ある日のメニュー。6と7の間にもう二品ほどあったはずだが思い出せない。

  1. 芹のおひたし
  2. 温野菜(ブロッコリーとカリフラワー、鱈子とサワークリームのディップ)
  3. 豆アジの一夜干し
  4. 刺身(墨イカ、鰹のタタキ)
  5. 豚肉とほうれんそうの旨煮
  6. 砂肝炒め
  7. 野菜炊き合わせ(蓮根、里芋、人参、牛蒡、蒟蒻、三つ葉)
  8. ステーキ
  9. 蜆の赤だし
  10. 季節の炊き込み御飯
  11. お新香
  12. 果物(グレープフルーツ)
  13. 白玉汁粉

 あるじ自ら日本橋の老舗百貨店食品売り場に足を運び、魚を選ぶ。「オレが行くと奥から別のやつを出してくるんだ」というほどのウルサい上客である。極上の素材を調理するのもむろんあるじ自身。
 酒は岐阜の<三千盛(みちざかり)>ひとすじ。
 こう書くとなにやら由緒ある料亭の献立のように見えるが、実はこの家のあるじはミュージシャンである。天は、与えるとなると一人に二物も三物も与える。
 あるじ、K氏のピアノ、作編曲、ゴルフにおける才能はすでに知れ渡っているが、料理にこれほどの腕があるとはお招きにあずかるまで想像もしなかった。
 私が、さるライブハウスの開演前に近くの自然食品店の「玄米弁当」を食べているのを見たK氏が「おいおい、コンビニの弁当なんか食うな。体に悪い。よし、こんどオレの家でちゃんとしたものを食わせてやる」ということから、食事に留意しない不健康なミュージシャンのための慈善食事会が始まったのだ。
 一月おき位に催されるこの会の常連は、ドラムスM氏、S氏、ベースS氏、B氏、ギターA氏、サキソフォンY氏、詩人S先生、S先生エスコート役としてライブハウスオーナーのマダムK、マネージャーT氏……むろんY氏やS先生やT氏は慈善の対象ではなく、あるじの料理を楽しむグルメ、と云った役どころであるが。
 食事会は薄暮にはじまり、深夜に及ぶ。
 料理の合間にK氏の舌鋒鋭い音楽談義が炸裂する。K氏ほど好き嫌いの際立ったミュージシャンを私は知らない。
 「ガーシュイン? 嫌いだね。ラプソディ・イン・ブルーなんか弾くやつの気が知れない。大体あのオーケストレーションは何だ」「ゴンザロ? あいつは音楽を演ってるんじゃないな。ありゃシステムを弾いてるに過ぎない」「ラフマニノフ? 最高」「カインド・オブ・ブルーでオレが一番シビレルところ知ってるか? 一曲目『So What』のリフが終ってマイルスのソロになるだろ? あそこでジミー・コブがサイドシンバルを一発ガーンとやる。あれだけで全部持って行かれてるよな。あれがなかったらアルバムの価値は百分の一だぜ」……文字にすると相当キツイが、K氏の口から発せられるのを聞くと、発泡性のミネラルウオーターを飲み干したように爽やかな気分になってしまう。
 K氏はしかし頑迷固陋な頭の持ち主ではない。価値観の転換は実に素早い。
 ある番組で美空ひばりの伴奏をしなければならなくなった。「おれ歌謡曲とミュージカルは嫌いなんだ」と渋っていたのに、ひとたびリハーサルで『Lover Come Back To Me』を聴くやいなや、「一緒に演奏できて幸せです」と云ったというエピソードは有名である(高平哲郎著『あなたの想い出』晶文社刊、美空ひばりの項にも所載)。
 K氏と私は、ここ数年定期的にピアノ二台だけのライブ、というのをやっている。
 コード感覚に共通点があるようで、互いの手の内が読めて妙にウマが合うのだ。きっかけは十年ほど前、名古屋でのコンサートだった。別のグループで出演したのだが、ステージ袖にもう一台ピアノがある、ふたりで何かできないか、という主催者の発案で、とにかく何も決めずにフリー・インプロヴァイズを試みることになった。
 そのとき、ミュージシャンとしてのプロ入りは私の方が早いけれど大学では私より一年先輩にあたるK氏いわく「いいか、オレが世界最高のピアノに聴こえるようにしっかり伴奏しろ」「オッス先輩」。 それ以来、ピアノデュオのときには、K氏を先輩として立てる、というのが二人の間で定着した。
 私がステージでK氏を紹介するときには「ジャズの王道を行くピアニスト、アレンジャーとして日本で唯一私が尊敬できる先輩」という。K氏のフレーズは「日本ジャズ界の良心、佐藤允彦」。「いくらなんでもそりゃオーバーだ。片親くらいにしてくれ」と何回も頼んだのだが、取り合ってもらえない。
 限界近くまで飲み、食べたころになって「じゃ、そろそろステーキにしよう」、とあるじ。「もう勘弁して下さい、これ以上入りません」「大丈夫大丈夫、ちゃんとひとくちサイズに切ってあるから。まだ飯もあるし。それにこのウチに来て白玉汁粉食わないで帰れると思うなよ」
 恒例のエンディング、小ぶりの湯飲み一杯の甘さを控えた白玉汁粉は不思議と胃の腑に心地よく納まってしまう。
 次回はいつ招集がかかるのだろう。
 そうか、次回はもう無いのだ。

