今回はたしか2000年1月号になるはずだ。
 世の中ではやれ21世紀だ、ニュー・ミレニアムだ、と騒いでいるが、本当はどちらも来年からなのだよ。今年は20世紀と第2ミレニアムが完了する年だ。それにそもそも、なぜ我々がキリストの生まれた年を基準にしなければならないのか。(あなたがキリスト教徒なら私はつべこべ言わないが)。世界にはイスラム暦、太陰暦、ヒンズー暦、少々保守的でよければ皇紀、などさまざまなものがあるのに。

 え?皇紀ってなに、という人が多いだろうから解説しよう。皇紀とは神武天皇即位の年を第1年とする日本の紀元で、皇紀元年が西暦紀元前660年にあたる。昭和のはじめ国威発揚のために当時の政府、軍部、国学者あたりがにわかに言い出したものらしいが、昭和15年が皇紀2600年だということで、『紀元はに〜せん〜ろっぴゃ〜くね〜ん』なんて歌までできた。当時はアメリカ相手に戦争しようか、という時代だったから「神国ニッポン」を強調するにはこのくらいの意気込みでなくてはならなかったのだろう。ちなみに西暦2000年は皇紀2660年にあたる。
 終戦と共に皇紀は消滅したから知らなくて当たり前だが、近頃のように、なんでも米欧追従の政策をとっていると国中にフラストレーションが積もりに積もって、突然皇紀が復活する事態にならないと誰が言いきれるか。国旗を掲揚したり国歌を歌うことを法律にするという雲行きになってきているのだし。
 国を愛する心などというものは自然に生まれてくるものであるべきだろう。スポーツ競技なら誰しも自国を応援する。「この国に生まれてよかった」と思えれば国旗にも国歌にも抵抗感はないはずだ。この国はお上が強制しなければならないほど国民にそっぽを向かれてしまったとはにわかに信じ難い。
 話をもどそう。今の暦は西暦という字が示すように、もともとは西洋の暦なのだから東洋人の我々が必ずこれに従わなければならない根拠はないのだ。
 西暦は、明治政府が「我国はあなたがたと対等な文明国でございます」と言いたいために、やたらに西洋風を取り入れた時代にはじまった。西洋に媚びるためにキリスト教を奨励し、そのあげく廃仏棄釈、つまり寺院や神社を壊してしまうというとんでもないことをしでかした時期でもある。
 この頃の欧化思想は後から考えると異常というしかない。が、西洋諸国は当時帝国主義の最盛期、彼等の侵略から身を守ったり、幕末に結ばれた不平等条約を改正するためになりふり構わず“近代化”を推し進めなければならないという事情があるにはあった。一時は、漢字と仮名を廃止して日本語をローマ字表記にすべきではないか、と真剣な議論がされたほどだ。
 こうまでして息せき切って走りつづけ、一応先進国の仲間入りを果たしたニッポンコクだが、このまま彼等の後追いを続けていて良いのだろうか。このあたりで一度深呼吸をする必要はないか。20世紀総括の年を迎えるにあたって、太陽暦を見なおしてみるのも一興かもしれない。
 ついでに明治以来必死に取り込んできた“西洋的なもの”を総点検する。たとえば音楽に関して言えば、十二音平均率で果たして良かったのかを考え、音楽教科書にわらべうたや民謡を入れ、邦楽器を備品に加えることを検討する。

