2003年、未年が明けた。

 1859年(安政6年) 吉田松陰処刑。明治維新への序曲の年。
 1871年(明治4年) パリ・コンミューン。わずか60日あまりの人民政府だが、その持つ意味は大きい。普通の人達が国を動かす時代への序曲か。
 1895年(明治28年) 三国干渉。日清戦争後の講和条約で日本が割譲されることになっていた遼東半島を清国に返還せよ、とロシア、フランス、ドイツが干渉。1904年の日露戦争への序曲。
 1919年(大正8年) 万歳事件。3月1日「朝鮮独立万歳」を叫んで朝鮮独立運動の蜂起。大日本帝国崩壊への序曲。
 1931年(昭和6年) 満州事変。9月18日南満州鉄道柳条溝付近で鉄道爆破事件。太平洋戦争への序曲。
 1943年(昭和18年) 5月12日、米軍アッツ島に上陸。9月8日、イタリア連合国に無条件降伏。第二次大戦終了への序曲。
 1967年(昭和42年) 第三次中東戦争、1979年(昭和54年)ソ連軍アフガン侵攻、1991年湾岸戦争……これらはすべて未年のできごとである。
 未年は紛争の年、と言われているのもうなづける気がするが、こうして見渡してみると、ほとんどの出来事がその後の大きな変化の伏線になっているではないか。
 未年が序曲の年だとすると、今年起こることをじっくり観察すれば世界、というと大袈裟ならば日本が何へ向かっているのか、を予知できるかも知れない。
 しかし予知できたとしても、日本沈没なんて事態ならどうするか。難民になってはじめてわかるボートピープルの気持、では手後れかも知れぬ。

 さて2003年、もうひとつ、伏目、ではない節目の年だと騒いでいるギョーカイがある。
 「テレビ50年」だという。 
 1953年(昭和28年)2月1日NHK、8月28日NTVが放送開始。受信したのは千台あまりでしかなかったというのが信じられない。
 またたくまに日本全土に波及したテレビでニッポンコクはどのように変わったか、をあらためてとやかくいう必要はあるまい。結果を知るのに50年も要らない。
 大宅壮一は、放送開始わずか3年後、1956年にはテレビがもたらす日本人の思考パターンへの影響を「一億総白痴化」と喝破した。ちなみにこの言葉は同年の流行語となる。
 司馬遼太郎は1961年、『君のために作る』と題する文章のなかでこのように書いている。〈雑誌の編集者たちは自分の雑誌をよんでくれる者の型をたったひとつだけ決める。その「型」にむかって編集を集中するのだが、テレビというあたらしい媒体は、大胆にも、その鉄則をあたまから無視するところから出発した。(中略)どう考えても、一日のわずかな放送時間のなかで、「主婦の友」も、「婦人公論」も、「面白倶楽部」も、「冒険王」も、「文芸春秋」も、いっしょくたにして盛り込まれているのが、ふしぎでならない。(中略)「いまのテレビは、たれをも満足させようという不可能な希望をもちすぎるために、たれをも満足させない結果になっている」というのが私の見方である。(中略)テレビ会社はなぜ、「君のために作っているのだ」という「君」を指定しないのだろうか、(中略)「そこへもってゆく以外に、テレビ時代の第二期はない」(後略)〉(『司馬遼太郎が考えたこと』第1巻 新潮社刊)
 この年、テレビ保有は800万世帯を越え、ほどなく1千万に迫ろうとしていた。
 多くの人が同時に目と耳から均一の情報を受け取ることができる。いうまでもなくテレビの効用である。しかしこれに身を委ねているうちに堆積してくる毒素の作用=思考停止に警鐘を鳴らしたものは少なかった。
 そして、当時司馬のいう「君」にかろうじて残っていた、独立した頭脳で考え、判断する余裕はこのあと急速に失われてゆく。いまでは誰かが「君」を指定しようとしても、あるいは誰かに「君」だよ、と指定されても、「君」の頭脳のなかにはテレビの残像しかないのだから、「君のために作る」ことになんの意味もないことになってしまっている。
 テレビは司馬が描いた「第二期」を迎えることなしに50年間で途方もなく巨大ななめくじのようなものに成長したかのようである。
 そしてニッポンコクミンは、羊飼いの意のままにあちらこちらと追い回されても何一つ反抗しない、無思考な羊の群れになったのである。
 で、羊飼いとは誰か、と考えるといきなり底なし穴をのぞきこんだような背筋の寒さを感じる。羊飼いはほかならぬテレビそのものであるかのようだが、しかしテレビを動かしているのはニッポンコクミンの「好みの総和」、という目に見えない怪物のお告げ=「視聴率」なのである。
 そして「お告げ」をつたえるコーコクダイリテンという巫女に操られるテレビ制作者たち。そのテレビを何の疑いも持たずに見入るニッポンコクミン。ニッポンコクミンの「好みの総和」はテレビに洗脳された制作者が作る……
 これは果てしないループではないか。このループのなかを循環しているうちにコクミンもテレビもダイリテンも加速されてくる。理性もなにもなく、ただ「視聴率」の命じるままに加速を続ける。
 つまり、テレビ放送が始まった瞬間に、ニッポンコクミンもテレビ自身も、こうなるより他はない無限連鎖のなかに放り込まれてしまったのだ。
 このあたりで一度立ち止まって、などということはもはや不可能であるのか。
 誰か、おそらく人間以外の何物か、がこのサイクロトロンを破壊し、我々をつまみあげてくれるまで、頭脳の中にテレビが巣食い、テレビのなかで頭脳が育つ状況が変わることはあるまい。
 未年につま先まで羊となり果てるのか、はたまた争乱の年のジンクスに飲み込まれるか、どちらにしても多難な年の予感。各々がた、ゆめ御油断めさるな。

