レストランや喫茶店に入ると、まず上を見ることにしている。
 天井が落ちてくるのが心配なのではなくて、スピーカーがどのあたりにあるかをチェックするのである。そして、そこからできるだけ離れた席に座る。
 BGMというのはどこのどいつが考案したのだろう。もとをたどれば中世の貴族が弦楽四重奏かなにかを演奏させつつ食事をした、なんてあたりに行き着くのだろうが、時代が下って市民社会の世ともなれば、貴族とともにそんなご大層な風習も消滅したはずだ。その証拠に、ヨーロッパのまともなレストランでBGMを流しているところは皆無と言って良い。
 ならば、この悪しき風潮の源はどこか。
 私は、食事と音楽を結びつけたのはアメリカ人なのではあるまいかと思っている。
 ふたつの推測(邪推かも知れない)がなりたつ。
 近頃は知らず、私がボストンの学校にいた30年ばかり前は、誰それのガールフレンドがフランス人だというだけでクラス全員が心底うらやましがったりした位だから、親の世代のヨーロッパコンプレックスはかなりのものであったはずだ。つまり、もはや経済力でも軍事力でもヨーロッパを凌駕するに至ったわが合衆国だが、歴史と格式だけはいかんともなし難し、というもどかしさを彼等は常に抱いていたのだろう。だからせめて食事時に音楽でも流し貴族の気分にひたって幾分かのストレス解消としよう。これがひとつ。
 もうひとつは「音楽を売る」という思想である。コインを入れてボタンを押せば好きな曲をレコードで聴くことができる箱、ジュークボックスが登場したことで、演奏者はもちろん、再生装置とそれを操作する人間も不要になり、箱を置くスペースさえあればどんなところでも音楽が聴ける。しかも自動的に代金が徴収される。これが広まらないわけがない。箱の中身は、「売らんかな」のレコード会社が作るポップ・ミュージックである。音楽と商売が結びついたからもう止まらない。合衆国中どこもかしこも音楽だらけ、はてはブルー・ジーンズとともに世界中に溢れ出し、BGMなきところ文化なし、ということになった。
 さて日本国は、昭和20年8月15日を境に昨日までの“鬼畜米英”変じて“ギブミー チョコレート”。あこがれのアメリカ的ライフがどっと流入する。すなわちいつでも音楽。かくてわが同胞は音楽中毒あるいは無音恐怖症、つねになにか聞こえていないと心身に異常をきたす民族となってしまった。日本人にふたたび栄光の大日本帝国を、と考えるひまを与えないでひたすら働かせるのが占領軍の遠謀だったとしたら、このBGM策略、50数年経ってみてかなりの成功と言わねばなるまい。
 …そう思いたくなるほど、一方的に聴かされる音楽は神経を逆なでする。 このへんで一切のBGMをやめて、静かな席で料理をじっくり味わい、コーヒーの香りを楽しむ程度の余裕を持ってみてはいかが。静寂のなかにいると時間の過ぎて行く音がきこえる、と言った哲学者は誰だったか。
【初出:『信濃毎日新聞』1999年4月17日】



 「どうしたらうちの子に絶対音感をつけられるのでしょうか」
 ときどきこんな質問をするお母さんがいる。絶対音感とは、ある高さを持った音を聴いたときに、その音を周波数の数値(たいていはCとかF#などの音名)として認識する感覚だ。これに対して、別に基準となる音を(楽器などで)そのつど設定して、それとの隔たりを階名(ドとかファ・シャープというような音階の名)で認識するのを相対音感という。
 歯切れの良い響きのせいか、世の教育熱心な母親たちにはゼッタイがソータイより有利に感じられるらしく、わが子を音楽家にするには何としても絶対音感を、と思うのかも知れない。しかし音楽界をながめてみると、すぐれた作曲家や演奏家で相対音感という方達は大勢おいでになるし、チューニングメーター顔負けの正確な絶対音感の持ち主でも、つまらない音楽しかできない手合いはいくらでもいる。

