ギョーカイ用語をイッパンジンに向けてしゃべらないでください。
 日本語ばかりでなく、世の中が乱れます。
 ギョーカイ用語はもともと外部と内部を区別するためのもので、一種の暗号・符牒であった。
 それが次第にイッパンジン側に漏れだすようになる。漏れ出た言葉は暗号という本来の機能を失ってしまうかわりに、やがては通常の日本語として認知される。しかし、言葉の品格から言えば、もとが暗号のようなものなので、いささか劣るのは否定できない。ギョーカイ用語が増えれば増えるほど、日本語はいかがわしいものになって行くだろう。
 漏れ出すにはふたつの経路がある。ひとつはギョーカイジンであることを得意になってひけらかす。もうひとつはギョーカイ慣れして、イッパン語とギョーカイ語の区別がつかなくなった人物が話す。そのどちらも、浸透するさいにはマスメディアがかかわっている。
 たとえば「メセン」(目線)という言葉はもともと映画やテレビ用語だった。クローズアップされた人物の目の方向、の意味である。目がカメラ、つまり観客のほうを向くことを「カメラメセン」、などという。視線や視点とは違うことだったのに、ギョーカイジンが乱発した結果、イッパンジンのあいだで「子供のメセンでものを考える」というような言いまわしが通じるようになってしまった。
 足らんと、いや失礼、タレントと呼ばれる種族がテレビでギョーカイことばを得意になってしゃべる。それをカッコイイと思ったイッパンジンが真似る。これが浸透の構図だ。
 別名マスメディア教洗脳の術。
 日本を導く(実体はともかく)べき政治の世界にも、われわれがうかがい知れぬ特殊用語があるらしい。
 先日、なんとなくテレビをみていたときのことである。何人かの政治家が討論する番組だった。
 「地方のクミチョウの選挙も…」という言葉が聞こえてきた。
 え?近頃はマル暴のほうでも民主化が進んで組長を選挙で選ぶのか。それにしても政党の話だったはずなのになぜ?…司会者は当たり前のような表情で会話を続けているし…
 何度も出現する「クミチョウ」を、話の前後関係から類推してみると、そのセンセイは市長や町長の選挙のことをしゃべっているのであった。「クミチョウ」ではなく「クビチョウ」。首長である。地方自治体の長、市長や町長を首長という。長い間なりたいなりたいと思っているうちに首も長くなるのだ。ロクロックビか。
 たぶん彼らの仲間内では「クビチョウ」が普通名詞なのだろう。そして彼らのまわりに群がって情報を取る記者たちは、当然そのような“政治家用語”に習熟していなくてはならない。習熟の度合いが進むにつれて、記者自身も政治家用語を特殊ともなんとも感じなくなる。そういえば件の番組の司会者、前身は新聞記者だったな。
 議員バッジとか、警察手帳のたぐいを何年も所持していると、心身ともにギョーカイに染まってしまい、ギョーカイ用語を使ってもよい場か、使うべきではない場かの区別がつかなくなってしまうのだ。
 私は昨年度一年間、ある地方新聞の文化欄に月一回のコラムを書いていた。
 音楽に多少関係のあることだたったら何を書いてもよいというので引き受けたのだが、意外なところで面食らうことがびたびあった。ま、ジャズの専門誌と新聞ではおのずから制約の違いがあって当然、このページのような自由さはあるまいと予想していたけれど、それをはるかに上回るものだった。毎回の攻防についてはまたの機会に譲るとして、何回目かに私は人間以外の生物が音楽を聴くか、というようなことを書くについてある研究者(かりにI先生と呼ぼう)の実体験をまじえた説を引用した。お会いして直接お話をうかがい、メモもとって正確を期したものである。むろん、こういう新聞のコラムに書かせていただくことについても了解されている。
 原稿を送って何時間か経ったころ、担当者から電話である。
 「やっとIさんと連絡がつきました。一応原稿を見せてくれというのでファックスします」という。「ちょっと待ってください。なんでI先生に連絡しなければならないのですか。だいいち、どうやって先生の電話番号を調べたのですか」
 「新聞としては一応事実関係のウラを取りませんとね」
 ???ウラ…
 私は一瞬相手が何を言っているのかわからなかった。
 刑事が容疑者の言った事を確かめるのを「ウラをとる」という。サスペンス劇場なんかによく出てくせりふだが、文化部の記者まで汚染されているのか。
 そうか、新聞記者はどんな部署にいてもイッパンジンをそういう目で見るのだ。愚かなイッパンジンの書くものは信用できない。容疑者の言っていることと同じで、かならずウラをとる。
 「オレは犯罪者か!」
 すっかり丸くおなりになる前のサトーサンだったら即座に原稿引き上げ、となるところをぐっと我慢。「そこで警察用語をお使いになる必要はないと思いますがね。それはともかく、一方的にI先生に確かめる前に、私にひとこと言って下さるべきではないですか」
 いきなり新聞社から電話がかかり、しかも「ウラをとる」が日常語になっているような記者が、刑事の尋問調で「これは事実ですか。確認してくれませんかね」とでも言ったとしたら、I先生の驚きはどれほどか。温厚なI先生の穏やかな日常を乱すまいと、私はアポイントメントをいただくための電話をする時間にも気を配っているのだ。お話をうかがっていてもご研究の邪魔にならないように、ご体調に障らないように、と手際よく短時間で切り上げるようにしたというのに。
 この新聞社では、記者達の通常の会話も政治集落、警察集落の方言=ギョーカイ用語を頻発しているに違いない。
 昔、新聞記者を無冠の帝王とか社会の木鐸と呼んだ。すなわちそのころの新聞記者は権力にへつらわない、冠をかぶらない帝王なのだ、という誇りをもっていた。木鐸とは古代中国で法令を人民に知らせるときに鳴らす木製の大鈴、転じて人々を教え導く人の意味である。
 近頃は、誇りだけが残って、お上サイドの情報をただ流しているだけだと思ったら、すべてにちゃんとウラをお取りになる?。ご立派なことで。
 それならば、大臣、官房長官の発言、捜査本部の発表のたぐいはすべてウラを取った結果記事になるのだ、と信じて良いのだな。
 そして、たぶんおろかなイッパンジンは55年前のあの日をふたたび味わうことになる。
 どうやら、ギョーカイ用語のタレ流しと日本の凋落の関係が見えてきた。
【初出:『JazzLife』2000年7月号】



