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オーディオでより深く音楽を楽しむために

 音楽は生活から切り離すことのできない大切な楽しみです。今世紀に発明されたオーディオ装置は、自室へ音楽を持ち込ませ、ヘッドホン・ステレオは野外へ音楽を持ち出すことすら可能としました。

 簡単に聴ける便利さが満たされれば、音質をより良くしたくなるでしょう。しかし、漫然とステレオの音を良くしたいと考えても、製品を買い換えればよいのか? アクセサリーを使えばよいのか? 提供されている情報や製品はあまりに数多く、判断が難しいと思うのです。

 音を変えるのに一番手っ取り早い方法が装置の入れ換えです。そのため、最初はちょっとした買い替えから始まったオーディオ熱が徐々に高じるにつれ、たいていのオーディオ・マニアは音を大きく変えてくれる装置やアクセサリーにこだわりを持つようになりがちです。

 しかし、音楽をよりよく聴きたいという当初の「目的」を省みるなら、それは間違いなのかも知れません。なぜなら、装置やアクセサリーへの思い入れが強くなりすぎて、いつの間にか「目的」と「手段」が入れ替わったり、あるいは特定部分の改善だけに満足してしまい、それ以外の問題部分に目を向けることを怠り「目的」を達成する遠回りになってしまうからです。

 そこで、この冊子では自室で「再生音楽をより深く楽しむために」大切なことを、音楽の成り立ちから始め、様々な問題点の提議とそれらの解決方法について説明したいと思います。

音楽の発祥

音と人間の関わり

 音楽は「音」によるコミュニケーションです。「音」がどうして私達の心を動かすのか、人間と「音」の関わりから考えてみましょう。

 人間が「狩猟生活」をおくっていた頃、「音」は生き延びるために必要な「食料確保」に、あるいは自分より強い獣から「身を守る」ため重要な情報源として役立っていたはずです。「音」は命に関わり「一瞬の判断遅れ」が生存を左右したはずなのです。そのため人間の聴覚は、「音の出始めの一瞬ですべてを把握できる」ように進化したと考えられます。

 まだ「言葉」を持たなかった時代、仲間と意志を通じ愛を交わすために「うなり声」はなくてはならないコミュニケーションの手段だったはずです。私達の体や心が自然と「音」や「声」に反応するのは、本能に刷り込まれた肉体の反射(記憶)だったのです。人種が違い、肌の色や性別、信仰する宗教が違っても「音(声)」をコミュニケーションに用いる「音楽」なら共通に理解できるのは、私達が共通の祖先から生まれ本能的(動物的)には同じと考えれば納得できるのです。

音楽の発祥

 今、私達は「言語」を用いてコミュニケーションを行っていますが、「言語」によるコミニュケーションは人類の歴史の中では、かなり遅れて発達した方法です。言葉を持たない頃、人間は動物たち(例えば犬や猫、鯨)と同じように「うなり声」などの言葉としての意味をもたない声でコミュニケーションを行っていました。

 時代が進むにつれ、人の生活形態は「個人」から「家族」そして「種族」へと拡大され、「個の生活」から「集団生活」へと進化を遂げてゆきます。そのとき「声」によるコミュニケーションにも、大きな変化が見られたのです。

 「集団生活」では、物資や情報などを「共有」することで「個における生産性」とは比較にならない「大きな生産性(利便性)」を生み出せますが、「共同作業」をよりスムースかつ有効に行うためには「ルール」を定めなくてはいけません。「声」によるコミュニケーションも例外ではなく「個の生活」では「単なるうなり声」でよかった「声の使い方」に「一定のルール」を適用することで「よりスムースにコミュニケーションを図れる(より短い時間に多くの情報を共有できる)」ようになったでしょう。「声によるコミュニケーション」は、このように「一定のルール」を与えられたことで「音楽」へと発達していったのです。

 「言葉」を持たなかった頃、人類は「収穫の喜び」や「死別の哀しみ」を「原始の音楽」により、表現・共有していたに違いありません。その名残こそ現代の「セレモニー」での音楽の役割だと思うのです。

音楽の進化と楽器の役割

 集団が大きくなるにつれ、さらに多くの仲間と情報を伝達・共有する手段として効率的に音を出す道具が発明されました。「楽器」の誕生です。固いもの同士を打ちつけて「大きな音を出す」ことは容易であったはずですから、楽器は「打楽器」から生まれ発達していったのではないでしょうか?

 「打楽器」の発明は「リズム」を生んだはずです。複数の打楽器を使うことで「リズムの整合性」が必要とされ、集団で歌うことは「ハーモニー」を育んだでしょう。このように「楽器」がその種類を増やすのに対応し「音の使い方の手法=音楽表現のバリエーション」が生まれ、お互いの進歩が干渉・融合しながら「音楽」はその複雑さと深みを増し、現代に至るのです。

音の変化による表現

 現代、私達は「リズム」や「メロディー」こそ音楽だと思いがちですが、音楽の発祥から順を追って考えてみれば、それらはむしろ後から発達してきた音楽表現方法たと気づきます。本来は、一瞬の「音の変化」でニュアンスを伝えていたはずです。それどころか、私達はより「本能的な部分」で「物音」や「うなり声」に「反射的に反応」するように進化してきたのですから「音」は「リズム」や「メロディ」よりも、強く、ダイレクトに心に響くはずなのです。

 音の瞬時の変化に関して、もう一つ忘れてはならないことがあります。「危険を知らせる叫び」や「愛をささやく声」は、「身体感覚」が瞬時に「音へと変換(反映)」されるため、嘘が入り込む余地がなく、なおのこと迫真の「現実味(リアリティー)」を持つに違いないのです。

音の鮮度(力)と音楽表現力

 「瞬時の音の変化」が、音楽表現にとても大切だということがわかりました。「音」が変化すれば、「音楽」は変わってしまうのです。

 しかし、「メロディー」や「リズム」といった音楽情報は、CDを聴いて「正確な写譜」ができるように、録音再生の過程でも比較的改変されず保持されるのに対し、装置やアクセサリーの変更で「音」は簡単に変わってしまいます。つまり、「音の鮮度(楽音の純粋さ)」は、「メロディー」や「リズム」よりもはるかに損なわれたり、変わりやすく、再生時に「音」を作り変えないよう、十分な注意が必要とされるのです。

音の鮮度(情報)とはどこにあるか?

 では私達をハッとさせる「音の鮮度」は「音のどの部分」に含まれているのでしょう?

 音と人間の関わりで説明したように、私達の聴覚は「音の出始めの一瞬」で様々なことを判断するよう進化を遂げています。楽器の音を聴くときも例外ではなく、音の出始めから、3/100秒ないし5/100秒という、非常に短い時間の「音の変化」が「音楽表現」にとって特に重要です。この楽音の「立ち上がり」の部分に、「音楽情報」の大部分が含まれているといっても過言ではないでしょう。

楽器の出始めの音(アタック)

 「音の立ち上がり」の重要性をさぐるために「ピアノの音を録音したテープを逆回転させる」という実験が行われました。こうすれば「音の立ち上がり」が失われ、「ピアノの音」は「ハモンドオルガン」か「オルガン」のように聴こえるようになります。また、楽器の単音を録音し、その「始まりの瞬間=立ち上がり」を消去して「楽器の種類」を聴き分けるという実験では、「立ち上がりの音」を消された「楽器の音」は、やはりほとんどが「オルガン」のように聴こえるのです。

 これらの実験から私達が楽器の音を判別する場合には、音の出始めから3/100秒〜最大10/100秒程度の時間に発生する音が重要だということが判明しました。この楽器の「音の出始めの部分」は音楽用語で「アタック」と呼ばれています。