 そうだ、もっと大事なことがあった。日本語の総点検だ。
 私に関していえば、このところ立て続けに意味不明の日本語に遭遇して、自分の日本語力に確信を持てなくなっていたところだ。たとえば次のような日本語がネット上で大手を振って行き来しているのだけれど、変だと思う私が変なのか。
 「お客様のアクセスプランは正常に変更されました。October 1.1999そのときまで、このプラン変更は保留されていると記載されます。お客様がお客様の心を変えるなら、お客様はアカウントセンターでチェンジアクセスプランページを使うことによって保留されているプラン変更を中止することができます」
 ???? これはコンピュータ界で創られた独特の言いまわしなのだろうか。これが電脳語というやつか。イマドキノワカモノはこれを即座に理解できるのだろうか。何の不思議もないのか?
 私のプロバイダーが他社に業務移管をして名称がかわったときの出来事は先月書いたとおりだが、それを機に契約容量を増やす手続きをして、その場で返信されてきたのがこの文章だ。私は仰天し、こういうわけのわからないことをいうプロバイダー経由でメールをやりとりして大丈夫なのだろうか、と不安になり、現在退会を考えているところだ。
 前回の“言語明瞭意味不明”の「お知らせ」をしのぐ“怪文”である。
 ある友人は次のように推理する。「本社で作った英文が自動的に翻訳ソフトを通って各国語で配信される仕組みになっているに違いない。現段階での翻訳ソフトは時に信じられない文章になるよ」
 なるほど、これは一理ある意見だけれど、まったく代名詞を使わないでこれほどお客様お客様と連発するとはよほど奇妙な癖を学習してしまったか。一時「修行するぞ、修行するぞ」という言葉で有名になった宗教団体があったけれど、プログラマーはここの信者か。
 とにかく、他人はどうであれ、私は西暦2000年=皇紀2660=平成12年を迎えるにあたって、日本語検定を受けたい。どこへ申し込めば良いのかご存知の方は私のホームページへ投稿をお願いします。
 英検とかTOEFLとかいうものがあるのだから、日検なんて当然あるだろう。
 え?ない?

 このままでは日本語が溶解する。そして神国ニッポンも米中のはざまで消滅する。
 日本は22世紀までもつのだろうか。とりあえず新年おめでとう。

【初出:『JazzLife』2000年1月号】



 20世紀は別名「戦争の世紀」と呼ばれることになるのだそうだ。

 なるほど、そう言われればこの百年、人類は飽きもせず世界のどこかで殺し合いを続けてきた。21世紀になって急に戦争が無くなるわけではあるまいが、この別名はまずうなづける。
 一方、音楽で見るならば「20世紀はジャズの世紀」だ。
 そして面白いことに、ジャズの変遷と戦争がかなり密接な関係にあるのだ。
 おや、2000年代に突入したとたん、このコラムも偉くなった。これからは学術論文発表の場に…ンなわけないだろ。
 実は私が進行役を担当しているデジタル放送の番組で「ジャズ100年の総括」をやろうということになった。いつものように好き勝手にCDをかけて無責任独断偏見一方的コメントで押しとおすわけにはいかず、あれこれ資料を漁って多少はきちんと考えなくてはならない羽目に追いこまれ、仕方なく勉強した結果を忘れないうちに自慢しようというだけの話である。
 演奏者にとってジャズの歴史など無縁の代物、評論家諸先生の領分だと思っていたから、自分がジャズに足を踏み入れる前のことはなにひとつわかっていなかった。縄文式土器と織田信長と黒船が同じページに載っているようなものだ。
 そういう次元から出発したので、調べれば調べるほど面白い。あまり深入りすると本業の五線紙のほうがおろそかになるのでいいかげんに切り上げようとするのだが、Aを知るにはBを、そのためにはCを、と進んで行って気がついたらジャズとは全く無関係な項目にのめりこんでしまっている。五線紙を見ていると10分もしないうちに睡魔に襲われるのが、こういうことだとあっという間に夜が明ける。ことによるとオレは音楽よりこのほうが性に合っているのかなとも思うが、これを仕事にしたらやはり同じ事になるのだろう。

 「ジャズと戦争」に戻ろう。
 この両者がどのように結びついているかを箇条書きにしてみると:

