訴    状


2002年9月3日


水戸地方裁判所民事部御中


            原告ら訴訟代理人
弁 護 士   海   渡   雄   一

            同
弁 護 士   伊   東   良   徳



原      告   大   泉   恵   子

同      所
同          大   泉   昭   一



被      告   株式会社ジェー・シー・オー
代表者代表取締役   稲   見   智   之

被      告   住友金属鉱山株式会社
代表者代表取締役   福   島   孝   一


 損害賠償請求事件

  訴訟物の価額    5762万2729円
  貼用印紙額   24万8600円


請 求 の 趣 旨

 1 被告らは、各自、原告大泉恵子に対して、金4619万7379円及びこれに対する平成11年9月30日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え
 2 被告らは、各自、原告大泉昭一に対して、金1142万5350円及びこれに対する平成11年9月30日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え
 3 訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決並びに仮執行の宣言を求める。
請 求 の 原 因

第1 はじめに
 本件はJCO臨界事故発生地点の周辺地域住民の代表訴訟的訴訟である。この地域では原告らの他にも健康被害を訴えている者がある。裁判の必要を感じながらも、結婚や就職、学校でのいじめなどの差別を恐れて提訴できなかった者がいる。自らに何の落ち度もない被害者である被曝住民が、被曝したというだけで差別の対象とされる。まして、そのことを公表して訴えることによってどのような差別を受けるかを恐れて多くの住民が提訴をあきらめたのである。「JCOのことを考えるとはらわたが煮えくり返るが、いっしょに被曝した子供のことを考えると、とても訴訟はできない」「あの事故の夜から、体のあちこちに斑点ができて、痛くてたまらない。どんなに痛さを訴えても、JCOは相手にしてくれない」などの、切実な声がこの訴訟の背後にはあるのである。ここに、原爆差別、原発地域の差別と同じ構造がある。
 この訴訟は、原告2名の訴訟ではあるが、このような地域の中で、二度とこのような事故を起こして欲しくないという思いから、このような重大事故を引き起こした被告JCOと被告住友金属鉱山に対する厳正な司法の判断を求めて提訴するものである。
 裁判所は、今も、多くの住民が健康の異常を訴え、また将来のガンなどを発症する不安を持ち、精神的な苦痛を感じていることと、このようなことを明らかにして訴訟することで、東海村という原子力開発と分かち難く結びついた地域社会において差別されるという構造の中で、被曝した住民が二重の苦しみの中にあることを十分に認識して訴訟審理を行って欲しい。

第2 当事者
 1 原告
 原告大泉恵子は、大泉工業株式会社(以下「大泉工業」という)の監査役兼従業員であり、1999年(平成11年)9月30日に発生した臨界事故の現場である転換試験棟から県道瓜連線を隔てて向かい側に位置する大泉工業東海工場(東海村舟石川847番地19所在)に勤務していた。
 原告大泉昭一は、大泉工業の代表者であり、上記大泉工業東海工場で業務に従事していた。

 2 被告
 被告株式会社ジェー・シー・オー(以下「被告JCO」という)は原子燃料の製造および売買等を目的とする株式会社であり(資格証明書)、茨城県那珂郡東海村石神外宿2600番地に東海事業所を保有し、この東海事業所内において転換試験棟の操業を行っていた。
 被告住友金属鉱山株式会社(以下「被告住友金属鉱山」という)は原子燃料の製造業等を目的とする株式会社であり(資格証明書)、被告JCOの資本金(10億円)の全額を出資する親会社である。