 またまた<トリプルピアノ・ネタ>登場!
 前田御大がライブハウスでお客から質問を受けた。
 「マラゲーニャとラ・マラゲーニャは違う曲ですか?」「違う曲です」「どう違うんでしょうか」「そりゃ、タバコと下駄箱ぐらい違うんだよ」!!!
 この話を漏れうけたまわったハネケンと私、「うーんさすがだぁ…おれたちもそれに匹敵するやつを考えなくっちゃ」
 とりあえずのハネケン・バージョンはなかなかの出来である。
 <醍醐味 と 粗大ゴミ>ぐらい違う…
 次に会ったとき「ひとつ考えたよ」と、
 <パンジー と チンパンジー>ぐらい違う…

 マラゲーニャはスペイン・アンダルシアの地中海に面した港、マラガ地方の舞踏・民謡曲。その旋法やリズムを取り入れて『マラゲーニャ』と名づけられた作品がクラシック界には複数存在する。ツィゴイネルワイゼンの作曲者サラサーテの<8つのスペイン舞曲>のなかにひとつ、それから同じスペインの作曲家アルベニスのピアノ組曲<エスパーニャ>のなかにひとつ。さらにそれをクライスラーがバイオリンに編曲したもの。
 私はそっちの専門ではないので、このあたりでご勘弁ねがうとして、『ラ・マラゲーニャ』のほうはラテン・ナンバーだ。そのむかしトリオ・ロス・パンチョスでヒットした。だから当然これらは全く違う。
 で、どのくらい違うかというと、