 K氏、コルゲン鈴木宏昌。2001年5月21日歿。享年60歳。
五日後の5月26日はコルゲンさんの敬愛するラフマニノフ、マイルス、そしてコルゲンさん自身の誕生日だった。
 合掌。

2001年8月29日



 現世は「浮き世」ですか、それとも「憂き世」?
 生きて行くのは楽しくもあり、苦しくもある、というのが大方の感じかただろう。
 苦しいと感じる時間が一日の大半を占めても、残りの時間でわずかな楽しさを実感でき、また将来それが少しずつでも増えて行く見通しが持てるなら、現世にいることに価値があると思えるはずだ。その人にとって現世=「浮き世」だといえよう。
 しかし、逆の境遇だったらどうか。
 日々食べ物を探し求めねばならず、水が涸れ、銃弾が飛び交う。しかも日が経つにつれて状況が悪くなる一方ならば、現世=「憂き世」になる。
 そのとき、「天国ですばらしい生活が待っているぞ。神のお導きに従えばこの苦しみから逃れられるのだ。神の敵を一人殺せば天国へ一歩近付く」
 「この世にあるのはたかだか数十年。あの世では未来永劫を過ごす。神の教えに逆らって何年かを生き、この世よりはるかに長い時間を地獄で送るか、明日命を捧げて天国で殉教者としてたたえられるか」と囁かれた言葉を信じて、望みのない現世から一歩を踏み出そうという若者を止める手立てはあるのだろうか。

 2001年9月11日、悪夢の火曜日。 
 テロは人道に対する犯罪だ。
 報復を叫ぶ人も、報復反対を叫ぶ人も、この一点では一致している。
 人道とはなにか。
 【人道】人間としてふみおこなうべき道。
 【人道主義】人類全体の幸福をはかることを理想とする主義。ヒューマニズム。
 人間であるかぎり守るべき最低限のルールが人道。人間である、という最初の基準設定値をできるだけ上げていこうとするのが人道主義。辞書に書いてある言葉を言い換えればそうなる。
 自分の主張を押し通すため無差別に人を殺す。守るべき最低限のルールが「人を殺さない」であるならば、当然のことながらテロは最悪の犯罪である。
 けれども「人間として」という前提が崩れてしまったらどうなるか。
 この前提が成立するのは、人間的な境遇にあるもの、すなわちある水準の努力をしさえすれば、貧しくとも衣食住が手に入る社会で生活している人々のあいだに限られる。その内側から「人は生まれながらにして平等」などと口先でいくら説いても、飢えと渇きと戦闘のなかにある人々にはきれいごととしか感じられないだろう。
 「憂き世」の側から見れば、「浮き世」は敵だ。

 1967年6月12日。
 この日から一週間ばかり、ボストンの街は(おそらくアメリカ中が)、お祭り騒ぎだった。新聞の一面は砂煙りを巻き上げて疾走する戦車の写真に「イスラエル起つ」の大見出し。通りを行く車はクラクションを鳴らし続け、学校ではだれかれの区別なく握手をし、抱き合う。夜、学資稼ぎのバイトでやっていた合唱団のピアノ伴奏へ行けば、団員が誇らし気に「どうだ、おれたちは必ず勝つ。見ていろよ」という。たしかに 「おれたち=we」と言った。
 そうか、アメリカ人にとってイスラエルはweなのだ 。とそのとき悟ったのを鮮明に覚えている。
 六日戦争とも呼ばれる第三次中東戦争でイスラエルが電撃的に制圧したのは、エルサレムを含むヨルダン川西岸地帯、ガザ地区、シナイ半島全域、シリア領ゴラン高原という広大な地域だった。
 その“勝利”はwe=アメリカの資金、武器弾薬が後押ししたのであり、結果として数十万のパレスチナ人を「憂き世」に追いやることになった。