2003年1月9日



 最近気に入っている曲名ギャグ。『アルツハイム・ゴーズ・バイ』『アルツ・フォー・デビー』『アルツ・イン・ワンダーランド』。

 我が家から東名高速に乗るには、馬事公苑わきの道を用賀へ向かい、四つ目の信号を右折して砧公園入口で環八へ出る。第三京浜は、右折せずに直進して246を横断し、中町通り中町五丁目の信号を右折して多摩美大前で環八へ出る。
 つい先日のことである。富樫邸を訪ねることになった。東名で大井松田まで行くのだから、用賀の手前で右折、と思いつつ家を出、しばらくたってふと気がついた。なんと中町通りを走っているではないか。数秒前には第三を出て三つ沢の坂は渋滞してるかな、などと考えていたのだから、そのままだったら横浜へ行くところだった。横浜へ行ってどうする。行く先はDolphyかい?
 その数日後。渋谷へ行く用ができた。渋谷へは小田急線下北沢で井の頭線に乗り換える。ここはどこだ、下北沢か。下北沢、と。あっ乗り換えなくては……発車ベルが鳴ってドアが閉まる寸前にホームへ飛び出した。いつもならもう二駅先の代々木上原まで行って千代田線でオフィスへ、あるいはそのまま新宿まで行ってピットインあたり、というのがほとんどだから、下北沢は意識の外なのだ、では言い訳にならない。
 最近、三日に一度位は携帯に電話をかける。別に不思議ではない、のではないのだ。自分の家で、自分の携帯にかける。つまり行方不明の携帯を捜索せねばならないわけ。電源を切っていないのが幸いして、いまのところ無事発見、収容となっているからメデタイけれど、読みかけの新聞の下、本棚の本の上、ピアノの譜面台のうしろ、ソファーに脱ぎちらしたセーターとシャツの間、等々本人にはいつどうして置いたかの記憶が全く欠落しているのが恐ろしい。
 もうひとつ。ライブスケジュールやら締切やら曲目リストやら、忘れてはならないものはとりあえずメモに書き留める、というのが習慣で、そのおかげかダブルブッキング、穴あけなどの大過なくやってきたのだが、このところメモの置き場所が思い出せなくなることが多くなった。コンピューターのわき、仕事机の右前方、電話器の近く、と決まった置き場からどこかへ出張してしまう。
 まさに『アルツハイム・ゴーズ・バイ』である。

 さて、そのような不安な日々に一筋の光明をもたらす新聞記事があった。
 「アルデヒド脱水素酵素2(ALDH2)が、4-ヒドロキシノネナールを抑える働きがある」
というものだ。
 酒を飲むと生じるアセトアルデヒドという毒素はALDH2という酵素で分解される。この酵素の働きの強い人が“上戸”なのだが、この酵素が4-ヒドロキシノネナールをも分解することが発見されたという。4-ヒドロキシノネナールこそ、アルツハイマー病患者の脳細胞に多量にあって、どうやらこの病気の元凶とされている物質らしい。わが脳内にも着々と蓄積されているやもしれぬものだ。
 私は知らなかったが、ALDH2の働きの弱い“下戸”は、アルツハイマー病発病の可能性が上戸より1.6倍高いという研究結果が三年前に発表されているそうだ。
 それだけでも心強い成果であるが、今回の日本医科大学老人病研究所の発表は、ネズミの細胞実験の段階とはいえ、援兵きたる、の感があるではないか。
 だからといって、「酒はアルツの予防」と短絡してはいけないということだけれど、「酒は百薬の長」なんてことわざもある位だから、ほどほどにタシナムのは大いに結構、と思うことにしよう。
 飲酒運転の罰則が強化されて、さすがに度胸の良い酒豪ミュージシャン連もライブ後めっきり飲まなくなった。しばらく飲まずにいると酒が弱くなる、という。これは酵素がずっと働かないでいるうちに怠け者になってしまうということではないのだろうか。
 筋肉だって、一週間も寝たきりでいるとすっかり落ちるのだから、酵素も長い間出動の機会がなければ、無用のものとされてリストラなんてことがありはしまいか。
 いざ4-ヒドロキシノネナール大量発生、お〜いALDH2や〜い、と呼び掛けても寂として声なし、という事態がないとも限らない。
 そのあたり、研究されていない恐れあり。とりあえず「酵素の鍛練」は怠らずに続けようではないか、御同役。

2003年3月4日



 薮興業と布施院組の抗争は、予想通り薮興業の一方的な勝ちに終わったかのようである。
 布施院組は跡形もなく消え失せ、猪楽村は統括するものが誰もいない真空無法地帯となった。
 しかし村の山奥には莫大な埋蔵量を持つ金山があるし、踏み荒らされた田畑も手を入れればかなりな収量を期待できる。猪楽村一帯を縄張りにできた組織の勢力がおおいに拡大するのは明らかなことだ。
 だから、いままで息をひそめていた椎阿一派やら、苦留奴一家、さらには布施院組から金山の採掘権の分け前を約束されていた史洛、風珍などの遠国の領主たちが薮興業のやりたい放題を黙って見過ごすわけがない。かならず干渉してくるに違いない。
 しかも薮譲治がついこの間まで必死に追っていた隣国亜譜関の「螺鈿の敏」とかいうお尋ねものの行方すらわかっていないうえに、組長「布施院の定」もどこかへ潜伏してしまったという。これらの残党があちこちで奇襲をかけてくるだろう。
 猪楽の村びとが安穏に暮らせるのはまだまだ先の話だ。
 そのうえ薮譲治の好戦的な性格は日を追って激しさを増しているように見える。
 「敏」と「定」をかくまっている、と尻屋組に因縁をつけて今年の秋にはここへ喧嘩を売るらしい。そうそう、来年あたりは勝手に「野うどん」を作るのが気に食わん、とカネマサ屋敷にも切り込むとか。
 薮興業が全国支配をたくらんでいるのは誰の目にも明らかだが、こう次から次へと出入りのたびに人を殺していては、そのうち近郷近在は後家さんと遺児であふれかえるだろう。
 遺児にとっては親の仇、「敏」や「定」の残党は仇討ちを助ける暗殺団となって薮をつけ狙う。
 薮は腕利きの用心棒を何人雇っても、濠をどれほど深くしても、塀をいくら厚く塗り固めても夜中にミシッと廊下が鳴っては飛び起き、ヒューと風が吹いてもドキリとするような日々を送らねばならない。
 それでもなお薮興業は抗争の種を探し続けるのだ。で、全国支配は完成するのだろうか。
 私にはとてもそんな日がくるとは思えない。
 近いうちに薮興業のお膝元、芽里県で一揆が起きて譲治が転落する、という可能性もあるし、だいいち薮興業の敵対勢力がこの世の中から消えてなくなることはあり得ない。
 なにしろ抗争のもとをたどると宗教に行き着いてしまう。これは根深い。
 薮興業は十字教、対するは荒部教。そもそもは荒部教の縄張り、それもいちばん由緒ある晴州治那のシマに主だった十字教の組が手引きして寺を建て、周囲に信者を住まわせて由陀村を作ってしまったのがはじまりだ。これを十字教側から言わせれば、ここは開祖ゆかりの地だから取り戻すのに何の不都合があるか、となって果てしがない。
 本来なら十字教の大旦那たる薮興業が中に立って、由陀村の村長舎論と荒部教の戦闘集団荒鳩隊長の手打ちをすれば収まる話なのに、薮が舎論の肩ばかり持つから事態は一向に好転しない。
 とにかくこのところのゴタゴタはすべて薮の単細胞的善悪二分思考から発しているというべきだろう。芽里県にはもっと思慮深い人達が多いはずだが、彼等の意見が全く反映されないのは、ことによると多数決という方法が良くないのではないか、と思わずにはいられない。つまり、僅差にせよ彼を頭領に選んでしまった以上、彼に従わねばならないという取り決めが、である。

