ふと浮かんだモティーフを一曲に仕上げたとき、わたしがまず検討するのは「これに似た曲が他にないか」という点である。特にポップス系の曲に関しては慎重になる。
 これまでに聴いたさまざまな曲を記憶の底から引っ張り出して、旋律の展開のしかた、主部と中間部の調の関係、リズムのパターン、ハーモニーの持って行き方、楽器の組み合わせ、などを比べてみる。なぜそんなことをするかというと、純粋に自分の中から生じたと思っても、どこかで耳にした他人の曲が知らぬうちに出てきてしまっていることがあるからだ。そして少しでも似たところを発見したらただちに廃棄する。
 むろん世界中のすべての曲と比較することは不可能だが、聴いたかぎりのものには似たくない。できるかぎりユニークでありたい、と願うのだ。
 ところが世の中にはこれと逆のやりかたをする人達もいて、外国でヒットしている曲を下敷きにしてそれこそ文字通りの「同工異曲」を作る。
 この国では、こうするほうが売れやすいのが現状である。
 音楽ばかりではない。
 夏のある日に一ページ大の新聞広告を見たとき、M社がまた新製品を出したのだと思った。
 昨年発売した製品がツートンカラーの半透明プラスチック製筐体の斬新さで人気を呼び、低落傾向にあった業績を一気に挽回したM社である。さらなる上昇に向けて新ヴァージョンを発表する時期だ。今度のスペックはどんなものだろう、と文字を追って行くうちに私は目を疑った。そこに並んでいるのは、M社と対立するシステムをもつW陣営の用語ばかりだったのである。
 はて、M社はWの軍門に降ったのか、それとも、あまりの好評にW側にまで手を伸ばして両者に通用する汎用機にしたか、とあらためて見直したら、広告主はM社ではなくW陣営のS社ではないか。
 同工異曲どころではない。
 M社がこれを黙過するはずはなく、ことは法廷に持ち込まれ、東京地裁は9月21日にS社に対しその製品の製造販売、展示、輸出入禁止の仮処分を決定した。
 ユニークさが認められた結果かと思ったが、どうも少し違うようである。
 決定文はM社の製品を「その形態の独自性に高い評価が集まり、販売実績が上がった」とし、S社の製品は「デザイン構成、色彩の選択、素材の選択のみならず細部の形状においても多くの共通点を有する」、したがって「消費者が両商品を混同したり、両者が何らかの資本関係にあると誤認したりする恐れがある」という。
 つまりメロディーがそっくりで、混同して歌うかもしれないからいけません、と言っているようなものである。混同するから悪い、とはどういうことか。
 なぜ裁判長はデザインの独創性の「侵害」に言及しなかったのだろう。
 秋葉原電気街では<Mとそっくり>をうたい文句にしたチラシが店頭に貼り出されていたという。売れているから買う。似ているから買う。コピー製品コピー音楽の出現は消費者のこの性向がもたらすものだ。病根は深い。
【初出:『信濃毎日新聞』1999年10月21日】



 「あれにくらべりゃ俺達なんてまだまだガキだな」 コルゲンこと鈴木宏昌氏と感嘆しつつ言った「あれ」とは、ハンク・ジョーンズの音楽のことである。
 十月十七日に大阪府門真市で行われたコンサートで、私とコルゲンさんはピアノ二台のデュオ演奏で快い汗をかいて楽屋にもどってきた。内容はほぼ満足すべきものだったし、会場も盛りあがったように感じられた。
 そして、そのあとにハンク・ジョーンズが登場し、前奏を弾き始めたとき我々が期せずして同時に発したのがこのひとことだった。
 悠揚せまらざる、という形容そのものの穏やかなテンポ、聴き手を包み込む暖かい音色、楽々と十一度(オクターヴ+四度)届いてしまう大きな手で組み上げられる幅広い和音、ブルースのほろ苦さを蔵してしかも知的なメロディーライン。
 1950年代から60年代、東洋の島国から見るジャズは火口から噴出したてのマグマのように煮えたぎっていた。何人もの先駆者や改革者達が次々に新しい表現を生み出して、一日たりとも停滞を許さない、といった気分が横溢する時代だった。だからその頃ジャズに足を踏み入れた私は、マイルス・デヴィスやジョン・コルトレーンのように、ひとつの「かたち」を獲得した瞬間にそれを捨て、次の地点を求めて船出をしなければならないのがジャズなのだ、と思いこんでしまったふしがある。
 あるところにとどまって、磨き、深めることに専念するということは直ちに衰退に通じる。そんな暇があったら一歩でも前進すべし。
 ところがハンク・ジョーンズは、マグマ期のジャズのなかで自分の「かたち」を創ったのち、それを何十年間も保持しつづけてきたのである。その間にいくつかのスタイルが登場してジャズのあたらしい表層を形成したが、彼はまったく惑わされなかった。
 それらから目をそらしていたのではない。二十年ほど以前レコーディングの休憩時間に「ホレス・シルヴァーはこう弾く、ビル・エヴァンスはこう、ハービー・ハンコックはこう」と彼より若い世代のピアニストを完璧に弾きわけて私に聴かせてくれたことからでも証明できる。つまり彼は、次々に湧きあがってくる溶岩を視野に入れつつも、一歩退いた、いくぶん冷却に向かった場所で、ゆったりと自分の「かたち」を深化させることに専念していたというわけだ。すなわち先駆者であるよりも継承者の道を選んだのだった。
 そしてジャズにおけるマグマの噴出が終息に向かい、噴煙が晴れて、山々の稜線があきらかになるにつれて、人々はモダンジャズとよばれる一群の山塊のなかにハンクが創り出した姿の整った峰を見いだし、その意外な高さを改めて認識したということになる。
 ハンク・ジョーンズ、1918年生まれ。81歳。サド(トランペット)、エルヴィン(ドラムス)といういずれもジャズ史に記憶されるべきジョーンズ三兄弟の長兄。温厚な人柄と、ダンディーな身だしなみは昔から変わらない。
 じっくり熟成したジャズを体現できる稀有なピアニストである。長く元気でいてもらいたいと願っている。
【初出:『信濃毎日新聞』1999年11月18日】



