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98年12月発行ダイレクトメール文章

音と言葉

音楽の起源

音楽の進化

音楽とイメージ

音とイメージの対応

イメージの発信

イメージの受信

ステレオからのイメージの受信

オーディオ機器の音質を決める場合の危険性

パターン認識とカクテルパーティー効果

意識の働き

人による音の聞こえ方の違い

オーディオ機器の選択

今、閉店後の3号館で「オイストラフ」のバイオリン小品集を聞きながらワープロを打っています。けれども、もし「3号館に音がなかったら?」気分が乗らなくて、「ダイレクトメール」も「ホームページ」も書いていなかったかも知れません。私にとって音楽は「空気」のように身近になくてはならない存在なのです。しかし、その「空気」も汚れてしまえば、かえって「心の健康」を害しかねません。目には見えない「空気(音)」を汚さず、気分良く音楽を楽しむにはどうすればよいのか考えることを今回のテーマとしたいと思います。

音と言葉

 現在、私たちは自分の「意志」を伝えるときに言葉を話します。日本人は、もちろん「日本語」で考え「日本語」で「意志」を伝えますが、「言語」が未発達な時代に私たちはどのようにしてコミュニケーションを行っていたのでしょう。それは「音」です。犬や猫と同じように「うなり声」や「鳴き声」でコミュニケーションを行っていたに違いないのです。

 事実、人間に匹敵する頭脳を持つといわれる、鯨やイルカですら「言語」を持たず「歌声」に似た「鳴き声」でコミュニケーションを行っています。逆に見れば、「言葉=言語」こそ「人類に固有」のコミュニケーションであり、自然界では「言語」は非常に特殊な「音の使われ方」だといえるでしょう。

 我々が「言語を会得する」遙か以前から人間が行っていたコミュニケーション、「音」を主体とし「言語」よりもさらに「心の深い部分」でのコミュニケーションが、形を変え現代に受け継がれているのが「音楽」なのです。私たちが「言葉にならない情感=感動」を「音=音楽」に託すのは、そういう必然性があるからなのだと私は考えています。

 「音楽」は「言葉」よりずっと深く「心を打つ=感動を与える」ことがありますが、それは私たちのコミュニケーションの歴史、変遷を考えれば当然のことなのではないでしょうか。

音楽の起源

 音楽はコミュニケーションの手段であると説明しました。では、いったい音楽はどのようにして生まれ、どのように発達したのでしょう。高等生物は「感情」を持ちますが、動物の中でも特に「感情」の働きが強いのが私たち人間です。心の中の「感情」が高まり、体の外に「音」となってあふれ出したとき、それが原始の「音楽」となったのです。

 やがて私たちは集まって生活し、集落を形成します。部族に大きな収穫があったときや、大きな悲しみに包まれたとき、誰かが「声」をあげ、物を打ち付け「音」を出せば、それがいつしか部族全体に広がり、一つの「大きなうねり」となったことでしょう。それを繰り返すうちに、「特定のセレモニー」に「特定の音」を用いるようになったであろうことは想像に難くありません。そうして「音楽」は暮らしの中に定着してゆきました。

 現代でも、「宗教」と「音楽」の関連性をみるまでもなく「音楽」と「セレモニー=儀式」は切っても切れない関係を持っています。しかし、それは「音楽の起源」を考えればごく自然なことだろうと思うのです。

音楽の進化

 このように「特定の場面」に「特定の音」が固定的に対応するようになり、初めて「音」は形を持ち「音楽」へと進化を遂げたでしょう。しかし、人間の体から出る音(声)の大きさには限りがあります。集団がさらに大きくなれば、もっと効率的な音の発生が求められます。そこに「楽器」が誕生しました。もっとも古典的な楽器はきっと、「ドラム」などの打楽器だと思います。

 原始的な楽器を発明した人類は、さらにその楽器を改良したり、異なる種類の楽器を発明したはずです。「楽器」の種類が増えるたび「音」の種類が増え「表現の幅」が大きくなります。音楽の進化は、すなわち「楽器」の進化に他なりません。出せる「音の種類」が増えるたびに「音楽の種類」も増えていったでしょう。