  1. ジャズの発生=南北戦争
    1865年南北戦争の終結によって、黒人奴隷が解放されて歌手や芸人として活動できるようになった。このあたりがジャズの水源。彼等の使う楽器(トランペット、トロンボーン、チューバ、大太鼓、小太鼓、シンバルなど)の多くは不要になった南軍払い下げのもの。
  2. ニューオーリンズ時代の終わり=第一次大戦
    1917年4月、アメリカが欧州大戦に参戦することになって、軍港ニューオーリンズから兵士が出征する。死を前にした若者にストーリーヴィルの紅灯を見せることまかりならん、という海軍長官通達が1917年11月に出され、さしも隆盛を誇った歓楽街もあえなく閉鎖(わたしゃ逆だと思うがね。今生の思い出に多いに歓楽をつくすべし、ではないのか)。職場を失ったミュージシャン達はミシシッピ河の客船などで演奏し、やがて上流のセントルイスに移って行く。
  3. シカゴ、カンザスシティー=仁義なき戦い
    言わずと知れた悪法、生類憐れみの令、じゃなかった禁酒法、1920年に発効。ギャング達の経営するもぐり酒場がジャズの培養基となる。シカゴはアル・カポネ、カンザスはトム・ペンダーガスト、清水港は鬼よりこわい、大政小政のこえがするぅ〜、お控えなすって、てまえ生国と発しまするは関東武州…
  4. スイング・ジャズ=経済戦争
    1929年大恐慌。そして1930年代はスイングの時代。経済回復にはジャズ。日本にも当てはまるか。
  5. ビーバップ=第二次大戦
    この戦争がビーバップの発生に直接関与したわけではないが、兵士の恐怖心を麻痺させる、夜間の作戦を遂行するため、負傷者の痛み止め、などさまざまな用途に使われるはずのクスリが流出して、ミュージシャンのイマジネーション開発に一役買った(と彼等は信じているが)のは間違いない。しかし、そのためにCharlie Parker(sax)をはじめとして、この時代のミュージシャンは短命の傾向にある。
    また、欧州に行った黒人兵士が、とくにフランスで差別されずに迎えられたことから、戦後Dexter Gordon(sax)、Bud Powell(p)、Kenny Clarke(dr)など、パリ周辺にしばらく居住するミュージシャンも多かった。
    日本へも兵士として来ていたミュージシャンが何人もいる。馬さんことハンプトン・ホース(p)もそのひとり。
  6. ハード・バップ=ベトナム戦争ベトナム戦争の泥沼化はアメリカ社会にさまざまな波紋を呼び起こした。黒人が真っ先に危険な最前線へ送られることから人種差別問題や兵役拒否問題が起こり、1960年代には差別撤廃運動が高まった。John Coltrane(sax)のようにジャズのフォームそのものの改革、またCharlie Mingus(b)、Max Roach(dr)、あるいはArt Ensemble of Chicagoのように黒人のパワーや優越を前面に押し出した音楽が登場した背景には、こういった社会的な動きがある。
  7. シンセサイザー=冷戦電子計算機の誕生は、第二次大戦中のドイツ軍と日本軍の暗号解読の必要からだった。冷戦時代に入って兵器開発がもたらした急速な電子技術の進歩が民生用にまで及び、各種工業製品そしてついには楽器にまで使われるようになったわけだ。ムーグ博士が最初のシンセサイザーを作ったのは60年代後半。日本に最初のミニ・ムーグ3台が輸入されたのが1970年だった。その頃日本では「シンセサイザーって新しいサイダーか」という人が何人もいたのだ。これこれ寒がるでない。本当の話だよ。シンセがジャズを変え、ジャズがシンセを育てる。これぞ鶏と卵の関係、でもないか。とにかく新しい楽器はミュージシャンにとってはアイデアの宝庫となりうるものだ。ただし、あ
    まり次々に登場されると「もういらない」と思うようになるからメーカーさん要注意。

 ま、以上ざっと見渡しても戦争とジャズの関係は明らかだ。21世紀もこの関係が続くとしたら恐ろしい。戦争は対惑星になるのだろうか。するとジャズはどんな姿に???

【初出:『JazzLife』2000年2月号】



 <お客様のアクセスプランは正常に変更されました。October 1. 1999そのときまで、このプラン変更は保留されていると記載されます。お客様がお客様の心を変えるなら、お客様はアカウントセンターでチェンジアクセスプランページを使うことによって保留されているプラン変更を中止することができます>
 前々回紹介した、ネット上を横行するこの醜怪な日本語を生み出す犯人は、やはり友人が推理したように「本社で作った英文が自動的に翻訳ソフトを通って各国語で配信される仕組み」だったようだ。むしろこんなのは序の口、『翻訳ソフト』なるものにジャズ曲の歌詞をインプットしてみたら、抱腹絶倒、赤塚富士夫センセイもびっくりのアッタラシーイ日本語になって返って来た。