 楽器の種類を3つに大別し、楽器から音の出始める5/100秒までの時間に生じる音(アタック)がどのような音で構成されているか簡単に説明しましょう。

●打楽器:打撃により発音させる楽器

ものを打ち付けた場所(打撃ポイント)では、衝撃音が発生する。衝撃音には、鋭いパルス性の非倍音成分が多く含まれている。

●弦楽器:弦を弾くことにより発音させる楽器

弦を引っ張ったり、引っ掻いたり、打撃した部分では、「打撃音」・「擦れ音」が生じ、打楽器と同じような鋭いパルス性の非倍音成分が多く発生している。

●吹奏楽器・空気を何らかの方法で直接振動させて音を出す楽器

発音部分(唇・リード・エッジ)では、ノイズ(風切り音)が発生する。ノイズにはパルス性の非倍音成分が多く含まれている。

 このように、ほとんどの楽器の「アタック」には「パルス性の非倍音成分」が多く含まれています。録音再生時に、この「パルス性の鋭い音」をきちんと保存できなければ、楽器の「アタック」は再現できず、音の鮮度を損ねてしまうでしょう。

 また、この「アタック」は音の出始めにだけ存在するのではなく、バイオリンやフルート、クラリネットなどの「音を持続して発生できる」楽器では、「音」の発生と同時に「アタックも連続して発生」しています。これらの楽器の繊細な表現力は「アタックの多さ」による部分も大きいと考えられるのです。

音の鮮度(繊細さ)と音楽の関係

 「アタック」が損なわれ、音の鮮度が低下すれば、音楽にはどのような影響があらわれるのでしょう。

 大きく影響を受けるのが「クラシック」。特に「ドビュッシー」などは、楽音の繊細なハーモニー(微細なアタックの連続的な変化)から成り立つため、大きな影響を避けられないでしょう。また、「民族音楽」などの五線譜に記述できない音楽も「メロディー」や「リズム」より「音そのものの微妙な変化」を音楽表現に用いている場合が多く、これらの「音の純度」が大切にされる音楽では「生」で聴く場合と「再生音楽」が大きく異なることが珍しくありません。

 しかし、同じ「クラシック」でも、「メロディ」や「リズム」を主体として構成、演奏される「バッハ」や「モーツァルト」等は「音の変化」にたよらなくとも、ある程度の表現は可能ですし、歌のように「言語」を用いれば「音の変化」や「メロディー」「リズム」が再生時に損なわれても、少なくとも「意味」は伝わります。

 「音の鮮度の劣化」が再生音楽にどのような変化をもたらしているかといえば、最近のラジカセやウォークマンの音質が「クラシック」特に「交響曲」を楽しむためにまったく不十分なため「若者が聴く音楽の主流」が「電気的な増幅」を前提として作られた「コンピューター・ミュージック」や、それに近い「POPS」・「ROCK」あるいは「カラオケ・ミュージック」と呼ばれるような「簡便な音楽(ラップ・ミュージックなどはその代表)」に移って行っても仕方がないと思うのです。しかし、「限られた音の表現力でも成立する音楽」では「音楽の情報」も限られてしまいます。

 音楽ではなく楽器の話になりますが、コンピューター楽器が「弾き難さ」を持たないのも大きな問題です。「弾き難さ」からもたらされる「緊張感」や「恐怖感」といった「負荷」が奏者に働いたとき、それを克服するために、奏者は「集中」を高めなければなりません。しかし、「負荷」が軽ければ「集中」は高まらず、そういう「深く静かな集中」を得てはじめて表現される「音楽的な深み」が抜け落ちてしまうことが多いのです。

 このように、演奏自体の情報量の多さは奏者の「身体感覚」からフィードバックされる部分が非常に大きく、「生楽器でなければ表現(到達)できない演奏の深み」というものが、必ず存在するのです。

 ゼロ才から百才まで、多くの人に「名演奏」と呼ばれ、敬愛される音楽を後世に伝えて行こうと思うなら、奏者の「ハート」を確実に伝えるため、音の鮮度(アタックの繊細さと鋭さ)を落とさないことは、決して譲ることのできない非常に重要な課題です。

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オーディオ理論の問題点

人間の感覚とデーターの違い

 測定器は人間に見えない音を、目に見える形に変換してくれますが、それは聴こえている音とはかなり離れています。例えば私達が「シンフォニー」を聴いたときには、様々な楽器の音の複合音(重なった音)として聴こえていますが、オシロスコープに「シンフォニーの音を表示」した場合には「一本の線の複雑な振幅」として表示されています。この二つはまるで異なります。なぜなら、私達の「耳と脳の連携」は無意識に「情報(音)」を取捨選択し、「必要な音」だけを重点的に利用することで「リアルタイム(瞬時)」の複雑な分析を可能としているからです。

 この仕組みを視覚に置き換え説明するなら、次のようになります。私達は白い紙の上に書かれた「格子模様」の一部の「ゆがみ」をたちどころに見つけることができます。それは「ゆがみ」という「相対感覚」が人間にあるからです。反面、「どれだけゆがんでいるか?」を正確に知ることは困難です。

 センサー付きのコンピューターを使えば「どれだけゆがんでいるか?」を正確に知ることができますが、逆に、「ゆがみ」という相対感覚を持たない「コンピューター」はすべての「格子」を「センサー」で調べてからでないと、どこが「ゆがんでいるか」を判別することができないのです。この「ゆがみ」だけを「瞬時に判別しうる能力」の有無が「音響測定器」と「人間の聴感」の分析能力の違いなのです。

 つまり、「格子」は動かないので「コンピューター」は「ゆがみ」という「特異点」を見つけることができましたが、「音楽」は常に激しく動いています。そのため「瞬時に特異点」を見いだす能力がなければ、連続した動きに追従して音を分析、測定することができないのです。

 この「静的分析」と「動的分析」の能力差が、聴感と測定データーの違いとなってあらわれます。

測定器の限界

 また、測定データーの精度にも限界はあります。例えば、信号ケーブル(インターコネクト・ケーブル)の変更が再生音に有意義な差異を生じさせるのは、熱心なオーディオ・ファンなら誰でも知っています。しかし、測定器のプローブ(検知棒)のケーブルを高音質品に変更しても「データー」は変わりません。もちろん「プローブの配線」や「プローブの材質」などで、「測定データー」がころころ変わるようでは測定器として使い物にはなりませんから「不動のデーター」を得ることは最優先事項です。しかし、「データーを不動のもの」にすべく、「データーの簡略化」や「精度の切り捨て」が行われていることを忘れてはいけません。問題点は「どこを計るか?」・「どのように計るか?」にあるのです。しっかりした目的意識にそって「測定」を行わなければ、どれほど細かくデーターを測定しても無意味なのです。

 「データー」を一人歩きさせたり、固執、過信したりするのではなく、「有効活用」しながら研究を進める姿勢が重要とされるのです。

次世代デジタルフォーマット

 DVDオーディオなどの次世代オーディオフォーマットの音質向上効果については、現在デジタルフォーマットの延長線上にあるため、ある程度推測が可能です。

 同一マスターを使ったCD(サンプリング周波数44.1KHz)とDAT(サンプリング周波数48KHz)の比較試聴の経験から、サンプリング周波数が44.1KHzから96KHzに引き上げられることによる「高域の不自然さや繊細感」の改善は非常に大きいと思えます。量子化ビット数についての変更は「平均録音レベルと密接な関係」があるため、一概には断定できないのですが、例えばクラシックの生録では、量子化Bit数の上限以上の高レベル信号が入った場合歪むため、3−4Bitの余裕を持たせて録音するのが普通です。そのため、実際に使えるのは、16Bitから3〜4Bitを差し引いた「12Bit/4,096ステップ」ないし「13Bit/8,192ステップ」程度になってしまうのです。しかし、量子化ビット数が20Bitに拡大されれば、余裕を持たせた4Bitを差し引いても「16Bit/65,536ステップ」を使うことができます。この「12Bit/4,096ステップ」と「16Bit/65,536ステップ」の差は数字的にも非常に大きく、有意義であるように考えられるのです。