 「音楽」の進化に忘れてはならないのが「楽譜」の発明です。「言葉」が「文字」を得て初めて記録できたように、「音楽」も「楽譜」という形になって「記録」したり「広めたり」できるようになったのです。さらに「五線譜」の発明によって、西洋の一部に生まれた音楽が「世界中」に広がってゆきました。そして現代に至るのです。しかし、「文字」は「言葉」のすべてを記録できるのに対し、「楽譜」・「五線譜」は「音楽の一部」を記録するにとどまっています。こうして「楽譜に解釈」が生じ、「音楽の広がり」となっているのです。また、「五線譜」では「平均律」と呼ばれる「音階」が使われますが、本来「音楽」には、「五線譜」に書ききれない音階や、リズムもたくさんあって、それらは「民族音楽」の中などに名残をとどめています。私たちがよく知る「邦楽」も、もちろん「五線譜」によって表現できない音楽です。音階の話が少し出ましたが、私たちに澄み切って聞こえる和音、たとえば「ドミソ」というような和音は、「ほ乳類」に共通して「整った和音」に聞こえるといわれています。また、「長調は楽しく」「短調は悲しく」聞こえ「4拍子」は気持ちを高揚しますが、それらは、「教育」や「人種」とは無関係の、人類共通の本能的(生まれ持った)感覚なのです。

音楽とイメージ

 「音」に「意識」を与えれば「音楽」になりますが、ではいったいどのように「意識=イメージ」を「音」に託しているのでしょう?

 「音」に「イメージ」を託すには、まず「イメージ」を脳裏に浮かべなくてはなりません。このときにイメージを「言語」で伝えようとするなら、日本人である私たちは「日本語」で考えて「イメージ」を形作ろうとするのです。しかし、それでは「イメージ=思考」 は「日本語という言語に固有の表現力」からはみ出すことはできません。なぜなら、「思考」と「言語」は非常に密接に関連しているからです。「思考=イメージ」の表現に「言語」を用いるなら、それだけで「イメージの広がり」は「制限」を受けるでしょう。例を挙げれば「俳句」を「英語」に訳することは非常に困難であるはずです。それは、「言語」という表現手段の「限界」なのです。

 しかし「音」を「心象表現」に用いるなら「言語」の障壁を越えることができるはずです。「音=音楽」こそ「人種」・「言語」の壁を越えて「イメージ=思考」を表現(共有)する方法なのです。「音楽」は人類に共通の「心象表現法」。だからこそ、音楽に国境はないと言われるのでしょう。

 もう少し、考えを進めてみれば「言語」は「デジタル伝達方式」、「音楽」は「アナログ伝達方式」であるとも考えられるのではないでしょうか。「言葉」は物事を「定量的」に表現するには適していますが、「不定形」の事象を表現するには表現力が足りないのです。それに対し「音=音楽」は、「曖昧な事象」を「曖昧なまま」伝えることに適しているのです。

 「イメージ」を伝達するためには「体の外に出せる形」に置き換えなければなりません。そのとき「言語」を用いようとするなら、「イメージ」を文字通り置き換えなければなりませんが、「音」で表現する場合には、置き換えるのではなく「イメージに音を対応させる」という表現がより当てはまるように思うのです。

音とイメージの対応

 今までの行で、音から音楽への進化、楽器の進化と音楽の進化についてはざっとおわかりいただけたと思います。そこからは、「ある心の動き=感動」→「ある音」という「一対一の対応」であることをご理解いただけるはずです。つまり、「音楽」はその起源から「固有のイメージ」を「固有の音」に対応させることで成り立っているのです。

 なぜなら、「イメージ」が変化すれば、当然「音」を変化させなければなりませんから、逆から見れば「音」が変化すれば、「イメージ」が変化して当然なのです。もちろん、そこに使われる「音」には、現代の言葉で言う「リズム」や「音程」、「音色」などあらゆる要素が含まれています。そのそれぞれが「密接」に「イメージ」に対応していることをご理解いただけると思います。この対応の様子を簡単に図式化してご説明いたしましょう。

