモデルである小倉寛太郎氏の後述する本や講演も好評であるという。主人公、登場企業、政治家にいたるまで徹底したモデル小説である。東大出のエリートが日本航空に入社し、無理やり労働組合の委員長に担がれ、原則的なヒューマンな組合運動を展開し労働条件改善に大きな成果を挙げ、その過程で首相フライトもストップする寸前までいったことから、会社、権力から憎まれ、アカ攻撃にさらされ、労働組合は分裂させられ、自身はパキスタンのカラチ(四〇年ほど前のカラチやアフガンの貧しさが、同時多発テロ以降テレビでよく見る貧しさと同じである点が胸を突く。それだけ作者の取材とリアリズムが正確であることの証でもある)、イランのテヘラン、ケニアのナイロビに一〇年もたらい回しをされ、組合からの脱退を条件に様々な誘惑を断りつつ辛酸をなめ尽くす。家族の崩壊と自らの狂死の危機にあったが、アフリカの自然を愛すること、仲間を裏切れないとの信念で何とか免れる。極少数になった組合の粘り強い恩地取り戻し活動で、日本に帰国する。しかし彼を待っていたのはその時起こったあの五二〇名死亡の世界最大の御巣鷹山事故であった。その被害者家族のお世話係として献身的に活動した。文庫の三巻が御巣鷹山篇であり、この事故の克明な原因究明と遺族の苦しみ、日航の冷たい仕打ち、遺族の輪の徐々なる形成、ボーイング社の無責任が描かれている。中曽根首相とその黒幕瀬島龍三に請われて一時日航に会長として迎えられる鐘紡会長伊藤淳二の眼力で、恩地は被害者担当から会長室部長に抜擢され、伊藤の指示で腐敗した日本航空の財政、会計、投資の巨悪にメスを入れ始める。しかし、伊藤がそこまでやると思わなかった中曽根、瀬島の裏切り、日航の旧来の上層部の金丸副総理、三塚運輸大臣と結んでの陰陽の妨害で伊藤が辞任したのを機に、再びアフリカに追いやられる。巨悪には東京地検特捜の捜査が及びつつある。この不朽の名作を読むにつれ、山崎のすごさに改めて襟を正す思いである。日航機事故の叙事文学としても秀逸である。日本の経済・政治の現在の苦境がすべて凝縮して、整理して詰められている。政財官の癒着、企業の無責任性、思想信条差別、組合差別、労使の腐敗的一体性などである。裏切っていく人間像の醜さもしっかりと描かれている。ニューヨークのブロンクス動物園には動物を見たあと通る「鏡の間」があり、その鏡に映る姿を人は見ながらT H EMOST DANGEROUS ANIMAL INTHE WORLDという鏡の言葉を読むのだと作者は書いている。人間の美しさと醜さを対比させ、読む者にその行く道を迫る偉大な文学である。週刊新潮に連載中、日航は新潮社の雑誌等について広告を全部ストップしたそうだが、この作品による週刊新潮の売れ行きの急増で十分埋まったという。

★★★

小倉寛太郎「自然に生きて」(新日本出版社 二〇〇二年)

その恩地のモデル小倉である。今は東アフリカ諸国との友好促進、自然保全を目的とするサバンナクラブの事務局長とのこと。すさまじい山崎の取材について語ったあと、小倉は様々にこの本で人生と動物から学ぶことを語っている。転んでもただでは起きない、そのあつかましさと楽天性は大切だと強調している。山崎がぞっこんになった対象のその人は元気である。前号でその著書を評論した石川元也弁護士の親友だそう。

★★★

村上龍「最後の家族」(幻冬舎二〇〇一年)

