2002.01.31
なんと楽な
1月30日 PIT INN "Ned Rothenberg Night"。
マルチ・リード奏者Ned Rothenbergを迎えるために集まったのは、梅津和時(sax)、高田みどり(marimba/percussion)、Lauren Newton(voice)、それに私。
私にとってドクトル梅津とみどりさんと同時に演奏するのはオリジナル・ヴァージョンのRANDOOGA以来、ローレンとはアルバム『SONATINA』を録音した'99年、ネッドともおなじく'99年以来。なんだかフリー・インプロヴァイズ の同窓会のような気分でした。
意外だったのは、ローレンとネッド、ローレンとみどりさん、がこの日初顔合わせだったことです。それほど数多いとは言えないフリー・インプロヴァイザー達が何年にもわたって世界のあちこちで共演していてもこんなことがあるのですね。
むろん互いに名前も顔も演奏も知っているのに、なお、というのだから不思議です。
しかし、初顔合わせであっても、彼等のようなすぐれたインプロヴァイザーはさながら剣の達人同士のように、切先を触れあわせただけで相手の意図とか呼吸が読めるものなので、演奏は旧知のごとく、一時間×2セットがアッという間でした。
私の一音にも誰かが間髪を入れずに反応をかえしてくれる。これほど楽なセッションは滅多にありません。一晩中でも続けられそうでした。次はいつかな〜。

2002.03.05

ベトナム便り
2月13日〜3月1日、国際交流基金の派遣で、オーストラリア、フィリピン、ベトナムのコンサート・ツアーに行ってきました。ヴァイオリン大津純子さん、ピアノ調律小林名人、私、というおなじみのトリオに、今回はアジア民族系パーカッショニスト和田啓君が加わりました。






ホーチミン市音楽院コンサートホールでの演奏が、翌日の《Saigon Giai Phong(サイゴン解放)》紙の一面に写真入の記事になりました。


萩野副領事によると、これはきわめて異例のことだそうで、演奏が良かったのか、AS HOT一夜仕込みのベトナム語MCが効いたか、ニャット和田の壺パーカッションのパフォーマンスが受けたか、いずれにせよめでたい、と一同オートバイの洪水を横切って、カニ屋で祝杯を挙げたのでした。







ちなみに、「ニャット」はベトナム語で「一番」という意味です。

2002.03.29
潮時
『一拍遅れの一番乗り』刊行を機に、ジャズライフ誌のコラムを終了させていただくことにしました。二十年の間に、原稿が締切に間に合わなかったことは一度もなく、休載もなし。ただ一度、マイルスの特集号というので「今月はお休みにしてください」と言われたことがあっただけです。いわば、なんの取りえもないが体だけは丈夫で、皆勤賞をもらった生徒みたいなもので、自慢するほどではないけれど。
なお、同誌4月号で、「不穏当な表現」として文章をカットしたことと終了とは無関係です。表現の自由に対する圧力に抗してやめる、ということだと何やらカッコイイのですがね。
そうそう、カット部分を最小限にした元原稿をエッセイのページに掲載します。興味のあるかたは、ジャズライフ誌のと比較して、なるほどそういうことだったのかと推測して下さい。別に不穏当ではない、と思われるでしょうが、そういうことが再び許されなくなる時代にさしかかっているのかも知れない。忍び寄る影におびえる人達がいるのは事実です。
なんだか歯切れが悪いが、このページだって誰が読むかわからないのだから仕方がない。
ともかく、長らくの御愛読ありがとうございました。今後は折にふれてこのサイトに書いて行きますのでよろしく。オヤ、同じようなことを前に書いたことがあるぞ……。

2002.04.26

PIT INN 3DAYS
ピットイン三夜連続ライブ、たくさんの御来場ありがとうございました。

第一夜:ピアノトリオ ピアノ、ベースにパーカッションという変則トリオをやってみたいな、と思い立ったのは、岡部洋一マジックを多重録音でなしに目撃したかったのが半分。加藤真一低域旋律vsパーカッションのリングサイド観戦が半分。ピアノは? …ピアノはこの際レフェリーでしょう。

第二夜:チェンバロトリオ ピットインの30年を越える歴史のなかでチェンバロトリオははじめてのはず。アルバム『PLECTRUM』録音と同じ久保田彰氏製作のフレミッシュタイプ二段鍵盤を搬入。岡部氏もサンプリング音源のエレクトリック・パーカッションを加えて前夜とはまた違ったアプローチ。曲は300年前の「Pavane Lachrymae」から、John Lewisの「Django」、Turkish Traditional「舟唄」、果ては「Sola Topi」まで、と自分でも驚くワイドレンジ。演奏者にとっては手錠をかけられた感じがするチェンバロですが、聴いているとやたら面白いという。じゃまたやろーっと。(Photo by HIRATA Etsuro)