    居留守 と マイルス
   痛いなー と マッコイ・タイナー
    リスト と イエス・キリスト
   イマジン と 大魔神
     怪獣 と 世界中
     陰謀 と オーバー・ザ・レインボウ
    志ん生 と 心身症
    小さん と やっこさん
    身なり と カミナリ
    カバン と 豪華版
   クリーン と スクリーン
     人口 と ミジンコ
     ウド と エチュード
     茄子 と ボーナス
     信者 と キッシンジャー
    イラン と おいらん
    イラク と 墜落
   イギリス と キリギリス
     鳴門 と マクドナルド
    言わん と 台湾
     無糖 と グアム島
   ロケット と デビー・クロケット
   トリック と エレクトリック
   トロール と パトロール
    チロル と スチロール
   ラッシュ と フラッシュ
    ラテン と カメラ店
     露店 と ところてん
     詭弁 と 駅弁
     答弁 と ベートーベン
     第九 と 日曜大工
    うどん と 牛丼
    ちまき と 鉢巻
    手巻き と 伊達巻
    遠巻き と 納豆巻
    胴巻き と 自動巻き
     宇宙 と 焼酎
     ブリ と ゴキブリ
   きゅうり と たたき売り
     遺憾 と 警官
     市長 と 警視庁
     都政 と オットセイ
     季節 と 不適切
     障子 と 不祥事
     通訳 と 頭痛薬
    あぐら と バイアグラ
     上司 と 腹上死
     内縁 と 口内炎
     遺産 と 解散
    身売り と 読売
   チャンコ と チャンチャンコ
    マムシ と オジャマムシ
   タクシー と わたくし
     ドル と コンドル
    ダサイ と 下さい
     箪笥 と スタンス
     痛い と 携帯
     婦人 と 理不尽
     伊豆 と クイズ
    井の頭 と 良いのかしら?
     野方 と オノオノガタ
     九段 と 爆弾
     送信 と 闘争心
     精油 と マルセーユ
     義理 と お握り
    ラッパ と 原っぱ
    ランプ と トランプ
    めがね と 止めがね
     頑強 と 老眼鏡
     移動 と 水道
     東武 と ストーブ
      絣 と 垢すり
     武将 と 出不精
   アイコン と 見合い婚
    グッチ と 非常口
   シャネル と わしゃ寝る