引きこもり、DV、家庭内暴力、親子、夫婦、リストラなど現代的課題に正面から取り組んだ本格作品。随所にそれぞれの問題を深く掘り下げ、それを主人公や脇役の心理描写として表現する珠玉の分析がある。この人のまとまったものを読むのは「ラッフルズホテル」以来であるが、拗ねたシティボーイの印象がこの作品では完全に影を潜めて、社会派に変身している。作品形式にも工夫がある。四人の主人公、家族の一員の語りを一章とし、それぞれ順に廻して書いていくから、同じ話題、事象が四人のそれぞれによりどのような意味を持つかがじっくりと掘り下げられるのである。新しい脚本の形式としても注目されるだろう(現に既に、ゴールデンアワーのテレビドラマ化がなされた)。引きこもりの原因は様々あろうが、それは一定の経済力が自らか親から与えられていることというインフラが前提となり、社会、そして家族からも自らを隔絶し、孤食し、精神安定剤などで昼夜逆転の生活となり、起きているときはロックなどの音楽を聴いている。これを克服するには、周りの家族が、自らを何者にも従属しない・何者をも干渉しない個として自立する必要があり、健康化は家族の自立の間接効果と引きこもり者自身が何らかの回復契機をもつことの総合作用によりなされると著者は言っている。また、他者に憐愍の情を持ち、保護してやりたいと願う気持ちは、ともすると逆転してDVを含む家庭内暴力の加害者になりやすい特性であるとも言っている。家族を含む他者を個として尊重すること、それぞれが個として自立することの重要性を著者は切々と訴えている。また企業社会にどっぷり漬かってしまうサラリーマンが、どれほど自らと家族を傷つけ、結局は企業からも切り捨てられるものであるかを哀切の情をもって描いている。人が弱いものであること、しかし自立して強く生きることもできることを熱意を込めて語りかけている。学歴、企業社会への告発の書でもある。現代人必読の作品と言えようか。

★★★

山田風太郎が二〇〇一年七月に死んだ。それまで普通の大型書店にも置いていなかった作品が、以後コーナーを作って並ぶようになった。特に東京ではそのような本屋が増えた。戦後すぐから活躍した山田が二〇〇〇年にあらためて第四回「日本ミステリー文学大賞」を受賞し、「ミステリー傑作選」全一〇巻が刊行され初めてのまもなくの死去である。私の山田作品の評論は「人間臨終図巻」(本誌一五号)、「あと千回の晩飯」(同四一号)にすぎないが、非常に印象深いものでいずれも絶賛した。今回は追悼も含めて少しかためて読んでみた。

 

「眼中の悪魔」(光文社文庫、同傑作選1)

本格編」と銘打ったこの一冊は確かにミステリー、推理小説の傑作の精選であり驚きつつ堪能した。いずれも昭和二三年から三三年の作品一〇本である。江戸川乱歩の弟子である。自らの経歴に引きつけて主人公は医学生、医学士(これは医学部を出て免許を取りいまだ博士号を取るに至っていない若手の医師のことのようだ)がよく登場する。森鴎外、加藤周一、南木佳士などとならび山田は医学を学ぶことによって、人間の精神と肉体の基本構造への理解を得てそれを卓抜に応用した名人ということができるだろう。文学形式として日記、手紙、備え付けノート(「誰にでもできる殺人」)、著名小説のパスティッシュ=贋作(コナン・ドイルよろしくシャーロックホームズとワトソンを登場させ、その中にイギリス時代の夏目漱石を配して大きな効果を上げている「黄色い下宿人」)、同じく著名小説の主人公借り(モーリス・ルブランの主人公怪盗アルセーヌ・ルパンをさりげなく最後に登場させ謎解きの役目を果たさせる「司祭館の殺人」)など多様な工夫がある。井上ひさしの有名人シリーズ、実在人物シリーズへの影響を感じた。

★★★

「男性周期律」(光文社文庫、同傑作選7)

昭和二〇年初期から四〇年初頭までの一七本。この一冊は1とは打って変わって「セックス&ナンセンス編」というだけあって、主題にセックスを織り交ぜた軽作品である。戦後すぐのものには、経済破壊の中での人口増大へのゆがんだ警戒感が閉じこめられていて時代を感じさせる。また核というものへの人類史的犯罪行為としての告発もある。医学知識を駆使した中身のある(!)ナンセンスである。日本人論(日本人の二流性を断定し、それが良くも悪くも勤勉性から来るという)も随所に織り交ぜられている。男の性を制限すれば女が、女の性を制限すれば男がそれぞれ狂うことを「平等に」扱っている。同じようにセックスを扱う宇能鴻一郎、川上宗薫の作品はどれも同じと痛烈に批判している。文学形式として、また素材の扱い方で筒井康隆の文学に大きな影響を認める。星新一のショートショート的作品の原点のような気もする。

★★

「くの一忍法帖」(講談社文庫)

一度も読んだことがなく、何とかと思っていたがかなり大きな本屋の文庫本コーナーにもない。そこでインターネットを利用して出版社から取り寄せた。家康をかためる伊賀・甲賀・服部の忍者達に対し、千姫と真田幸村の命を受けて忍法により弱った豊臣秀頼の精を受け、落とし胤を孕んだ信濃の女忍者五人との戦いである。荒唐無稽ながら、実在の家康、秀忠、頼宣、千姫、阿福(春日の局)などに十分にありそうな時代考証を施し、面白い読み物に仕上がっている。忍者同士の戦いは、男と女の性技を強力化させた忍法の競演なのだが、意外とカラッとしていてイヤらしさはない。四人がそれぞれの忍者どうしの戦いで殺され、由比のみが産み落として殺される。五人のくの一への助っ人、長宗我部盛親の妻丸橋も夫の子を産む。作者は、この二人の子が五人のくの一の死から三五年後に起こった由井正雪、丸橋忠弥の「慶安の変」を示唆している。状況描写、超常現象の描写を読んでいて、私は、「幻魔大戦」の平井和正への影響を顕著に感じた。

