浪 速 人 物 往 来23〉

倉橋 健一

 

住吉公園の遊女の小用跡〜近松秋江の大阪

ちかまつ・しゅうこう

1876(明治9)年、岡山県生まれ。19歳のとき大阪へ出、市立商業学校を受験、学科は最優秀だったが体質虚弱で入学を許されなかった。その後、帰京、上京をくり返すが、大正初期大阪難波の色町や郊外の宿屋を転々としていたことがある。1944(昭和19)年、老衰によって死亡。早大での同級生で終生の友人となった正宗白鳥が葬儀委員長をつとめた。昭和初年頃、日常の秋江(八木書店刊『近松秋江全集』第8巻口絵より)

 

 

私小説といえば、自然主義の異形として、この国独特の小説の一種となって大正期に入って発展した。田山花袋らの初期自然主義の作家たちが、あくまで現実を自然のままにうつし出すことを目的として、純客観的写実を主張する平面描写を重視したのにたいし、こちらの私小説作家たちは、行動的自然主義の立場から、自己身辺の解剖に重点をおいてむしろ自虐的な激しさに徹した。なかでもその無調和ぶりできわだっているのが、岩野泡鳴と今から語る近松秋江である。

秋江は明治四三年、三十五歳のときに書いた『別れた妻に送る手紙』で登場するが、その世界は六年数か月も同棲しながら入籍せず、あげくのはて逃げ出した女を連綿と追いかけまわす私小説で、男の不決断、未練、負け惜しみ、女にたいする甘さのまじった、まことに女々しい思いきりのわるい情痴小説であった。しかもそのなかには、その寂しさから遁れるために買った玄人女にたいする嫉妬も臆面もなく描かれており、見ようによってはバカバカしいとしかいいようのない作品であった。それはこの作品の連作となる『疑惑』、京都の遊女に執着した『黒髪』『狂乱『霜凍る宵』などでいっそう徹底することになる。ここではこのような秋江の素顔をお見せするという意味で、この『別れた妻に送る手紙』のモデルとなった大貫ますあて、明治四三年四月十八日付け手紙の一節を紹介しよう。「いくら手紙をやっても返事も越さぬから、今少し形付けものをして置いて、お前を殺すか、さもなければ、入らぬ口を開いて邪魔をする誰れかを打ち殺して、自分でも死ぬつもりだ。三十五まで生いてゐたら、大抵生きるにも飽いた。二三日前ピストルも本当に買ったよ。昼日中でも大道で、ピシと伊藤公を殺したやうに打ってやるんだ。……」

その一方で、自分の兄へあてた手紙では、「おますは貧乏はしたれども、決して卑しき性質の女にあらず。淫売婦と混同なきやう、御承知下され度候」ともいっており、この情念の破滅的な高ぶりは尋常ではない。そこをすぐれた細密描写で客体化して小説にしてしまうのだから凄まじい。

この秋江、明治九年に岡山県藤野郷に生まれ、のち大阪市立商業学校を受験、体質が虚弱なために入学を許されなかったが、大阪には早くから縁をもった。四十七歳になって結婚、翌年第一子を得てからは、「恋愛経験を取材せる作風ここに至りて漸く一変す」と自注したとおり、一転して文芸時評なども書くようになり、「週刊朝日」五周年には大阪で講演、大阪への言及も多くなった。「僕は大阪を聞いて成長し、成長して後近松や西鶴を愛読してゐる等の関係から言っても、大阪を愛せざるを得ぬのである」ともいい切っている。

そのうえで辛辣なこともいった。大阪の市街はだんだん東京のようになってくるが、それはよいことかわるいことかと問い、「大阪は東京に比べて更に古い都である。僕はその古い都が、何処かに古昔の面影を保存して行くことを欲するのである。僕は大阪人が、自己の都市というふものに対して、今少し自負心を持ってゐることを望むのである。何と言っても、今の処、大阪の芸術―然う―義太夫を除けば殆ど凡ての大阪の芸術は東京に比べて劣ってゐる」という。

つまり、江戸時代、近松や西鶴は、文教施設のない、物質本位商業本位の都であった大阪に住んでいても、それでも古今文芸の中心になっていたではないか。それにくらべると今の大阪人は東京の芸術にたいして劣っているばかりでなく、昔の大阪人にくらべても劣っているではないかと批判する。このあたり、秋江の発言は具体的で、落語家や寄席の聴衆の趣味の下劣さにまでおよんでおり、あれほどバカバカしいことをも水際だって表現しえた作家だけのことはある。

と、少々秋江の硬派の面も紹介しておいて、最後にもういちど情痴小説家秋江に。

『青草』という短篇がある。秋江の愛欲もの、遊女をあつかった小説には、京都ものの他大阪ものが数篇あるが、その代表作になる。

住吉公園の近くに住んでいる宿に馴染みの遊女が訪ねてくる。住吉神社の高燈籠が見えるというから察しのつく方もあろう。問題はラストシーンである。

「もう帰るわ。」

「じゃ電車まで送らう。」

先刻の廣い草原まで出ると、

「ちょっと待って頂戴。私、此処に小用をするわ。」

「じゃ、今自家でして来ればよかったのに。」

「でもいゝわ。階下で屹度さう思ふもの。」さういひつゝ、早くも闇の中に白い脛を捲くるのが見えていた。

翌朝、浅海は、また其処を散歩すると、昨夕遊女が小用をした跡には輝く春の日の下に青草が伸々と萌えていた。

このシーンをめぐって、夏目漱石は「青草が生えていた。なるほどね」といい、芥川龍之介が「画竜点睛に救いあげえているかどうか」といったことを、宇野浩二が伝えている。伸々と萌えていたというくだりがなんとも刺激的。まさに画竜点睛だ。