★音を媒体とするイメージの伝達★

<心の動き・感動>

  <相当する音に対応させる>⇔<楽器を使って音を出す>

<発信>

<相当するイメージを受信>

★言語を媒体とするイメージの伝達★

<心の動き・感動>

  <イメージを相当する言語に変換>

<発信>

<言語をイメージに変換する・再イメージ化>

<相当するイメージを受信>

 これは私が考えたことなので実際は異なっているかも知れませんが、「音」を媒体として「イメージ」を伝達する場合には、「イメージの置き換え」が不必要であると感じます。しかし、「言語」を用いるなら、「イメージから言語への置き換え」を行って発信した後、再度「言語からイメージへの置き換え」を行って受信しているように感じるのです。

 私は文章を書くのが好きですが、何か自分の中にある「イメージ」を文章に置き換えようとする場合に、前述した「俳句」のように「言葉」を減らせば「イメージ」が大きくなるということを経験します。言葉が増えれば「イメージの広がり」は逆に阻害されてゆくのです。これに対し音楽では音や楽器の数が多くなれば、それに比例して「イメージ」も大きく膨らんでゆくのです。これは「イメージ表現」においての「言語」と「音楽」の大きな違いの一つなのかも知れません。

イメージの発信

 では、私たちはどのようにして「イメージ」を「音」に対応させて「発信」しているのでしょう。私は音楽家ではありませんから上手に楽器を弾けるわけではありませんし、自分の中にある「イメージ」を「正確で豊かな音」に対応させる、などという神業的なことはとうていできませんが、以前音楽家と「アフリカのドラム」を楽器に「音」だけを用いて「簡単な会話をする」という実験を行ったときに、そのヒントをつかんだように思います。

 その実験の間、私は自分の中にあるイメージを表現すべく「ドラム」を叩きながら、同時に「自分のドラムから出ている音」を聴いていたように思います。いいえ、確かに「自分が出すドラムの音を客観的」にしっかりと聴いていました。そして「自分の叩くドラムの音」が「自分の表現すべきイメージに正確に対応しているか?」をその場で瞬時に判断していたように思います。

 つまり、「出た音」を聴きながら「出す音」をコントロールしていたのです。楽器演奏者から見れば、実に他愛のない当たり前のことであるかも知れませんが、ここで大切なのは「私は音を聴いていた」ということです。「日本語」で考えていたわけではなく、ただ単純に「音」に「イメージ」を重ねていただけなのです。これは大変重要なことです。つまり前述したように「音」そのものが、そのまま「イメージ」に対応しているという証明に他ならないからです。

 もう一つ忘れてはいけないのは、私自身「ドラム」を叩くのは初めてであるにも関わらず「会話」がきちんと成立したということです。これが何を意味するのかは非常に重要です。私たちは「日本語」を生まれた後に「教育」により身に付けました。「言語」は「後天的に学習する」ことにより身に付いたのです。しかし、「ドラムと会話の関係」すなわち「音とイメージの関係」は、その時点で私の中には「教育」によって培われてはいなかったにも関わらず、ぶっつけ本番でも「会話=コミュニケーション」が行えたということです。それは「音とイメージの関係」が生まれながらにすでに私の中にあったということを示すのです。人間は「音楽に対する感性」を生まれながらに持っていたのです。

 このように、私たちが「音」を媒体として「イメージ」を交換しようとする場合、脳の「言語中枢」を働かせる必要はありません。もし、「音」を聴いているときに「他のことを日本語(言語)で考えれば=言語中枢が働けば」即座に、集中が崩れ「音」と「イメージ」の対応関係の精度は希薄になってしまうはずです。「イメージ」を音に変えて発信する場合には、できるだけ「よけいなことを考えない=高度な集中状態を持続する」ことが大切だと思います。なぜなら、私たちは「言語」を用いなくとも「音」のみでイメージを伝達する能力を生まれながらに持っているからです。