第三夜:STOY ひさびさの登場。アルバム『STOY』はBAJレーベル諸作品のうちでダントツの売れ行きを誇る。ピアノでは出せない音=微分音が随所に出現し、ジャズにはない複雑な曲構成とテンポチェンジ、変拍子、などなどこれまた手錠状態になった感じが新鮮。するってえと何かい、おれには多少嗜虐趣味あり? おいおい。かなりな盛り上がりにそろそろ『STOY II』作るかね、なんて話もちらり。

なにはともあれ、刺激に満ちた三日間でありました。ピットインのサウンド担当藤村さん、毎日出現する変わりもの楽器のマイクセッティングとPA調整お疲れ様、鈴木店長はじめスタッフの皆さんありがとう。次の機会もよろしく。

2002.06.07
あぁ忙しかった
5月は毎週末東京を離れなくてはならないスケジュールになってしまい、体力がもつかどうか周囲が心配してくれましたが、どうやら乗り切って、やっと一息ついているところです。
東京とどこかの往復が連続するだけなら驚きません。今回はいろいろな移動がありました。東京〜熊本県宇土〜名古屋〜東京とか、車で8:30東京発〜横浜〜静岡県富士市〜東京へ同日深夜戻り、翌朝9:40羽田発広島同日22:00羽田帰着なんて具合。
面白かったのは5月4日から5日で、東京〜名古屋(新幹線)〜多治見(JR)、翌朝多治見〜名古屋(JR)〜小倉(新幹線)〜門司港(JR)。そこから船で関門海峡を渡り下関市唐戸桟橋へ。会場の下関グランドホテルの真ん前に上陸、という経路でした。
下関は本州の西の玄関なのに、交通機関からは冷遇されていて新幹線は〈こだま〉しか停まらず、山口宇部空港からは車で一時間以上。一番早いのは福岡空港〜博多(地下鉄)〜新下関(新幹線)〜市内(タクシー)なのですが、乗り換えが多くて面倒です。
「たしかホテルのすぐそばに船着き場があったな」と思い付いて、好天をさいわい、数分間の船旅を楽しんだのです。同行者=ベースの桜井郁雄、というのがイマイチでしたが。

2002.07.03

似て非なるもの
震源地前田憲男「たばこ と 下駄箱」「イラン と おいらん」の〈どのくらい違う〉シリーズは各地で独自の展開を遂げているようです。
このあいだは岡山のランドゥーガ・セミナーで「ママカリ と ママチャリ」というのが出ました。ママカリはコハダに似た小魚で、これの押し寿司はなかなかのものです。しかしママカリは関東で知らない人が多いのではないか、と危惧する意見があって、西日本限定作品優秀賞に推薦。
「浪人生 と ロウ人形」なんてのもありましたっけ。
方言などいっぱい使って面白いのができたら教えてください。

北海道ツアー
前田祐希さんのコールポーター・ソングブック『Ev'ry Time We Say…』CD発売行商ツアーに行って来ました。ツアーは現地の方々の御協力なしには成立しません。ワゴン車にPA機材を積んで釧路と弟子屈のサウンドを作って下さった宮越勝弘氏、旭川市郊外のすてきなレストランを会場にして下さった河野透先生、JASの星野利英氏、札幌琴似駅地下のベーゼンドルファーつき穴蔵を発見して下さった村上文子さん、三角山放送局の木原くみこ社長、潜水亭沈没師匠。そして各会場のオーナーの方々、釧路ジスイズ小林東氏、弟子屈欧羅巴民藝館辻谷克彦氏、旭川ハーヴェストロードハウス宮下隆宏氏。さらに会場に足を運んでくださった皆様にこの場を借りて心より御礼申し上げます。
小林東さん、ジスイズ33周年おめでとうございます。記念のライブシリーズの最後に加えて下さるという名誉をいただいてとても嬉しく思っています。66周年めざして頑張れ〜。

