「うちの料理はこの町じゃ有名でね、食事だけしにくるお客も多いんだよ」
 ライブハウス・オーナーのひとことを聞いて私は内心「こりゃいかん」と覚悟した。
 内装は木を主体にした造りで、ピアノの状態も良さそう。ツアー終盤で肝臓もお疲れだけれど、今夜は久しぶりに緻密で気合いの入った演奏ができるかな、と楽しみにしていたのに雲行きが一挙に怪しくなってしまった。なぜって、今夜は演奏を聴きにきてくれるお客ばかりではなくて食事客、つまり音楽はどうでもいいという客もいるわけだ。
 料理を主だと考える店なら【本日ライブのためレストランは休業】なんてことが度重なれば営業収支にかかわってくるから当然そんな張り紙はしない。
 店は入って右側に十人ほどのバーカウンター、四人掛けの小さいテーブル六つ、カウンターの背後がキッチンになっている。入口左がステージ。グランドピアノとドラムセット、ベースにホーン一人分ほどのスペースがある。ステージの天井が吹き抜けで、入口右の階段を上がると二階に六人掛けのテーブルが四つ。一応一階は音楽中心の設定だが、二階からミュージシャンを見るにはよほど手すりに近づかなくてはならない。これはもう別室という感じだが、空間はまったくの一体である。従って音も往来自由である。
 演奏時間前から二階では食事がはじまり、何かの小パーティーのような挨拶+拍手+「カンパ〜イ」だの、子供が叫び走り回る音、ほとんど居酒屋とファミレス合体の騒がしさ。
 演奏になれば少しは変わるかも、との淡い期待はいとも簡単に踏みにじられベースソロの合間には「キャハハハ〜」と甲高い笑い声まで聞こえて、もはや集中力を要する曲などやってられない。この日のために高価なマイクロフォンを購入して、リハーサルでは慎重に録音ポイントを決めていたM氏には申し訳ないが、突然の豹変である。
 凶暴一辺倒。アスリートか格闘家か、久しぶりの体力勝負。まだまだ行けるぜ〜ってなもんだ。
 良い演奏が録れたらライブ盤でも出すか、なんて目論見は雲散霧消、ひたすら押しまくった一時間だった。
 その間二階はどうなっていたのだろう。あの演奏のさなかに食事が進行していたとするとほとんど難聴の人ばかりだったことになるし、さしさわりなく会話ができていたとすると……聴覚が異常に鋭い人のパーティーだったか?

 で、疑問は、はたして音楽と食事は並立できるのだろうか、というところに行き着くのである。

 聖徳太子は一度に七人の訴えを聞いて決裁したといわれる。
 対位法の神様JSB=バッハには八声のカノンなどというものが存在する。つまりバッハは、誰もが独立して動く八つのパートそれぞれを聴き取れるはず、と思って作曲しているのだ。
 聖徳太子でもバッハでもない私のような凡人は右と左から同時に話しかけられただけで混乱するし、対位法はせいぜい三声か四声を追うのが精一杯である。
 右から音楽、左から言葉。私に関していえば、同時に同程度の注意力を保って聴くのは非常に困難だ。これだけで聴覚は目一杯である。
 そこに味覚を働かせろだと?
 音楽を聴きながら会話をしているところに料理が出てくる、などと想像しただけで脳内が混乱に陥ってしまう。
 どれかひとつにしてくれ、と云いたい。音楽をきちんと聴こうとすれば話が上の空になり、料理の味はわからなくなる。料理を楽しもうと思えば音楽がうるさいと感じるし、噛みながら話もできまい。
 しかしそう感じているのは私だけ、あるいはごく少数で、世間には聖徳さんやらJSB氏がゴマンとおいでになるに違いない。
 本屋に《音楽と料理の楽しめる店》《料理のおいしいライブハウス》と銘打った特集やらガイドブックが並んでいるのが何よりの証拠だ。
 味覚と聴覚は脳内の異なる場所に受け取られるのだそうだ。となるとふたつの感覚は、プロセッサーを二個持つコンピューター上なら同時進行的に処理できることになる。つまり音楽を聴きながら食事をしても、両者は干渉し合わない……はずである。21世紀に入って人間の脳もその方向に進化したか。
 その結果、音楽を聴きながら料理を食べると音も味も良くなり、さらに会話を加えて、三者を過不足なく楽しめる。これ、もはや現代人のジョーシキ???
 私には到底不可能だ。ひとたび聴覚に注意が向けば、料理の味などたちどころにわからなくなってしまうし、話しかけられても受け答えは上の空になる。
 できれば音楽は料理や会話なしに聴きたいし、料理は音楽なしに目と舌で楽しみたいと思う。
 もしかすると私の脳はプロセッサーが一個だけで、しかもチョー遅い?
 ワシはDOSVマシンか?
 しかし演奏する立場になってみると、プロセッサーは一個のほうが良いのではないか。音楽と同時に客席の会話が明瞭に平行処理されてしまって、「だいたいうちの課長はさぁ」とか「今度の休みどこ行くぅ?」なんてものに脳内を駆け巡られても困る。音楽に集中したい私が欲しいのはプロセッサーよりも、いやな音を遮断する折りたたみ自在な猫や犬のような耳蓋である。
 そして音楽と食事が両立するのが当たり前の世の中になって、演奏中も楽しく会話しつつ高笑いする客のいる店ばかりになったら……前時代のマシンは解体かな。