 アフガニスタン:1973年7月王制崩壊、共和制に移行。1978年12月ソ連軍侵入。1989年12月ソ連軍撤退。1992年ムジャヒディン(イスラム聖戦士)連立政権樹立。1994年タリバン(イスラム神学生たち)出現……
 ソ連軍に対するジハード(聖戦)に勝利してもアフガニスタン人の「憂き世」は終わらなかった。果てしない内戦である。
 ムジャヒディンは多くの派閥にわかれている。日本の戦国時代のようなものだが、厄介なのは、それぞれが教義を異にするイスラムの宗派だという点だ。各派が権力闘争を繰り広げるその背後には周辺のイスラム教国があり、それぞれに政治的思惑が違い、さらに石油、天然ガス、麻薬をめぐる大国の利害がからむ。もう一歩深読みすれば、冷戦後売り上げが激減した大国の兵器産業も戦争拡大はビジネスチャンスにつながると考えるはずだ。
 そして旱魃。
 1978年以来、「憂き世」に行かざるを得なかった人の数は、数百万とも一千万を超えるとも言われている。
 羊の餌となる草もなく、トウモロコシも収穫できず、20m手堀り井戸を掘っても水が出ない。このままではただ命の絶えるのを待つばかり……

 こういう状況に至っても、なお「人間でありたい」と思うのが“正常なひと”だろう。しかし、そこに「同じ死ぬなら聖戦士として」と囁くものがあらわれたとき、“正常なひと”はさながら細胞が癌化するようにテロリストと化す。
 いま、正常細胞を癌細胞に変える因子、耳元に「聖戦士たれ」と囁く人物あるいは組織、を討滅するという大義のもとに多くの国が歩調を合わせている。惨劇を引き起こした大本を追求すべきなのは確かなことだ。
 しかし、そのような因子がほとんど全「浮き世」を相手にするほどの力をもつようになったのはなぜか。
 ビンラディンとアルカイダは、傘下に銀行、建設、運輸、などさまざまな企業をもつ持ち株会社をスーダンに置き、モーリシャス、シンガポール、マレーシア、イギリスなどで金融資産を運用し、裏社会では麻薬製造、売買、インサイダー取引を行っていると言われる。
 彼等は「浮き世」に入り込み、そのシステムを使って日に日に成長して行ったのだ。いや待て待て。彼等が入り込み、というのは当たらない。彼等ははじめから「浮き世」とはべつのなにかとして存在していたのではないのだ。彼等をつくりだし、育てたのはほかならぬ「浮き世」自身ではないのか。
 彼等は人類がみずから体内に蓄積した毒素だということはできないか。そして「憂き世」とは体の一部が血行障害を起し、壊死した状態だと。
 今回、人類はとりあえず癌化した腫瘍を切除することができるかもしれない。が、壊死部分があり、毒素を蓄積し続けるかぎり癌細胞の出現を防ぐことはできない。
 「憂き世」に充分な血流が行き渡り、健康体をとりもどさないと人類という一個の有機体そのものが死んでしまうだろう。
 では一個の細胞である我々はなにをしたら良いのか。
 考えるまでもない。人類全体と同じことをあらゆる段階、階層でするだけのことだ。
 個人、家族、学校、会社、町、市、国、アジア、ユーラシア。
 それぞれのレベルで「憂き世」の血行を心掛ける。
 内なる「憂き世」が消滅すれば、結果として人類の癌細胞の発生もなくなるはずだ。
 理想論を言えば、の話である。

2001年10月9日



 ひさしぶりのエッセイページ更新、となれば「さぞや力作に違いない」と思われるに違いない。何しろ数カ月かけて書き上げたのだから?
 とんでもごぜぇません、お奉行様。
 毎月の締めきりから解放されて、脳細胞は開放感を謳歌するばかり。たまに「思考」モードに入ってもこんな程度なんでやす。ヘェ。
 これはこの夏の猛暑によるものか、あるいは脳も筋肉と同様、使わないと果てしなく退化して行くということなのか。