★★

桐野夏生「顔に降りかかる雨」(講談社文庫 九六年)

一度読みたいと思っていた作者のデビュー作(江戸川乱歩賞)なので、一週間に何度も通る新幹線のキオスクで購入しておいて、ずいぶん経って読んだ。探偵の娘の村野ミロが事件に巻き込まれ、悪戦苦闘の後解決していく物語。ノンフィクション作家である友人の耀子が東大中退のヤクザの彼氏、成瀬の仕事上の資金一億円を持って身を隠したのである。成瀬から大金窃盗の共犯と疑われ、一緒に行動するうち、一時は心を許すかに見えながら、徐々に成瀬の実態をつかみ、耀子殺しを暴いていく。金をとったのは耀子と複雑にからむ連中であった。耀子の作品に、ネオナチの強くなる東ベルリンの人種差別状況を登場させ、現実の東京の性風俗、SM、屍体嗜好などの倒錯世界と対比させる。色々なものを満艦飾に登場させるが、感動はなく、深い思索もない。ミロの自殺した夫の人間像、愛憎の関係も描ききれていない。ヤクザの世界を一種肯定的に描く点もものたらない。題名は鎌倉の雨の殺人現場から来ている。

★★

長嶋有「猛スピードで母は」(文芸春秋〇二年三月号)

一二六回芥川賞受賞作。室蘭辺りの北海道南岸の町。小学五年の慎の目から観た母の生き様と、親子の関係を、約一年程度の短いスパンで切り取って、卓抜に軽快で爽やかな筆致で描いている。東京で離婚し実家のある札幌市に近いこの町で慎を育てるシャレた元気な母。親の反対を押し切って結婚したが失敗したのだった。本当は漫画家になりたかったようだが、離婚後学校に通って、保母資格を取って働いている。保母業も必ずしも得意でない。それぞれの子供に個性があると言って悩みながら明るくこなしている。父親参観には父親でないと言って行かない。フォルクスワーゲンが好きだが買えなくてシビックに乗っている。スピード狂。ワーゲンを追い抜いて喜ぶ。タバコをスパスパ吸いながら運転する。慎の登校時間も忘れてガリ版切りの楽しさを話し、慎も紅茶をお替わりなんかして聞いていて、しっかり遅刻になる。まだ若くて美人だから結婚候補者も次から次へと現れるが、たいていは母が振っているが逆もある。その男達の描写もユーモラスである。もちろん慎は下校しても誰も家にいないのだから寂しいし、いじめにも会うが、それを粘着的に描くことをせず、カラリ、ハラリと切り抜けさせる。並々ならぬ筆力である。

★★★

村上洋「でる杭。へこむ杭」(みなと出版二十二 二〇〇一年)

読めば「関西共同印刷」という企業とあのダーティな副理事長が悪逆を尽くした「いずみ市民生協」を念頭において書かれた小説であることがわかる。有力な取引先に不正常な事態(幹部による公私混同、企業資金の私物化、それを告発した職員への弾圧)が起こったとき、こちらの会社がそれを擁護するのか、悪いものは悪いとけじめをつけるかで、その会社の存在基盤と社員のアイデンティティが失われていくことの状況が描かれている。

★★

中田耕治「ルイ・ジュヴェとその時代」(作品社 二〇〇〇年)