2008年1月30日



 東北三県ツアーへ行った。
 東京→秋田、新幹線。秋田→八戸→盛岡、レンタカー。
 いまいちばん気の合うトリオ、ベース真ちゃん、ドラムスはヒロシである。
 この三人で旅をするとかならず面白おかしいことが次々と起こるのだ。
 今回もたくさん起きた。
 そのひとつ……。

 八戸の会場、階上(はしかみ)町の《東門》はホテルから20km離れているので、必然的に車である。演奏が終わって会場(ここは美味しい蕎麦屋さんである)で打上げ。誰かが運転して戻らねばならず、当然その任にあたる人は飲めない。真ちゃんが犠牲的精神で「今日はぼくが運転します。どうぞ飲んで下さい」というのを有難く受けて私とヒロシは、青森から来てくれた阿部さん差し入れの米焼酎をロックで……。
 ホテルに戻った我々は真ちゃんのフラストレーションを解消すべく、彼の部屋で第二次打上げに突入する。酒は秋田でいただいた〈飛良泉〉純米吟醸。ツマミはヒロシが途中のコンビニで購入した〈鮭トバ薫製〉。
 あれ、昨夜も〈鮭トバ〉あったよな。毎日シャケトバ……シャケトバの日々かい。うはは。疲れているとこんなことでもオカシイ。
 真ちゃん「シャケトバの日々……酒とバラの日々……シャケトバ……う、一拍足りない」
 ワシ「そうだ、酒バラ一拍減らして7拍子でやろうか?」
 ふたり「え〜っ、勘弁してよ〜、でも面白いかも」
 ワシ「7拍子だけどさぁ、3+4と4+3とどっちが良い?」
 ヒロシ「チンチキチン、チンチキチンチキ……チンチキチンチキ、チンチキチン……うわ〜どっちもヤバイけど」
 真ちゃん「できることなら4+3でお願いします、なんちゃって」

 ワシくらいの歳になると、どんなに遅く寝ても朝7時には目覚めるノダ。
 そうだ、酒バラ7拍子を書かねば、と五線紙を取り出す。《東門》からのお土産のさくらんぼを口にしつつ書き終わったら朝食時間が過ぎており、仕方なくシャワーと体操でチェックアウト時間まで過ごす。
 盛岡へ。すぐ着いてしまうから高速じゃなくて国道を行こう、とのんびり出発。
 ワシ「今朝『鮭トバ7拍子』書いたよ。前半4+3、後半3+4にしといた。今日演ってみようか?」