第3 JCO臨界事故(本件加害行為)
 1 臨界事故に至る経緯
(1)転換試験棟の加工事業許可に至る経緯
 被告JCOの東海事業所は、被告住友金属鉱山の核燃料事業部の東海事業所として許認可および建設が行われ、1973年にその操業を開始した。
 1979年(昭和54年)10月1日に被告住友金属鉱山の100%子会社として被告JCOが設立され(当時の商号は日本核燃料コンバージョン株式会社、1998年8月に現名称に商号変更)、被告住友金属鉱山東海事業所から被告住友金属鉱山が建設し保有する転換試験棟等を譲り受けて、1980年(昭和55年)10月14日、転換試験棟について被告JCOの核燃料物質使用施設とするための許可申請が行われ、同年11月20日に許可された。この段階では取り扱うウランの濃縮度は12%以下であり、酸化ウラン粉末の製造施設であった。
 転換試験棟は、もともと被告住友金属鉱山の施設として建設されたものであるが、その外壁は厚さ10cmの軽量気泡コンクリートパネル(比重0.5、通常のコンクリートの4分の1)であり、中性子線をほとんど遮蔽できないという原子力施設としては重大な欠陥を有するものであった。
 また、転換試験棟はもともと被告住友金属鉱山の施設として建設されたものであるため放射線管理設備が隣接する被告住友金属鉱山のウラン試験棟内にあり、気体放射性廃棄物を放出する排気筒が被告住友金属鉱山のウラン試験棟の建物上にあり、液体放射性廃棄物の処理設備の一部が被告住友金属鉱山のウラン試験棟の地下にあるなど、被告住友金属鉱山のウラン試験棟と一体で初めて原子力施設としての体裁がとれるという代物であった。このような一体の施設の一部だけが被告住友金属鉱山から被告JCOに譲渡されて独立の施設とされたために、転換試験棟は、そこで作業するために被告住友金属鉱山の敷地内の被告住友金属鉱山の施設であるウラン試験棟を通りその放射線管理室を経由しなければ出入りできないという極めて特異な施設となっている。
 また、被告JCOが転換試験棟の操業を行うに当たっては、被告住友金属鉱山が開発した溶媒抽出法によるウラン精製法、溶媒抽出法による転換技術を引き継いだ。
 転換試験棟が被告JCOの核燃料物質使用施設として操業されるに当たり、1980年(昭和55年)12月、被告住友金属鉱山株式会社から東海核燃料工場工場長をはじめ主要な技術者が被告JCOに出向した。このときの出向者の中には松永一郎、越島健三、吉岡正年ら次に述べる加工事業許可の騙取に関わった者、嶋内久明、宮嶋良樹らその後の違法操業に関わった者、越島健三、加藤裕正、小川弘行ら臨界事故の責任を問われて刑事裁判の被告人となっている者が含まれている。