ぐらい違うんだよォォォォー。あぁ疲れた。

【初出:『JazzLife』2000年8月号】



 「ちょっと君のメモ帳みせてごらん。若いうちにいい加減なコードで覚えるとよくないからな…やっぱりかなり間違ってる。きょうこれ預かっていくよ。明日までに直しておいてやるから」
 「あのねぇ、ピアノのバックはそうのべつ幕なしに弾くもんじゃない。こっちが息ついたときなんかにポーンと入れる。トミー・フラナガン、な、ああいう風にやってくれよ」
 高校三年でプロバンド入りしてきた新米ピアニストに先輩はとても優しかった。しかし時には“愛のムチ”も飛んでくる。たとえばやっと覚えた曲を、ひとことの予告もなしに違うキーで吹き始めたりする。
 えーと、短三度上がるということは、F7はAフラット7になって、などと考えているうちにわけが分からなくなっていると、「次Eマイナー、次Aメジャーセブン」と後ろを向いて小声で言う。そのうち「あーもう弾かないでいい、休んでろ休んでろ」…
 こういう鍛え方をされる時期がなかったら、私は今日まで音楽を続けてこられたかどうか。
 バンドはあくまでアルバイト。大学を卒業したら就職するのだ、とその頃は漠然と決めていたのだから。
 すなわちこの先輩は私にとって大恩人なのだ。
 「サトーくん、こんどオレのレコードを作るんだけど、手伝ってくれよ。」
  そんな電話をもらったのは1962年の2月頃だったはずだ。レコーディングなんて別世界の出来事と思っていた私にはまさに寝耳に水、晴天の霹靂。
 ドラムスに原田寛治さん、ベースに原田政長さんというカルテット。何曲か少し大きな編成のものもあるという。アレンジが八木正生さん。名前を聞いただけでめまいがしそうな人達の中に入ることになって、どんな感じがしたのか。まったく記憶にないのは怖いもの知らずで大抜擢を単純にうれしがっていただけだったのかもしれない。いまはミュージカルの劇場になっている赤坂のTBSの隣地に、たしか国際ダンススタジオというような名前の古びた板張りの稽古場があり、そこでリハーサルをしたのが5月のはじめ、気持ち良く晴れた午後だったのを憶えている。
 『AKIRA MIYAZAWA』と名付けられたそのアルバムは、同時にピアニストとしての私の初参加ジャズアルバムともなった。
 ジャケット写真は岩魚を狙って長い竿を左手で渓流に突き出している勇姿、収録されたオリジナル曲は"YAMAME"、"FLY CASTING"という、釣り好きな宮沢さんならではの作品に仕上げられていた。
 宮沢さんはこのあとも魚の名のついた曲をずいぶん作っている。手元にあるLPを見てみると、"RAINBOW TROUT"、"BLACK BASS"(『Four Units』1969 Teichiku)、"BULL TROUT"、"BROWN TROUT"、"AYU"(『Bull Trout』1969 Victor)、"KING SALMON"、"CAT FISH"(『My Piccolo』1981 Nippon Phonogram〜ピッコロは宮沢さんが飼っていた犬の名である。「ぴーちゃん」と呼んで可愛がっていたのだが、レコーディングの少し前に天寿を全うした)。
 「おい、ちょっとその羽根ハタキ見せてくれよ」
 あるとき、車の埃を払っていたら宮沢さんが来て言った。
 「うーん、こりゃ良いぞ」
 鶏かなにかの尾羽根でできたハタキを眺めていた彼は、やにわに二三本引き抜いた。
 「こいつは良い毛針になるんだ」
 …釣り師仲間で「あんたサックスての吹けるんだって」と言われているという噂は本当なのかも知れない、と思ったものである。
 自ら毛針を製作してしまうほどだから、サキソフォンのマウスピースを自分の気に入るまで調整するのは当たり前だった。道具はローソクとドライバー。
 マウスピースの内側にローソクをたらし、固まってからドライバーで丹念に削って行く。ひと削りしては吹き、またひと削りしては吹いてみる。
 「ちょっと削りすぎたか」と、再びローソクをともす。
 「どうだい、前よりヌケが良くなったろう」と聞かれても、こちらにはよくわからない。
 ところで宮沢さんの風貌から受ける印象は、このような繊細な作業とはまったく裏腹だ。
 御徒町の駅前にあった『お若いデス』というクラブで演奏しているときのこと、店に立ち寄った地元の「ヤ」系の人が、「あのひとコワソー」と恐れたというのはかなり有名なハナシである。ちなみに『お若いデス』ははじめ東銀座にあって、御徒町へ移したあとをジャズ好きの持ち主が『ジャズギャラリー・エイト』にしたのだ。シャンソン喫茶『銀パリ』でのセッションと並んで、60年代の日本のジャズにとっての貴重な拠点となった。
 宮沢さんはまた、演奏に没入するひとでもあった。
 これも『お若いデス』でのエピソードだが、ホステスや客の顔が見えるから、とステージと客席の間をレースのカーテンで仕切らせた。それでもまだ足りない、と次の週にはもっと厚手のものにしてしまう。これじゃ何のための音楽かわからないけどねー、と共演していたドラムスの小津昌彦があきれ顔で言っていたが、心底宮沢ファンのオーナー宮川さんはむしろうれしそうだったという。
 武満徹、黛敏郎、間宮芳生といった作曲家たちは50年代から60年代にかけてジャズに興味を持っていた。当時こういった人達が映画音楽を担当すると、サキソフォン・プレイヤーとして声がかかるのがまず宮沢さんではなかったか。その頃のフィルム、たとえば若き日の裕次郎、あるいは京都太秦制作の市川雷蔵ものなどのサウンド・トラックを注意深く聴けば、宮沢さんに違いない、という音を発見することがあるだろう。

 宮沢昭:1928年12月6日長野県松本市に生まれる。音楽家としてのスタートは陸軍軍楽隊。戦後ニュー・パシフィック、ブルーコーツなどのビッグバンドを経て伝説のピアニスト森安祥太郎のニュー・コンボに参加…以来日本ジャズのトップ・サキソフォニストとして活躍を続ける。
 2000年7月6日歿。ご恩に報いることのあまりに少なかったことが残念でならない。