 ヒロシ「ほ、本当に書いたの? 朝メシに現れないから怪しいと思ったんだ。ほら〜っ、真ちゃん、どう責任取るのっ? 君のひとことでとんでもないことになったんだからね。このトリオは打上げだって油断できないんだよっ。いつも緊張感持っていないといけないって言ってるだろ」
 真ちゃん「うえ〜、参ったな〜。まさか書くとは……で、アドリブは4拍子に戻るとか?」
 ワシ「それじゃ元も子もないよ。当然同じフォーマットさ。(4+3)×8、(3+4)×8だから4×32より16拍少ないってことになるけど」
 ふたり「……」
 ワシ「7拍子も┃チンチキチンチキ┃チンチキチン┃チキチンチキチン┃チキチンチキ┃で次はもとに戻るから、心配ナ〜イ。『娘さん〜よく聞〜けよ山男にゃ惚〜れ〜るなよ〜〜〜』とおんなじだよ」
 ふたり「何それ?」
 ワシ「だからさ、二拍ずつ客が頭打ちで手拍子やってるだろ、そうすると『山で吹かれりゃよ〜〜おお〜若後〜〜家〜さんだよ〜〜〜〜』が裏打ちになっちゃう」
 ヒロシ「え、待て待て┃むすめさん〜┃よくき〜〜けよ┃が3+4だろ、┃やまおとこにゃ┃ほ〜れ〜るなよ〜〜〜┃って3+5かい? で、次が┃やまで吹かれりゃ┃よ〜〜〜お┃が4+3、┃わかご〜〜けさんだ┃よ〜〜〜〜┃で5+3かぁ。34354353。電話番号みたいだな」
 真ちゃん「なにか市外局番つけて電話してみましょうか?」
 ヒロシ「山男が出ちゃったりして。モスモス、ムスメッコは居ねえズラとか言ったらどうする?」
 真ちゃん「あ、そこ左折、左折」
 ヒロシ「え? 急に言うなよ、あ〜っ、ワイパー動いちゃった!! ウインカーどっちだ??」
 ヒロシが東京で乗っている車はウインカーレバーがハンドルの左側なのだった……。

 てなことで盛り上がる車中。
 ビータはこうでなくっちゃ。

2008年6月30日



 前回のエッセイを読んだ方たちの間で論争が巻き起こっているのだそうな。“山男に電話をかける”というくだりのもとになった歌が、である。
 手拍子を打っていると途中で逆になってしまう。
 「基本は四拍子だ」「いやあれは三拍子の曲だ」と二派にわかれているという。

 四拍子派は途中で三拍子が入る 4443 4443 ですな(電話番号にもなる)。

|むす めさ んー よく|きー ーけ よ・ やま|
|おと こにゃ ほー れー|るな よー ーー|
|・や まで ふか れりゃ|よー ーオ オ・ わか|
|ごー ーけ ・さ んだ|よー ーー ー・|
※|は小節線 ・は休符

 三拍子派はすっきりとすべて 33333 33333 (ただし電話番号には???)。

|むす めさ んー|よく きー ーけ|よ・ やま おと|
|こにゃ ほー れー|るな よー ーー|
|・や まで ふか|れりゃ よー ーオ|オ・ わか ごー|
|ーけ ・さ んだ|よー ーー ー・|

 三拍子派の利点はなんといっても手拍子が裏返る心配がないということだ。宴会にしろコンサートにしろ容易に一体感が味わえる。さらに楽譜を読むことを敬遠するジャズ・ミュージシャンにとっては朗報である。「あ、三拍子やってれば良い? ほいきた」
 しかしリズムだけを見ればうまく行っているが、問題は歌詞である。
 ことばの強弱とリズムの強弱が合わないと、

|べん けい がな|ぎな たを もっ|てう しわ かま|るに

 みたいなことが起きる。
 三拍子派の弱点はこれだ。
 もっとも近頃のポップスだと「ぎなた」状態は珍しくもなんともないのだから、それをとやかく言うのは野暮、ルイフ(古い、のミュージシャン用語)なのかも知れないが、ワシとしては許せんのじゃぁ!(なぜか急に広島弁)