 昔から佐藤家では、誰かが「ありがとう」というと居合わせたものが「蟻が十なら芋虫ゃ十九、蝶々ハタチで嫁に行く」と応ずるシキタリがあった。
 ほかにも「ありがたい」には「蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨」。「ごちそーさま。うまかった〜」には「馬勝った〜牛負けた」。
 そう、この牛馬対決は比較的スタンダードだったようで、「うちでもそんなこと言っていたなぁ」という人が多い。

 で、今回は対決シリーズ。
 まずは、

あぁ恐かった〜 : 子は勝った 親負けた
痒かった    : 粥勝った  飯負けた
高かった    : 鷹勝った  とんび負けた
甘かった    : 尼勝った  坊主負けた
深かった    : 鱶勝った  鮫負けた

 という具合に以下を変換してください。

硬かった 腰負けた    (膝はどうした)
まずかった 次負けた   (ビギナーズ・ラックってやつ)
苦かった 三負けた
欲しかった 月負けた   (新月なら勝てるだろう)
したかった 上負けた
軽かった ボンベイ負けた (今はムンバイだよね)
トロかった 赤身負けた  (コレステロールに御注意)
太かった じっくり負けた (ビギナーズ・ラックその2)
デカかった ホシ負けた  (誤認逮捕じゃないだろうね)
多かった 長島負けた   (古いっす)
見なかった 一茂負けた  (長島家ネタです)
使った 伊勢負けた    (少々字足らず)
憎かった 骨負けた    (肉を切らせて骨を断つ。チェストォォォ)
臭かった 木負けた    (草木も眠る牛勝ちどき)
薄かった 杵負けた
寒かった アムロ負けた  (芸能ネタだぜ)
偉かった サラ負けた   (ジャズファン向けだよ)
セコかった 宗負けた   (お古いスポーツネタですみません)
若かった 貴負けた    (同上)
シンドかった 安藤負けた (進藤さんと安藤さんは仲悪かったかな)
見たかった 早稲田負けた (早慶戦を、慶応では慶早戦という)
辛かった 天竺負けた   (天竺にもカレーちゅうもんがあるけど負けますかね)
浅かった 晩負けた
弱かった 昼負けた
来なかった ジェル負けた (化粧品対決ですかね)
見つかった ふたつ負けた (三歩進んで二歩さがるって唄があったよな〜)
メンドかった 籠手負けた (相打ちでも審判次第ですかね)
儲かった ヒヒン負けた  (たまには牛にも勝たせたい)
重かった 頭も勝った   (全身勝ってメデタイのう)
とんがった 牛負けた   (トンカツっていうからねぇ)