 さて振り返って我が国はどうか、と考える気も起きないほど情けない有様だけれど、世界の国々がいかにしたたかであるか、がここ数カ月でよくわかった。
 とにかく最初に主張する。
 まずはこれしかないのだ。皆さんの御意見をうかがって、よく調べて、などと言ってしまうと「こいつは分け前いらないのだ」と思われてしまう。
 世界は肉食動物のせめぎあいだと思うべきである。
 草食動物の死骸があったら、他人が殺したものでも「俺のだ」と一声吠える。
 「ふざけるな、捕ったのは俺だ」という奴がでてきたら、「そうかも知らんが俺だって追っていたんだ」と言って当然のように分け前を取る姿勢を示す。
 「その時間にお前は昼寝していた」と言われたら、「いや、寝そべってはいたが目は獲物を追っていた」、というように一歩下がるにせよ相手を押す力をゆるめない。
 手強い相手、と思わせることが第一なのである。
 だから我が国も憲法改正して強い軍隊を、というわけではない。
 いまのままでも手強い相手になれる。充分なれる。
 要は話の持って行きかたではないのか。
 我が国にはこういう憲法がある、だからこれはできない、しかしこれはできる、とまずは原則論を「吠え」ておいて、しかし君がこう譲歩すれば何か見返りがあるかも知れない、と匂わせる方法だってある。
 経済は、不良債権は、などとほざく向きには、「その通り。なので貴国へのODAは全額カット」「貴国の国債を明日全額売る」。ほれ、軍事力でなくても対抗手段はいくらでもあろうに。
 で、我々はどうすれば良いか。
 できることから始めよう。
 芽里県に牛耳られているものを少しでも廃して行く。いろいろあるよ。ウインドウズをはじめとして。
 そしてともかくひと声「吠え」てみようじゃありませんか。外に向かって。

2003年5月6日



 【新型インフルエンザの兆し】
 昨年の初冬に、こんな見出しの新聞記事があった。その時は「またか」、と思って流し読みしてしまったが、いま思えば不気味な警告だったような気がする。
 くわしい内容は覚えていないけれど、
「(1) シベリアの野生の鴨のウイルスが、糞→人里の家鴨→その糞→豚へ、(2) ヒトのインフルエンザウイルス→空気感染で豚へ。このふたつのウイルスの遺伝子が豚の体内で混合して新たなウイルスができる。さらにそれに感染した人の体内であらたな混合が起きる場合もある。人、豚、家鴨が混じって暮らすアジアの農村などで新型ウイルスが出現する可能性が高い。WHOは、まず家畜の間で流行するので監視が必要、とウイルス情報の集計を進めている」というようなものだった。
 家畜といえば、牛馬豚鶏家鴨あたりしか思い浮かばないが、「食在広州=食は広州にあり」のとおり、広東省では我々が思いも寄らない動物を食べる。アライグマ、タヌキ、コウモリ、サル、ヘビ、ヤマネコ……ここまでくると“家畜”からはほど遠い。
 しかも、広州ではそれらが一般的な食材であり、それらのなかに今回の騒動を引き起こしたコロナウイルスの原型が潜んでいたらしい、となったら監視網をすべての動物に広げねばならず、とても防ぎきれるものではないことは明らかだ。
 Palm civets=白鼻芯。ハクビシン?
 中国語で「果子狸」。ジャコウネコ科。樹上で生活し、果物をたべる。夜行性。体重6kgほど。体長60cmほど。胴長と同じ位の尾をもつ。茶、灰色の短毛。パキスタンからインドネシアまで広く棲息。鼻から額にかけて白い筋がある。日本へはペットとして輸入されている。
 いまでこそやたらにテレビに登場するが、以前なら学者か物好きのほかには名前すら知られていなかっただろう。それが広州の市場なら秋から冬にかけて寒さしのぎになる、として売られるのだという。やっかいなことに、たとえコロナウイルスに感染したとしても、なんの症状もあらわれない個体があるというから恐ろしい。
 遅まきながら中国政府はハクビシンを販売禁止にするようだが、5000年ともいわれる食文化の伝統を一通の告示で変えられるとは思えない。現地の人々は「山や森にいけばいくらでも獲れる」、と気にする様子もないそうだ。

 で、そもそもウイルスとは何ぞや。
 知ってるようで知らないのだな、これが。
 “ウイルス”をキーワードにして検索してみると、ほとんどがコンピューターウイルスに関するものだった。そのなかから「本もの」のウイルスの記述をみつける。
 少し深入りするとわけがわからなくなる。ミュージシャンの頭で理解できる範囲でいうとおよそ次のようなことなのだが。

 VIRUS
語源:ラテン語で「毒」。
ウイルス粒子の大きさ:数十〜数百nm(ナノメートル=十億分の一メートル、細菌はマイクロメートルの世界だから、その千分の一)。遺伝子はDNA/RNAのどちらか一方しか持たない。
ウイルス粒子(virion)の基本的な構造:核酸と、それを包む蛋白質の殻からなる。その外側に膜を持つものもある。核酸はウイルスの遺伝子情報を保持するもの。蛋白質の殻をカプシド(capsid)と云い、核酸+capsidをヌクレオカプシド(nucleocapsid)と呼ぶ。外側の膜をエンベロープ(envelope)という。
ウイルスはそれ自身で自己増殖することはできない。自己増殖のためにはエネルギー産出装置、蛋白質合成装置が必要。生物学的には“休止状態”。つまり生き物ではない。しかし、生きた細胞(宿主)の中に入り込むと活動型になる。ウイルス粒子の特定部位と宿主の特定部位が「鍵と鍵穴」の関係で合致した場合、ウイルスが覚醒する。
その課程は:
  1. 宿主細胞への吸着→細胞内侵入→殻(capsid)を脱ぐ→核酸の細胞内増殖部位への移行
  2. ウイルス核酸の指令に基づいて素材の大量生産
  3. 素材の集合によるウイルス粒子形成→細胞外放出(100〜1000個)(宿主細胞は死滅)