難読地名
北海道は難読地名の宝庫です。アイヌ語を漢字表記するのだから当然ですね。道路標識に仮名かローマ字がなかったらとても読めません。最初に目に入る漢字を無視して、まず仮名を読んでから、となります。今回のツアーは釧路〜弟子屈〜旭川〜札幌と車移動だったので、一瞬の判読が要求されて、スリリングでした。Rubesibe? るべしべ? な、なんだ留辺蘂? 三文字目は薬か? ちがうな、草冠に心がみっつ? 藁蘂長者っていう昔話があったけど、あのシベか。……なんて具合です。
何年か前の列車移動でもサウンドから漢字を当てるのが流行りました。おい、今の駅名の下の「チャンゲヘレ」って何だ? これがわかりません。しばらくして誰かが、「馬鹿だなー、乗り換えだよ、乗り換え。チャンゲヘレじゃないよ。チェンジ・ヒア。ここで乗り換えろってことだろ。change hereだったんだよ」。
弟子屈欧羅巴民藝館発行の〈難読地名番付表〉にはこんな生易しいものではない、正統難読地名が載っています。ちろっと=白人(西の小結)、ごきびる=濃昼(東張出大関)……もっと知りたい人は01548-2-1511へ注文。

2002.07.31
なんだか変?
「できて当たり前」「なにを今さら」と思っていることもチェックしてみる必要があるな、と実感した出来事。
〈信州国際音楽村合唱団〉今年の定期公演の音楽を担当することになって、リハーサルのために時折長野県上田市に通っているのですが、先月は振付の石橋寿恵子先生がお見えになり、開始前に柔軟体操や簡単な動きの練習をしました。
私も道場の休みをカバーするために参加。
柔軟体操はまずまずでしたが、「真直ぐ立つ」「歩く」がいかにぶざまであるかを発見、愕然としました。
先生が歩くと実に自然で流れるよう。我々のはなんだか疲れ切った難民の列。真直ぐ立っているつもりでも、鏡で見ると地盤の悪い所に並んだ電信柱みたいに傾斜していたり、一方の肩が上がったり下がったり、腰が引けたり腹が出たり。
「天に引っぱりあげられるように首と背筋を上に伸ばして」と云われてもなかなか。何十年の姿勢を一時になおせるものではありません。
「腰を沈め、膝にゆるみを持たせ、摺り足」が基本の武道とは根本から違うのは当然ですが、これは稽古着、袴姿でサマになるもの。私の場合ステージ袖からピアノまではせめてスマートに歩かねば。こんな基本的なことが出来ていないのなら、多分他にも要チェック項目があるはず。
呼吸、咀嚼、まばたき、歯磨き、洗顔、ぴあの椅子の座りかた、単音の弾きかた、音階、コード……すべて「なんだか変だな」と思うようになってきています。
だいいち脳は正常に作動しているのか? ここにいるのはオレに違いないのか? 今日は何する予定だった???? タスケテクレ〜

2002.08.28
初顔合わせ
8月16日新宿ピットイン。〈梅津和時・夏のぶりぶり2002〉第二日、出演:梅津和時、豊住芳三郎、それに私、という顔合わせをポスターで御覧になった方は、うん当たり前の組み合わせだな、と思われたことでしょう。フリーインプロ系に興味をお持ちなら、おなじみの三人です。
三人ともフリーインプロを演るようになって30年以上になるので、共演したことは何回もあるのですが、「この三人」というのが初めてだったのです。ふたりずつがあるのに不思議なことです。そういえば 今年一月の私のセッションで顔をあわせるまで、Ned RothenbergとLauren Newtonが共演したことがなかった、ということも以前書きました。
彗星の軌道のようなものなのでしょうか。「仏縁」ならぬ「楽縁」があるのだなぁ、と思います。

2002.10.04
進化するランドゥーガ
“ランドゥーガ史”というものがあるとすれば、2002.09.16はひとつの節目となるのかも知れません。
代々木の国立オリンピック記念青少年センターでの二日連続ワークショップ。回を重ねるごとに水準が高くなって行くのが不思議です。初めて参加、という方が三分の一なのにどうしてなのだろうと思います。
この状態ならもしや、と最後のセッションで〈ランドゥーガの最終形〉を初めて試みたところ、全員がかなりの手応えを感じる結果になりました。ランドゥーガが一段進化したことが明らかになったというべきでしょう。
最終形というのは「ルールなし。自発性のみによる音の自律的な発生〜成長〜終息」で、これがいつでも成立するようになるのが理想です。
むろん、全参加者が仏陀のごとき境地に達していなければ、いつでも成立、なんてことになるはずはありません。しかし、15分のあいだにたとえ数秒でもそういう状態が出現し、それを全員が一瞬の虹を見るように感じ取れたとすれば、これほど大きな収穫はそう滅多にあるものではありません。
この、言葉では絶対に表現できない状態は、つきつめるとなにか宗教的体験に通じるものがあるようです。だからあまりこれのみを強調するとランドゥーガがアブナイ宗教だと誤解されるといけないのですが、通常の音楽だったらかなり修練を積んだ段階でないと得られない達成感と同種のよろこびであることは確かです。
まだ実験装置のなかでプラズマを何億分の一秒発生させた、というような段階ですが、次にはひと桁上げて、何千万分の一秒とする、に向かうことにしたいと思います。
次回が楽しみです。