 少々ヴァリエーション。

風邪引いた 雨押した
暗かった 家売った
居なかった 麦播いた

 こういうバカなことで時間を浪費していると、やがて次のような結末を迎えることになるのだ。

儚かった 骨あった……

2002年8月28日



 地名は、ただ場所を識別するためだけにあるのではない。
 生まれ育った人々にとってはふるさととなり、国にとっては歴史や伝承をうかがい知ることのできる文化遺産ともなるものである。従って、地名を軽々しく変えることは慎むべきであるし、やむを得ない場合でも熟考を重ね、語感や文字や品位について少なくとも後世悔いの残らないものにすべきではないか。
 麻布箪笥町、笄(こうがい)町など字を見るだけでも江戸時代の職人達の姿がうかんでくる町名や、霞町、佐久間町というような風情のある町名を東京オリンピックのときに六本木何丁目、西麻布、西新橋などと無味乾燥なものにしてしまったのは旧建設省だか旧自治省だかの役人どもだった。彼等は東京出身ではないはずだ。東京に何の愛着もないからこそできた変更だろう。国立大学で成績優秀頭脳明晰といわれる者が、かならずしも日本語についての佳い感性を持っているわけではない。
 私がよく訪れる信州にもなんだこれは、と思うような名の市がある。コーショク市という。最初耳にしたときは「好色市」だと思った。字を見たら「更埴」だったので安心したが、お世辞にも良い語感とは言えない。埴科(はにしな)郡屋代町、埴生町、更級郡稲荷山町、八幡村が昭和34年に合併してできた市だということだが、他の案は無かったのか。
 コーショク市は来年、戸倉と上山田を併わせて新しい市になる。名称は千曲市。他人事ながらほっとしている。
 今年になって浦和、大宮、与野の三市が合併して誕生したのは「さいたま市」。なぜ平仮名なのか。親しみやすい、わかりやすい、が理由だとしたら淋しい話である。当たりまえの事だが仮名は音だけしかあらわせない。前(先)多摩(さきたま)→前玉(さきたま)→埼玉と、大化改新あたりまでさかのぼることのできる由緒ある地名の変遷も、音だけになったらそのうち忘れられてしまうだろう。
 ちなみに公募した新市名の上位は一位「埼玉市」7117票、二位「さいたま市」3821票、三位「大宮市」3008票、四位「彩玉市」2588票、五位「彩都市」2495票だったそうである。一位は漢字で得票も二位以下を大きく引き離している。わざわざ二位を採用した経緯を知りたいものだ。
 来年4月1日発足「南アルプス市」に至っては呆然としてしまう。山梨県峡西地域なるところの白根町、若草町(なんだかイージーな町名だ。新しく開発された町のような)、櫛形町、甲西町(甲府の西だからか)、八田村、芦安村の6町村で作る。こちらも一般公募だという。南アルプスの東側山麓にあり、雄大で新鮮なイメージ、と若い世代を中心に支持を集めた、とか。
 この調子だと“地域の名産をアピールするから”と「りんご市」「ほたて市」「うなぎ市」「マスカット市」、“受賞者が出たから”と「ノーベル市」「オスカー市」、果ては「スペースシャトル市」「宇宙飛行市」……勘弁してくれ。
 そもそもアルプスの語源はケルト語の山=alb、alp、あるいはラテン語の白=alb だという。なにゆえ日本の町の名にヨーロッパ起源の言葉を用いなければならないのか。
 “雄大で新鮮だから”とか“若い世代に人気があるから”、と外国語を無抵抗に受け入れてしまって良いものだろうか。
 髪を金色に染めたり、英語のような発音で日本語の歌詞を唄ったり、ということとは次元の違う話である。これから生まれてくる世代の「根」の地名になるのだ。またこの地に眠っている何代もの先祖があることも忘れてはならないのではないか。
 仮に、どこかの国の軍隊が攻め込んで来たとしよう。政府が“慎重に対策を協議”しているあいだに我が国は占領され、今日からここは「ZXGYV県」「FDKJR市」「WQMTL町」にされてしまったらどうする。次の日に、日本語の姓名は全廃、という布告が出ても反撥しないか。またその次の日には、今日より日本語の学習を禁ず。さらに次の日に日本語の使用を禁ず、となってもおとなしく従うか?
 おそらくすべての日本人は「日本が亡くなる」と怒り、抵抗するに違いない。それは外から強制されるからだ(同じことを60年前に日本は他国に対してやっている)。
 しかし、それが内側からきわめてゆっくりと起こるならば、自覚しないうちに日本は全身衰弱し、やがて死に至る。
 すでに電気製品の取扱い説明書など、カタカナのほうが多い。朽ち葉が葉脈だけになるように、わずかに助詞が残ってかろうじて日本語の姿をとどめている。地名を読み書きすることがいにしえと今を結ぶ唯一の通路だったのかも知れないのに、それすら平仮名やカタカナばかりとなれば、あと二〜三世代のうちに古典近代はおろか、谷崎、芥川、川端、三島から司馬遼太郎すら読めなくなるだろう。会話はマジ、チョー、ナニゲニ、ウザイと片言ばかり。
 政治経済の迷走による亡国と、日本語の溶解による亡国、どちらが先かな。
2002年11月1日



 ミュージシャンの間で広まるジョークの水準はかなり高い。
 発想が面白いのでヴァリエーションが加わり、シリーズ化する頃には誰が原作者なのかわからなくなってしまうのだが、震源が私の周囲ならばおおよその見当をつけることはできる。このページでおなじみの《どのくらい違う》(あるいは《似て非なるもの》)シリーズは前田憲男御大、《ミュージシャン名前ジョーク》シリーズ(「マッサージ頼んだのだれ?」「ポールです。揉んどくれ」etc.)は西条孝之介先輩、《お坊さんの曲打合わせ》シリーズ(「ダルセ如来して、コーダから阿弥ー陀へ飛んで」etc.)はピアノの故八城一夫氏、と言った具合である。
 最近ハネケン氏がステージ上で時々演ずる『鶴の恩返し』シリーズの出所は吉本系と推測されるが、一番ウケるバリエーションの作者は前田御大だ。
 輸入ものは原作者を特定できないけれど、NY発には手応えを感じる。数年前にタイガー大越氏が紹介してくれた《ドラマーのジョーク》三題、1)ドラマーの話題 2)ホテルの予約 3)脳味噌の交換、などはかなりの秀作であった。
 で、今月は日野皓正氏から聞いたNYものに少々脚色を加え、仏教風にして伝達しよう。