 コロナウイルス
コロナウイルス科コロナウイルス属。一本鎖のRNAを持つ。幅7〜9nmの螺旋状ヌクレオカプシドが径役100nmのやや不定形のエンベロープに包まれる。エンベロープ表面に太さ20nmの棍棒状突起が多数あり、これが太陽の光輪(コロナ)に見える。
軽〜中度の上気道感染症の原因となる一般的ウイルス。
SARSウイルスは数十年前、鳥のコロナウイルスの祖先から分かれていた可能性あり。いくつかの動物への感染の途中で突然変異を繰返してヒトに対する病原性を強めたとの説が浮上している。

 結局のところ、ウイルスは生物と無生物の境界を行きつ戻りつしている不可解なヤツなのだな。自立していない男みたいなものか。稼ぎのある女のところに転がり込んでヒモ生活。女が発病すると次のカモを探して……。しかもそこから出て行くときは何十人にもなっている、って考えるだけで不気味。
 そんな代物を吸い込んで生死にかかわる目にあったりするのだから、人間なんてそれほど威張れた生物ではない。
 自然界の片隅で「生存させていただいております、ハイ」と謙虚に振舞うべきなのだ。

2003年6月2日



 『ルート66』といえばジャズ版鉄道唱歌である。
 むろん鉄道唱歌のほうが云っている内容ははるかに濃い。『66』はただ地名を羅列したにすぎないのだから。しかしその軽さもあって、歌われる機会の多寡としたらこちらに軍配が上がるだろう。
 曲は1946年、Bobby Troupの作。
 ハイウエイそのものが作られたのは1926年だそうだ。シカゴからミズーリ、オクラホマ、ニューメキシコ、アリゾナなど八つの州を通りロスアンジェルスまで全長3940kmにおよぶ。
 私が荒川康男さんの真紅のマスタングを交代で運転してボストンから大陸横断をした1968年には、古くなった〈66〉をインターステイト・ハイウエイ48号に造りかえている最中で、〈66〉を取り壊したり、残して平行に造ったり、はるか遠くに新たに建設する、といった工事があちこちで進行していた。名高い〈66〉を端から端まで走ろう、と意気込んだのだが、大部分〈48〉で拍子抜けしたものだ。
 現在はhistoric 66として、ところどころに保存されているだけで、地図上からは姿を消してしまっている。つまり〈箱根旧道関所跡〉みたいなものである。
 〈66〉からは支流のハイウエイがいくつか分かれていて、6番目のものはニューメキシコ州ギャラップから出てナヴァホ・インディアンの居留区を通り、コロラド州コルテスを経て牧場地帯を抜け、ユタ州モンティチェロという町で終わる。これが〈ルート666〉と名付けられた。別名を〈悪魔のハイウエイ〉という。
 地元の人達が「こんなに縁起の悪い番号はたまらん。なんとかしてくれ」と州選出上院議員を通じて連邦に請願してきた甲斐あって、今年5月31日に聞き届けられ、77年ぶりに〈ルート491〉になりましたとさ、めでたし、めでたし。

 という話をニューヨークの友人から聞いたときに、666がなんで縁起が悪いんだ? と質問したら、「そんなことも知らんのか」とあきれられてしまった。
 「13日の金曜日とか、黒猫を見たら家に戻って着替えるとかは知ってるさ。でも666はなぁ。じゃ0120-666-666なんてフリーダイヤルの通販コマーシャル、アメリカだったら誰も買わないのかね」「そりゃそうだ」
 彼によると、典拠は聖書なのだという。こちとらキリシタンバテレンには縁がねぇや。なにしろヤオヨロズの神とお釈迦さんが同居している国だからな、と強弁してその場は逃れたが、聖書を開いても神罰は下るまい、と調べてみることにした。
 判明したのは、『黙示録』十三章に、
 [ここに知恵がある。思慮あるものはその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。それは666である]という一文があるのだが、ハテ何のことやら。
 前のほうへ遡って読んでもチンプンカンプンである。信者さんならばこれをただちに理解できるのだろうな。日本国憲法とどちらが難解か。だいいち、昔ちら、と読んだ聖書は「はじめに光ありき」とかで格調高い文語だったような気がするが。
 ……海から上がってきた一匹の獣。十本の角と十の頭があって、角には十の冠、頭には神をけがす名があった。竜はこの獣に自分の力と位と大きな権威を与えた。もう一匹の獣が地から上がってきた(古い井戸かなにかがあったのかね)。小羊のような二本の角があり、竜のように物を言った。この獣が人々にさきの十本角の獣を拝ませ、火を天から地に降ろした。すべての人々に右手か額に刻印を受けさせた……
 で、この刻印のないものは売り買いができないとか、刻印は獣の名前だとか、剣で斬られた傷が治ったとか、文章がコマ切れ、しかも飛躍するのでおよそのことしか把握できないけれど、要するにここに出てくる竜と獣が悪魔に属しているものなので、あ、ろ、う、か?
 黙示録は一種の預言書だから、わけがわからなくて当然かも知れない。あまりに明解だとカルト集団などが都合良く利用できないから。
 しかし666がなにをあらわすかはともかく、何となくオドロオドロしい記述はこの数字と悪魔との関連を想像させるには充分だ。
 「そういえば『オーメン』では子供が666のついたものを拾ってきて家に次々と怪奇が起きたな」と和田誠さんがたちどころに言われた。さすが映画通である。
 先日十年ぶりに会ったヘレン・メリルは「気にする人もいるでしょう。私はそれほどでもない」とのたまった。出典をたずねたら、聖書にあるのは知っているけれど、どこの何かは覚えていない、ということだ。
 つまり、アメリカ人とひとくくりにしてはいけない。信心深い人、それほどでもない人、無神論者、はては仏教徒だっているのだから。
 それはそうかも知れないが、モスクワのバス路線番号666が1999年に616になったなんてことを考え合わせると、宗派は違ってもキリスト教国というものはある種の共通認識を持っていると思わざるをえない。
 そこから出発してつらつら世界のもめごとを眺めると、アラブ、東洋という非キリスト圏が、彼等にとって666なのかな、と勘ぐりたくなる昨今ではあるなぁ。
 777、大当たりぃ〜、なんて浮かれていては危ないのではないか。