 題名だけでもかなりなインパクトだ。
 <心身><スターほこり><2のお茶><そこ決して別のものではないであろうあなた><千ドルの膨張><丸い夜半><月に私を飛ぶ><理由あなたは、右をする><付随的な付随的黒鳥>…
 念のために原題は、<Body and Soul><Stardust><Tea For Two><There Will Never Be Another You><Thou Swell><'Round Midnight><Fly Me To The Moon><Why Don't You Do Right><Bye Bye Blackbird>
 では、すばらしい表現のいくつかをご紹介するとしよう。これらの曲の訳詞をすべて公開したかったのだが、著作権法と言うやっかいな縛りと、楽曲管理をしている出版社の許諾が必要なのだそうで、後日の「想定外のトラブル」を回避するために、許可の下りたものだけしか載せられないのが残念だ。あとはライブやコンサートのときの、トークのネタにでもしよう。

<心身>後半
I can't believe it, it's hard to conceive it that you'd turn away romance.
私は、それを信じ得ない、あなたがロマンスをそらすであろうことは、それであると考えるのが難しい。
Are you pretending? Don't say it's the ending.
あなたは、ふりをしているか? それがその結末である、と言うな。
I wish I could have one more chance to prove, dear.
私は、私には証明するための更に1のチャンスがあるであろうことを望む、大事な。
My life a hell you're making. You know I'm yours for just the taking.
私のライフ地獄あなたは、製作である。あなたは、私が単に取得のためにあなたのものであるということを知っている。
I'd gladly surrender myself to you, body and soul!
私は、あなた、ボディ、及び、魂に私自身喜んで身を委ねるであろう!

<2のお茶>
Picture you upon my knee just tea for two and two for tea, Just me for you and you for me alone.
2の私のひざの当然のお茶、及び、お茶のための 2 つ上であなたを描く、Just 私あなた、及び、あなたのために、私だけのために。
Nobody near us to see us or hear us, no friends or relations on week end vacations, We won't have it known, dear, that we own a telephone, dear,
我々を見るために我々に近づく、もしくは、聞こえるだれも我々、友人なし、及び、週エンド休暇、We に関する関係は、それを知られていなくないであろう、大事な、我々が電話を所有しているということ、大事な。

<丸い夜半>
It begins to tell 'round midnight. 'round midnight.
それは、丸い夜半を告げ始める。夜半を丸めなさい。
Haven't got the heart to stand those memories when my heart is still with you.
私の心臓がまだあなたと一緒であるとき、それらのメモリに耐えるために、心臓を得るな。

<雨のように降りに来る、もしくは、光りに来る>(Come Rain Or Come Shine)
I'm going to love you like nobody's loved you come rain or come shine.
私は、だれもあなたを愛しなかったように、あなたを愛する予定である雨のように降る、もしくは、来に来る光る。
High as a mountain and deep as a river come rain or come shine.
山としての高水準、及び、川としての深みは、雨のように降りに来る、もしくは、光りに来る。

 次のは最高傑作、おすすめの作品。訳詞を思い出してしまうとワシャ演奏不可能になるデヨ、当分の間この曲の伴奏は控えさせて下せえ。

<ピカピカの…>(原題を明かすとこれまた著作権法がからんでくる。読者の推察力におまかせ。)
それら ぴかぴかの絹 私が私があなたと一緒である時身につけるストッキング/私はあなたが私にあなたがそれほど頭がおかしくてつきまとうと言った coz を着用する 色合い/我々が我々が踊りに行く時伝奇物語について思うド/おお、ノー、あなたはそれらのぴかぴかのストッキングに一目を与えます/
同じく、その時が大きいストッキングであるひよこに沿って来ました/あなたが私についてあなたの心を変えた時ですか?/おや、私は決して知りませんでした/私は掘り出し物に私がそうしたであろうと思います/
新しい男、新しい男 同じく、誰が私のぴかぴかのストッキングを掘る/同じく私のぴかぴかのストッキングを掘る新しい男