 あるミュージシャン、酒色に溺れ、薬局ができるくらい薬品を愛用し、仕事には遅れる、楽器は質に入れる、とお定まりの絵に描いたようなミュージシャンの一生を終えて閻魔大王の審判所へ。何の手違いか天国行きの判決をもらってしまう。
 「しめしめ、俺は死んでもツイてる。これでバッチリ楽しい後世だぜ」と喜んで昇りのエレベーターに乗り、着いた所は七色の雲がたなびき、妙なる香りが満ち、羽衣をまとった天女が行き交う、まさに天国。数日は夢見心地で過ごしたが、なにやら物足らぬ。音を出したいなぁ、どこぞでセッションでもやっていないか、と楽器ケース片手にあちこち見て歩くのだけれど、演奏しているのはモーツアルトやらバッハやら、崇高な音楽ばかり。それに知った顔がひとりもいない。
 いいかげん疲れた、どこかで休むか、と見ると【天国案内所】という看板が目に入る。「えー、すんません、ジョン・コルトレーンさんとかチャーリー・パーカーさんなんかはどちらにいるんでしょう」とカウンターの羽衣の美女に尋ねる。「あ、そこのコンピューターで検索してちょうだい、やりかたわかるわね」と顔に似合わず蓮っ葉な答え。「あのー、名前は見つけたんですけど、住所が出てなくて、うしろにドクロ印がついてる」「それは地獄にいるってことよ。もっと詳しいことはあっちのコンピューターへアクセスしないとわからないわ。でもそれには特別許可がないとね」
 そうだよなー、ああいう連中は地獄に決まってらぁな。ここは居心地が良いけどずっといると退屈だし。やっぱりオレにはあっちがふさわしいんだ。
 奴さん閻魔大王審判所へ“地獄行き嘆願書”を出す。
 「一度変更すると、もうキャンセルできませんからね。また天国へは行けませんけどよろしいですか」と新幹線の乗車変更みたいなことをいう青鬼。「それで結構です」「じゃ、あっちの黒いほうの下り専用エレベーターに乗って下さい。むこうへ着いたらこの紙を係に渡すんですよ。途中で紛失するとえらいことになりますよ」
 【セッション地獄】という文字がやっと読める薄暗い部屋のガラス窓越しに覗き込むと、いるいる、昔あこがれたビッグ・ネームから注射仲間まで大勢でなにやら演奏中。
 「すいません、ここに入りたいんですけど」「何じゃそのほうは。時間外の亡者の入室はならぬ」「え、いや私はそういうんじゃなくて、あ、この紙を」「早くそれを出さんか。それからこの三角の亡者頭巾は常に着けておくんだぞ。よし入れ」ってんで重い扉を開けると、カウント・ベイシー・オーケストラの大音量。
 ・サバラバ〜・バッ・パッパ・サバラバ〜・バッ・パッパ・サバラバ〜……
 ケースを開けるのももどかしく、勇躍楽器構えて演奏に加わる。
 ・サバラバ〜・バッ・パッパ・サバラバ〜・バッ・パッパ・サバラバ〜……
 「う〜ん、これだぜぃ。こたえられねぇ、やっぱ天国よりズージャだな〜、有難ぇ、ありがてぇ」
 ・サバラバ〜・バッ・パッパ・サバラバ〜・バッ・パッパ・サバラバ〜・バッ・パッパ・サバラバ〜・バッ・パッパ・サバラバ〜・バッ・パッパ・サバラバ〜・バッ・パッパ・サバラバ〜・バッ・パッパ・サバラバ〜・バッ・パッパ……
 「ちょっ、ちょっと、いつまで同じ所やってるんですか」と奴さんがたずねると、
 隣の亡者の答え、
 ……forever……

2002年12月3日