 対して、新しいDA変換「DSD方式」を採用する「SACD」のデジタルデーター量は、従来のCDと比較してデーター量が5倍以上と飛躍的に高まっているにもかかわらず、今発売されている数種類のSACDプレーヤーの音質は通常のCDと大差なく、それどころかSACDの音質を完全に上回る現行CDプレーヤーはたくさんあります。

 たしかに、これらの次世代デジタルフォーマットの「音質の検証」はまだほとんどなされていませんが、SACDにみられるようにフォーマットの変更だけで「音質」が飛躍的に改善されると考えるのは早計なようです。もし「フォーマット」=「音質」の関係が実際に成り立つのなら、一万円のポーターブルCDプレーヤーと、百万円を超える高級CDプレーヤーの音質が同じであってもおかしくはないのです。

 オーディオ機器の音質を決定づけているのは、むしろ電源やアナログ増幅回路、振動対策、など音質に関係するあらゆる部分への配慮を「どれだけきめ細かく行っているか」というトータル・パッケージングにより重点があるのです。

人間の感覚とデジタルフォーマットのずれ

 現行のデジタルフォーマットを定めたとき開発メーカーの「SONY」と「PHILIPS」は、人間の可聴帯域の高域限界は「20KHz」なのでそれ以上の周波数は「聴こえないから音質的な意味はない」と、周囲の懸念の声を無視し「20KHz以上の周波数」をすっぱりと切り捨ててしまいました。しかし、彼らは次世代デジタルフォーマットでは「100KHz以上の周波数」を録音できるように定め、それにより音質が大幅に改善できると説明しています。

 この重大な矛盾と、重要な変更について「大メーカー」は一言の釈明、謝罪を行っていません。それどころか「次世代オーディオは、CDと違って聴き取ることのできない高音まで録音されているので、演奏の雰囲気まで感じ取れる」という、非論理的きわまりない広告を大々的に行っています。オーディオ雑誌やカタログには、あれほど「現実的な数字」をあげ、くどいほどに「技術や理論の先進性をひけらかすメーカー」と同一と思えないひどくお粗末な宣伝文句です。「売り上げを伸ばすためなら何を言っても良い」のでしょうか?論理も、倫理も何もあったものではありません。まさに「厚顔無恥ここに極まれり」と叫びたい気分です。

 また、現在定められている「デジタルフォーマット」の「サンプリング(標本化)」の方法は、音の高さ、音の大きさ方向に対してどちらにも「一定の目盛り」を用いる「直線量子化」が採用されていますが、私達の「音の高さ」や「音量」に対する感覚は、例えば10Hzという「一定の音の高さの変化」が、500Hzと510Hzの高低差なら誰でもわかり、5000Hzと5010Hzだと誰にもわからない、というように一定(直線)ではないのです。

 これらの矛盾はいったいどのようにして起きたのでしょう?それは「CDのフォーマットの決定段階」で、「SONYは16Bit/非直線量子化」・「PHILIPSは14Bit/直線量子化」を主張し、両者が互いに譲らなかったため、折衷案の「16Bit/直線量子化で妥協をした」という経緯があるのです。

規格は経済効果により決められる

 このように、CDのフォーマットに関わらず企業や国家が定める「規格」が科学的な根拠によらず、経済的な理由や政治的な駆け引きによって決定づけられることは今に始まったことではありません。しかし、人類共通の偉大な文化である「音楽」を「伝えるための技術の重要部分」を「科学的な検証」によらずメーカー側の都合で、「適当にその単位を定めてよい」のでしょうか?

 話は少しそれます。「オゾンホールの破壊」と「フロンガスの関連性」が科学者によって指摘され「フロンガスは製造も使用も禁止」ということになりました。しかし、「フロン製造特許の期限切れ」と「オゾンホールへのフロンガスの影響が指摘され始めた時期」の「偶然の一致」、さらには「代替フロンの製造特許」を「フロンの製造特許と同一の会社が所有している」という「偶然の一致」を知っても「フロンガスがオゾンホールを作った」という情報の「科学的根拠」を信じることができるでしょうか?

 また、「地球温暖化」と「CO」の関連性への指摘も、最近特に盛んですが「COの発生源である化石化燃料の枯渇の時期」と「地球温暖化はCOが原因」という諸説提唱の時期も、ただの「偶然の一致」なのでしょうか?「CO排出を規制」したり「ISO9000」のように、製造・開発について厳しい環境規制を行えば、確かに「環境汚染」は低減できるかも知れませんが、それをクリアーできる技術や特許を持つのは、常に「科学先進国家」に限られているのです。こういう国家的、地球的な規模においても「科学的なデーター」・「科学的な根拠」が持ち出されるときには、影に「それによって利益を得ることのできる国家や企業が提唱している」という事実がみられるのも、ただの「偶然の一致」なのでしょうか?

 「原発の安全性」しかり、「食品添加物の安全性」しかり、「薬害エイズ問題」しかり、一つずつ挙げればきりがないほど「科学的根拠」という言葉に「科学的根拠」がなく感じられてしまうのです。

 このような例を挙げるまでもなく、様々な場合において「権威づけられている情報」が「すなわち絶対正しい」というわけではありません。

 私達も、「オーディオ・メーカー」のカタログデーターや「雑誌」・「評論家」によって権威づけられる新製品推薦の言葉を過信せず、ブランドや価格、綺麗なパッケージへの誘惑を断ち切って、自分の「感覚」をもっと大切に音楽を聴こうではありませんか。

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ハードウェアーの限界

物理的音質追求より大切なこと

 オーディオ機器が抱えている「ハードウェアー的な問題点」は数多く、それらをすべて個別にここでお話しすることはできません。また、今後改善されてゆくであろう問題点も多いと思いますから、個別の問題点に深入りするのは別の機会にしましょう。もちろん、今後どれほど技術が進歩したとしても「音楽」を物理的に100%元通り再現しうることは絶対にあり得ないことです。

 しかし、「蓄音機」のように「空気を十分に振動させることのできない装置」からも、私達は「豊かな音楽を聴く」ことができますが、それはなぜでしょう?

 自分の良く知る人物の「肖像画」を依頼したと考えてください。腕の立つ肖像画家は、依頼された人物を描くに先だち、必ずその人物と寝食を含めた生活を一緒にし、それから筆を取るそうです。なぜなら、その人物を良く理解できていないと「内面」まで描写することができないからです。

 「写真」と「肖像画」の違いは、「人物」をそっくりそのまま描かないところにあります。肖像画家は「描ききれない何か」を伝えるために、「部分的な強調や簡略」を意図的に行います。これを「画法」と呼びましょう。「画法」により、「描いた以上の何か」を伝えることが可能になりますが、もし「想像力」が誤った形で引き出されればイメージはすれ違い、肖像画に描かれた人物が「全くの別人」に誤解されて伝わってしまうでしょう。「画法」は注意深く用いられて初めて成功する、高度なテクニックなのです。

情報に嘘がないこと

 音楽の録音再生時に、この「画法」と同様のテクニックを用いエンジニアが音の「部分的な強調」や「簡略化」を行えば「録音現場」より演奏を上手に聴かせたり、演奏を濃厚に聴かせることが可能となります。しかし、どんなに「音」を上手く加工しても「嘘」はあくまでも「嘘」です。「嘘」が入り込んだ「音」には、「演奏者の身体感覚」、つまり「真実」は反映されません。「演奏の真実」を求めるなら、再現時に「偽の音」を紛れ込ませないよう厳しいチェックが必要ですが、より「音楽」を上手く聴かせるためにではなく「作られた音」を「排除」するために「音楽的なテクニック(画法)」を知ることが重要なのです。

