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私たちの訴えと取組み

5月17日 奈良県天理市
柳本飛行場跡フィールドワークに参加して
 5月17日(日)、反戦平和市民グループ「リブインピース」主催の柳本飛行場フィールドワークに、組合からも参加を呼びかけ、6人が参加しました。
 「柳本飛行場跡」は今の奈良県天理市柳本周辺にあり、飛行場は第二次大戦末期に、敗戦の色濃くなった日本で、「本土決戦」に備え、大和海軍航空隊の飛行場として1944年9月から建設が始められたものです。付近には天皇を迎える「御座所」の建設もされました。これらの建設には、当時日本の植民地だった朝鮮半島から多くの朝鮮人が強制連行されて、厳しい建設工事に従事させられたり、「慰安所」が設けられ、そこで朝鮮人女性が「慰安婦」として性奴隷の状態に置かれていました。今回のフィールドワークは、その歴史の痕跡をたどり、日本の戦争加害の事実=朝鮮人強制連行、「慰安婦」について学ぶものとなりました。参加した人からの感想を掲載します

在日朝鮮人についての認識を覆された一日

私は、在日朝鮮(韓国)人一世、二世、三世を知人に持ち、日本社会と在日社会のはざまで生きる人々と密に関わってきたにもかかわらず、在日朝鮮人=大阪猪飼野(現生野区)という固定観念を持ち続けてきました。私にとってその認識を覆された思いで一杯の一日でした。
 特攻基地として飛行場建設のために朝鮮半島から強制連行された朝鮮人のそこでの作業は、河川改修では、飛行場南端から川の流れを変えて、大和川へ流すための水路を顔中が真っ黒になるぐらいまで掘り続けることを強いられました。また大和航空隊に付属するトンネル、戦闘308飛行隊に付属するトンネルの掘削作業も、2月という真冬の時期に行われ、朝鮮人軍夫は薄い薄い作業服で、寒さに血の気を失いながらもスコップで凍った大地に挑んでいったそうです。
 一番過酷な労働を、朝鮮人に行わせていたこと、植民地支配下にあったこともあるでしょうが、人としての扱いをされていなかったことが伺えました。
 そして戦後、敗戦を迎えた日本から、強制連行されてきた朝鮮人の多くが故郷に帰りましたが、貧しくて故郷に帰れなかった人は、今もなお異国の地である奈良県柳本で生活を余儀なくされることとなりました。今回、目の当たりにした現状は、戦後60余年たった今も、戦前と変わらない暮らしがにじみでていました。例えば、戦前からあった、4、5件ぐらいが1棟になっている長屋が残っていました。そのレンガ色のトタン屋根は塗り替えられることもなく色あせて錆びたまま。今は誰も住んでいないと思われる部屋の窓ガラスは割れたままの吹きさらし。庭先には1960、70年代のタイルの流し台が、無造作に置かれたままの状態。これら生活の貧困さを物語っている状況に胸が詰まる思いで一杯でした。こうした状況、強制連行によって飛行場建設がなされていった実情は、天理市のガイドマップを何冊か手にしましたがどこにも載っていません。ただ一つ天理市ガイドブックの地図にだけ、柳本飛行場跡とあっただけでした。
 そんな中で、天理市厚生年金会館横の公園に柳本飛行場の説明板が設置されていました。この説明板では、強制連行と日本軍「慰安婦」制度が実際にこの柳本にも存在したことを明確に記して認めており、天理市教育委員会によって「平和を希求する私たちは、歴史の事実を明らかにし、二度と繰り返してはならないこととして正しく後世に伝えるためにこの説明板を設置します」とありました。私の年代の30代は、在日3世の年代になっています。日本で生まれ、日本語を話し、日本の教育、日本人同様の生活を送り、帰化して日本社会に溶け込んでいく人も多くなり、在日朝鮮人というルーツすら薄らいでいるように思えます。日本人も、戦争体験者が少なくなり、戦後世代も過去の侵略戦争を教えられない人が多くなっているように思えます。過去そして現在も、様々な問題が多くありますが、実際の本当の歴史を日本人、在日朝鮮人が隔たりなく後世に語り継いでいくべきだと思いを新たにしたフィールドワークでした。(N)

気楽に参加、いろいろ考えさせられました

 「ピクニック」そんな言葉に惹かれ、気楽に参加しようと思えました。地図をたどりながら、古墳へ、レジャーシートを広げお弁当を食べる。天気もなんとかもち楽しく過ごしました。
 その後は、雨。実際に強制連行された朝鮮人の住処を見ました。現在も住んでおられる、その家を見て愕然としました。それは廃墟でした。トタンや薄い木の壁、屋根はつぎはぎや草で覆われている、壁は所々破れ、中の洗面所が丸見え…、とても人が住んでいるようには思えませんでした。
 また、案内の方のお話を聞く中で、「天皇」の存在、その影響の大きさを所々に知る事ができました。天皇は人のための存在でなく、天皇の強い権威を見せ付け、有無を言わさず人を動かすための存在だったのかと考えさせられました。
 今残る防空壕を見たり登ったことも、貴重な体験でした。また、飛行場予定地にあった川を人工的に迂回させたら川が何度も氾濫を起こし、結局元に戻したという経過の碑がありました。柳本飛行場の存在に、自然が抵抗し勝利したように思えてちょっと面白かったです。
 柳本飛行場は本土決戦に対応すべく、天理市によると1944年9月から作られたものでした。完成は1945年2月。その為に朝鮮人が約3千人連行され、その朝鮮人と日本人労働者のための慰安所も作られました。当時、飛行機は土を固めた滑走路で十分だったそうですが、天皇が来るので人手も物資が不足しているだろう中、わざわざ滑走路をコンクリートで薄く覆ったり、長さも600mで十分なのに1500mも作ったり、「御座所」のトンネルを掘らされたり…、と日本軍は天皇の権威を最優先に非実用的な余分なものまで作らせていたのです。仕事は、朝鮮人に重労働を押し付け、朝鮮人は壁に囲まれた地区で生活していたといいます。また朝鮮人は、ずっと日本人からひどい扱いを受けていました。飛行場を作らせるために強制連行、戦後飛行場は閉鎖、仕事がなくなっても放置され、貧しい暮らしを強いられたそうです。そのような朝鮮人が日本中にいたといいます。仕事がないからお金も無く、家も持てず、借りられず、住むところがその海軍施設部跡地くらいしかなかったため、多くの朝鮮人がそこに移り住んだそうです。なのに日本人から差別を受けるという散々な目にあわされている在日朝鮮人たち。どんな想いで生きておられるのだろうか?日本人として合わせる顔がありません。
 そんな中、日本人でも粘り強く資料を集めたり地元の証言を聞き取り続ける人がいる。そのおかげで、強制連行と慰安所についても書かれた柳本飛行場の説明板がありました。少しよかった。それにしても、自分の知らない・覚えられないことがたくさんあります…。
このような企画を利用して少しでも自分の記憶に残したいです。(O)








柳本飛行場の案内板―朝鮮人強制連行、「慰安婦」の事実を記している

(組合ニュース第5109号(2009年5月29日発行)より)
(2009年6月1日)

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