昔の岩崎酒店

 昭和の初め頃生まれた職人さんに聞きますと、昔は日当で清酒一升瓶1本買えなかったようです。現在の職人さんの日当なら普通の清酒10本位は買えます。人件費との相対的な話ですが、こんなことを考えますと「昔の酒屋は随分と利益が上がったものだ、現在は1/10か」と思います。食べるお米も満足にない状態で、お米を酒に変えて飲食することが随分と贅沢だったことがわかります。酒に飲まれて財産をなくした人も多かったようです。ちょっと極端なのでしょうが、この辺でも昔は、酒一升土地1反(300坪)などと聞いています。

 この建物は戦時中火災の延焼防止のために戦車で引き倒されたそうです。その跡地には類似の家屋が建っておりましたが、その跡地がビルになりました、正面左にあった蔵はビルの後ろに移築しました。この土地の中は昭和の終わり頃(1980年代半ば)まで、醸造蔵・穀倉など用途別に蔵が並んでおり瓦屋根で壮観で別世界したが、維持できる社会情勢・税法にありませんので、解体し、現在は共同住宅や駐車場やビルとしてしまいました。

そのとき、お役人との間でこんな冗談のやりとりがありました。
お役人;何とか保存できないものだろうか
当方 ;修繕費、相続税など面倒を行政でみてもらえるならば、
お役人;....

 田舎に行きますと、古い由緒ある家が保存されていますし、今でも機能しています。本当のゆとりとはそのようなものではないかと思います。自分もそうしてしまいましたが、土地の高度利用などといって、高い建物を建てるばかりが発展ではないのは明らかだと思います。そのような点から、都会にとって現在の税法その他は、歴史と文化を滅ぼすものといえます。あるフォーラムで「悪税法は環境を悪化させ、文化を滅ぼす」と発言したことがあります。後ろには、パークシティーの共同住宅が見えます。私には、巨大軍艦のように見えます。

 近所の子供達は隠れんぼう、鬼ごっこ、セミ取りなどで遊んでいました。
こんなこともあったのです。
テレビドラマの智恵子抄の撮影で使われたのです。東京に最も至近の蔵の一つがここで、撮影に便利だったのです。
 土地の奥の一番大きな蔵が醸造蔵で、この中にあった醸造器具はとどろき緑地の「川崎市民ミュージアム」に、蔵の大扉は生田緑地の「民家園」に寄贈、保管されています。

 明治十年代後半下記初代がこの地に住み始めたのがこの家の始まりです。
初代 岩崎次郎吉(〜1944)
   明治20年代 どぶろく造りを開始
   明治44年蔵の建築開始
二代 岩崎 彦吉(〜1937)、岩崎トラ(〜1978)
   家督相続直後に二代がなくなり、その後妻であるトラが家を切り盛りしていました。
   しかし、実質家は休眠状態でこの状態は約50年続きました。
三代 岩崎 明子(現当主)