 アガる。
 ピアノの前に座ったとたん、いやステージ袖で出を待つときから、動悸は激しくなり、膝は震え、足は宙を踏むよう。したばかりなのに尿意を催す。…今弾いている所は曲のどのあたりだったのか。同じようなパッセージが他にもあったけれど、これは前のほうか、ここからどうなるのだったのだろう…こんなことだと二小節先の跳躍は外すにきまっている…あぁ近づいてくる…どうしよう…
 誰でも一度くらいはいわゆるアガるという心理状態に陥った経験を持っているだろう。充分な練習を積み、入念なリハーサルを繰り返し、これでもう万全と自信を持って臨んでもアガるのである。不思議なことに、新人ばかりがアガるとは限らない。経験豊富なベテランでもアガる。サキソフォニストのM先輩など、誰もが一目置くトッププレイヤーなのに、出番直前になるとかならず「佐藤君ちょっとこれ持ってて」と私に楽器を預けてトイレに駆け込んだものだ。“Mさんのトイレ”は仲間内で有名な話である。
 最近のスポーツ界では、メダルを確実視された選手が予選落ちするとか、ここ一番というときに大きなミスをして自滅する、というニュースが多くなったように見うけられる。そのたびに新聞記事などで選手の精神的な弱さが指摘されるが、つまりアガったのが原因なのであろう。
 アガりは昔からあるものなのに、なぜこのところ目立つようになったのか。
 私は、年寄りくさい言葉だが“近頃の若者”の発声の変化に注目したい。彼等の会話を聞くと、声が「薄い」のである。つまり、のどの上っ面だけを使って声を出している。簡単に言えば胴に共鳴していないのだ。これで大きな声を出そうとすると、どうしても音質を甲高くしなくてはならない。洋の東西を問わず、豊かな声を出そうとすれば、深い呼吸をしなくてはならない。薄っぺらな声は、呼吸の浅さをあらわすのではないだろうか。
 日本人の声が次第に薄くなるとは、つまり日本人の呼吸が浅くなってきているという結論に達する。

 さて、アガっているときの呼吸はきわめて浅いのだ。逆に言えば、呼吸が浅くなるからアガるのである。日常浅い呼吸をしていればどうなるか。大舞台に臨んだときにきわめてアガりやすくなるのは当然だろう。日ごろの呼吸のしかたを変えないかぎり、どのようなメンタルトレーニングをしても無駄な努力かも知れない。
 スポーツに限らず、日本人すべての呼吸が浅くなれば、全日本人がアガりやすくなるのだから、アガることにともなう判断停止、あるいはキレた状態が、コンサートのステージ以外の日常いたるところで出現するようになる。これは恐ろしい状況だ。
 一旦息をすべて吐ききり、意識を丹田(たんでん=臍の下の下腹部)に集め、おもむろにゆっくり吸いこむ。3秒ほど止め、ゆっくり十かぞえながら吐く。これを数回繰り返すと、すっかり落ちついた気分になれるはずだ。
 深い呼吸でゆったりと2000年を迎えたいものである。