 ならば四拍子派に「ぎなた」は無いかというと、あるんだな、これが。

|るな よー ーー|

 って何だ? ルナ→月、月夜? うはは。
 そのほかに言葉が分断されている所が二カ所。しかしこちらは

  ・     ・
やまおとこ、わかごけさん

 とアクセントの音節が強拍に来ているから「ぎなた」ではない。
 こうして見るとワシとしては四拍子派に軍配を上げたいが、せっかくだから「ぎなた」を解消しておこう。

|むす めさ んー よく|きー ーけ よ・ やま|
|おと こにゃ ほー れー るな|よー ーー|
|・や まで ふか れりゃ|よー ーオ オ・ わか|
|ごー ーけ ・さ んだ| よー ーー ー・|

 山男の電話番号は 4452 4443 (03や06をつけて電話してはイケマセン)。

 この歌、曲名が『山男の歌』。作詞神保信雄、作曲者不詳となっている。
 ちなみに二番は

山男よく聞けよ 娘さんにゃ惚れるなよ 娘心はよ 山の天気よ

 三番は

娘さんよく聞けよ 山男の好物はよ 山の便りとよ 飯盒のめしだよ

 え? 飯盒ご存知ない? 「はんごう」はアルミニウム製の深底、つぶれた円筒形の鍋兼用弁当箱。軍隊や登山ではこれを直接火にかけて飯を炊く。

 ところで、『山男の歌』に元歌があるのだとは知らなかった。しかもそれが海のものとは……。海軍兵学校で歌われていた『巡航節』だという。音源を聴く機会があったので採譜してみた。
 JASRACデータベースによると作曲は神代猛男。作詞は不詳。
 原調Aフラット、テンポはmm=80くらい。
 自分たちのことを“生徒さん”と呼ぶところに違和感を覚えるが、次の歌詞などはいじらしい。

娘さんよくきけ 生徒さんの好物は 娑婆の便りにヨー 酒保羊羹ヨー

 酒保とは軍隊の営内にある日用品飲食物の売店。そこの羊羹が好物とはね。

 〈娘さん……〉の歌詞は一番ではない。当然だ。
 誉れ高き大日本帝国海軍兵学校の生徒が歌うにはあまりに軟弱。これでは鬼畜米英と戦わずして敗北必至だろう。兵学校の名誉のために……
 歌詞一番は

帽子目深に 月の眉かくして 笑みを含んでヨー チルラーとるヨー

 二番

あの端廻れば 生徒館が見えるヨー 赤い煉瓦にゃヨー 鬼が住むヨー

 チルラーはtiller。端艇(ボート)の舵の柄だとか。鬼は教官だな。
 いや〜、ツアーの冗談から思わぬ勉強ができた。やはりこのトリオ、尋常ではないわい。

2008年8月4日



 Bach氏。ヨハン・セバスチアン・バッハ。
 日本人なら小川さん、あるいは細川さんになるか。
 ドイツ人だというのが憎いところだ。
 四文字すべてが音名であるなんぞ、音楽家になるための家系というしかない。
 ドイツ音名だから良かった。英音名ならMr. B flat-A-C-B?? 格好つかないではありませんか(老爺心ながら、ドイツ音名なんぞ知らんという読者は末尾参照されたし)。
 自分の名前をモチーフにしてフーガを作ったりできるのだからうらやましい。
 Satohでも何かできないかな、と考えたことがある。ミュージシャン言葉だとひっくり返してトーサ。昔、トコちゃん・日野元彦氏や富樫雅彦氏からはそう呼ばれていた。
 Tohsa。こいつをさらに逆行──これこれ、またミュージシャン語かい、と馬鹿にするでない、retrogradeと申すあっきゃでみーつくな音楽用語があるぞよ……みーつくみーつく……つくつく法師が鳴いておる。夏も終わりじゃ……──レトロせしめてashot。as hot as soricco砂漠の熱風のように熱く、なんちゃって、 うむ、なかなか良いぜ。
 as→A flat、ホ→E、ト→G、日本音名に目をつけるなんざぁ我ながらやるもんだ。で、こいつをモチーフにしてわが携帯の着メロを作ったのである。出だしはこんな具合。以前の携帯はこういう遊びができた。今は有りもののダウンロードばかりでつまらん。