2003年7月1日



 以前、ある調味料メーカーが他社に追い上げられて業績が低迷したとき、社長が「消費量を増やし、売り上げを伸ばすにはどうすれば良いかを考えろ。優秀な案には賞を出すぞ」と全社員からアイデアを募ったので、皆必死になって考えた。粉末タイプのふりかけ式調味料で有名な会社である。
 新製品の開発とか、宣伝の方法とか、それぞれの専門分野で知恵を絞った結果、革新的なものが続々集まった。しかし一等賞に選ばれたのは、「ふりかけ蓋についている穴を大きくする」という他愛のないものだった。
 「おいおい、そりゃあんまりだ」と誰しも思うだろう。しかし、これぞコロンブスの卵、灯台もと暗し。そしらぬ顔で仕様を変えて出荷を続け、使う方が全く気付かないうちに消費量が増大し、会社は危機を脱して大きく成長しましたとさ。

 この数年大手、インディーズを問わずCDの売れゆきが下降線から脱出できない。各社深刻に悩んでいる。むろんわがBAJレーベルもご同様。
 ライブ会場にCDをならべて皆様の憐れみにおすがりする行商スタイルばかりではいけないので、何か策はないか、と考えているのだがなかなか良い考えが浮かばない。
 ……CDの穴を大きくしても空回りするだけだしなぁ、……グリコのおまけみたいなものをつける? う〜ん允ちゃん人形……?
 そんな折、東急世田谷線に乗っていてハタと思いついた。ほとんどの人が《せたまる》というプリペイドカードを入口の読み取り機に当てて乗車する。これですよ。これ。
 JRのイオカード、スイカ、私鉄のパスネット、高速道路のハイウエイカードなどいろいろなところでやっているから技術的には明日からでも可能なはず。
 つまり全世界のCDを“度数・賞味期限つきリライト方式”にするのだ。
 CDを一度聴くごとに度数が減る。全く聴かなくても半年なり一年なり経つと音が消えてしまう。もちろんコピーガードもついているから別メディアで保存はできない。愛聴盤は度数がゼロになるとレコード店に行くかレーベルのHPにアクセスしてダウンロードしなおす。
 ダウンロードをするたびに、ポイントが貯まるようなっている。
 貯まったポイントでCDと交換できるのはもちろんだが、その他にいろいろな所とリンクして使えれば面白い。エアライン、ホテル、ガソリンスタンド、新幹線、コンビニ、病院、タクシー、商店街、ラーメン・チェーン、居酒屋、病院……CDをたくさん聴くと海外旅行に行ける、ラーメンがタダになる、盲腸を無料で切れる、なんてどうだ?
 警察とリンクして、スピード違反一回勘弁。
 税務署とリンクして脱税見逃し。
 お寺とリンクして戒名30%オフ。
 閻魔庁とリンクして三途の川渡船料免除……
 こりゃあ売れること間違いなし。
 もう一歩進めよう。音楽が円盤の形をしたものに収められている必要はないのだから、クレジットカード型にして、定期入れみたいなもので聴けるとなったら良いだろう。
 メモリー次第で一枚に何千曲でも入れることができるはずだ。
 えーい、ついでに健康保険証、運転免許証、住民票、預金通帳も入れてしまえ。
 おっと、これはいけません。危険、危険。
 紛失したら大変だ。個人情報すべて流出である。
 落としたり盗まれたり、トイレに流したりしないためにはどうするか、と。
 そうだ。この程度のデータ量を錠剤くらいの大きさに収められるようになるまでに数年もかかるまい。そうしたら脇腹かどこかに埋め込んでしまえば安全このうえなし。
 ついでに耳のうしろあたりに骨伝導タイプの聴き取り装置を埋め込めば、満員の車内で大音量で聴いてもハタ迷惑にならない。
 こいつぁ我ながら良いアイデアだぜ。
 どこかに売り込もうかな。