【初出:『JazzLife』2000年9月号】



 百物語という遊びが江戸時代にあった。
 座敷に百本の蝋燭を立て、参会者が順に怪談をする。一話ごとに灯をひとつ消して行き、百話終わって最後の一本を吹き消すと真の闇のなかにかならず怪異が出現…
 ビデオや深夜放送がなかった昔でも、人々は夜更かしが好きだったようで、落語などから察すると江戸時代人は平成時代人より享楽的でさえあったと言うべきかもしれない。
 夜更かしどころではない。「徹宵語りて夜の明くるを知らず」。話しつづけて気がついたら夜が明けていた、だもんね。よく話のネタが尽きなかったと感心する。常日頃面白おかしく暮らしていればこそできたことだ。
 しかし、もっと以前はただ単純に楽しみのためだけで語り明かすのではなかった。徹夜話しのもとをたどると、中国古代の道教信仰に行きつく。
 道教では庚申(かのえさる)の深夜になると、眠っているあいだに体内の「三尸虫(さんしちゅう)」が天帝のところに訴え出て人の命を縮める、と説く。で、平安時代の貴族たちがその日は寝ずに徹夜で酒宴をした。これが庶民に広まり、仲間内で「講」とよばれる寄り合いを作って話すようになる。そのうちに「三尸虫?ンなもなぁどうでもいいや。とにかくおもしれぇ趣向で飲みながら夜っぴてさわごう」てなことで、庚申の晩にかぎらずいつでも、そして夏の夜は怪談が定番化したであろうことは容易に想像できる。
 百物語はそのような経過で成立したと考えられる。
 文明開化以前は日本中どこにでも真の闇があった。だから魑魅魍魎(ちみもうりょう)のたぐいもそのへんでひっそりと生息していられたに違いない。
 「こう明るくなっちゃやって行けないね」とオバケ達はバリ島かどこかへ移住してしまったとみえて、ちかごろでは世の中とんとスリルがない。不思議なことはなにひとつ無…あったのですな、これが。
 自宅で作ったシークエンスをスタジオのテープに移す作業をすべく、ノートパソコンをはじめ諸道具一式を搬入して開始しようとした、と思いねぇ。「数年前にくらべたら三分の一以下の分量だよね。これでももう時代遅れなんだから」とか言いつつケーブルをつなぎ、アウトプットから調卓に来た音をチェックしていたエンジニアのHR氏、「佐藤さん、この音LRで移動させてます?」「え?そんな妙なことやってないよ。こっちでは左からだけ出るようにしてあるけど」「でも音が動きますよ。」
 なるほど、調卓の前に座って聴くと、あるときは左から、次には右から、そして中央、とふらふら揺れている。
 「おかしいなぁ。家ではこんなじゃなかったけど」
 念のためにシンセサイザーのPANのパラメーターをチェックしてみる。ここは左に寄せるためにL63になっているはず、だ、が…
 「なんでRANDなんだよ」RAND=ランダム、つまり発音のたびに不規則に左右に振れる、という指令になっているではないか。いつのまに、といぶかりつつ修正。「どう?もう振れないはず」…「いや、まだ動いてますね」…
 ほかにそういうことが起きる仕掛けはない。
 「しょうがないからそのままステレオで録っておいてあとでモノにまとめよう。チャンネルの無駄だけど」。とりあえず対応策を取って通過。あれこれ考えてスタジオ時間を浪費するのはもっとも稚拙な制作態度である。
 「同期信号送ってください」「もう行ってますよ」
 コンピューター自身の内部クロックではなく、スタジオのテープレコーダーの回転を基準にしてシークエンスを運行するために、画面上のクロック指定を『external(外部)』にして右向きの三角を押せば自動的に待機状態に入り、テープからの同期信号が来れば曲がスターする…はず…なの…だ…が…
 このソフトはヴァージョンアップしつつ使いつづけてもう10年近くなる。隅から隅まで熟知していると言える数少ないもののひとつだ。あちこちのページを呼び出して各種設定を確認する。すべて正常。なんで動かないのだ?まだオレの知らない隠しページや裏ワザがあったのか。再起動したり、設定をやりなおしたり、と右往左往を見かねて「他にこれを使っている人は、と…」HR氏は携帯で心当たりのプログラマーやキーボーディストを次々と当たってくれるが誰もつかまらない。土曜なのでディーラーは休み。果てはエンジニア仲間のチャンネルを使ってなにやら遠距離を旅行中の人を呼び出して質問する、というようなことまで試みるが、画面は右向き三角が点滅するばかり。
 「あ、動いてますよ」とアシスタント・エンジニアのY君。
 喜んで画面をたしかめるとクロック指定がいつのまにか『internal』に変っている。
 「誰かさわった?」「…」「…」
 停止ボタンをクリックする。「おい、止まらないぞ」
 ノーブレーキ状態のシークエンスはエンディングに突入してやっと…普通はそこで静止するのだが。画面は0小節0拍1ユニットに戻ってまた走り始める。
 「おーい、停まってくれよー」
 もはやこれまで、今日の録音はバラシか、と覚悟を決めようとしたとき、
 「どーしたんスかー」
 ふらりと入ってきた今風の若者。
 「トラブッちゃって弱ってるんだよ」「ちょっと失礼。どれどれ。…どこも間違ってないけどなー。もう一度同期信号ください」
 あれ、嘘のようにスムースに動くではないか。
 「どうやったの?」「いえ、なにも。じゃ、どーも」
 私には彼の頭上に光背のようなものが見えた気がした。
 「今のだれ?」「え?佐藤さんの知り合いじゃなかったんですか?」「いや、オレはてっきりHRさんの…」
 こーゆーことがときどきあるんです。ス…タ…ジ…オ…で…は…
【初出:『JazzLife』2000年10月号】