 「言語」が生まれるもっと以前、もっと深い「本能」の中に、私たちは生まれながらに「音楽」を持っているのです。「音」により「イメージ」を発信するときには「本能のままに」行えばよく、「何か」を考える必要はないはずです。

イメージの受信

 「生の音」から「イメージ」を受け取るには、特別な教育も、下調べも必要はありません。それは、「発信装置」と同じく「受信装置」もすでに私たちの「本能」の中にあるからです。大切なのは「既成概念」や「耳学問」にとらわれず、「フラットな感性」で聴くことです。集中力を高め「多くの感性をフラットに解き放つ」ことができれば、比例して「音」から得られる「イメージ」も増大するでしょう。ステレオ装置の試聴をするときに、「前もって得られる知識」など「有害」以外の何物でもありません。「聴けばわかる」はずですし、「聴いてもわからない」なら音質差に意味がないのです。

 ただ、忘れてはいけないのは人間の「感性」=「感覚」は、磨けば鋭くなるということです。ですから「正しい聴き所」を学び、「感性のチャンネルを正しく開く」ことは音楽のみならず、「言語」を用いないコミュニケーション「芸術」に対する感性を飛躍的に高めることになるはずです。そして「言語を用いないコミュニケーション」は、何も「芸術」に限らず、私たちのまわりに日常的にありふれています。たとえば友人の小さな仕草から「気持ち」を察するときや、動物とふれあうときなど様々な場面で私たちは「言葉」を用いずにコミュニケーションを行っているのです。

 「音楽」を通じて「イメージの受信感度を上げる」ことは、「感性を磨く」ことであり、日常生活や人生をより豊かにすることにつながりますから、とても大切なことです。

ステレオからのイメージの受信

 「ステレオの音」から「イメージ」を受信しようとする場合、「生の音」からの「イメージ」の受信とは違った働きを「脳」は行っています。「生の音」を受け取る場合、「音」をそのまま受け取ればそれでよいのに対し「ステレオの音」は、「生の音」から何らかの情報が「欠落」しているため、欠落した情報を「補完」しながら「受信」しなければならないからです。

 この「補完」を正しく行うためには、「元となるべき正しいデーター=正しい楽器の音」の記憶が必要となります。しかし「元となるべき生の楽器」の音を聞き込んでいなければ「補完」は正しく行われず「音」と「イメージ」の関連付けがうまくいくとは限りません。もしあなたが「生の楽器の音」を十分に聞き込んでいなければ、ステレオから再生される「楽器の音」を正しく判断できるはずはないのです。なぜなら、「基準となるべきデーター」が不足しておれば、当然、正しい比較を行えないからです。これはハードウェアとしての「耳が良い」とか「耳が悪い」という以前の「経験」の問題です。

 でもオーディオ機器の購入時には必ず「比較試聴」を行います。当然、そのときには何か指針がなければ機器の選択は行えません。どのような指標を用いればよいのか?といえば、それは「聞き慣れた音」を基準に用いればよいのです。よく聴いたことのある楽器の音以外にも、ライブの拍手や話し声など、音楽以外の部分も判断材料に適しています。

 余談ですが、もしあなたが購入を検討されている「オーディオ機器」の音決めが「メーカーの技術者」によってなされているとすれば、「音」が正しく判断されているかどうかには「疑問」を持つべきだと思います。なぜなら「オーディオ技術者」は、必ずしも「耳の良い良質な音楽鑑賞家」であるとは限らないからです。

オーディオ機器の音質を決める場合の危険性

 「意識して発せられた固有の音」こそ「音楽の正体」なのですから、「オーディオ機器」で「再生される音」が変われば当然「音楽の内容」は変わってしまいます。あなたが「オーディオ機器の音質」をあなたの「好み」=「主観」で判断するということは、「音=音楽」そのものを「あなたの主観」に基づいて「再構築」しようとしていることになります。そういう状態が高じれば「再生音」は「音を発した人のイメージ」を失ってしまい、「あなたの望むイメージ」に変化してしまうことでしょう。