2002.11.01
富樫雅彦さんの現状について
長い期間を通じて徐々に進行してきた富樫さんの貧血症状が9月に入ってひとつの線を越えました。
ひとつの線、それは体を垂直に起こして車椅子に長時間座る、ということです。
演奏をするためには数時間、最短でも数十分はその姿勢が必要であるのに、数分経たないうちに視野が暗くなり、音が遠のき、心臓が苦しくなる。こうなると腹部の安全ベルトを外し、前方に伏せるか、車椅子ごと後方に倒して足を上げ、脳に血液が帰って来るのを待たねばなりません。
富樫さんによると、損傷した脊髄のぶんだけ造血能力が不足しているので、貧血になるのは避けられず、他の臓器への影響なしに症状の進行を食い止めることは現在の医学をもってしても不可能なのだそうです。
このような状態では、演奏はもとより自宅から会場へ行くことも困難です。ここに至って富樫さんは、パーカッショニストとしての活動を停止することを決意しました。
今後は体を45度以上起こさずに自宅でできる創作=作曲と描画にエネルギーを注いで行くことになります。

2002.12.03
指名手配
ふとしたことで“喫煙マナー向上委員”なるものに任命されてしまったのは、BBSの管理人書き込みでお知らせした通りです。
腕章をつけて不法喫煙者を摘発するのではありません。各自喫煙についてひとことメッセージを考え、写真を撮るだけ、というので深く考えずに承諾したのでしたが……。
電車の中吊り広告になる、なんてことは無論はじめての経験です。まずは委員5人の集合写真なので私はそれほど目立たないし、そもそも別に悪事を働いたわけではない。車中の人たちはその広告に特別見入るでもなし。気にすることは少しもない。なのにその真下に立つのが恐ろしい。指名手配の犯人の心境が少しわかったような……。
次回からはひとりずつ順次宙づり、いや中吊りや窓上に掲載されるということで、いまから取り消しもならず、汗顔の至りとはこのことかな。
私にはやはり裏方が性に合う。できれば黒幕、フィクサーあたりの役どころを希望いたします。え? そんな貫禄ない? は、ごもっとも。

2002.12.27
'02.12.21〜22
新宿ピットイン〈富樫雅彦を励ます会〉二日間においで下さった方々に心より御礼申し上げます。
ことに21日は文字どおり立錐の余地もなく、酸欠を心配しなくてはならないほどで、立ち見のお客さまには申し訳ありませんでした。
にもかかわらず「60年代末の新宿再現」と称して“全編完全フリー休憩なし3時間ぶっ通し”に挑戦したために、多くの方から「疲れた」とお叱りを受けました。反省。
考えてみれば、あの頃は演奏するほうも、聴くほうも若かったのでした。
誰もが鬱積したエネルギーを持て余し、噴出口を求めてうろついていたような気がします。ピットインでは「プレイヤーが勝つか客が勝つか」だの「お前らが倒れるのを見届けてやるぜ」といった演奏が連日繰り広げられ、双方リングアウトして終了、が最高のエンディングだったりするわけです。
だから、みんなが「あ〜疲れた」と言って帰るのは満足の証しであったのですね。
それに対して21日の「疲れた」は心底お疲れになってしまったことをおっしゃっているのです(アタリメーだ)。
つまりですね、60年代に「疲れた」とおっしゃったのと同じ方が先日「疲れた」のは加齢によるもので、これは致し方ないのですよ。しかし、60年代を御存知ない、その頃にはまだ生まれていなかったような方が「疲れた」とおっしゃったとすると、これは多少問題あり、だと思うのです。
なんだか日本国がしだいに足腰弱く、骨粗鬆症になってきているような……。
いやいや、クラブ系の店だったら一晩中スタンディングで踊り放しで平気な若者はいくらでもいるぜ。となると原因はどこに?
そうか、もっとスペースがあって踊れれば良いのか。
わかりました。次回は東京ドームか横浜アリーナで開催しましょう。〈無制限フリーインプロ・デスマッチ〉。で、どうやって踊る?