 コンピューターを新しくするということは、仔犬か仔猫をもらってきてしつけるのと似ている。
 どこで餌を食べるか、トイレの場所、してはいけないこと、すべて最初から教え込まなければならい。いちばん大変なのは、かな漢字変換のソフトがそれまで使っていたものと互換性がない場合だ。前のマシンで長いこと培ってきたユーザー辞書が無駄になってしまうのである。
 コンピューターというやつはなぜ最初に立ち上げたときに「個人情報」なるものを入力しなければならないのかわからないけれど、この段階からすでにフラストレーションの蓄積がはじまる。
 使用者名:佐藤允彦。<さとう>を変換するとまず「砂糖」と出る。次が「差等」だ。砂糖はまあ仕方がないとして、差等なんて言葉を私は使ったことも見たこともがない。同じ仮名がいくつもの単語に変換できるときには使用頻度が高い順に示すのが常識ではないか。ウケ狙いなら話は別だけれど。
 <まさひこ>は「雅彦」「正彦」「昌彦」あたりしか無いに決まっている。<まさ>を変換すると「間さ」「魔さ」「真さ」のあとに「雅」「柾」だ。真さ、とはどういう文章で必要になるのか知りたいものだ。允を出すには<いん>としなくてはならない。「韻」「因」「院」は許そう。「居ん」とは何だ。(再金の、いや再菌、えーい違うぞばか者、最近のもので、8番目か9番目の<まさ>で允が出てくるものができた)。
 <ひこ>は日さん、じゃない火さん、じゃなくて飛散、悲惨である。「火子」「日子」「比子」…彦には永遠にたどりつけない。彦は<げん>から行くしかない。
 こういう馬鹿げた作業で朝になってしまったりしたら新規購入の喜びも雲散霧消だ、という文章の第一変換はこうなる。
 「こういう馬鹿げた作業で麻に成ってしまったりしたら新木購入の喜びも運さん無償だ」…オレは新しい木を科って家って蚊って勝手買って麻のシャツかなにかになり、どこかへ無償で運んでもらうのか?