 このように、オーディオ機器の「再生音」を「好みで判断する」ということは、「音楽が本来持っていたイメージ」に「あなたのイメージを付加する」という行為そのものです。「好みでオーディオ機器を選ぶ」ことと「好みで音楽を選ぶ」ということは、似ているようでも実は根本的に異なります。

なぜなら、「音楽」を好みで選んでも「音楽本来のイメージ」を損なうことはありませんが、「再生音を好みで判断」して音作りを行えば、「音楽本来のイメージ」は「あなたの好みのイメージ」へと徐々に作り替えられてゆき、「音楽本来のイメージ」を損なってしまうからです。

 「音を汚さない」ためには、「元々の音を変化させない」ことが大切です。しかし、現在私たちの手元にある「オーディオ機器」はどんなに高価な製品でも、その性能が「十分」であるとはいえません。なぜなら、「メーカー」や「価格」によって、さらには「機種」によって、ずいぶん「音」が変わって聞こえるのがその証拠です。もし、それらがすでに「完成」された製品なら使い方や使う人によって「音の深み」は変わったとしても「音そのもの」が変わってしまうはずはありません。もし、音が変われば当然「音楽本来のイメージ」つまり、「音楽」そのものが変わってしまうからです。

 オーディオという趣味には、確かに「音を好みに作り替えて楽しむ」という側面を否定はできませんが、もし「音楽を楽しむ」あるいは「音楽を嗜む」という側面からオーディオという趣味を見るなら、現在のオーディオ機器のあり方、現在のオーディオ業界や雑誌のあり方は、あまりにも大きく歪んでしまってるのではなかろうかと思うのは私だけでしょうか。

 話が少しそれてしまいましたが、「音」を変えずに録音再生することができないなら、少なくとも「音」と「イメージ」の対応は正確に保てるようにしなければなりません。なぜなら、その「関係」が著しく崩れてしまえば、当然元々あった「音とイメージの関係」を変化させてしまうからです。

パターン認識とカクテルパーティー効果

 私たちの「脳」の優れた働きの一つに「パターン認識」という能力がありますが、これは「部分的に欠落した情報」から「正しい情報」を読みとるために発達した能力です。つまり「記憶」と「感覚器官から得られた刺激=データー」を瞬時に照らし合わせ、「正しいと思われる情報によって補完」を行い「情報の精度を高める」という脳の働きです。

 そのほかにも「パターン認識」は、「特定の情報の精度を高める」ためにも用いられています。雑踏の中で、友人の声を選択的に聞き分けることができるのも、この「パターン認識能力」のおかげなのです。このような多くの音の中から「特定の音にだけ注目する」という聴覚の働きは「カクテルパーティー効果」と呼ばれ広く認められています。

 つまり私たちの聴覚は「測定器」とはまったく異なって、聞こえる音、耳に入る音をすべて聞いているわけではないのです。聴覚だけではなく私たちの感覚はすべて、感覚器官から得られた情報に対して「パターン認識」を基本とした「補完」と「選択」を行いながら、「整理」され必要と判断された「感覚=情報」のみが脳に送られます。私たちは、感覚器官から「整理」され、送られてきた情報を基に「仮想のイメージを形成」しそれを現実として認識しているのです。

 たとえば「テレビ」や「映画」は、1秒間に約25−30枚の「静止画」を重ねて写しているのですが、私たちはそれを「動画」として認識できます。また「画面のすべて」を一度に見ているのではなく「部分的に注目しながら全体を把握」しているのです。同時に「全体に注目しながら部分的な把握」も行っています。話が難しくなりましたが簡単に説明するなら、「画面の一部」は「画面全体の情報=見え方」に影響を与え、「画面全体の雰囲気」は注視している「画面の一点」の見え方に影響を与えているということなのです。