 それはさて置き、Bachである。
 どうもB flat-A-C-Bだけでは物足りない。
 Johann Sebastianを音にする手だてはないものか。せめて頭文字のJ.S.を……SはesだからE flatで良しとして、Jねぇ。う〜ん、と考えあぐねた時があった。なんでも世間でしきりにバッハ、バッハと騒いでいたからな。
 あれはバッハ生誕300年だったかな? ならば1985年か。
 それとも没後250年? だとすると2000年だ。
 1985年に携帯はまだ持っていなかったはずだから、2000年? 最近はこの程度の物忘れでは全く驚かないようになっておる。泰然自若。縄文杉の如し。
 要するにいつのことだったかとんと思い出せないが、そのときはJを音名にこじつけることができず、雑事に追われているうちに無意識の奥底へと流し込んでしまっていた。
 それが、どこでどうつながっていたのか、人間の思考回路は摩訶般若波羅蜜多じゃない摩訶不思議なもので、ある日の夜更けに突然よみがえり、閃いたのである。
 round midnight……夜半……Johann……四半!!
 そうか、音名ばかり考える必要はないじゃないか。度数で良かったのだ!
 ヨハン→四度と半音。C-F sharp、あるいはC-F-F sharp、しかも何の音からでも行ける。E-A-B flat、G-C sharp……。
 これで一挙に可能性が広がった。
 たとえばこれなんかどうよ?

 なんかフリー・インプロの導入に良さそうな気がしてきた。
 左手とベースのパートを作って次回のピットインでやってみるか。
 あ、またヒロシと真ちゃんを悩ましてしまうかも。
 ゴメン、in advance……。

*英独日音名表

2008年8月25日



 ある会館から責任重大なことを頼まれた。
 ピアノを三台選定してほしいという。
 フルサイズ(9フィート)のコンサートグランド、中型(6フィート)のグランド、それにアップライト。ホールとレコーディングスタジオとリハーサルルームに置くのだそうだ。
 ピアノなんて工場で作って出荷するのだから、車みたいなものだ。選定などと大袈裟な。傷や欠陥をチェックすれば済むことだ、というのは大間違い。
 むろんピアノは工業製品であるから定められた型があり、製品ごとのバラつきも各社の規格をパスする範囲内に収まっている。ことに世界に冠たる日本製はその点の評価だけでも他の追随を許さない。従って、サイズと塗装を指定すれば納入される製品は満足できる水準にあるはずだ。
 しかし、ピアノは機械であると同時に工芸品の性格も持つ。
 求められる精度1/100ミリ単位の8000にも及ぶ部品を組み立てるのは、コンピューター制御のロボットアームではなく、熟練した技術者なのである。300本を越えるピアノ線の張力20トンを支える金属製のフレームはダイキャストでの量産が可能だが、唐檜(スプルース=針葉樹)を何年も自然乾燥させ、微妙な厚みのカーヴに削りあげる響板は、それ自体が自然素材だから一枚ずつ異なるはずだ。それをできるだけ均一な品質に仕上げる最終工程には真性“職人”の目、勘、技の関与がなくてはなるまい。
 したがって、ピアノには一台一台が個性を持った生命体、という要素があるのだ。さらに、それが後々どんな環境に置かれ、どのような弾かれかたをし、どういう調律師にゆだねられるか、によって性能が開花したり未熟のままで終わってしまったり、順調に育ってもどこかで挫折したり、まるで運命に翻弄される人間さながらの一生を送ることになる。
 だから選定は大切なのだ。
 ではピアノの個性とはどんなものなのか。
 よく、鍵盤が軽い、重いを問題にする人がいるが、これは調律の段階でいくらでも調整することができる。調律師の仕事は音を合わせる作業が、まあ30%かな。作業の大部分は「整音」という音色と機械部分の調整である。
 音が鋭い、丸い、ともいう。これも調律でかなりな程度調整が可能だ。
 つまり、メンテナンス=調律では左右できないものが個体の特性だということになる。
 トリプルピアノのコンサートで各地のホールのピアノをずいぶん弾いた。フルサイズを二台具えているホールはたいていS社、B社どちらか一台にY社という組み合わせ。大都市ではS+B、時にS×2などだが、さすがに三台というわけにはいかない。で、レンタルでYを搬入する。だからS+Y+Yになることが多かった。
 そういうわけで、リハーサル後の空き時間にいろいろ弾き比べてみるのが楽しみのひとつになっていたのだが、Y×2(あるいはS×2)という場合に当然ピアノの個体差が際立って感じ取れることになる。
 ピアノだけのコンサートだから三人の調律師の方々ができるだけ音色を揃えるべく努力してくれているにもかかわらず、である。
 年齢差はどうなんだ、と思うだろうが、製造番号を見て驚いたことが再三ある。つまり古くても若々しい音を保っている個体がいくらもあるのだ。
 こういった経験と、あちこちのスタジオでのレコーディングなどで出会ったたくさんのピアノを通して、彼らの個性はどこに宿っているのか、と考えると答えはひとつになる。
 それは、製造時に組み込まれて、あとから手を加えられない、あるいは手を加えるにはそれこそ全身麻酔の大手術しかない部分。
 響板である。
 響板は文字通り弦の振動を増幅して音波とする巨大な板だが、増幅する周波数帯域に微妙なばらつきがある。自然素材なので仕方がないことだが、それが結果として個性になっているのだ。
 たとえばC0を弾いたとする。C0の弦は倍音列という音を含んで振動しているから、響板は当然それらの音も増幅するだろう。しかし響板が、弦に含まれる倍音のあるものはより増幅し、あるものはそれほどでもない、としたらきこえる音色は違ったものになるはずだ。