  • 鉄や、徹夜でご戦死、ご先史、五泉市、五千誌、五、線、師、紙を広げてアレンジを覚、角、欠く、書く。
  • 在れんじゃーは和製、環性、輪性、和声新行、新行、親交、信仰、進行や対戦率、対旋律、内政、内省、無い、内正、性、声の動き、楽器の御意気、御息、音域や御食、音色、会場の御今日、御経、音響などさまざまなことに木を、気を配らなければならない。毒そう、退くそう、独創的なアイデアが随所にちりばめられているのが酔い、良いアレンジである。しかしあまり気を、木を、帰を、奇をてらってはいけない。
  • 録音が無事に終了した。原が、腹が減った。もう新屋、深夜で大抵の店は閉まっている。寿司やを見つけて入る。章中、焼酎にしようか順舞主、純米酒にしようか真用魔用、間用、迷うが、間酒、館酒、燗酒と握り図示、寿司を注文する。すみません、お感情、お勘定お願いします。
  • 明日は秋分の比、火、日だ。お袋の袴入り、墓参りにでも行くか。
  • 花も荒氏、嵐も文、踏み越えて。
  • 食い、杭、悔い改めよ。世界の週末は、終末は近い。
  • 激動の二十世紀締めくくりの年にふさわしく、今年は以上、異常気象や自身、地震噴火など他事、多事多端であった。非難韓国、避難勧告、洪水刑法、警報、自身、磁針、地震余地、予知。学者もお役人もそして一般人も枕を高くして寝ていられない一年。
  • 弾きなれた曲でも、一箇所雲士、運氏、ウン氏、運指を買えると、帰ると、蛙と、変えると弾けなくなってしまったりする。
  • フリジアン、ドリアンは教会戦法、先方、先鋒、旋法の名前だ。
  • シェーンベルグが御劣、御列、音列を使って作曲をはじめたのは1920年頃だ。
  • 木性、樹性、帰性、気性、規制撤廃。不良再件、再県、債権。
  • 布津か良い、仏か、二日宵、酔いには御線、御栓、温泉が聞く、聴く、効く。
  • たったの一生説、一緒右折、位置、一小説、小節書くのに何時間もかけていたらとてもプロの有れんじゃー、アレンジャーとはいえない。前田憲男御対、温帯、御鯛、御他意、御大のたまわく「三分の曲は三分で書け」。

 思いつくままにちょっとした短文を書いてさえこれだけの無駄なキーアクションが必要だ。
 あ〜あ、こいつが私の用語の癖を理解できるようになるまでに、この先何千回という腹の立つ変換を積み重ねなくてはならないかと想像すると、いっそのこと自分地震(まただぜ)を総変換したくなる。このソフトはもともとアメリカ国出身だから、日本語がどこか片なのは、いや変なのは仕方が内、ない。それにしても、制作には日本人がかかわっているはずだ。だとすると以前このページに書いた英語歌詞の醜悪または抱腹絶倒ものの日本語訳や、プロ倍だー、プロバイダーから送られてくる意味不明の日本語版ご案内と発病経路が似ていなくもない。
 しかし、一所懸命育てて、一応使えるようになったころには本体が新で、芯で、死んでただの粗大ご身…これじゃオレがリサイタルじゃなかったリサイクルされそう…粗大ゴミと化し、また次なるばか者を背負い込むのだ。
 しかし、ネタ切れのときに一回分の話題を提供してくれたのだから、今回だけは簡便、勘弁してやるとしよう。

【初出:『JazzLife』2000年11月号】



 サックスの山口真文さんからテープと楽譜が送られて来た。
 その一週間ほど前にライブで一緒だった時、なにやら面白いのを聴かせたいと云っていたやつである。
 まず手紙を読み、楽譜をさっと見てから音、というのが普通だが、この日はどういうわけかなんの予備知識もなしにテープを聴いてしまったので、よけいショックが大きかったのかもしれない。
 「な、なんだこれは・・・」カセットデッキがこわれて早まわしのままになってしまったかと思う程のマシンガンのようなピアノが、少し残っていた前夜の酔いを吹き飛ばした。
 アート・テイタムかアール・ハインズ、はたまたエロル・ガーナーかオスカー・ピーターソン。サウンドはまごうかたなきその系統のジャズなのだが、ノリが切り立った崖のように垂直で、打鍵の強さはまぎれもなくクラシック、それもラフマニノフ位なら軽々と弾いてしまいそうなワザの持ち主。
 曲の構成はがっちりしていて、いわゆるジャズのフォームではない。ジャズという素材を正統的な西洋音楽の手法で構築したものというべきか。それにしてもジャズをこんなふうにとりあつかう物好きはだれなんだ?
 キース・ジャレットの書き下ろしピアノ曲?
 うーん、あり得るけれど、彼が書いたらそれこそ逆の現象、つまり西洋の近・現代音楽のジャズ化、のようなものになるのではないか。
 チック・コリア?
 だったらどこかにスパニッシュの蔭が見えるはず。
 それに、このふたりとは比較にならない程の打鍵スピードだし。
 打鍵で近いといえばゴンザロ・ルバルカバだが、まったくラテンの色を排して、こうまでオーソドックスにこだわるかなあ。
 一瞬の間にさまざまな推測を試みたが、どれもあてはまらないのは当然だった。
 ニコライ・カプースチン。
 たった一枚のイギリス制作LPをのぞいて、西側には全く知られていないロシアの作曲家、ピアニストらしい。
 私が聴いているのはそのLPのものではなく、本人の演奏で、楽譜も出版されていないものだ、と山口氏は云う。
 なぜ山口真文氏がそれを持っているのか。
 彼の友人の出身大学(音楽大学にあらず)に、ピアノ愛好サークルがある。それもただのサークルではなくて、超絶技巧曲、秘曲、楽譜入手困難曲などを弾くことを目的としているのだそうで、校名を聞けばいかにも「その大学」らしい凝りようである、とうなづける。で、彼等のうちの誰かがモスクワまで出かけて行ってカプ−スチン本人を探し出し、会い、自演テープと楽譜を持ち帰った、というわけだ。