【初出:『JazzLife』2000年3月号】



 新製品を買うときは一拍遅らせるほうがよい。
 なぜなら、新しく開発された機械には初期故障とか初期不具合といったトラブルがかならずついてまわり、メーカーはそれに対処した修正バージョンを短期間のうちに出すというのがなかば常識だからだ。
 “一拍”がどれほどの期間かは製品によってことなる。画期的なものであるほど長く待ったほうが安全なのはいうまでもない。モデルチェンジした新車は3000台、というのがひとつの目安になっているらしいが、かりにガソリンではない、何か新しい燃料を使う車ができた、などという場合には少なくともその10倍は待つべきだろう。
 電気モノに関してはよくわからない。なにしろある機種が新製品である期間(時間というべきか)がごく短い。つい先日ノートパソコンを購入した友人が一週間後に付属品を買おうとしたら、「ちょっとお待ち下さい。今のとコネクターが違うかもしれないので確かめてみます」とか言われて驚いた、と話していた。コネクターまで変わってしまうようではもはや全くの新型に違いないのに、店頭にならんでいるのは外見も型番も同じものなのだった。
 それとは逆に、「新登場」と銘打ってあるのにどこもかしこも同じ、というのもあったりするから、なにを信用したら良いのかわからない。とにかく派手な宣伝に乗せられて後先考えずに財布を開けてしまってはいけない。とにかく一拍待ってみることだ。
 VTRでVHS対Beta戦争というのがあった。大きさでは断然Betaが良かったのに、どういうわけか気がついたらカサばるVHSの勝ちになっていて、Betaは自然消滅。そっちを買った人はひどく怒ったけれど、どうすることもできなかった。幸いあのころの私はあまりヴィデオに興味がなかったので助かったが、そうでなかったらあのどっちつかずの期間を待てたかどうか心もとない。

 カセットテープが姿をあらわしたとき、オーディオマニア達の評判はあまり芳しいものではなかった。「幅の狭いテープをあんなに遅いスピードで走らせるのだから音が良いわけがない」という。実際初期のカセットの音質はかなり淋しかったのである。
 当然私は一拍待つことにした。
 編曲依頼の資料などをカセットで送ろうとする人には、「あ、オープンリールでお願いします」と断るのだ。するといかにも音に厳格そうな雰囲気がただよう。「そうですよね、カセットは音がどうもね。いや失礼しました」と相手はお手軽な依頼を恥じ入る様子。
 当然だぜベイビー、箱入りテープなんざ玩具だぜ、と得意になっていたと思いなせぇ。
 ところがあるとき、「オープンリールで」というと、「こりゃ驚いた。最先端の佐藤さんがいまだにオープンリールですか?」とまるで横断歩道で北京原人に出くわしたような顔をされた。いい気になって数小節ぶんも待ってしまったようなのだ。
 私が即刻オーディオ店に走り、カセットデッキを買い求めたのはいうまでもない。
 これに懲りて、DATを手に入れたのはかなり早かった。たまたまアフリカへコンサート・ツアーに行くことになり、よし、それならかの地の民族楽器をデジタル録音してサンプラーに入れよう、というのが動機だったので、新製品だの一拍だのは気にしなかった。もっともそのおかげで帰国したらすぐに故障したが。

 その次がMDである。
 DATに比べると高音が耳につく感じがして、いわゆる「打ちこみ」音楽愛好者をターゲットに開発されたようなところが気に食わず、これなら数小節でも数コーラスでも待ってやる、と決めていたのだが、昨年あたりから資料や記録がMDで送られてくることが多くなってきた。どうもカセットテープの影が薄くなったようなのだ。
 そろそろMDプレーヤーを入手しないとまた北京原人にされてしまうのかな、と思っていたら、追い討ちをかけるような新聞記事が目についた。
 『昨年一年間の国内出荷台数で、「MDポータブル」がカセットテープを使う「ヘッドホンステレオ」を追いぬいた。日本電子機械工業会の調べによると、MDポータブルの年間出荷台数は九六年に百三万台、九九年は二百六十五万台。一方ヘッドホンステレオは九六年に四百二十万台だったのが九九年は二百六十四万台に落ちた。MDポータブルは九二年発売から七年で二十年間続いたヘッドホンステレオ時代に幕を引いたことになる』
 こうなっては仕方がない。勝てば官軍、長いものには巻かれろ、寒さきびしいある夜、私は△▽カメラのカラフルな紙袋を手にうなだれて帰宅したのであったのだ。
 そしていざ使ってみると、72分の時間制限に不満が残るもののそれなりに重宝している自分に腹が立つ。してやられてしまったという思いがしきりである。なさけない。
 しかしMD野郎、よくきけ。カセットテープを追い落とした、オレ様は革命的だとかなんとか言っても、次の覇者から見ればどちらも同じ甲羅を背負った古い種族でしかないのだ。エラそうにしているが、おまえだってモーターなしではなにもできまい。等速で回転するものにすがってやっと読み書きをしているのだ。そうそう、CDだろうがDVDだろうが、HDだろうがFDだろうがMOだろうが、どいつもこいつも回転もののお世話になっていない奴をさがすほうが大変だ。
 重い甲羅を背負わない種族が舞台の袖で待機している。もうあとわずかだ。MDが主役である期間ははそう長くない。次はカードだ。どの形式が主導権を握るかの暗闘はすでにはじまっている。
 私は、次こそじっくり待つつもりだ。北京原人になるのを恐れずに何曲ぶんでも待ってやる。なにしろ甲羅族が一掃されるほどの新製品になるのだから、相当の初期不具合が予想される。
 できればカードの次、たぶん糸か紐の時代になってから買うという手もある。紐の次はなんだ?そりゃテープに決まってるじゃないか!?