 少しかみ砕いて説明しましょう。実際の演奏に「100」の情報があるとします。当然、録音再生という過程で「情報」は欠落します。もし情報が「50」に減ったとしても、その「情報」に「嘘」が紛れ込んでいなければ、元の演奏はかなり正確に伝わるはずですが、「50」の情報の内、もし半分の「25」が「作られた偽物の音」に置き換わっているなら、演奏は相当歪曲してしまいます。 「再生時に作られた偽の音」と「元々録音されていた音」を見極めるために「音楽的なテクニック」を知らねばならないのです。

 例えば、真空管アンプの音質が艶っぽいといわれますが、それは「偶数の倍音成分」より「奇数の倍音成分」が強調されて再生されるためですし、音の立ち上がりの甘い(緩い)アンプでは、キツイ音が緩和されてホールの座席位置がやや後ろになったように感じて聴きやすくなるものの、アタックが弱まるため演奏の厳しさが殺がれる傾向がみられます。スピーカーの幅や角度を変え音の広がりを変えれば、空間表現が作り替わり演奏内容が変わるのです。

 「偽の音」を排除すれば「音の数」が減り、一見さっぱりした「痩せた音」に聞こえるかも知れません。確かに、再生される情報量つまり「音の数」が多ければ多いほど、音楽が濃密に聴こえある種の心地よさがもたらされるのも事実です。「見かけ上の心地よさ」を狙って、手を加えたり音を補って再演するのか?あるいは、オリジナルを忠実に再現するのか?その価値判断はユーザーに委ねられています。

 しかし、私がAIRBOWの活動を通じて伝えたいのは、欠落した情報を「補う」ことによって「擬似的に音を良くする」手段ではありません。決してその手法を否定しようとは思いませんが、「嘘の音」が入れば入るほど「演奏の真実」からは遠ざかります。また、そのように作り替えられた音楽の「真実性」や「芸術性」には大きな疑問を感じるのです。そのため、「音」が消えてしまわないように最大限の努力を行いながら「偽の音」を厳しく排除し、「音楽を作り替えない」よう厳重な注意を払うのが最良の方法であると考えています。

 現在、私はセルジウ・チェリビダッケのセミナーに音楽を学んだ指揮者に師事していますが、彼は「時間と空間の関係に嘘がないこと」・「音楽の運動を正しく伝えること」を重視するよう助言してくれます。この助言を正しく成立させるためには、マイクがとらえたあらゆる楽音の時間軸(音の発生のタイミング)を再生環境で狂わせないように細心の注意を払わなければなりません。それを確実に成し遂げることができて初めて、楽器から音が生まれる一瞬や、それが変化してゆく過程の瞬時、瞬間を極限まで正確に伝えることができるのです。

本当に科学的に考える

 今世紀の科学の発展は目覚ましく、人間には到底感じられないことが、発明された様々な測定装置を駆使し、実験を行えば手に取るように感じとれるようになりました。宇宙の生い立ちの解明や素粒子の発見など、もはや科学で解き明かせない謎はないかのような勢いです。しかし、その半面私達の心の問題や地球の環境のことなど、身近で重要な問題はまったく解明されていないのです。大自然の驚異の前に科学は決して万能ではなく、依然として私達が感じたり、見たりすることの出来ない現象のほうがずっと多いのです。

 それは、音楽とオーディオ産業にもそのまま当てはまります。オーディオ機器や理論、測定器は音楽のごく一部を解明したり、伝えてくれるに過ぎません。依然、音楽とオーディオの関わりについて解明できていない謎や問題の方がずっと多いのです。

 科学的に考えるということは、何でもかんでも科学で強引に解き明かそうとすることでも、科学的に解明できないことを否定することでもありません。科学は、私達の知覚の一部を拡大してくれるに過ぎないのです。画家が絵を描くときに、少し離れて「全体」を見て、また細部を描き始めるように、科学という虫眼鏡に頼りきれば、「全体像」を見失なうでしょう。時々は虫眼鏡を傍らに置き、肉眼で見たり、少し離れた距離や違う角度から物事を眺めながら、じっくりと「考察」を練り上げてゆくのが、本当に科学的で論理的な研究姿勢だと思うのです。

 リスナー(聴衆)の問題と、ハードウェアー(装置)の問題点を提議しました。そこからは、音楽という「偉大な芸術」を前にして「全体像を見失わない」ことが大切であることを学べるはずです。

 繰り返しますが「本当に科学的な姿勢」とは「全体像を見失わず、考えを巡らす」ことであって、一部を解明しようと躍起になったり、解明できない物事を否定したりすることではないのです。

ハードウェアーと人間の関係

 「音が良くなればあなたは幸せになれる」というのは、「無駄なもの」・「高額なもの」をすすめるための「甘い罠」かも知れません。確かに、装置を買い換え「音を良くする」ことはできますが、「多くなった音楽的情報量」そのものが「機械が作った嘘の音」なら「音楽」の正確性を損ねてしまうでしょう。

 「音楽」を聴きたいのか?それとも「自己陶酔的な音の良さ」に溺れてしまうのか?この両者は、大きく異なります。「再生音楽の精度」を追求し、奏者の「身体感覚」までをも受け止めることができれば、「奏者の真意に深く迫ることができる」はずです。そこから学び取れるものは優れた小説を読む以上に、あなたにとって大きな収穫をもたらすかも知れません。

 こだわりを捨て「客観的な視点」で自分の装置を再評価すれば「それまでには見えなかったもの、聴こえなかった音、見過ごしていた音楽表現の豊かさと深さ」に気づけるはずなのです。

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より音楽を深く再生するための装置の開発

電源回路の改善

 増幅回路で一番のネックとなっているのは「電源回路」だと考えています。アンプなどの電源回路は、瞬時に発生し変化を繰り返す「パルス成分(以下アタックとよびます)」に対応する電力を、即座に増幅回路に供給できなければいけません。さらに音の鮮度を損ねないためには「聴きとれるぎりぎりのレベルのきめ細かな音の鋭さ」まで正確に再現されなければなりません。この「小さく鋭い音の変化に瞬時に対応」し「スピーカーを正確に駆動」するためには「瞬時電源供給能力」の大きさが電源回路に要求されるのです。誤解を招かないように付け加えるなら「瞬時電源供給能力の大きさ」とは「最大出力の大きさ」とは無関係で、より「俊敏な応答性を持つ電源」と言い換える方がわかりやすいと思います。

 現在のハイファイアンプの電源システムは、商用電源の交流周波数をそのまま利用して、毎秒約100−120回の回数で交流を直流に変換する方式が主流ですが、これでは電源周波数より高い周波数成分(特にアタック)を再生する場合、交流周波数の速度では対応しきれず、電気エネルギーの供給をコンデンサー(蓄電器)に蓄えられた電気エネルギーに依存することとなります。そのため、ほとんどの高級アンプは「蓄電システム=電源システム」を巨大化させていますが、その結果、「瞬時電源供給量の大きさ」に比例して、価格と重量が増加する傾向がみられるのです。

 この問題を解決する一つの方法は電源周波数を高め交流を直流に変換する速度を音声周波数の上限より十分高く保つことです。こうすればエネルギーの供給をコンデンサーに依存しなくてすみ、コンデンサーの応答スピードや容量、セパレーターの鳴きなどから発生するコンデンサー固有の音色の発生を低減することも可能となります。そのため最近、俄に「パルス電源=インバーター電源」がクローズアップされてきたのですが、この電源にも二つの重大な課題が残されているのです。

 一つは、電源周波数を変換する「スイッチング」時に発生する「パルス性のノイズ」です。このノイズを十分に低減できなければ、電源から発生する「ノイズ」が「アタック」をマスキングし、ヌケが悪く解像度も低い、躍動感のない音になってしまうのです。