2003年7月31日



 初対面のミュージシャンといきなりレコーディングする、という機会を久しぶりに与えられた。
 相手はEl Negro Horacio Hernandez(drums)とCarlos Del Puerto(bass)。ふたりともキューバ出身で、かの超絶技巧ピアニスト、ゴンザロ・ルバルカバのトリオのメンバーだったことがあり、現在はこんな風だよ、と資料として新作CD二枚を渡されたほかは何のインフォメーションもなし。
 録音は8月26日と27日。翌日は帰国するから録りこぼしは許されない。
 曲は……まだCDにしていないものがいくつかあるけれど、10月のTIPO CABEZAの初アルバム用にと思っているので流用はしたくない。
 やはり新しく書かねばなるまい。
 CD一枚分をすべて新曲で、となると少なくとも7〜8曲、できれば10曲は必要だ。フリー・インプロヴァイズでの対決なら話は簡単だけれど、資料CDからはそのような片鱗をうかがえない。
どうあっても曲だ。 
 しかし、演奏者の姿が想像できないほど書きにくいことはない。
 ゴンザロの相手をする位なら何でもごんざれ、じゃないござれ、だろうが、どういう音色でどんなノリか。一番大事なところがわからない。しかしキューバのお兄さんたちなのだから陽気で滅茶滅茶パワフルなのだろう。
 基本的にはその線に沿って、静かなのも少し、フォー・ビート系は入れない、と大まかなプランを立てて曲づくりをはじめたのは8月はじめだった。
 暦でいえば26日間の余裕があるはずだが、手帳を眺めると山口大学で三日間のランドゥーガ集中講座があり、ライブハウス二ケ所、打ち合わせ二回、委嘱曲の譜面合わせ一日、恒例千曲川畔でのバーベキュー、室蘭のジャズフェスなどなどスケジュールがかなり詰まっている。
 それに録音当日譜面渡し、というのも初対面では失礼だろうから数日前には仕上げておかなくてはならない。
 となると丸一日じっくり机に向かうとかピアノを弾ける日は四日しかないではないか。ドラマの音楽なら二日もあれば書けるが、それは台本と撮影された画面というイメージの土台があるからできることで、今回は全く状況が違う。文字どおり乾いたタオルを絞って一滴の水を求めるような状況なのだ。
 これは非常事態宣言しかない。五線紙を肌身はなさず持ち歩き、移動の車中、食事中、入浴中、トイレ中、はては睡眠中にも曲のモティーフらしきものが浮かんだらメモをする。悪友からの飲み会の誘いなどもってのほか、恩師の出版記念会のようなものまで欠席した。
 ずっと以前、同じような目にあったことがある。コンサートで滞在中のニューヨークのホテルにキーボードを借りてきて、帰国してすぐのライブ・レコーディングのために8曲書いたのだった。むろん一緒に行ったスタッフは空き時間を有効活用して楽しそうにお出かけになっているのに、である。
 しかしあれは初対面一発勝負ではなかったな。Eddie Gomezとは三枚、Steve Gaddとは二枚アルバムを作っていたから、曲の構想をたてるのにそれほど苦労しないで済んだ。
 今回はそれを上回る未体験ゾーン突入だ。
 曲と彼等の感覚がまったく合わない、という事態もあり得る。そうなったときスタジオに流れる暗く冷たい空気。あれはひとたび体験するとしばらく立ち直れないほどの悪夢である。まだCDでは遭遇していないが、CM音楽録音で二度ばかり、ドラマでは数回起きている。「合わない」相手は共演者ではない。
 事前に音楽の方向性と質感などについて充分打ち合わせをし、忠実に作曲したにもかかわらずスポンサーか監督から「違う」とクレームがつくのである。
 その場でスコアの根本的な修正ができればよし、そうでなければ後日録りなおし、あるいはボツ、つまりクビだ。
 そうなるときは事前に予兆がある。テスト録音を終えてスタジオで待機していると、二重ガラスのむこう、ミキサールームにいるプロデューサー、スポンサー、監督などがしんと静まり返っている場合がかなりアブナイ。
 一応合格点ならかならず誰かがうなずいたり、微笑んだりするものなのだ。感動のあまり動けない、なんていう音楽はそうそう書けはしない。固まっているのは凶と出たということなのだ。
 ひとつ、ふたつと曲ができて行くに従って、「この設定は間違っているのではなかろうか。あの空気がスタジオに流れるのではないか」という不安が時折よぎる。「引き返すなら今しかないぞ。成算はあるのか」と自問しても答えとなる確証はなにもない。
 時間は容赦なく過ぎて、もうそんなことを考えている余裕はなくなってしまった。とにかく曲だ、曲。
 今の自分にできることはこんなところだ。最大の失敗作になったとしても命まで取られるわけではないのだから。これがいまの実力。いまさら足掻いてもはじまらない……腹をくくると不思議なもので、どうにか一週間前に8曲分の楽譜が仕上がった。もう一曲はおっつけ送ることにして、録音日までは審判をまつ囚人の心境ですごす。

 さて当日。少し早めにスタジオに着いて「彼等どんな具合?」とプロデューサーに尋ねると、「楽譜持って帰って熱心に練習してましたよ」という返事が返ってきた。
 お、もしかして良い感触。吉かも、と少し期待する。
 やがて両人ご入来。
 いきなり「サトー、お前のことはいろんな奴から聞いてるぜ。会うのを楽しみにしてた」と連続ハグ攻勢となる。いきなり高ボルテージにさらされてしまった。
 心配していた事態など気配すらない。
 サウンドチェックだろうがリハーサルだろうが本番だろうがお構いなし。常にフルスロットル、パワー全開の二日間。
 「全部難しいけど面白い。こんなの初めてだ。おれたちどこかで絶対ライブやるべきだぜ。次回までに全部憶えておくからやろうよ、な」
 褒めてくれるのは嬉しいけれど、そのたびにハイ・タッチとハグでシャツにすっかりオーデコロンが移ってしまったのには閉口した。帰り着くやいなや洗濯機に放り込む。
 やはりラテンの血は熱かった。

2003年9月1日



 「では次に、多大な御協力をいただきました株式会社**のH社長様よりお言葉を頂戴いたしたいと存じます。H社長、どうぞ」(拍手)
 「えー、ただいま御紹介にあずかりました**のHです。御挨拶の前に……このなかにミュージシャンいる? 出演のミュージシャン」
 見回すとどうやらこの場には我々のグループだけのようだ。
 乾杯用のビールを左手に持ち替えて「はーい、居ります」と右手をあげる。
 「あんたミュージシャン? それなら言うけど、いつまでダラダラ練習してるんだ。市長さんやいろんな人達が待っているんだから時間通りにやれよ」
 ??? こっちはずいぶん前にサウンドチェックもリハも終了して一度ホテルに戻り、着替えてから来ているのに、この人は何を言っているのだろう。
 「ほらまだやってるだろう。やめさせなさい」
 なるほど会場からは「アー、ウー、ワンツゥ、ワンツゥ、シー、チェッ、ツー」とマイクのイコライザー・チェックの声がきこえてくる。

 これをやめろという権限はない。それにあれは練習ではなくて明日の本番のための会場音響の調整、つまりサウンドチェックだ。グループごとに楽器編成も音楽の傾向も違う。同じピアノですら奏者によってタッチもパワーも変わる。ましてヴォーカルは声の質、音域が違い持参するマイクロフォンが違い、コロガシ(足元に置くスピーカー=バックバンドの音のなかで自分の声を聴き取るために必要なのだ)に求める音質も違う。
 そのうえ会場のための音を作り込まなくてはならない。
 ミュージシャンはステージ内での音響エンジニアと会場の音響エンジニア、という二系統のサウンドシステムの技術者とかなり細かいやりとりをして、ただ一回の演奏に備えるのだ。演奏が良くても会場の音が悪ければ聴き手に不満が残るし、ステージ内の音の良し悪しは直接演奏に影響する。