 これが出生時に植え付けられた個性なのではないか。
 ――通常ピアノ選びは、何台かで同じ曲を弾いて「これが良いだろう」と決めるのだが、そういう漠然とした気分だと前に述べたような整音の範囲にある項目も混入してしまうことになる。
 犬猫をペットショップで選んだように、「こんな性格とは思わなかった」などと後悔するかも知れない。
 響板の特性をある程度見極めておけば、「こういう奴なんだから」と安心して付き合えるというものだ。

 フルサイズ四台から一台を選ぶのに、私の採った方法の一端は次のごとし。
 まずC0をペダルを踏みつつフォルティッシモで弾き、余韻が消えるまで倍音を観察。何次倍音が強いか、最後まで聴き取れるのはどれか、など。これだけでもそれぞれかなりな違いを見せる。
 (1)は11次が強く、(2)は9次、(3)は7次、(4)は10次という具合に。
 高次の奇数次倍音が強いということは、かなりジャジャ馬になる可能性を含んでいる。より低次の偶数次倍音が豊かなら穏やかな性格、と予測する。
 これをいろいろな音域で試みるうちに、次第に響板の全体像が見えてくる。
 当初予想していたもの、例えば(1)についてはジャジャ馬ではなく、華やかで社交的な姿であった、とか(4)は穏健かと思いきや以外に頑固な野武士風、とか。
 会館のホール、またスタジオという場所から考えてある意味それほど個性の際立たない、コントロールしやすいものが良いと考えて、倍音列ができるだけ高次に向かってなめらかにならんで聴こえるものを選んだつもりである。
 自分用だったらこれ、を敢えて封印したのだ。
 選択が正しかったかどうかは何年か経たないと判明しない。