 もう一つの問題は「直流安定回路の応答速度」の問題です。電源周波数をいくら上げたとしても、「電源の制御回路の応答スピード」が遅いと、増幅回路が必要とするとき、瞬時に電流を流せずせっかく高めた電源周波数が無意味になってしまうのです。

 この問題を解決した世界で唯一の電源システムがあります。直流安定化回路の応答スピードは「音声周波数の上限の10倍200KHz」に及び、発生するノイズは「測定限界値以下」なのです。この電源を搭載したプリメインアンプ、AIRBOWの「TERA」や「LITTLE PLANET」をお聴きいただければ、電源の改良によりもたらされる音質向上の大きさと楽音の生々しさに驚かれることでしょう。

 演奏家は「アタック」の中に「膨大な音楽情報」を織り込んでいます。彼らのすばらしく深い集中と研ぎ澄まされた反射神経からもたらされる「深みのある演奏」を再現するためには「音の出始めの一瞬の変化」を再生音に正確に反映しなければいけません。

 楽器の「アタック」がきちんと再現されたとき、オーディオの再生音は従来とは比較にならないほど「生楽器の音」に近づきます。リスナーはオーディオを聴いているストレスから大きく開放され、今まで感じ取れなかった豊富な音楽情報を聴き取れるようになります。その「一瞬の表情の変化」がオーディオから再現されたとき、音楽はあなたをまったく異なる深みの次元へと誘ってくれるでしょう。

D/Aコンバーターの音質改善

 CDプレーヤーが発売された当初は、シングルビット方式が実用化されておらず、ほとんどのCDプレーヤーは「マルチビット方式」を採用していました。その後、「安くて測定データーのよいシングルビット方式」が実用化され、各社はこぞってシングルビット方式を採用しました。しかし、音質的な理由で再びマルチビット方式へと転換するメーカーがあらわれてきたのです。

 AIRBOWのデジタル機器に搭載しているD/Aコンバーターは「マルチビット方式」を主に用いていますが、それは「アタック」の再現性を重視しているからです。「アタック」には「パルス性の高周波成分」が多く含まれます。オシロスコープで波形をみれば「直線的で非常に激しい動き」を示し、これは「正弦波」とは正反対の波形となります。

 マルチビット方式のD/Aコンバーターは、このような「過渡特性の激しい波形」に対する追従性がシングルビット方式のD/Aコンバータより優れているのです。対して、シングルビット方式のD/Aコンバーターは「連続する滑らかな波形(正弦波)」の再現性に優れています。

 この両者の特徴を「音楽」に当てはめて考えると、「マルチビット方式」は、「アタック」に含まれる音楽の重要な再現性に優れ、演奏の深みや躍動感の再現性に優れるはずです。「シングルビット方式」では、「エコー」の成分に多く含まれる「正弦波」の再現ではマルチビットに勝りますから、音の余韻の美しさや静けさの再現性に優れるはずです。実際に、この2種類の方式でD/Aコンバーターを試作すれば、ほぼ考えていたとおりの音質が再現されました。

 D/Aコンバーターの方式以外にも、デジタルフィルター内部でのデジタル演算方式も音質に大きな影響を与えています。今までの経験から、AIRBOWは「デジタルフィルター内部での複雑なデジタル演算」を嫌って、できるだけ「軽いデジタル演算」のD/Aコンバーターを設計しています。このような方式を用いると「測定できるD/Aコンバーターのデーター」は、他製品に比べてかなり劣りますが、音質は比較にならないほど優れているのです。

スピーカーのアタック再現性の改善

 スピーカーには、解決しなければならない問題がたくさんあります。その中で、スピーカーを買い換えたり改造することなく、大きく改善できそうなポイントが二つあります。一つは「アタックの再現性」の問題で、もう一つが「指向性」の問題です。

 「アタック」とは、楽器の初期の段階で起こる「パルス成分を多く含んだノイズ性の音」だと説明しましたが、「アタック」は「発音体」が、「往復(ピストンモーション)運動」するのではなく、「ランダムに分割共振」運動することにより発生しています。この分割共振とは「シンバル」や「トライアングル」などの音の出方を参考にできますが、両者に共通する物理的な特徴は「剛性が高く重量のある発音体の表面」が「高速で波打つように振動」しているところです。この時、発音体に近接する空気は「単位面積あたりの強度と運動エネルギーの高い物体」により「瞬間に強く圧縮」され、高い圧力を持つ空気の波「パルス成分(衝撃波)」を形成するのです。しかし、この「衝撃波に近い成分の強い圧縮波」を今のスピーカーに用いられている「薄い膜をピストン運動させることで空気を圧縮し高音を発生するツィーター」が発生できるかどうか疑問です。また、シンフォニーのフォルテでも「トライアングル」の音は他の楽器より明瞭に聞こえますが、それは「鋭い音(圧力の高い音波)」が「優先的にハッキリと聞こえる」証明です。しかし、やはりトライアングルに使われている「金属棒」と、「ツィーターの薄い膜」それぞれの「物理的な強度」と「運動速度」・「運動エネルギー」の違いを考えれば、どうしてもツィーターに用いられている「薄い膜」では「トライアングル」と同じように「強力に空気を圧縮」し「明瞭な音」を発生するのが可能だとは考えにくいのです。

 この問題を解決する一つの方法として「楽器のアタック」を補うために考案したのが「AIRBOW波動ツィーター・CLT−1」です。このツィーターの原理はシンバルと似ていて、「強度が高く適度な厚みのカーボンパネル」を「コイルとマグネットを使った磁気回路」を用い高速で分割共振させることで「空気を強く圧縮」するような構造になっています。CLT−1によって、失われた「アタック」が補われれば、「スピーカーの明瞭度」、特に「微少信号の明瞭度」は大幅に向上します。音の立ち上がりが正確に補正され、パルス成分を豊富に含む音が再生されたとき、聞き取れなかった音が聴こえるようになり、スピーカーが再現する楽音と音楽は大きくその世界を変え、演奏の真意、迫力といったものがひしひしと伝わってくるようになります。音離れが良く、音が生き生きしているといわれる「ビンテッジ・フルレンジ」は分割共振により「この圧縮」を行っていたため、音のエネルギー感が大きかったと考えられるのです。

スピーカーの指向性の改善

 人間の生存と進化の歴史を考えると、人間が「獲物」を見つけるとき、あるいは「猛獣」から身を守るときに、岩陰や木陰に隠れながら、「音を聞く」だけで「位置」を特定できれば、人類が生き残れるチャンスは大きく増したはずです。そのため、私達の聴覚は、そういう「複雑な反射」の中でも「音源の位置」を判別できるよう進化してきたと考えるのが自然です。

 再び視覚に置き換えましょう。水面に石を投げ込んだとします。私達は、そこから広がる「波紋の一部」を見るだけで「投げ込まれた石の位置」や「大きさ」などをおおよそ知ることができます。聴覚も、同じ方法で「音源の方向や距離」を判別していると考えたのです。

 もしこの考え方が正しいなら、私達は「部屋の音の一部」を聴いた(見た)だけで「波紋全体の様子」や「音源の位置」を感じ取ることができるはずですから「音の広がりを感じ取れる場所」が「部屋の中の一点」でなくてもよいことになりますし、スピーカーの位置を動かしたとき「部屋のどこでも音の広がりの変化を感じ取れる」合理的な説明も可能となるでしょう。

 実際にスピーカーから放射(再生)される音は「単純な波紋」ではなく、またスピーカーから出た音も「部屋の壁で複雑な反射」を繰り返しリスナーに届いています。そういう状況で「録音された波紋の広がり」を復元するには、再生時に「波紋の広がりの関係を乱さない」ことが重要だと考えました。