 サウンドチェックがどれほど重要なものか、をH社長に説明している時間はない。なにしろ倉庫の外にテントが幾張りもならび、模擬店にはジンギスカン鍋、いか焼き、寿司が用意され、お歴々がビール片手にフェスティバル前夜祭の開幕を待ち構えているのだ。
 それに、こちらの返答次第ではフェスティバルそのものに支障をきたす、なんてことにもなりかねない。H社長のうしろで実行委員長のIさんが困った顔をしているし……
 「大変申しわけありませーん。ミュージシャンを代表してお詫び申し上げまーす」
 大声で叫んだもんでさァ。
 H社長、一瞬の沈黙ののち、「いや、私は怒ってるわけじゃないんだよ。私も昔トランペットを吹いていたことがあるから練習したい気持はわかるが、ミュージシャンである前に社会人として時間は守らんと」
 てなわけで事なきを得たのであった。

 長引く不況で次第にさびれてきた港町に元気を取り戻そう、と地元のジャズ愛好家が実行委員会を立ち上げて実現したフェスティバルは今年3回目を迎える。
 フェスティバル会場は埠頭の空き倉庫。天井高10m以上、長さは90m超もあろうか。全部使ったら3000人は軽く入る大空間だが、市の人口が10万とあって並べられたパイプ椅子は800ばかり。そのうしろにPA(会場用スピーカー)エンジニアの調整卓を置いて、あとは空洞である。空洞の端の鉄扉を開け放ってあるけれど、倉庫の外の前夜祭会場では「何か音楽やってるな」程度にしか聴こえない。
 埠頭から左手は狭い水路をはさんで丘陵になっている。樹木の中に家が点在し、岸壁には小型の漁船に混じってヨットも繋留されていたりして、その一角の眺めは北欧の静かな運河のようである。
 埠頭の正面からは港が一望できるが、深く入りこんだ湾なので外海は見えないし、遠くで魚が跳ねた水紋が足元まで伝わってくるほど水面は穏やかだ。
 これほどの景観を持ったフェスティバル会場というのは希有なのではあるまいか。
 5年、10年と続いて知名度が上がれば、やがてはかつてのニューポートのようになる可能性も充分にあるだろう。実行委員会の御健闘を祈りたい。
 しかし、運営には何を措いてもスポンサーだ。
 プログラムには協賛協力の名簿が何ページにもわたって印刷されていた。御苦労がしのばれる。皆が皆音楽に詳しいわけでも、コンサートのしくみを理解しているわけでもない。
 サウンドチェックを無用の練習と思い、宴会第一と考えるスポンサーに「今年もよろしく」と頭を下げて回らなくてはならないIさんの心中を思えば、ミュージシャンを代表してのお詫びの一言など、軽い軽い。
 と腹の虫を押さえられるようになっただけでも成長の証し。20年前だったらおそらくフェスティバル中止という事態になったかも知れぬ。
 Iさん、来年も頑張ってね。
 そしてできることなら音楽制作現場のもろもろをスポンサーにわからせて下さい。
 ミュージシャンにも五分の魂。キレてスポンサーと刺し違え、なんて若者がいないとは言い切れない。

2003年9月29日



 問題:次の歌詞ではじまる曲名を答えなさい。

(1) なづになれば〜 暮らすィっコ あンずますィ〜
   じゃっコば 跳ンねる〜 わだば育つ〜
(2) へでけっておづき様さ ほすコの中へ〜
(3) とぎどき すあわせ とぎどき ふすあわせ

ヒント 出はったふとたづ
     すかげ人:伊奈かっぺい うだ:いンどー きンみご ぴあの:わ
    10月23日 ばンげ6ず 青森市文化会館大ホール
    主催:津軽弁の日やるべし会

 もうおわかりかな。正解は(1) Summertime、(2) Fly Me To The Moon、(3) Sometimes I'm Happyの津軽弁バージョンだ。

 10月23日は《まるめろ忌》。マルメロは中央アジア原産のバラ科キドニア属の木で、4月に薄桃色の開いた壺状の花が咲き、秋にパパイヤと洋梨を合わせたような実をつける。実は甘い芳香を放ち、津軽では車の中や部屋に置いてかおりを楽しむ人が多い。そのままでは食べられないが、果実酒や砂糖漬けにすると良い。
 1987年のこの日、津軽弁詩集『まるめろ』を書いた詩人高木恭造が亡くなった。
 以来、自らも方言詩集『消しゴムで書いた落書き』を著わしている伊奈かっぺいさんが中心になって10月23日を【津軽弁の日】とし、イベントを毎年続けてきた。
 津軽弁による体験記、川柳、俳句、短歌を募集し、受賞作を津軽弁で朗読して、賞状賞品賞金を贈るという会である。青森県外全国から応募多数だそうで、津軽弁の意外な浸透ぶりに驚いた。
 今年は第16回だが、高木恭造生誕100年にあたるとあって、特別企画として“津軽弁のジャズ”をやろうと誰かが(かっぺいさんに決まっている)言い出して、青森でよくコンサートを開く伊藤君子(ペコ)さんに白羽の矢が立った、というわけだ。
 ペコさんは津軽出身ではない。自己紹介で「小豆島生まれの大年増」というから母語は関西弁系である。すかす、一流のスンガーは耳が良い。イーゴばすでねぐ山形秋田青森などの東北弁系のはづおんもバッツスだっキァ。
 歌い進むにつれて会場大拍手、大爆笑となったのはペコさんの発音が確かに伝わったことを示すものだ。めでたし。

 津軽弁には現在の日本語表記であらわすことのできない音がいくつもある。「黄色いきれいな菊の花」「電気ピリピリ」と津軽弁で発音してもらうとよくわかる。「き」は[ki]ではなく[ku]と空気の通過する擦過音[s]を同時に発するのに近い。「ピ」は破裂音[p]と擦過音[s]の同時発声に近い(あくまでも近い、だ)。そして「リ」に移行するとき、わずかに「ン」が入る。関東の人だと「クシロイクシレイナ」とか「デンチピシリピシリ」になってしまう。
 こういった子音関係をそれらしく発音するのは比較的簡単だが、問題は母音である。特に「イ」と「エ」はネイティブ・スピーカー以外は不可能かも知れない。津軽の人のなかでも地域によって微妙な差異があり、ちょっと聞いただけで「黒石だべ」などとわかってしまうというから恐ろしい。
 「イ」はイーと普通に発音しつつ舌を奥に引っ込めて行くとどこかのポイントで「まあ合格」と言われるサウンドになるけれど、瞬間的にこの音にするには修行が必要だ。
 「エ」は[e]の前に微妙な[i]がブレンドされる。この混合比、移行時間で出身地がわかるのだろう、と私はにらんでいるのだが、確証はない。
 この他にも[kwan][fe][fi]などは、古日本語の、あるいはアイヌ語の発音のなごりだと言われている。
 もうここまでくると、津軽“弁”という日本語の分派扱いはなじまない。独立した「津軽語」としなくてはなるまい。津軽語を母語とする人々は「津軽人」である。そしてこういう豊かな音を守るために、津軽語独自の発音記号を考案すべきだと思うがどうだろうか。
 一方で「標準語」は、鼻濁音が失われるとか「ら」抜きになるとか、無味無臭化の方向をたどるのは自然のなりゆきだ。共通語としては単純なほうが機能的だからだ。
 けれども日本中が「標準語」だけになってしまうとすると、日本人の聴覚から[ie]とか[psi]とか[fi]を聴き取る能力が失われることを意味する。つまり退化だ。
 聴覚の退化が何をもたらすか。やがては日本人の生物学的な衰退に通じるのかも知れないではないか。
 そうならないためには、もっとも複雑な音韻をもつ津軽語を日本人全員が学ぶことだ。
 「やるべし会」の皆さん、頑張ってけろジャ。