(2)加工事業許可の騙取
 被告JCOは、1983年(昭和58年)11月22日に転換試験棟を核燃料物質使用施設(研究施設扱い)から加工事業(商業施設)に変更する許可申請を行った。この際に取り扱うウランの濃縮度を20%未満(年間3t−Uまで)及び20%以上50%未満(年間20kg−Uまで)と高め、さらに溶液製品の製造も付加した。この申請に対し翌1984年(昭和59年)6月20日に許可がなされている。なお、その後転換試験棟については1993年(平成5年)11月11日に製品貯蔵能力の拡大に関する変更許可申請が行われて翌1994年(平成6年)10月6日に許可がなされているが、それ以外の変更許可はない。本件臨界事故は、濃縮度18.8%のウランの溶液製品を製造する過程で発生した。これは取り扱うウランの濃縮度の点でも溶液製品の製造であるという点でも1984年(昭和59年)6月20日の許可によって認められた事業の過程で生じた事故ということになる。
 核燃料加工事業の許可(変更許可も同じ)に際しては、許可申請に対しまず所管行政庁である当時の科学技術庁(担当課は核燃料規制課)が安全審査を行い(これを1次審査あるいは行政庁審査と呼ぶ。なお、科学技術庁は行政官のみで審査するのではなく独自に委嘱している「安全技術顧問」の意見を聞いて審査する)、その審査を通った後に科学技術庁の安全審査書を付して原子力安全委員会への諮問がなされ、同委員会の安全審査がなされる(これを2次審査と呼ぶ)。原子力安全委員会の安全審査はその下部機関である核燃料安全専門審査会の部会(施設の安全審査を担当する部会は番号を付して区別されるので「ナンバー部会」と呼ばれる)が実質的に担当し、その結果を核燃料安全専門審査会の全体会及び原子力安全委員会が承認して審査が終了する。
 そして、転換試験棟における酸化ウランの精製の工程は、酸化ウラン(8酸化3ウラン)の溶解、溶媒抽出(逆抽出を含む)、沈殿、仮焼の工程からなり、溶液製品(硝酸ウラニル)の製造工程は、この精製工程の後に精製工程で得られた精製酸化ウラン粉末の再溶解(さらに、後には混合均一化)の工程を要する。
 転換試験棟の加工事業許可の申請に当たっては、精製工程については、1次審査では被告JCOに転換試験棟で製造する「常陽」の燃料を発注している動力炉・核燃料開発事業団(以下「動燃」という。現在の名称は核燃料サイクル開発機構)から科学技術庁に出向してきていた吉田守が安全審査を担当したこともあり、転換試験棟の主要容器で唯一形状寸法管理(その容器いっぱいにウランを詰め込んでも臨界に達しない形状にすること。最も確実性の高い臨界管理方法)がなされていない沈殿槽についても濃度管理ができ、質量管理と二重の臨界管理となっていると誤認して通した(注:沈殿槽では沈殿を生じさせるのだから濃度が変化し、濃度管理をする余地はない)が、2次審査(原子力安全委員会)では委員から1次審査の誤りが指摘され、沈殿槽について二重の臨界管理とするために、溶解塔から沈殿槽まで一連の工程で1バッチ(ウランを集中した場合に臨界となる最小量を安全係数2.3で割った量を1度に取扱最大量として、これを1バッチとした)しか取り扱わないという1バッチ縛りが要求されるに至った。これを吉田守から知らされたJCO側の窓口であった松永一郎と越島健三は被告JCOの本社に伺いを立てた上で協議した結果、1バッチ縛りは現実には守れず、守るつもりもなかったが、許可を取るためにそれを受け入れることにした。つまり、被告JCOは原子力安全委員会を騙して許可を取ったことになる。
 また、転換試験棟の加工事業許可の申請に当たっては、溶液製品の製造工程については、被告JCOは検討らしい検討を行わないまま、1次審査終了後、2次審査の部会が始まった後になって突如として溶液製品の製造に精製工程で使う溶解塔を流用することとして再溶解の工程を部会の第2回の会合になって手書きで書き加えるという強引な手段により1次審査での検討を回避し、2次審査でも十分な検討を回避して許可を得たものである。