2008年10月3日



バッハを中国語で書くと(PDFファイル)
2008年10月27日



 「サトーくんジャズ始めたんだって? ジャズってどんなもの? これジャズで弾いてみてよ」
 I先生が開いたのはバッハのインヴェンションだった。
 私が高校生のころの話である。
 I先生といえば「怖い」が代名詞になるほどで、ちょっとモタついたりすると「もういいっ、帰れ〜っ」と怒鳴られる。女の弟子などかならずハンカチを二枚用意してレッスンに臨むのだ。一枚は手ふきに、もう一枚は涙ふきに。
 通っていた三年余の間に「うん、良いだろう」と云われたのがただ一度。ほとんど毎回怒られてばかりで、弾いているところへピアノの蓋を閉められたり、「もう来るな」などは珍しくない。
 そんなI先生に、なかば冗談とはいえ「ジャズで弾け」と云われて、ハイそうですかと覚えたてのスイング状態を披露するほどジャズ・ミュージシャンの厚かましさがすでに身に付いているわけがない。
 「え、アノ、まだ始めたばかりでよくわかりません。す、すみません」……たぶんこんな答えをしたと思う。
 それ以来ずっと記憶の奥底に「バッハをジャズで」という先生の一言が沈潜しているのだった。
 それからしばらくして、ジャック・ルーシェがジャズ風バッハの連作を発表したのを聴いたが、どうもすっきりと腑に落ちない。上手いのは上手いのだがバッハという巨像に遠慮して「こんなんでどないだす?」とおうかがいを立てているような感じなのだ。
 他にもいろいろな人がバッハを題材にしている。最近誰だったかリンカーンセンターで演奏したビデオを見たが、「それって単にベースとドラムを入れただけじゃないか」と言いたくなるものだった。
 なぜだろう、と考えていてハタと思い当ったことがある。
 対位法の呪縛……。
 バッハといえば対位法。対位法とは手っとり早い話、一人が何か云うと他の人が少し間を置いて同じことを云う。さらに他の人が同じくらいの間を置いて同じことを云う。最初の人は二人目が云った自分のせりふを聴きながら二言目を言う、こうやって行くと、わりあい簡単なことでも面白くなる。
 身近な例では輪唱ですね。

静かな湖畔の森のかげから   もう起きちゃいかがと郭公が鳴く
静かな湖畔の森のかげから  もう起きちゃ

――みたいなもの。むろん対位法はもっとずっと奥深いアリガタ〜イものではあるのですよ。

 で、バッハは対位法の大日如来みたいなお方であるからして、根本教義を取り去るなどとんでもない、というような先入観を皆さんお持ちなのではなかろうか。さらに云えば、対位法的な処理の常道として、もとになる旋律(さっきの例では最初の人の一言目)にからんでくる対旋律(二人目に移行した一言目にからむべく一人目が考える二言目)はもとの旋律の束縛(つまり調やら潜在的な和音の)を受けるわけで、なんとなく堅苦しいことになってしまうのだ。
 このあたりが、インベンションやフーガについてまわる窮屈さのもとではなかろうか。『G線上のアリア』や『シシリアーノ』など、単旋律でのバッハはとてものびのびとしている。
 ところが三声、四声、と多声化するに従って、複雑な建築物に組み込まれて行くような、思わず正座しなければならないような感覚にとらわれてしまうのだ。私の場合はもしかするとI先生に怒られたトラウマが蘇るのかも知れないが。
 それはともかく、バッハをもっとジャズに引きずりこむには、まず対位法の呪縛から逃れるしかない。要するにフーガであれプレリュードであれカンタータであれ何であれ、単旋律だとおもってしまえば良いのだ。ひとつの声部にこだわる必要もない、対位法的処理をされた部分に来て重苦しいとなったら、即座に他の声部に乗り移る。
 こういう方法で、しかもなるべく原曲の雰囲気を損なわぬような単旋律を作り、そこへジャズの色彩を充分に含んだコードとリズムで料理したらどうか。

 たとえば、

 こいつをこんな風にラテンチックな3拍子で

 またまた真ちゃんとヒロシを目点にしてしまったのだが、演ってみると意外に面白かった。で、悪ノリついでに少しずつ書き溜めてアルバム一枚ぶん以上になった。来年はじめには録音して見ようかなとおもっている。
 タイトルはせっかくバッハを“巴赫”と書く、なんて漢字表記を知ったのだから使わない手はなかろう。《巴翁戯楽》とでもするか。
 あれからちょうど50年経って、師のご下問にお答えすることができるというわけだ。いやはやまったく不肖の弟子であるなぁ。
 さて、どんなものが出来上がるか。乞うご期待。