 もし、二本のスピーカーから発生する「波紋」が「均一に広がっている」なら、双方のスピーカーの「設置位置」には関係なく「波紋の交わりが乱れる」ことはないはずです。

波紋が均一に広がる状態

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一本の時                二本の時    
(モデルを単純化するため、一本のスピーカーから「一つの波紋」が生じているとして図にしてみました。)

 

 しかし、私達が使っているスピーカーは「波紋が均一に広がる(無指向性)」ではありません。そこで、モノラル録音を再生しスピーカーが一本の場合と二本の場合の「音の濁り」を比較しましたが、たいていの場合、両方のスピーカーを同時に鳴らすより片側のスピーカーの音を消してやるほうが、音場の広がりや透明感が大幅に向上することを経験するのです。

 そこで、もう一度、「波紋が均一に広がらない状態(有指向性)」をモデルに図を作ってみました。

波紋が均一に広がらない状態

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   一本の時           二本の時    

この図から「波紋が均一に広がらない場合(スピーカーに指向性がある場合)」には「二本のスピーカーの位置関係」がまずいと
「波紋の広がりに乱れ」が生じることがわかります(重なりが不均
一)。

 波紋の広がりを「遮ぎり」あるいは「反射」させて「指向性」の一番大きな原因を作っているのは「バッフル(ユニットを固定している板)」です。左右のスピーカーのバッフルの位置関係を合わせれば、「音波の広がりの乱れ」が減少し「指向性」を原因とする立体感の欠如は大きく改善されるはずです。(干渉波の整合性の向上)

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スピーカーに指向性があっても「位置関係」を正確に合わすことで「波紋の乱れ」が減少し、「音の広がり」を向上できる。

レーザーセッターの原理

 そこでまず、「リスニング・ポジション」を「基点」に左右のスピーカーのバッフル面までの距離を測定してスピーカーを設置してみました。音の広がりは少し改善されましたが十分ではありません。そこで次に、「基点」とバッフルの角度の相関関係を合わせることにしました。最初は、目測で行いましたが結果が芳しくなかったので、どのようにすればよいか考え、「直線性の強いレーザー光線の反射」の利用を思いつきました。「基点」から「レーザー光線」をバッフル面に取り付けた「ミラー」めがけて照射し、反射するレーザー光線をきちんと「基点」に戻るようにすれば「角度の誤差」は解消され、その上で「基点」と「ミラー」までの距離を左右で同一にすれば、「二本のスピーカーの位置関係の整合性」は完璧になります。早速実験したところ、スピーカーは見事に空間から消え、未だかつてなかったほどの広大な音場空間」と「明瞭な定位」が実現されたのです。

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スピーカーの角度と距離を任意の一点に向けて揃えることで、「部屋に広がる波紋の整合性」は大きく改善される。

レーザーセッター誕生

 このすばらしい成功を一人でも多くのオーディオファンに役立てていただくため「レーザーセッター」と名付けた「スピーカー位置決め装置」を考案しました。原理は「リスニング・ポジション」に「的」を置き「的」から照射された「レーザー光線」を「左右のスピーカー」に取り付けた「ミラー」で「反射」させ「的の中心に戻す」ことで角度を揃え、次に伸びのない「糸」を使って「的」と「ミラー」までの「距離」を合わせるという仕組みになっています。レーザーの反射を使えば、水平方向だけでなく垂直方向の角度も一致させることができるのでまさに理想的な方法です。

 レーザーの「基点」(的を設置する位置)はリスニング・ポジションよりやや前あたりが良好な結果が得られます。その時、スピーカーが大きく内振りになっても左右への広がりはまったく損なわれません。また、左右のスピーカーの距離誤差は数o以下まで追い込むことが理想で、位置誤差が1pを越えると極端に効果が落ちてしまうのです。

 このように「きちんと位置合わせ」をすれば左右の壁の反射状況が著しく違ったり、片側だけに壁がないような場合でも、それらの影響は従来考えられていたほどではなく、反射の強い壁側のスピーカーをより大きく内振りにするなどの工夫で、壁の影響をほとんど受けずに音像をセンターに定位させることができるようになるのです。このレーザーセッターを用いれば、今後主流となるであろう「マルチチャンネル(5.1Chなど)スピーカーシステム」のより複雑な設置も簡単にできるでしょう。

 

レーザーセッター・アドバンス ¥15,000(三脚なし)

¥19,000(三脚付き)

 

 オーディオ理論や従来のオーディ機器の常識をうち破る、数々のAIRBOW製品は決して「思いつき」で生み出されているのではありません。それは本来の意味での科学的な考察と経験、実験により導かれた結果なのです。

音は耳と脳の連携によって聴こえている

空気振動と聴こえる音の違い

 さて、ずいぶん長々と説明を繰り返してきました。最後に、私達が聞いている「音」の正体を暴き、私達が聞いている「音」の曖昧さについて説明しておきたいと思います。

耳と脳の連携

 オーディオ・マニアの間では、音に関する議論が盛んに行われます。この装置を使えば、ここがこうなるとか、JAZZには○○のメーカー製品が最高だとか、そういう類の話です。しかし、「音がどのようにして聴こえているか?」と問われて、即座に「脳」の働きを指摘する人はほとんどいないはずです。

 TVのついた部屋でうたた寝をしてしまったら、「TVの音」はとぎれていないのに、「音」は聴こえなくなります。そのまま深い眠りに落ちて「夢」をみたなら「夢の中」でTVの音とは関係のない音やしゃべり声・音楽が聴こえるかもしれません。それを不思議だと感じたことはありませんか?

 それは、人間の感じている「音」が、空気の振動をそのままではなく、「耳」と「脳」を一つのシステムとして連携させて「音」を聴いているからなのです。少し難しく言うなら、人間に「聴こえる音」とは単純な「物理現象」そのものではなく「物理的な要素」に「心理的な要素(脳の働き)」が加わって「音」になっているということなのです。この仕組みを「耳と脳の連携」と名付けておきましょう。

「錯覚」と「錯聴」

 私達は「写真」を見て立体的な奥行きを感じることができます。しかし、写真はあくまでも「平面」で、そこに「立体的な起伏」は存在しません。しかし、写真の中に「道」をみたとき、「道が細くなれば遠くなる」という「経験(記憶)に導かれた無意識の思いこみ」から「奥行き」という「擬似的な立体感」を「錯覚」するのです。このような「経験した記憶」により引き起こされる「無意識の思いこみ」から「ありもしない音が聴こえる」ことがありますが、これを「錯聴」とよんでいます。

 この錯聴の実際例をあげてみましょう。携帯電話の効率的な音声圧縮方法を探るため、NTTが行ったノイズによる「錯聴」の検証実験です。

 人間の音声を録音します。断続的に音声を消去し「無音部」を設け再生すれば、当然「会話」はとぎれとぎれなってしまいます。「無音部」を増やしたり、間隔を長くすると、だんだん会話が聴き取りづらくなり、最後には「言葉」としても感じられない、単なる「音の羅列」になってしまうのです。しかし、そのままの状態で「無音部」を「ノイズ」に置き換えれば「言葉」としてすら聴き取れなかった「音の羅列」が、「ノイズでとぎれがちな会話」として聴き取れるようになるのです。

 これは、「無音」が「ノイズ」に置き換わったことで「無音」に隔てられた「意味を持たない別々の音」から「ノイズ」に埋もれた「つながりのある会話」と認識が切り替わることによって引き起こされる錯聴です。この時、脳は無意識のうちに、「ノイズに隔てられた二つの音を関連づけて聴こう」とし「存在しない音」を無意識に作りだしているのです。

 この現象に近いオーディオの音質改善の実例を「FIDELIX/SH−20K」の効果にみることが出来ると考えています。この装置は、20KHzで急峻に遮断され不自然になったCDの高域を改善するため、再生時に20KHz以上にノイズを付加し高音の不自然さを緩和するという仕組みになっています。実際に試したところ、装置を使わないと「カットされている(遮断されている)」と感じられた「バイオリンの16KHz以上の倍音」が、装置を使用することで確かに蘇って聴こえたのです。