 話を戻して「音」の場合はどうなのでしょう? 視覚と同じように情報は処理されていると考えられます。つまり「鼓膜」の振動は、そのまますべてが「脳」に送られているのではなく、視覚情報と同じように「補完」と「選択」が行われているのです。そして、映像よりも「音」の認識にはより「補完」と「選択」の働きの占める割合が大きいように思います。

 「生の音」を聴く場合には「補完」の占める割合は少ないと説明しました。では「選択」とはどういう働きなのでしょう? それは「情報に対する重み付け=優先順位」を決めることです。再度、映像に話をたとえましょう。「美人がアイスクリームを食べている映像」があるとすれば、健康な成人男子は「美人」に注目するでしょうし、ほとんどの子供は「アイスクリーム」に注目するでしょう。これが「選択」という働きです。しかし、これは極端な例であるかも知れませんが「美人」だけに目を奪われれば「アイスクリーム」は見えなくなり「アイスクリーム」に目を奪われれば「人物像」が希薄になってしまうはずです。

 「音」を聴く場合も同じです。「特定の楽器の音」や「特定の聞こえ方」にのみ「耳を奪われれば」音楽の全体像が希薄になり、音から得られる「情報=イメージ」もかえって希薄になってしまうのです。ここでも「好みで音を判断」すると「音楽的情報量が希薄」になってしまう危険性を指摘できるのです。あくまでも「平均的」かつ「平坦的=フラット」に「音」をとらえることが大切です。

意識の働き

 私たちが「機械」ともっとも大きく違うのは「意識」を持つことです。どれほど進んだコンピューターにも「意識」の働きはありません。「意識」がなければ「イメージ」を形成することはできないのです。私たちが見ている物、聴いている物、感じている物すべては私たちの「意識」の中にあります。「夢」を見ることがありますが「夢」の中では実際に起こっていないことが「現実」として感じられます。つまり「意識」の中にこそ、私たちの世界は形成されているのです。

 「音」から「イメージ」を形作る場合にも、まったく同じことがいえるのです。私たちは「耳」で音を聞いているのではなく「意識」で音を聞いているのです。話がどんどん難しくなるようで恐縮ですが、この「意識」の働きをきちんと説明できなければ、ステレオの音の聞こえ方の個人差をうまく説明できないでしょう。

 私たちの「知覚」は、とらえたそのままを「認知」しているのではなく、「意識下」において形作られた「架空の世界=イメージ」を「知覚」としてとらえているのだということなのです。もし現実に「現象や物」があったとしてもそれを「イメージ」としてとらえることができなければ、「そこには何もおこっていない」のですし、逆に「そこには何もなかった」としても、私たちの「イメージの中に形作られて」いるなら、「それはそこにある」のです。

人による音の聞こえ方の違い

 なぜこんなに話を難しくしているかといえば、私は、深くオーディオに関わる過程で「人によってオーディオ機器の評価が一致しない」ことでずいぶん頭を痛めていたからなのです。自分に感じる音が人には聞こえなかったり、あるいはその逆のことがあったり。人による聞こえ方に差があるのは、結論から先に述べるなら、「私たちは物理的には音を聴いていない」というのがその答えになります。つまり、私たちが個々に聴いている「音」は、「物理的に発生した音」とはその本質が少なからず異なっているはずだと考えているのです。

 では、私たちは「何を聴いているのか?」といえば、それは「頭の中で鳴る音」を「物理的な音」にすり換えて聴いているに過ぎないのです。私たちは、個人個人「意識して(無意識に意識して)」音を選択して聴いているのであって「物理的な音を全部聴いている」のではありません。そのため「脳の中で私たちが感じている音」は「物理的には同一」でも、一人一人には「まったく違った音」として聞こえたとしても何の矛盾もありません。

 さらに複雑なことに、私たちの脳には聴覚だけではなく、五感の感覚すべての情報が同時に流れ込んでいます。その情報を「それぞれ選択」し「それぞれの情報を瞬時に関連付けて」私たちは「意識下」において「架空のイメージを形成して現象を認知」していますから、「音の聞こえ」も当然「他の感覚」や「記憶」・「欲求」などの影響を大きく受けるのです。