 音感にしろ外国語にしろ、聴覚に関するものはなるべく小さい頃、少なくとも5、6歳あたりではじめると身につく、と言われている。
 私は子供のころピアノと並行してほんの数年間バイオリンやっていた(やらされていた、かな)。バイオリンは演奏のはじめにいつもピアノのAの音に合わせて調弦をするわけだが、あるときからピアノなしでもきちんとAが合うようになった。高さをいろいろ変えているうちに、何となく音のもつ色合いのようなものが感じとれてきて、自然に絶対音感がついたようである。
 ただし、ジャズに転じた後に、これが思わぬ手枷足枷となった。
 アレンジをしたり、ヴォーカリストのバックで弾いたりというときに、楽譜に書いてあるものや自分の覚えているのとは違う調にしなくてはならないことがしばしば起きる。
 「すみません、これ私には高いから三度下げて弾いてください」と言われた場合、相対音感なら基準点(つまりド)をずらすことで簡単に解決するが、絶対音感だと、「CはA♭、F♯はD」と1音ずつ対応して行かなければならないのだ。長い間には慣れて、変換速度ではそうひけをとらなくなったつもりだが、どこかに左手で箸を使っているような違和感が残っていることは確かだ。
 しかし、即興演奏、ことに何が飛び出すか予測がつかない完全即興となると、絶対音感は有利である。相手が突然何の脈絡もない音を繰り出してきても、捕捉するのはたやすい。
 つまり、絶対にも相対にもそれぞれ長所短所があるということになる。そして、どちらの音感を持つかは、たとえて言えば単位をメートルにするかフィートにするか、程度のことなのではなかろうか。測量の対象は同じ地形なのだ。むしろ問題は、音楽という複雑な山河からどのような地図を創りだせるか、であろう。そうなると、あとは本人の人間形成いかんにかかってくる、ということになるように思うのだが。どうでしょうかね、お母さん。

【初出:『信濃毎日新聞』1999年5月13日】



 必要に迫られてデジタルカメラを購入した。
 使ってみてわかったことだが、あれをカメラと称してはいけないのではなかろうか。
 カメラの真骨頂は「ここだっ」と思った瞬間にシャッターが切れること、そして手と指先にシャッターが作動したという確かな反応が感じられることである。「シャッターチャンスでしたね、だんな」(あなた、かも知れないが)とでも言っているようにカメラが身震いをする。だから「良い写真が撮れたぞ」という予感とともにカメラとの一体感が生まれるのである。シャッター幕の走り、ミラーの動きなど、機構や機種が変われば伝わってくる振動も音も異なる。だからカメラはそれぞれが個性をもつ、なかば有機体であるかのように思えてくる。
 これに対してデジタル“カメラ”は、シャッターを押しても無反応だ。わずかに「ピ」という電子音がして、なにやらファインダー近辺で光が点滅する。「画像データ処理中」ということだそうだが、この無機的な対応は何なのだろう。
 問題なのは、シャッター作動のタイムラグである。押した瞬間からなにやらもぞもぞと作業が始まり、記録されるまでになにがしかの時間を要する。その間一秒あまり。フラッシュを使うともっと長くなる。シャッターを押しても応答せず、チャンスが遠く去った頃になって「ピ」、ではカメラとは言い難い。
 もしこういうピアノがあったとしたらどうだろうか。
 鍵盤を押すとぺタッと底についてしまい、音が出るのは一秒後。強弱は自動判定。
 これを徹底的に練習して音楽を演奏しなければならなくなったら、精神が崩壊するのにそれほどの日数は要るまい。ピアノ弾きが音楽を創っていくうえで、鍵盤の重さ、ハンマーが打弦の動きを開始する瞬間、鍵盤を放す行為と弦の振動を押さえるダンパーとの連動などが逐一指先で感知できるということは絶対に欠かせないものなのである。
 鍵盤の重さに関しては、ピアノを弾かない方たちからすればわかりにくいかも知れないが、カメラのシャッターやコンピューターのキーボードに置き換えていただけば良い。つまり、意思をもって押してはじめて作動するということだ。指を置いただけでシャッターが切れてしまったり、文字が打ちこまれてしまうという不都合を防ぐには、スプリングなどで反発力をもたせておく必要がある。ピアノの場合、鍵盤の支点の向こう側に、指のある程度の力に対抗するだけの重さの鉛が埋め込んである、というわけだ。
 常日頃このような装置で、音を文字通り「体感」できるのを当然と思っている人間にとって、指先に何も応答が返ってこないことに対する違和感、不安感は格別である。
 だから私は、銀行の自動支払機や駅の券売機の、画面に触れて操作するあのタッチパネルなるものもどうにも好きになれない。のっぺりとしたガラスの表面に触って画面が変わるまでのなんとも中途半端な「間」、触っただけで鳴る電子音。
 ところが、身の回りには日々そのようなものが増殖しつつある。してみると私のような体感人間はやがて絶滅種のほうに分類されるのだろうか。
【初出:『信濃毎日新聞』1999年6月19日】