2008年12月05日



Carpe diem vita brevis
 Seize the day, life is shortという意味のラテン語らしい。
 つまり「命短し、楽しめ今日を」てなことか。
 ♪ い〜のち〜みじ〜かし〜 恋せよ〜おとめ〜……
 思い出した。むかしArs longa vita brevisとは「人生は短く、芸術は永し」だと何かの教科書にあったっけ。

Carpe diem vita brevis
 どこに書いてあるかって?
 ビールのラベルだ。「No beer no life」をモットーとする大阪のK氏なら落涙して喜びそうなビールである。ベルギーの修道院で造る方式によるアルコール分9%以上の濃褐色エールだ。
 銘柄がまた良い。
 〈Brother Thelonious〉修道士セロニアス。イラストはEduardo Smissenという人が描いている。セロニアスにはピアノ鍵盤の後光。思わずにやりとしてしまう。ブラザーは修道士、モンクも修道士。ん? ブラザー・セロニアス・モンクは修道士セロニアス修道士? 馬から落ちて落馬して、一週間経って七日過ぎ?? ああ、頭痛が痛い……。
 製造元はNorth Coast Brewing Company。サンフランシスコの北、Mendocino郡の太平洋岸にあるFort Braggという人口7000人ほどの小さな町の地ビールだ。1988年にできたとあるから、まだ新しい醸造所である。しかしセロニアスの他にもOld Rasputin=帝政ロシア末期の怪僧ラスプーチン、だとかRed Seal Ale=赤アザラシ、なんていうおかしなネーミングのビールを造っている。
 何やらマニアックなブルワリーなのだ。
 セロニアスなどと名付けるからには、かなりジャズ好きな会社だとみて調べると、はたして単なるジャズ好きどころではなかった。
 まず、北カリフォルニアのジャズをサポートするということで、Monterey、Healsburg、San Francisco三つのジャズ・フェスティバルのスポンサー(オフィシャル・ブルワリーなる名称だ!)になっている。
 それからThelonious Monk Insutitute of Jazz=セロニアスモンク・ジャズ学院のスポンサーでもある。
 この学校はニューオーリンズのLoyola Universityの二年制Jazz Performance Classに入るための奨学金を出していたり、Thelonious Monk International Jazz Competitionというカレッジ・レベルの若いミュージシャンのためのコンテストを催している。
 コンテストは毎年対象とする楽器が替わり、過去の審査員としてQuincy Jones、Branford Marsalis、Pat Metheny、Herbie Hancock、Dave Brubeck、Clark Terry、Diana Krallなどの名前が見える。たしか一昨年、日本から守屋純子さんのビッグバンドが出場して作曲賞を受賞しているはずだ。

 〈Brother Thelonious〉の4本入りケースには「このビールはThelonious Monk Insutitute of Jazzとの連携で発売されています。ケースひとつ売りあげるごとに、ジャズ教育をする本学院にたいする貢献が発生します」と印刷されている。
 その反対側には、

Let's Call This Brother Thelonious. A delicious, Belgian-style abbey ale that could be a Monk's Dream. Very Misterioso. Should be enjoyed Straight, No Chaser. Well You Needn't wait till 'Round Midnight. Ask Me Now.

 いうまでもないが、イタリックのところはモンクの曲だ。
 全部続けると、

 恐れ入りました。小さな町の地ビール会社がこれだけ文化的な活動をする。
 ふりかえって日本はどうだろう。税金の制度が違うから仕方がないことだ、とあきらめてはいけないのではないか。企業が不況を理由に次々と文化への貢献から撤退していくのを見るたびに、十年後、二十年後の日本人の感性が荒涼としてしまうのでは、と心配になってくる。

 実はこのビール、クリスマスのライブのとき、湘南にお住まいの落語好き(そしてジャズ好き)のIさんが下さったもの。
 なんでも年に一度だけ日本に入ってくるのだとか。どういうルートで入手されたのか聞き漏らしてしまったのが少し残念な気がするが、こういう面白いものはそう年中飲めないところがまた良いのだ。
 早く2009年のクリスマスが来ないかなぁ。

2008年12月30日