 たとえば、まったく「同じ音楽」を聴いても事前に「好きな音楽家の演奏」だと説明すれば「好意的=良い音」に聞こえるかも知れませんし、逆に「嫌いな演奏家の演奏」であると説明すれば「排他的=悪い音」に聞こえるであろうと想像できます。特に、「聴覚」を正しくトレーニングしていなければいないほど「音以外の条件によって聞こえ方が大きく変わる」でしょう。

 オーディオ機器の「評価」もまさにその通りです。「ひいきのメーカー」や「高い機械」の音は良く聞こえ「嫌いなメーカー」や「安い機械の音」は悪く聞こえるでしょう。そういう「物理的な音以外の心理的な影響」を高いレベルで排除できなければ「正しい機械の評価」は不可能です。また、「音以外の聞こえに関する心理的な影響」を排除せよ、ということはある意味では、音質判断には「音楽を用いるな」ということになるのです。

 部屋の「明るさ」で音が変わっても「気分」で音が変わっても「事前に得た機器のデーター」で音が変わって聞こえてもそれは「当然のこと」なのです。さらに付け加えるなら「意識の働き」を解明しなければ「物理的な音」だけにこだわっていても「オーディオは進歩しない」ともいえるでしょう。

 アンティーク系オーディオが「心理的」に良い音に聞こえるのも、この考え方なら理にかなった説明ができるはずです。「測定データー」に縛られず「聴覚優先」の開発を行った結果、人間が聴いた場合「音」に対応する「より正しいイメージが形作られる」、つまりより「音楽が正確に聴き取れる」という優れた側面がアンティーク系オーディオ機器には見受けられるのです。

オーディオ機器の選択

 オーディオ機器の音を好みで選んではいけない、オーディオ機器のセットアップも好みで行ってはいけない、と申し上げました。その理由はすでにおわかりいただけたと思うのですが、「音」を変え、「音」を作り替えれば、「音楽」が変わり「音楽」が作り替わるからです。なぜ「音楽」を作り替えるのがいけないのかといえば、それはある意味で「小説」を書き換えるのと同じだと考えてください。すべての「小説」があなたの望むストーリーをたどり、あなたの望む結末を迎えるとは限りません。しかし、もしすべての「小説」をあなたのストーリー、あなたの望む結末に書き換えてしまうなら「小説」を読む必要はありませんし、「書き換えられた小説」をもって「その小説を読んだ」などとは決して口にできないはずです。

 質の良い「小説」を読むことは知識を増し、教養を育みます。「知識」や「教養」は「より深く正しく物事を判断する」ための良き指標となるでしょう。「音楽を聴く」ことも全く同じで、「良い音楽」をお聴きになることは、あなたの「感性」を育むでしょう。しかし、「好み」という一言のもとに「でたらめに改変されたオーディオの音」には「感性」を育むほどの力はありません。

 「音楽」は時として「人間の本質」を変えてしまうほど大きな力を持ちますが、それは「歪みのない」=「作り替えや、すり替えのない」オーディオ機器にのみなせるのです。「作り替えのない音」は「音楽の本質」をあなたに聴かせてくれるはずです。「良い音楽・深い音楽」と「そうでないもの・浅い音楽」の区別が付くはずです。あなたがもし「そういうオーディオ機器」をお選びになりたいと思われるなら、その選択方法をご一緒に考えてみたいと思います。

1)オーディオ機器は聴いて選ぶ。

当たり前のことかも知れませんが、あなたが聴くためのオーディオ機器はあなたが聴いてお選びください。雑誌の前評判を見たり、カタログデーターを見たり、世間の噂を気にしたり、それらはすべて、「正しい選択」には有害です。なぜなら、「良いと思いこむ気持ち」が機器の音を「よく聴こえさせる」からです。「価格を調べる」ことなど、もっとも有害であるのかも知れません。