 「肩書きはどうしましょう。ジャズピアニストで良いですか?」
 と、印刷物に名前を入れるときにかならず聞かれる。あらためてそう書かれたのを見ると、何となく居心地がわるい。自分ではジャズというものにこだわって音楽をやっているつもりは毛頭なく、好奇心に導かれて、面白いと思ったものを日々追い求めているにすぎないからだ。
 出発点がジャズだったというだけで、世間ではいまだに「ジャズの」という枕詞がついてまわる。いちど貼られたレッテルはなかなか剥がれ落ちない。
 私の現在地はどこだろう、と時々立ち止まって考えてみることもないではないが、いつもうやむやに終わるのが常である。
 しかし、ジャズという語ほど定義しにくいものがほかにあるだろうか。
 ある人は「アメリカの黒人達の生み出す音楽だけがジャズ」と言い、別の人は「白人も含む。ニューヨーク。ビバップまで」、あるいは「ボッサノヴァもジャズのうち」、また「ヨーロッパのジャズ」、さらには「アジアン・ジャズ」、ついには「ジャズはどこにあってもジャズ」‥‥
 こうなっては収拾がつかない。なぜこんなことになるかというと、最初のジャズの成り立ちが「融合」だったからである。アフリカ起源の旋律に西ヨーロッパ起源の和声。
 以来ジャズは接触するあらゆる音楽を取り入れて進化してきた。カントリーウエスタン、カリビアン、ブラジリアン、ポルカ、クレズマー、ヨーロッパ印象派、等々。むろんその都度天才たちが関与したこともあったし、あらたな土地からの移民によってもたらされたものもある。
 してみると、もともとジャズは刻々変化するもので、境界線を定めるなどと思うことは無駄な努力なのではなかろうか。「ここまでがジャズ」と言いきる人は、ある時代のジャズの姿をわが感覚に刷り込んでしまったために、その後の修正ができないに違いない。
 さて、さまざまなジャズ(と呼ばれる音楽)を通して変わらないものがひとつだけある。
 即興演奏だ。これはジャズだけにあるものではなく、ほとんどの民族音楽にみることができる、というより音楽の素(もと)が即興なのだから当然の話で、即興のない音楽のほうが不自然なのだけれど、ジャズにおいては少々特徴的なのである。
 民族音楽ではの即興は、伝統的な表現の「型」を習得し、それらを「組み合わせる」ことで成り立つのに対して、ジャズでは旧来の型を「破壊」して新しい型をつくりあげることに意味を見出す。新しい型とはつまり自分の表現のスタイルだ。この点こそジャズが古典芸能化せず、つねに今日の音楽として生き延びるためのエネルギーの源である。
 しかし、そのようにして広がってきたフロンティアとも呼べる部分が、根元からあまりにも隔たってしまっていることも否定できない。だから、もうそろそろこの界隈は独立とまで行かなくても、自治権くらい持つべきなのだ。それには「ジャズ」にかわる新しい「国名」がなくてはならない。わたしの居心地のわるさを解消するためにも。
【初出:『信濃毎日新聞』1999年7月17日】



 日本橋のデパートが閉店するとき、<永年のご愛顧感謝セール>を催したら連日押すな押すなの超満員で売り上げが通常の何倍にもなった。
 その記憶がまだ新しいうちに、今度は新宿のデパートが閉店するという。
 こちらも大いに混み合っているらしい。
 7月16日には小田急電鉄のロマンスカー、展望席付き二階建て3100形が三十数年の現役を退くセレモニーがあった。当日小田急新宿駅はカメラを持った鉄道ファンであふれかえっていたそうだ。そうそう、長野新幹線に切り替わる直前の信越線に乗ったときも、碓氷峠のトンネルの切れ目ごとに三脚+望遠レンズがずらりとこちらを向いていて異様な雰囲気だった。
 6月9日でクローズした新宿のライブハウス<DUG>は、最後の一週間連夜の満席立ち見となった。「新聞に閉店の記事が出たからね」とオーナーの中平氏は言っていたが、それを割り引いたとしても、いつもの入りからは想像もつかない大変な熱気である。
 なぜ閉店や引退となると人が押し寄せるのか。車両が耐用年数に達するとか、オーナーの気が変って店をやめるというようなことをのぞけば、閉店の事態に立ち至ったそもそもの原因は、お客の不入りだ。つまり、人々はずっと無関心、冷淡であった。それなのに、いざ無くなるという段になると急に寄り集まってくるのは、別の人間ではなく、昨日まで目もくれなかった、まさにその人々なのである。たとえていえば長いあいだ思いを寄せていてもかなわなかった男(女)があきらめて他の女(男)に気を移したとたん、相手が手のひらを返したようになびくようなものだ。誇り高い男(女)なら「なにをいまさら、もう手遅れだぜ(だわよ)」と追いすがる女(男)に背を向けて歩き去るところだが、「え