(3)加工事業許可後の違法操業
 被告JCOは、加工事業許可を騙取した後、動燃から高速増殖実験炉「常陽」の燃料用に液体製品の発注を受けたが、その際、動燃側の運搬手続の簡略化のために1ロット40リットル(ウラン量で14.5kg)の混合均一化処理を求められた。
 被告JCOの転換試験棟においては、第一に「常陽」燃料に用いる濃縮度18.8%のウランについては1バッチが2.4kgと制限され、14.5kgのウランを混合均一化することは許されず、第二に取扱制限量を度外視しても加工事業許可において混合均一化の工程が許可されていないのであるから、上記混合均一化は二重の意味で違法なものであった。
 従って、被告JCOは動燃からの混合均一化の要求を、当然に断るべきであったが、みずからクロスブレンディング(ボトル詰めした液体製品10本分を10本の空容器に10分の1ずつ小分けすることを繰り返す)という許認可を得ていない方法を発案して動燃の要求を受け入れ、許認可されていない方法で操業を行った。
 被告JCOは転換試験棟の加工事業操業当初から1バッチ縛りを守らず、精製工程では全体として日常的に複数バッチのウランが取り扱われていた。被告JCOが原子力安全委員会ウラン加工工場臨界事故調査委員会に提出した1988年(昭和63年)2月1日から3日の操業記録を見ても、加水分解塔には3バッチ、貯塔には2バッチが日常的に投入され、溶解から沈殿までの一連の工程では4バッチ程度が取り扱われていた。この加水分解塔や貯塔に複数バッチを貯液する操業は被告JCOが刑事裁判で守れないと言い訳している溶解から沈殿までの一連の工程での1バッチ縛りはおろか、各工程での質量制限(それぞれの容器に1バッチを超えて投入しない)にさえ違反している。
 その後、被告JCOは、再溶解工程において許可を受けている溶解塔を用いると精製工程終了後に十分な洗浄を行ってからでないと再溶解ができないため、動燃から要求された納期を守るためには精製工程と再溶解工程を平行して行う必要性を生じたことから、再溶解工程を許可を受けた溶解塔ではなくステンレスバケツを用いて手作業で行うことにした。これも加工事業許可を受けずに加工工程を変更するものであり、違法な作業であることは言うまでもない。
 そして被告JCOは、バケツによる手作業が溶解塔による溶解より速く行うことができ、洗浄も容易であることから、精製工程の溶解も溶解塔を用いずにステンレスバケツを用いることとした。この作業工程も、いうまでもなく、違法である。
 さらに、被告JCOは、クロスブレンディングによる混合均一化が作業上の手間が大きいことから、精製工程に用いる貯塔を流用して一気に1ロット、7バッチに及ぶウラン溶液の混合均一化を行うことにした。この際、再溶解に溶解塔を用いずにステンレスバケツを用いることが常態化していたので、ステンレスバケツからウラン溶液をポンプで貯塔に送液するため、貯塔に仮配管を接続することになった。これも許可なく作業工程を変更し、許可なく原子力施設の工事を行うものであるから、当然に、違法である。
 これらの違法な作業工程の変更は1995年(平成7年)9月8日の被告JCOの社内の安全専門委員会で報告され、正式に被告JCOの上層部に報告されたが、被告JCOは、違法操業を改めるどころか、これを正式に承認し、同年10月27日付で作業手順書として正式に文書化された。
 このように被告JCOにおいては、許認可を受けた手順はことごとく無視され、作業の効率化、容易化のために定められた手順、安全対策を許認可を受けずに勝手に変更することが繰り返され、もともと希薄であった遵法意識がさらに希薄化していった。これらの違法作業はいずれも被告住友金属鉱山から出向した嶋内久明東海事業所長、越島健三東海事業所製造部長、加藤裕正東海事業所製造部副部長、吉岡正年東海事業所技術部技術課長、小川弘行東海事業所技術部技術課担当課長らによって推進されたものである。

(4)未熟練作業員による作業の強行
 被告JCOにおいては、その主要な業務である被告住友金属鉱山から引き継いだ溶媒抽出法(湿式法)による再転換が、時代の要請にあわずコスト競争に耐えられないものとなっていたことから、海外技術の導入による乾式法への転換を図るとともにリストラを敢行し作業部門の人員を大幅に減らしていった。
 しかも、被告JCOにおいては、転換試験棟で作業する者をスペシャルクルーと呼んでいたが、転換試験棟における溶液製品の製造は、動燃からの注文がなされた際に集中的に行う間欠的な作業であり、熟練作業員はもともと少なかった。転換試験棟での作業の数少ない熟練作業員であった長谷勝典は1978年に被告住友金属鉱山に入社して1980年(昭和55年)12月に被告JCOに出向し、出向時から1998年(平成10年)7月まで17年余にわたり転換試験棟での作業に従事していたが、1998年(平成10年)7月に被告住友金属鉱山に呼び戻された。被告住友金属鉱山が、被告JCOに出向させて転換試験棟での作業に従事させていた長谷勝典を呼び戻した結果、被告JCOには転換試験棟での作業、とりわけ溶液製品の製造の経験のある職員がいなくなり、1999年(平成11年)9月からの第9次「常陽」燃料の製造は、液体製品製造について経験のない作業員だけで行うこととなった。