一八八七年生まれのルイ・ジュヴェの評伝である。ルイ・ジュヴェといってももう誰も知らない、と著者はいう。出演した映画の写真を見れば顔は知っているが、私にとってもまったく馴染みのない、フランスの、一九二〇年代から五〇年代のフランスを代表する演出家であり、演劇と映画の名優である。フランスの芸術世界の英雄であるが。演劇論をコンセルヴァトワール教授としても論じた。戯曲家ジャン・ジロドゥーとのコンビで数々の名作を生んだ。モリエール帰依者である。六三歳で死んでいる。下村幸雄先生から、「キミ、小なりと言えども演劇評論をしているんなら、これくらいは読まないとだめだよ」とお勧めを受けなければ決して挑戦することはなかった。先生はおん年七〇を越えておられるので、ジュヴェの映画を直接見られているのではないか。戦後生まれの私には、なにしろ七一八頁で重い。京阪電車で立って二〇分読むだけで、肩が凝った。しかし、勉強になった。著名な人物の評伝であるとともに、歴史書なのである。演劇、映画的にはまずコメディ・フランセーズの正確な意味がわかった。王制と結びついたほんらいのフランス演劇と言う意味。コメディとは芝居という意味で、コメディアンとは演劇人、真正の俳優の意味。一七世紀の劇作家モリエールとの関連も深い。これに対するのがブールヴァールで、民衆のエンターテイメントの意味がある。ジュヴェは、コメディ・フランセーズとは異なる新しい演劇(コメディ)を作り出した。第二に、多くの戯曲、映画がかなり詳しく紹介・再現されている。いまは散逸した舞台内容を再現した努力には大きな驚きを持つ。第三に演劇には優れた脚本と演出家のほか、劇場、衣装、舞台装置、裏方がどれ程重要なものかが理解できる。ジュヴェは先端技術、当時としてはラジオ、オーディオなどの取り入れに熱心だった。ココ・シャネルとジャンヌ・ランヴァンの衣装争いなど興味はつきない。第四に基本的には演劇は巨万の利益を上げない地味な芸術であること(同じほどに当時著名だったサルトルの収入の一日分がジュヴェの年収だったという)、したがってフランスがどの時代でもやるように公的な援助が必要であることがよくわかる。演劇人が劇団のために映画に出演するのは古今東西同じである。第五にジュヴェは遅れた客にそのシーンが終わるまではロビーで待たせる慣習の発明者であるらしい。第六に欧米における映画俳優がかなりの程度演劇人であること。第七にどれほど演劇がフランス人から愛されているかである。ジュヴェがフィガロで呼びかければ、半世紀前のベルエポックの時代の豪華な衣装、宝石、アクセサリーなどが山ほど集まったという逸話も紹介されている。歴史的には、まず第一に第一次世界大戦と第二次世界大戦とをジュヴェに引きつけて解説するが(ジュヴェは第一次は従軍ののちアメリカに渡り、第二次は地方疎開とそこからも逃れて南米各地を巡業していた)、どちらも悲惨であり、戦争の不合理が芸術の観点から描かれている。第二にジュヴェはナチス占領下のフランス為政には一切協力せず、後のド・ゴール派に属する。第三に第二次大戦中の南米各国の国情は初めて読むことであり面白い。ブラジルはオーストリアからの亡命作家シュテファン・ツヴァイクの自殺に国葬でもって遇したりしている。著者は反共である。しかしその理由とするところは、ほとんどが今日的視点では正しいように思われる。特に演劇論としてのスタニスラフスキーとそのシステムへの教条性批判、ゴーリキーの葬儀でソビエトを訪れたジッドが実体験からソビエト批判に転じ、左翼から攻撃された点でのジッド擁護(この著書のこのジッドに関する文章を昔評論したことがある.本誌二〇号)、芸術の立場からはナチズムよりもスターリニズムの方がよりひどかったという視点(前者はゲッペルスによる間接統制、後者は直接粛清)、スペイン人民戦線がコミンテルンに支配されていたからスペイン人はフランコを選んだとの認識、戦後のジュヴェによる東欧巡業を描く場面での東欧政府批判、ブレヒトの政治的演劇批判などはおそらく正しい。ただし対立物の闘争、止揚という弁証法のイロハまでを誤解しているのはいただけない。著者は好き勝手にジュヴェを讚えている。フランス精神(エスプリ)への若いときからの魅了なのであろう。ジュヴェ批判に対する反批判の柄の悪いこと一級である(なかでもボーヴォワール批判は激しく、ついでにサルトルをくし刺し批判し、その口吻の冷めやらないところでフェミニストには怒られる品の悪い女性批判を展開する。正しいフェミニズムからするとボーヴォワールも著者もどちらも誤っているだろう)。また自由奔放に演劇論を述べている。演劇人からの本書への感想を聞きたい。評伝が礼賛本になっているわけだが、これほど克明に調べ誉め上げ、くそみそにけなす相手をもそれなりに調べて嫌みを言うのだから、あとは読者が判断してよという居直った著述方法と考えておこう。取るに足らないケアレスミスは散見されるが、著者が読んだ文献、資料は気の遠くなる量である。年表と人名、演劇タイトル、映画タイトル索引、上演記録、フィルモグラフィー、参考資料の量に驚く。本書に費やした著者の熱情に敬意を持ちつつ同時に狂気を見る。

★★★