【初出:『信濃毎日新聞』1999年12月9日】



 『荒城の月』の一節、「めぐる盃」を「眠る盃」と歌っていた、という向田邦子さんの名高い随筆を引き合いに出すまでもなく、耳から聴きとる歌詞はしばしばわかりにくい。
 とくに文語体をまるで知らない最近の子供達にとって、親の世代あたりまで歌い継がれてきた文部省唱歌をはじめとする歌曲などはほとんど外国語だろう。
 しかし、明治、大正から昭和初期の錚々(そうそう)たる詩人達の手になるこれらの歌には、たくさんのすばらしい言葉や表現が込められている。
 産まれた子供が思考するようになって行くためには、周囲の大人達がしゃべる言葉を音声として意味がわからないままに蓄積するという過程を経る。その時期にどのような言葉を聴くかで子供が一生使いつづける言語の基層が決まってしまう。思考のもととなる母国語、つまりコンピューターでいえばOS、オペレーションソフトを作り上げるのが幼児期なのである。
 この頃に、もしも英語ばかりを聴かせれば、英語でものを考える英語人種に育つだろうし、ある地方の方言ばかりならその方言に特有の発音をするようになる。男の子でも女姉妹のなかで育てば話す言葉は女言葉、ということである。つまり、OS構築のための入力は文字ではなくて、音声なのだ。
 だとすると、「菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし…」(作詞者不詳)「春は名のみの風の寒さや…」(吉丸一昌)「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ…」(島崎藤村)「あした浜辺を さまよえば 昔のことぞ しのばるる…」(林古渓)などを子供には難しいとか漢字の画数が多くて読めないという理由で教えないのは見当はずれであろう。要は、理解できるできないではなく、「眠る盃」にならないように正しく聴かせることなのではないか。
 江戸期の子供の学習は、意味を考えたり解釈したりせずに書物の文字を声に出して読むだけの、素読(そどく)であった。「シ、ノタマワク…」と、先生のあとについてひたすら声を出すことで知らぬ間に文章が入力されて行く。幼児にこのような蓄積をしておくことがのちに大きな力となる。こう言うと、詰め込み教育礼賛ととられるかもしれないが、そうではない。歌として作られた詩は、歌うことでメロディーとともに知らず知らずのうちに自分のものにできるのだ。素読よりはるかに効率の良い方法だといえる。
 このようにして質の高い日本語を幼いうちに覚える、そしてできれば文語体の持つ簡潔で力強い言いまわしにも音として親しんでおくこと。そうすれば、わざわざ学校で古文の時間を設けて読ませるようなことをする前に、枕草子や徒然草から源氏物語といった古典、つまり我々が祖先から受け継いできた貴重な文化、を知ることへの扉を開く最初の鍵が自然にインストールされる。
 これが日本人全体を侵食しつつある幼児化現象を食い止め、来世紀に日本が根無し草となるのを防ぐための有効な手だてのひとつであると私はおもうのだが。
【初出:『信濃毎日新聞』2000年1月22日】



 音のいろいろなあり方のなかで、もっとも公共性の高いのはなにか。
 それは『標識』としての音である。
 車を運転しているときに緊急自動車のサイレンが聞こえたら、バックミラーなどでその進行方向を確かめ、進路を譲るべきときはただちに左側に寄って停止する。つまりサイレンは消防車や救急車やパトカーをあらわす標識だ。
 時報、非常ベル、空港での出発便案内の前に鳴らされるチャイム、古くは戦争中の警戒警報や空襲警報、とならべてみると標識としての音の重要さがわかる。
 さて、標識とはどのようなものであるべきか。たとえば道路標識である。
 なにより大切なのは走行中に一瞬で識別できることだろう。そのためにはきわだった特徴と極限まで切り詰めたシンプルな形でなくてはならない。一目的につき一デザインであることも大切だ。
 道路標識が記号のかわりに文章で、丸に50ではなく「制限速度は50kmです」、丸に斜線ではなく「午前八時から午後八時までの駐車を禁ず」などと、しかも書家が筆をふるった行書や草書で書かれてあったら、『作品』としての価値は生じても標識としては機能しない。
 同じように標識としての音は、聞いた瞬間に識別できなくてはならない。だとすれば、それは明確な音色をもつ少数の簡潔な音の組み合わせだろう。すなわちあくまでも『音』、理想的には単音でデザインされるべきである。
 『音楽』といえるような複雑さをもつこと、さらには既成曲を用いるのは、道路標識を文章で書くのに相当する。たとえていえば救急車が<乙女の祈り>、消防車が<ロッキーのテーマ>、パトカーが<タイタニック>、をチャイムで鳴らしながら走りまわる…
 さて、いまこの三台が同時に交叉点にさしかかったとしよう。彼等が通りすぎるまで、あなたは大音量の、形容しがたい音の洪水にさらされることになる。こんなことには滅多に遭遇しないから、週に一度、二分か三分だったら我慢できるかもしれない。
 しかし、東京都内にはこれと同じ事態が朝から晩まで頻繁にくりかえされている場所がたくさんあって、何十万人もがそこを必ず毎日二回通らねばならないのだ。
 JRのプラットホームである。
 数年前から山手線、中央線、総武線、京浜東北線などあらゆる駅で発車ベルのかわりにシンセサイザーで作ったチャイムを鳴らすようになった。
 それらのほとんどがメロディーとハーモニーをそなえたまごうかたなき『音楽』なのである。そのうえ路線ごとに、駅ごとに、さらに上りと下り、すべてが別々の『曲』ときている。新宿、品川、御茶の水などで、プラットホームの両側に別路線の電車が同時に入ってきたときなどは音の拷問である。
 おそらく「無味乾燥な通勤通学に少しでもうるおいを」というような親切心から作られたのだろうが、もっとも大切な、標識音としてのデザインという視点が欠落しているため、乗客に日々苦痛を強いる結果になっているのだ。公共性をもつ音は簡潔でありたい。
【初出:『信濃毎日新聞』2000年2月17日】