?それなら」と閉店セールをしてしまうのが何となく情けない。
 さて、ミュージシャンにとって、デパートが閉店しても展望車やアプト式列車が消えてもどうということはないが、ライブハウスが無くなるのは重大事である。
 正直言って、金銭的な意味で生活の支えになるかと問われればNOと答えざるをえないが、感覚、技術をはじめ、音楽上のすべてを訓練し、磨く「場」としてライブハウスは不可欠だ。私たちはそこで普段着の音楽を演奏し、新しい曲やアレンジメントを試し、ニューグループのお披露目をする。聴き手は演奏者が進化したり音楽が生成して行く過程の目撃者、あるいは立会人となる。それにくらべるとCDやコンサートは出来あがってしまった「製品」でしかない。だから、本当の「通」はライブハウスに足を運ぶのである。
 もっぱらCDを聴き、たまにしかコンサートに来ない諸先生の批評がしばしば的外れなのは、製品の表面だけを見てものをいうからだ。ライブハウスでのフィールドワークを抜きにして音楽は語れない。
 ライブハウスの消滅は、生息の場を失ったミュージシャンの絶滅に通じる。トキのようになってからあわてて保護に乗り出しても手遅れだ。閉店ライブ防止のため、普段からライブハウスへおでかけを。

【初出:『信濃毎日新聞』1999年8月19日】



 コンピューターで、友人の顔写真を連続的に変化させて犬の顔にする、という遊びをしていたらと、こいつの前世は犬だったと思うしかない、人間犬とも犬人間ともいいがたい画面が出現して大笑いになった。
 どこまでが人間で、どこから犬か。あきらかに人間、どう見ても犬、というゾーンは確かにあるが、境界を確定することはできない。
 ある物を変化させて行くとき、どの程度までだったら「もとの姿」を感じられるのだろう。編曲と呼ばれる作業では、この見極めが難しい。
 ひとくちに編曲と言ってもいろいろな形がある。ムソルグスキーのピアノ曲をラヴェルが編曲した『展覧会の絵』の総譜をみると、下方に併記されたもとのピアノ曲がほとんどそのままの形で美しい彩色を施されてオーケストラに書きかえられていることがわかる。このような、異なる楽器編成のうえに原曲の構成や骨組みを忠実に再現するものを一方の極とすると、他方の極には、旋律しか存在しない古謡、民謡などに和声をつけ、前奏間奏後奏を作るという、むしろ作曲と言うべき作業を要するものがある。その中間には、原曲にさまざまな工夫や仕掛けをほどこしてまったく異なる曲として再生させるとか、原曲とはことなる分野に適合するように手を加える、たとえばクラシック曲をジャズとして、あるいはポップスを管弦楽曲として、というような多岐にわたる手法が存在する。
 つまり、編曲とは変曲、偏曲、片曲から湾曲、窮曲、暴曲あたりまでも含む一種得体の知れない作業なのである。
 私のようなへそ曲がりが編曲すると、四拍子の曲を五拍子にしたり、とんでもない和音をつけたり、と想像を絶する仕上がりになることが多いので、近頃は皆用心するらしく、とんと依頼がなくなった。それでも時には何かの間違いでメジャーな仕事も舞い込んでくる。数年前のことだが、名前を言えば誰でもわかる時代劇シリーズを改訂する、ついては主題歌も編曲を新しくしたいのでお願いします、というのがあった。
 張り切った私は、それまでの歌謡曲風から一転して今様ロック風に編曲し、スタジオでミュージシャンたちには何の曲かを明かさずに楽器演奏部分を録音した。まだ歌が入っていないから誰もわからない。「これ、かっこいいじゃない。主題歌って新しいスパイものかなにかの?」
 「実は○○だよ」と種明かしをしたときの彼らのウケかたはかなりなものだった。プロデューサー氏も「良いものが出来ました」と喜んでいる。
 しかし、これに主演俳優の歌を入れる段になったとき、あまりの変容に彼ははじめこれが今まで耳になじんできた主題歌だと思わなかった。プロデューサー氏は一転して渋い顔。
 当然の帰結として、この試みはボツ。主題歌は従前のままである。
 つまり、人間の写真をデザインせよと注文したら、犬の写真が返ってきたようなものだ。私としては少しだけ人間犬にしたつもりが、注文主は「もとの顔はどうした、全部犬じゃないか」と言う。
 これだから編曲は難しい。
【初出:『信濃毎日新聞』1999年9月18日】