もっと「自分の感覚」に自信を持ってください。あなたの体の中、「本能」には、生まれながらに音楽を聴くための感受性がプログラムされているのですから、何者にもじゃまされない素直でフラットな感性で音を判断してください。

 

2)試聴用のソフトを決めておく。

録音にも問題があると指摘しましたが、市販されているソフトの大部分は「音が作り替えられている」ので、「判定のための試聴盤」には不適当です。録音の良い「ソロ演奏のモノラル盤」はおすすめです。なぜなら、モノラル録音盤は「マイクを一つしか使わない」ため「作り替えようがない」からです。ソロ演奏をおすすめするのは、ステレオ盤が出る直前のモノラル盤(JAZZに多い)では、楽器の数だけ複数のマイクを用意し、それをミキシングしてモノラルトラックに落としている録音があるからです。そのようなソフトでは当然、「正しい音の関係」は判断できかねます。

「ステレオ機器の選択にモノラル?」と疑問に感じられるかも知れませんが、「左右のスピーカーの整合性」をはじめとして「音の整合性=音の関係が正しさ」が高ければ高いほど、モノラル盤を再生した場合、音の広がりと楽器の位置関係は明確になります。そのように選択した装置で「ステレオ盤」を再生すれば、あなたが驚かれるほど「音は大きく広がり」、そして楽器は「正しい位置に定位」するのです。もし、良質なモノラル盤が手元にない場合は、「できるだけ古い録音のステレオ盤で楽器の数もできるだけ少ない演奏」・あるいは「古い録音のライブ盤」を探してみてください。最新録音、優秀録音と称して発売される最近のソフトのほとんどは「音質的改変」が著しく「判断基準」にはまったく適しません。逆に、販売店やメーカーが試聴に供するソフトを知ることで、その販売店、ないしメーカーの「音楽に対する配慮」の深さを知ることもできるのです。

3)良い環境、良い体調のときに試聴する。

どんなに装置が優れていても、セッティングを含めた環境が悪かったり(1号館の店頭は、誉められたものではありませんが・・・)あなたの体調や気分が優れないときは正しい判断はできないものです。

3号館がセミ・セルフサービスの形態を取っているのは、あなたの試聴のじゃまをしないためです。まわりに、店員や係員が張り付いていてはとても「ゆったりした気分」で試聴などできないと思うのです。

4)一度に、あまりたくさんのソフトを聴かない。

個人差があると思いますが、「音」の判断は瞬時に行えるはずです。「第一印象」を大切にしてください。あまりたくさんのソフトを聴いても「良否判断」は難しいものです。逆に「好みに合うかどうか」を判断なさる場合には、たくさんのソフトを聴く必要があります。「判断」には「音」があればよく、「好みの判断」には「多くの音楽」が必要になるでしょう。あなたが、多くのソフトをかけてみないとわからない、とお考えならそれは「音」ではなく「音楽」を聴いているからに違いありません。決して悪いことではありませんが、「そういう判断基準」では、「好みが変わる」毎に、「装置を買い換える」必要が出てくるでしょう。もちろん、オーディオショップにとっては大変好ましいことですが。

5)信頼できるアドバイザーに助言を求める。

本来はこの方法がもっとも確実です。3号館にソフトをお持ちになってお越しください。ただ1台のシステムだけでなく、複数のシステムをきちんとセットアップしているのは、「音」と「音楽」の関係を実演し、より深く音楽に親しんでいただくためなのですから。「論より証拠」・「百聞は一聴にしかず」です。

6)自分がよいと思ったものを選ぶ。

今までの解説とは矛盾するようですが、「不信感」を持つ装置を「安心」して聴くことはできません。そういう装置は、いずれ「聴かなくなって」しまうはずです。人間の感覚とはとても曖昧です。全く同じ音を聴いても、気に入った装置なら良い音に聞こえるはずです。迷ったら、迷わずあなたが気に入った装置をお選びください。

 

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3号館・午前11:00〜午後6:00 (定休日:水曜・木曜)
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