2003年11月4日



 曲を作るのはともかくとして、タイトルにはいつも苦労する。
 前にも書いたことがあるけれど、辞書(英独仏露西etc.)やら図鑑やら百科事典やらをひっくり返して曲のイメージに合った言葉、フレーズ、名前などをさがす。すぐに見つかることもあるが、あれこれ迷って全く違ったものになってしまうことも多い。
 例えば、アップテンポで直線的なパッセージの曲ができたとする。こいつは何となく鋭い刃物みたいな感じかな、というあたりを手がかりにして心当たりの単語=edgeを引き、成句を眺めて行く。刀の刃の上に回っている独楽を立てる曲芸を頭の片隅に思い描いていたりすると、on the edge of 〜=〜のふちに、〜に瀕して、が目に止まる。お、ぴったりだ、となるのだが、単に意味が面白いだけでは合格点にならない。耳で聞いてどうか、片仮名表記してどうかを考え、結局ofを外して〈On The Edge〉で一件落着。
 これなどはすっきり短時間で決まったほうである。
 たまに1曲というのならじっくり腰を据えて考えるのも楽しいが、先日のキューバ・トリオ、Horacioたちとのレコーディングの時のように一挙9曲となると大変だ。彼等の母語に敬意を表してスパニッシュの題のものも入れたいし、と余計なサービス精神まで発揮してしまってえらいことになった。
 それでも録音前日の深夜まで苦しんだ甲斐あって一応満足なタイトルを揃えることができた。でもまだグループ名をつける、という宿題が残っているけれど。

 さて、曲名を考えあぐねたときに絶好の奥の手がふたつばかりある。タイトルの必要条件は曲が識別できれば良いだけのことだから、意味のある言葉でなくても充分なのだ。すなわちひとつは“造語”である。
 たとえば〈Madacave〉なんてどう? マダカヴェと読む。
 フルートの中川昌三さんとサックスのEddie Danielsのアルバムのために書いた曲だが、ところどころに落し穴があるので、「壁を乗り越えたと思ったらまだもうひとつ壁がある」ような難曲、というのが裏の意味だ。カベをcaveとしたところが良いじゃないか、と自分でウケている。
 曲名ではないけれど〈Randooga〉は傑作かもしれない。
 もうひとつは方言だ。
 そもそもの始まりは、いまから二十三年さかのぼる。
 当時マネージャーだったS君の郷里が秋田湯沢で、冬場はスキーへの行き帰りの度によく彼の実家に泊めていただいた。我々が到着すると父君が「まんず一杯」とアルミニュウムの薬缶を持ってこられる。中身は白濁した液体である。これが実にうまいのだ。
 最初にこれを味わったとき、「何ですか、これ?」「エンペイ。エンペイだんす。ま、飲んでたんしぇ」……
 エンペイは隠蔽、あるいは掩蔽だと思われる。つまり隠れて作ったもの=ドブロクなのであった。インペイとエンペイ、どちらともとれる秋田弁が面白く、「〜です」を意味する「だんす」と共に曲名に頂戴したというわけである。
 すなわち〈Empei Dance〉。Eddie Gomezとデュオ・アルバムを作ったときにできた曲だが、Eddieは未だにそういうダンスが日本にある、と思っているに違いない。
 これに味をしめて、ツアーなどで訪れたときにそこの方言を習ってメモしておくことにした。近作を紹介しよう。
 〈Magot Djadt!〉 鹿児島弁。「マゴッジャッ」に近い発音だが、正確に書くのは不可能だ。いま風に言えば「え? まじ?」、みたいなニュアンスか。「ほ〜んに」かも知れない。キューバ・トリオに書いたのだが、連中この曲をえらく気に入ってくれた。よってもしかするとアルバムタイトルに昇格する可能性あり。
 〈Da Monde Da-la〉 浜松弁。「だもんでさぁ」ということ。ル・モンドというフランスの新聞があるし、なにやら意味ありげな外国語に見えるかな。
 〈Do Dacque〉 同じく浜松弁。「やたら沢山の」。「どだっくぅあるら」などというらしい。
 次のタイトル、本当はまだ発表してはいけないのだが、あと1週間だから許してもらおう。12月11日NHK群馬の公開放送に出演するについて、オリジナルを1曲作ることになった。ならば当然群馬弁タイトルだ。番組パーソナリティーの奈良アナウンサーから教わったディープ群馬弁の数々のうちから「あんじゃーねー」を選んだ。「心配ない」「構わない」という意味だそうだ。単に「あんじゃーねー」だけでも良いのだが、ひとつひねりを加えて〈Ola Anjuarnee〉。オラという主語をつけて使うことはないらしいが、オラはこの際スペイン語としよう。意味は「波」。ポルトガル語でも存在する。意味は「お〜い」「もしもし」。つまり「心配ない、安全な波」か「お〜い、大丈夫か〜」となるのですね。
 津軽弁にもおおいに惹かれるのだけれど、先月書いたように表記不能なサウンドが多いので研究が必要だ。いずれは挑戦してみたい。
 方言タイトルは、まず地元の人達が耳にした瞬間にウケること、そしてどこの国ともわからないがいわくありげな綴りであること、の二点が大切なのである。

2003年12月2日