【初出:『JazzLife』2000年4月号】



 2月17日夜半。
 夕方5時30分にリトルトン港を出航して北東に進路を取った船は、穏やかな海上を滑るように航行している。次の寄港地はオークランド。明日一日は終日航海である。船室のテレビ3チャンネルで刻々の現在地をモニターすることができるようになっている。いま南緯42度08分、東経174度52分、進路045、速度21.5ノット。ニュージーランドの南北二島をわけるクック海峡を過ぎようとするあたりだ。
 昼間なら左手に両方の島影を眺めることができるのだろうが、船室の窓から見るそのあたりは漆黒の闇である。そのかわり、船の進行方向の海面が無数の白銀片を撒いたように輝いている。
 そういえば夕食のテーブルで誰かが、今夜は十三夜じゃなかったかな、と話していたな。
 されば南太平洋上の月見というのもなかなか乙な趣向ではないか、とにわかに風流心をおこし、夜風よけのパーカーをはおって11デッキに出てみた。
 11デッキはこの船の屋上にあたる。中央からやや後方に巨大な煙突とレーダー二基、それに空調設備などのための建造物があるので、いちどきにぐるりと360度を展望することはできないが、船首方向に立っても、船尾側からでも、水平線のゆるやかな丸みを確かめられる。つまり自分が球面の上を移動していることを実感するには最適な場所なのである。時折、曲のイメージでも湧きはしないかと思って来てみるのだが、いつも茫洋とした気分で知らぬ間に時間が経ってしまう。そのようなさもしい料簡で海と向き合ってはいけないということだ。