 しかしこの装置は万能ではなく「錯聴(錯覚)」の起きるメカニズムに「体験による記憶(無意識の思いこみ)」が必要とされるため「元々の音や類似する楽音の記憶」が存在しない場合や「シンセサイザーなどで合成された機械音」に対しては効果が認められない場合があるでしょうし、装置を接続することで避けられない情報の劣化(細かい音が失われる)等の問題により、必ずしも「常に失われた高域を再現しうる」とは限らないようです。(FIDELIXでは、この情報劣化の問題を回避するためSH−20Kから発生するノイズを、音楽再生用のシステムとは別の「専用システム」でノイズを発生させ、空間で合成するという手法を提案しています)

 「ノイズ」が「楽器の音として聴こえてしまう」、あるいは「ノイズ」という「劣悪なデーター」を与えることで「音質が向上」してしまう。オーディオ理論や物理的なデーターのみから判断するなら、これほどの矛盾はありません。しかし、人間が聴いている「音(耳と脳の連携)」の本質を考え、「心理的な影響」を考慮すれば合理的な説明が可能になるはずです。

 このような説明なら、「測定データー」と「音の違い」が必ずしも一致しなくてよいことを納得できるはずです。

人間の認知(知覚)

 実際に「音を聴き比べる」時に問題になりがちな「心理的な影響」を考えてみましょう。「音」が「ダイレクトに脳に訴えかける(心に働きかける=感動をもたらす)」といっても、「空気振動」がそのまま「音」ととして聴こえているのではなく「耳と脳の連携」の働きとして聴こえていることはすでに説明しました。「生の音」ですらそのような「変化(影響を受けている)」のですから、「再生音」は「欠落された情報を脳が補う」ため、より大きく「脳」のシステムの影響を受けることになります。そしてこの「脳」のシステムは、音を聴くときにも音以外の影響によって音の聴こえ方を変えてしまうのです。

 私達には「聴覚」以外の感覚も合わせて「五感」とよばれる5つの感覚があります。これら五感の感覚も「刺激」を「ダイレクト」に感じているのではなく、聴覚と同じように、まず「脳」が何らかの処理(演算)をした結果を現実として感じています。この「何らかの処理(演算)を行う脳の機構」は、五感それぞれに専用の機構が設けられているのではなく、それぞれの感覚を密接に関連づけて処理能力や精度を高めるようなしくみになっているのです。例えば、鼻をつまんでものを食べたら味がわかりにくくなりますが、それは私達が無意識のうちに「味覚と嗅覚」の刺激を一つにして「味」として感じている証明なのです。

 「音」も例にもれず、「空気の刺激」のみで完結するわけではなく「視覚」や「触覚」などの影響を常に受けていることを忘れないで下さい。

 例えば、熱心なオーディオ・マニアにスピーカーケーブルの長さの違いを確認させてから音を聴かせればケーブルの長さの違いが気になり「音像が中心に定位しない」という幻想にとりつかれますが、現実の音像定位には「スピーカーとリスナーとの距離と角度の整合性」が最も大きな影響を与えているのです。事実、ケーブルの長さを隠して行うブラインドテストでは、ケーブルの長さが2倍くらい違っても定位にはほとんど影響を与えないことが確認できます。

 このスピーカーケーブルやピンケーブルの長さが「気になる」という問題は、「空気振動」には関係なく精神的な部分で「音」が影響されている顕著な例です。また、オーディオ・マニアは熱心に定位を追いかけていますが、コンサート会場や駅の雑踏で目を閉じてみれば、「聴覚情報」のみでは「明確に音源の位置」を特定できないことに気づけるはずです。

 しかし、再生時に「定位の明確化」にこだわりすぎると、気づかないうちに「音の輪郭(隈取り)を強調」しすぎたり、直接音と間接音のバランス、立ち上がりの鋭さなどを改変し、しいては音楽を作り変えてしまいかねないので十分な注意が必要です。

記憶の影響

 「錯覚」や「錯聴」が起きるシステムには、必ず「記憶」が必要だと説明しましたが、その理由と、「記憶」が音の聴こえかたに与える影響を説明しましょう。

 例えば、「ΥΦΧΨΩ」という文字を見てもほとんどの人はそれを読めず、内容に至っては全く訳が分からないことだろうと思います。また、この文字が「ΥΦ○ΨΩ」でも「ΥΦ△ΨΩ」でも「ΥΦ×ΨΩ」のように変化しても、ただの落書きという意味ではさほど変わらないように感じられるはずです。

 しかし、「あ○たはあめ」という虫食い文字があれば、ほとんどの人は「あしたはあめ」という文意に受け取るはずです。「あ_たはあめ」でも同じように受け取るでしょう。「ΥΦ○ΨΩ」と「ΥΦ△ΨΩ」が見た目に違って感じられるのとは、正反対に文字が変わっても「内容は変わらなく伝達された」ということになります。しかし、もし「あ○たはあめ」という文章を見る直前に「あなたはあめ」という文書を見た後なら「○」の欠落部分には「な」という文が当てはめられたはずです。「あなたはあめ」と「あしたはあめ」との文意は、一字違いでもまるで違います。似たような文字の羅列でも「記憶」がある時と、そうでないときには「認識に大きな違い」が生じ、さらに「直前の記憶」が、「意識(知覚)」に非常に強い影響を与えていることがわかります。

 このように、劣化した情報(オーディオで再生される楽器の音)を聴くときには、その情報を元にもどす作業に必要なデータである「元の音を生で聴いた記憶」や「直前に聴いた音」等の影響により、人それぞれに「聴こえる音(感じる音)」は著しく異なってしまうのです。

 音の聴き比べをするときにこの記憶の影響により音の聴こえ方が変わってしまうということを経験します。スピーカーやその他のオーディオ装置の聴き比べをするときに、一度目に聴こえる音と、二度目に聴こえる音は同じではないのです。一度目に「記憶」している「音」で二度目の「音」を聴いたとき、欠落部分が埋められるため、たいてい二度目に聴く方がより細かく、いい音に聴こえるのです。ですから、音の聴き比べに使うソースは、何度も聴き込んで完全に記憶しているソースを用いることが望ましいと思われます。

オーディオの音決めに音楽を用いてはいけない

 「耳と脳の連携」を考えれば、オーディオ機器やシステム全体の音質を判断するときに「音楽」をテストに用いたときに陥る落とし穴に気づくことができるはずです。

 先ほどの図形を例に挙げ説明しましょう。「あ○たはあめ」と「あ_たはあめ」は、補完された結果「あしたはあめ」という文意に受け取れました。しかし、「ΥΦ○ΨΩ」と「ΥΦ△ΨΩ」が見た目に違って感じられるのと同じように、「あ○たはあめ」と「あ_たはあめ」も見た目は違います。

 ここでの「文字」という「記号」が「音」に当てはまります。つまり音の聴き分けとは、[○]・[_]と[○]・[△]双方の「記号」の違いを見つけるための「間違い探し」のようなものです。それに対して、「音楽を聴く」ということは、文字を読みとった後の「文意を判断する」ということなのです。最初の「文字の間違い探し」を行うためには「元となる文字を知っている=記憶している」必要があります。これが「音の聴き分けのトレーニング」なのです。極端な話ですが、トレーニングを積まないと「人間には何も聴こえない」のです。赤ん坊の頃から蓄積された「莫大な量の記憶」を手がかりに私達は「音の聴き分け」を行っているのです。そして「文意を判断する=音楽を聴き分ける」ためには、「文章を熟知=音楽を熟知」しておく必要があります。そうでなければ、虫食い文章を正しく埋めて、元の文意を読みとることができないからです。この双方を鍛錬し、兼ね備えた人間が最も優秀なテスターにふさわしいのです。では、メーカーで音決めをしている「エンジニア(技術者)」はどうでしょう?答えは悲観的です。エンジニアが音決めをすること自体が大きな誤りです。音決めはあくまでも「音と音楽の専門家(指揮者)」などに委ねるべきです。そうすることで、国産オーディオ機器の音質は飛躍的に向上するはずです。