 「一聴して度胆を抜かれました。日本で知られていないのはもったいない。」
 早速感想を山口氏にメールしたら、「このコメントを彼等に転送しても良いですか。ジャズ・ミュージシャンがどう感じるか知りたがっていて、これを見たら喜ぶと思うので。」と返事がきた。
 こんなことで誰かが喜んでくれるならこちらも嬉しい、どうぞどうぞ。
 この作曲者自身による演奏の録音がその後日本でCD化されるはこびになったのは、プロデューサーがカプースチンの音楽に魅せられたのと、サークルの強い後押しがあったからだそうだ(KAPUSTIN PLAYS KAPUSTIN Vol.1,2/TRITON DICC-24058,24059)。
 それに、サークル経由で私のコメントがプロデューサーに伝わり、ほとんどそのままCDの帯に印刷されているのが面白い。

 さて、テープを何度か聴いているうちに、私もこういうスピードで弾いてみたいが、練習すればできるものなのだろうか、と思うようになった。「練習」だの「稽古」というものとは何十年も無縁で過ごしてきたのに、どうトチ狂ったのかわからない。ブーニンのCDなど聴いても挑戦してみようなどとはツメの先ほども感じなかったのに。
 楽譜が手許にあったからか、シドニー・オリンピック前で、標準記録がどうのこうの、なんて記事がさかんに新聞に出ていたからか。
 とにかくダメでもともと。一曲だけ攻略してみよう、と『8つの演奏会用エチュード』第1番を選択した。速度指定144。御本人は2分02秒で弾いている。つまりはこれが標準記録というわけだ。世界新は最終目標として、とりあえずインターハイあたりを狙うか。一ヶ月でどのへんまで行けるかな。
 書き物やらツアーやらライブの合間を縫って練習するのだからなかなかタイムが縮まない。こりゃいかん。こんなことでは一年経っても予選落ちだ。
 この手のことは、締切を設定して自分で自分を追い込むにかぎる、と「9月29日、サントリーホールのトリプルピアノで弾く」と宣言してしまった。さあ大変。それからはスタジオへ行くにも楽譜を鞄に忍ばせ、ライブの開演前、コンサートのサウンドチェック、とあらゆる機会を練習に充てるのだが、一ヶ月前になっても132以上だとどこかでヨレてしまう。なにしろスピードと歯切れがいのち、みたいな曲である。ひとたびヨレると、まるでアルペン競技の大回転のように、コースを飛び出し、転倒、立木に激突、という結果になる。体勢を立て直すひまがないのだ。
 いまさら撤回しようにも、もはやプログラムは印刷にまわっているだろうし。昔「おまえはオッチョコチョイで失敗するよ」とオフクロがよく云っていたなあ。
 それでも練習続行の甲斐あって、本番まであと数日、というあたりで標準記録達成。前日はついに2分の壁を破る!(速けりゃ良いってもんじゃないよ。飛型点もあるぜ。)
 さて本番。結果は??????????

【初出:『JazzLife』2000年12月号】