 宵の口だと星座を眺める船客が何人かいるけれど、こんな夜更けに出歩く物好きは私だけのようで、デッキに人影はない。はるか下方で舳先が波を切る音と、かすかに伝わってくるエンジンの振動がなければ、暗い虚空に漂っているとしか思えない。分厚いマホガニーウッドの手すりのありかを教えてくれる小さな常夜灯がなければ、床面と遠くの海面とがひとつづきに見えてしまいそうだ。
 風が意外に強い。海は穏やかなのだから、船の速度によるものだ。21.5ノットは時速にして約40km。夏の夜風にしては冷たい。
 暗い海面の細かい波のひだがくっきりと良く見えるのはなぜだろう……そうだ、月だった。見まわすと月の光が降り注ぐところはどこもかしこも、デッキの床も、手すりも、自分の手や足先も一様にメタリックなフィルムでラップされて薄い燐光を発している。
 月の光は不思議な作用をする。ものを識別するには充分な明るさであるにもかかわらず、今そこにあるものだという存在感ががまったく感じられない。確かめようと凝視すればかえって暗闇の中に遠ざかって行くかのようである。つかもうとすればふっと霧のように散ってしまいそうだ。十三夜から満月あたりの月の光には、照らしたものの実体を消して気配だけを残す魔力が備わるのかも知れない。
 月の光にまつわるさまざまな伝説や物語が多いのはそのせいか。
 月は進路からやや左手、11時の方角、高さ約60度。進路は北東だから、ほとんど北の中天にあると言って良い。
 月の真下の海面から、細い銀線で織った薄布が扇状に広がっている。船はその中へ徐々に入って行く。扇の端が乱れて飛沫となり、航跡とまじりあって黒い海面のなかに消える。
 もし、船が月と正対する進路を取ったらやがて船全体が銀の薄布に包まれる時がくるかもしれない。その光景を音にするとしたらどんなオーケストレーションかな。とてつもなく長いウインド・チャイムのような音を作るにはどうするか。
 そんなことを考えているうちに私の視界から手すりが消え、私は銀の扇の中に立っていた。「あ、今なら月まで歩いて行ける」。
 ほんの一瞬だったが、そう確信したのだ。
 背中に冷水を浴びせられたような気分になって私は急いで船室に戻った。
 「なにをバカなことを」と叱咤するもうひとりの自分の声が聞こえなかったら、あるいは確信があと数秒でも続いていたら、私は一歩踏み出していたに違いない。
 その感覚のまま海中に没してしまえるのなら、それはそれで完結するから良いが、デッキから海面に落下している最中に正気に戻ったらたまらないだろうと思う。落ち行く先がコンクリートであれば、一瞬の打撃でそれこそカットアウト・エンディングとなる。しかし水面から大声で助けを求めても、船は去って行ってしまう。私がいない、と騒ぎになるのは少なくとも翌朝の朝食時間以後だ。こういうフェードアウト・エンディングは勘弁してほしい。
 あぶないところだった。

 実は、月の光で幻覚めいたものに捕らえられたのははじめてではない。
 もう二十年ばかり前のことだが、人里はなれた山中、やはり深夜、月の光で夜桜を見ていた。
 満開を過ぎて、花びらが絶えずはらはらと舞い落ちてくる。月の光のなかで、花びらは次第に透き通ってくるようだった。それらが顔や首に触れると一瞬ひやりとする。どうやら氷のひとひらのようなのだ。地上に降り積もった花びらもみな透明で、そこにあるようでいて実体が感じられない。そして、<願はくば 桜のもとに 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ>という西行の歌が頭の中で何度も繰り返されて、気づいたら深い谷沿いの道路の端だった。
 月に導かれるようにして歩いたとしか思えない。
 やはり月の光には魔性があるのだ。気をつけよう。

【初出:『JazzLife』2000年5月号】



 書籍もネット経由で取り寄せる時代になった。
 しかし、本屋の棚を眺めて目についた本を取り出し、パラパラと拾い読みして面白そうなやつを買うという楽しみは、電脳社会では味わえないものだ。
 そのような、なかば偶然に出会った本が「目のウロコ」を落としてくれたりすることもあるのだから、書店での暇つぶしを軽く見てはいけない。
 小沢昭一著『話にさく花』(文春文庫)。
 小沢昭一さんといえば新劇俳優、映画俳優、放浪芸研究家、放送大学客員教授、俳人、歌い手、ハーモニカ演奏、などなど枚挙にいとまがないほどの多芸多才な方である。そのなかでも、話芸は当代随一であると私は思っている。落語界、講談界の昭和の名人達がほとんど鬼籍に入ってしまった今、日本の話芸は小沢昭一抜きに考えられないと言っても過言ではない。
 数年前の単行本を手に入れそこなったので、文庫になったのを見つけて購入。
 <話芸話術の不徹底的研究>という一章には、話芸に関するきわめて重要な真実が軽い語り口のなかにさりげなく示されている。「月刊住職」(お坊さんむけの雑誌!)に連載されたものだというあたり、著者の面目躍如である。なにしろお坊さんといえば説法で信者を増やす、つまり話芸の専門家なのだから、この章はプロに対するレッスン、マスタークラスみたいなものだ。
 小沢さんはここで、面白い話、人の心を打つ話、感動する話、そういう話し方というのは一体どこから来るのか、どうすればできるのか、をこんな語り口で説き進めて行く。

… 話は人なり──。実はわたくし、こう申し上げたいんであります。「文は人なり」という言い方は、世間にもよく馴染んでおりますが、「話は人なり」とはあまり言わないようで。しかし文章にその人の全人格がでるのと同じように、話にもその人のすべてが出てしまう。ですから、話は人なり──。