 また、「音」を聴き分けるときに、単純機械的な「間違い探し」だけを行なえば、そこに「好み」という個人的な感情(色づけ)は入り込みません。しかし、「音楽を聴き分けよう」とすれば、個人的な感情と想像力を最大限に働かせ「虫食い文章を完成」させる「作文」を行わねばなりません。ですから、オーディオ機器の音決めに際し、「音楽(作文)」を基本に音の選択を行えば、二者択一を迫られたときに「迷わず好みの音楽表現(自分なりの作文)」を選択するはずです。そのようにして音を決められたオーディオ機器の音質は、きわめて個人的な色づけ(好き嫌い)が濃くなり、全てのジャンルの音楽を正しく再現することはできません。しかし、熱心なオーディオ・マニアほどこの「癖」を「音の良さ」だと勘違いしている傾向が強く見られる気がしてなりません。

 また、この問題はオーディオ機器の音質の比較だけではなく、あなた自身がオーディオのセッティングやチューニングを行うときに陥りがちな問題点でもあるのです。

身体感覚の重要性

 オーディオの話題からは少し外れるかもしれませんが、音と音楽に関係の深い「身体感覚」について少しだけ触れたいと思います。「耳と脳の連携」の説明から始まって、私達が感じている「現実」とは、五感から得られた情報を基に脳の中で「イメージ」として存在する世界だということはお分かりいただけたと思います。

 私達は「身体感覚」と切り離されても「現実」を感じる(脳がイメージを作る)ことができますが、この「身体感覚」を伴わない「現実感」とは、ある意味で「夢」と同じです。そこでは人間が超人的な力を持ったり、痛みや苦しみ喜びといった感情を現実として理解することができません。それが「夢」の世界なら問題はありませんが、「身体感覚を伴わない現実=仮想現実(ゲームやアニメの世界)」を経験し続けると、本人がまったく気づかない間に「身体感覚と脳の連携」が上手く形成されず、頭の中で「現実と夢の区別」がつかなくなってしまう危険性すらあるのです。キレてしまう子供達や、いじめを繰り返す子供達、そういう問題こそ「目の前の現実」と「彼らが感じている現実」の「ずれ」から引き起こされると考えられるのです。これらの先進諸国が抱える重大な社会の歪みとなって顕れている現象は、オーディオ機器の音質低下や音楽や娯楽のコンピューター化と無関係であるとはいえません。

 ゼロ才から10才頃に「五感からもたらされる身体感覚」を統合し「意識の中に正確な現実を形作る脳の働き」がきちんと形成されればこそ、私達は目の前の出来事を「正確に現実として感じることができる」のです。その頃に自然と触れず、人工の音ばかり聴かされていると、この一番大切な「身体感覚」と「意識の中の現実」を結びつける回路が成熟しないのです。小さな子供、特に小学生以下の子供に「音の悪いヘッドホンステレオ」を買い与えたり、家の中で「コンピューターゲーム」ばかりさせるのは、非常に危険なことだとお分かりいただけると思います。

 人間の「身体感覚」は、経験を積めば積むほど鋭敏さを増してゆきます。オーディオ装置で音楽や音を聴き分けることを通じて、自分の身体感覚を磨くことができれば、これほどすばらしいことはありません。

オーディオの再生音と音楽の関係

 このように、人間が「オーディオの音」を聴いて「生の音楽を聴いているように感じ」ても、それは「あなたの中で作られた幻の音」であり、ある意味では「錯覚」です。テレビの人物(アイドル)が「実際に会って見ると全く別人」に感じることがあるのと同じように「オーディオセット」だけで「音楽を聴き」それに「感動を覚え」愛着を持ったとしても、それはテレビドラマの「主役」に、「擬似的な好感や反感」を持ち、いつしかそれが「主役を演じる俳優そのものへの感情」へとすり替わっているのと同じです。ですから、「オーディオだけでしか聴いたことのない演奏」で、そのミュージシャンを判断したり、思いこんでしまう(決めつける)のは早計です。

 近年クローズアップされてきた厳格な指揮者「セルジウ・チェリビダッケ」は録音を嫌ったことで有名ですが、自分の信念に基づく「芸術」を再生装置や再生装置の扱いや環境の問題で「違うものに作り変えられて」しまったり、判断されるのは、彼だけではなく「音楽に深く身を捧げた音楽家」なら、誰しもが懸念するでしょう。

オーディオをより深く楽しむために

 オーディオと音楽、そして人間の関係は大変複雑で曖昧さと謎に満ちています。この冊子では、音楽とオーディオの関わりについて、ずいぶん多くの問題を提議しました。個々の問題について深く考えすぎると、とても音楽を楽しめるような気分ではなくなるかも知れませんが、問題が深いからこそ、チャレンジし甲斐のある興味深い分野だと思うのです。

 しかし、同じ興味を満たすとしても、娯楽として楽しむことと、趣味としてその深みを求めることはずいぶんと違うはずです。娯楽とは、いわば自分の内側に向かう楽しみです。高額商品や希少商品を購入したり、自分の思いこみだけで音楽を聴いていたり、そういう楽しみは自己完結することで完成され、自分の視野を広げたり、楽しみを多くの人たちと交遊させることはかなわないでしょう。

 趣味とは自分の視野を外側へ向け、知的な探求心を満たす楽しみだと思います。感性のアンテナを広げ、その感度を上げて見いだすことのできる世界は、きっとあなたの内面を大きく成長させてくれるに違いありません。オーディオで音楽を聴くことを通じ、自分自身の殻を破り、視野を大きく広げるには、時として、「主観性」より「客観性」を優先させることが求められます。オーディオではなく音楽の分野になりますが、「演奏」の練習を行う場合の「楽器」は自分の力以上の「音」、つまり「出そうとする音楽」以上の「音楽」を出してはいけないのです。常に「等身大の自分」を反映してくれる「楽器」を選ばねば、「演奏」を通じて「自分の本質」に迫れません。「楽器の力」を借りることで演奏が上手くいけば、知らない間に奏者は自分の能力を過大評価し、より深い技術を学ぶことを怠ってしまうのです。オーディオ機器の購入や、使いこなしもまったく同じで、「装置が作りだす音楽的表現」に溺れ自己完結型の娯楽にならないよう「客観的な評価を怠らない姿勢」が大切です。いずれの場合にも「楽器」や「装置」を使いこなすことで、「自分自身」を理解し「内面」を充実させることが大切なのです。

 「装置が作りだす音楽表現を排除する」ということは、自分の気に入っている音を再評価するということです。「お気に入りの装置」を再評価することは、とても難しいことです。やりすぎたり、やり損なったりすると、「音楽を聴く楽しみ」自体を損ねてしまいかねませんし、こんなに難しく考えたり、きめ細かな配慮をしなくても「音楽を楽しく聴く」ことはできます。

 しかし、せっかくオーディオには他の趣味にないほどの「深み」があるのですから、その「深み」を覗いてみるのも悪くないと思われませんか?

 オーディオと音楽をこれからもより深く楽しむために、智恵を分け合い、情報を交換し合い、交友を深めましょう。音楽は「音」によって演奏者と聴衆をイメージで結ぶことで大きな喜びを与えてくれました。私達オーディオ・ファンは、その「マインド」や「ハート」を繋ぎ「情熱」を結ぶことでより大きく深い喜びを分かち合おうではありませんか。

代表取締役 清原 裕介

 

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