 話=音、あるいは演奏、と置換えてみると、この一文はそのまま音楽にあてはまるではないか。それならば、

… ですから、そういう、人それぞれの面白さがそのまま話にでてくるならば、どんな人でも面白い話ができるにちがいない。ところが、話が面白くないというのは、一体どうしてか。ここが問題なんです。
 結論から先に申し上げますと、それは“地肌”をださないからだというのが、わたくしの考えでございます。話が面白くないというのは、その人が地肌をなぜか覆い隠してしまっている、…

 そうなのだ。うまく演奏してやろうとか、ミスをしないように、と思って無意識に鎧をつけた状態になって安心していることが多い。鎧とはつまり練習や稽古で身につけた技術である。即興演奏の場合で言えば展開や反応の「定型」だろう。
 ミスは音楽上不測の事態に直面して心が動揺したときに誘発される。鎧の安心感や自信は動揺を防ぐことができるけれど、そのために地肌があらわれることはない。演奏者にとって唯一のよりどころであるこの鎧を脱ぎ捨てるのはなかなか難しい。これができれば即座に名人、達人なのである。
 鎧を脱いだとたんにアガリやすくなるだろうし、なすすべも無く立ちすくんでしまうかもしれない。しかし小沢さんは、アガルことで地肌が出るのだ、という。

… あがらない役者というのは、人をのんでかかって、それで小さく安心しているものですから、その姿のなんとなく貧しいというか、スケールが小さいというか、ありきたりで、少しも魅力がない場合が多いのであります。
… 尊敬する先輩の俳優さんの中には、あがってしまってわけが分からなくなって、舞台の壁にブチ当って、壊してしまったかたもいらっしゃいます。しかし、このかたの演技はナミの表現をこえた迫力がでてくるんです。いい役者さんほど、あがるんですよ。けど、破綻も多い。ところが破綻なんか蹴散らすぐらいあがってます。だから、突き抜けたいい仕事ができるんです。

 聴き手との対し方についてこんなくだりがある。

… お客様は十人十色で、笑いの感覚はそれぞれ違います。そこで十人十色の平均をとって、そこそこに皆さんのご機嫌を伺おうとすると、どうも笑いが弱くなるようです。
 それよりも、例えば、今ここに十人のお客さまがいるとしたら、最初の笑いは一人だけが笑えばいい。次の笑いは別の一人が笑えばいい。けれどその一人一人には真から笑っていただこう、なんていうふうにつとめております。

 テレビが、視聴率を基準にして番組を作って行くのとは対極の考えかたである。平均値ばかり気にしているといかにつまらないものになってしまうかを小沢さんはとうの昔から知っていたのだ。
 他人事ではない。私もライブハウスの演奏前に今日のお客はどういう傾向だろう、あまり過激に傾くと白けるかな、それともスタンダード系で行くべきか、わかりやすいのも馬鹿にされるし、などと考えてしまったりすることがある。いかんいかん。
 小沢さんがおおいにあがめる話芸の先達は徳川夢声である。無声映画時代に活弁、活動写真の弁士としてスタートし、吉川英治『宮本武蔵』をラジオで朗読して一世を風靡、漫談という分野の創始者、対談の名人、話の神様といわれる人。その徳川夢声の書いた『話術』という本があるそうだ。小沢さんによれば、夢声氏は話の要点として次の三点を挙げている。

… 1.間の取り方
  2.声の強弱と明暗の配分
  3.言葉の緩急の調節
… 同じメロディー、同じリズムの繰り返しでなく、ある時パッと止まってみたり、「けれどもねぇー」と急にドーンと高い調子で入ってみたり、(中略)そこで調子を下げて声をひそめてみたりと、こういう調子で相手を揺さぶっていくと、相手も次から次へと話を聞いてしまうわけです。つまり、話も音楽である、と。

 ミュージシャンからみれば逆に、音楽も話なのだ。説得力のある演奏をめざすなら、小沢昭一の話芸に接し、昭和の名人の落語を聞いて自分という人間を磨くこと…
 また本屋をのぞきに行こう…っと。

【初出:『JazzLife』2000年6月号】