 2 臨界事故の発生
(1)沈殿槽へのウラン溶液の投入の発案と決定
 1999年(平成11年)9月28日、被告JCOのスペシャルクルーは、第9次「常陽」燃料製造の溶液製品のための混合均一化工程に入る準備を始めたが、同年10月7日から科学技術庁の巡視が予定されて通告されており、混合均一化に従前通りに貯塔を用いると仮配管の設置を行うことになるので、一見して違法作業をしていることがばれるため、科学技術庁の巡視が始まるまでに4ロットの混合均一化をして、仮配管を一旦取り外し、科学技術庁の巡視が終わった後に再度仮配管を設置してさらに混合均一化を行うことが予定されていた。
 しかし、このような作業は煩わしいと、副長であった横川豊が考えていたところ、転換試験棟での作業の経験が全くないクルーから沈殿槽を使って混合均一化を行ってはどうかという提案があり、横川は「良いアイディアだ」と思い、核燃料取扱主任者資格を持つ計画グループ主任の竹村健司に相談し、了承を得て、沈殿槽による混合均一化を行うことを決めた。
 
(2)臨界事故の発生
 被告JCOのスペシャルクルーは、1999年(平成11年)9月29日に沈殿槽に4バッチ分のウラン溶液を投入し、翌30日午前中にさらに順次ウラン溶液を投入して7バッチ目の投入中の午前10時35分ころ、沈殿槽内のウランが臨界に達し、臨界事故が発生した。

(3)臨界の継続
 被告JCOの転換試験棟には臨界停止装置がないため、臨界に達した沈殿槽について臨界停止措置が長時間とられなかった。そのため、翌10月1日午前6時15分ころに臨界停止の措置が功を奏するまで約20時間にわたって、臨界が継続した。
 この間、前述の通り転換試験棟はその外壁が厚さわずか10cmの軽量気泡コンクリートパネル製であるために中性子線遮蔽効果はないに等しく、被告JCO東海事業所敷地内にいた被告JCO及び被告住友金属鉱山の職員、救急隊員の他、周辺住民も大量の中性子線を被曝することとなった。
 しかも、転換試験棟には臨界警報さえなく、被告JCOは中性子線の測定器さえ備えていなかったために、臨界継続に気付くのが遅れた。被告JCOは、自らの従業員は臨界事故後速やかに転換試験棟から約250m離れた地点に避難させたが、東海村役場に周辺住民の避難を要請したのは9月30日午後1時56分になってからであった。そして東海村が日本で初めて350m圏内の住民に退避の勧告を決断したのは午後3時であり、これが周辺住民に行き渡るまでにはさらに時間がかかり、その間、周辺住民はいたずらに被曝量を増やすこととなった。

(4)放射性物質の漏洩の継続
 臨界事故による被曝は、核分裂反応により直接に発生する中性子線によるものがその大部分を占めるが、JCO臨界事故においても核分裂反応に伴って発生する核分裂生成物(放射性物質)の漏洩もあった。
 被告JCOの東海事業所及びその周辺においては放射性物質の漏洩を測定するモニタリングポストがごくわずかしか設けられておらず、放射性物質の漏洩量は十分に実測されたとはいえない。しかも、その不十分なモニタリングポストによる測定でも短時間に明確なピークが検出されており、漏洩した放射性物質が十分拡散せずに比較的高濃度のまま放射能雲を形成して周辺を漂ったことが看取される。
 そして、被告JCOは事故後転換試験棟からの放射性物質の漏洩を漫然と放置し、事故後10日が経過した10月10日になって転換試験棟の排気筒からのヨウ素131の放出量が高いと発表し、10月11日になって転換試験棟の換気を停止して目張り作業を始めた。転換試験棟からの排気中のヨウ素131の濃度が検出限界以下となるのは実に12月16日のことである。

 3 臨界事故の被害
(1)JCO従業員等の被曝と死傷
 本件臨界事故により、事故の際に転換試験棟でウラン溶液の投入をしていて被曝した被告JCOの従業員大内久及び篠原理人が急性放射線障害による多臓器不全によって死亡した。この者達は加害行為者の一部であるが、同時に被告JCOから何ら臨界教育も受けずに危険な作業に従事させられた被害者としての側面もあり、大内久の遺族は刑事裁判に提出された検面調書の中で「瞼も閉じられないのがいたたまれなかった。これから息子を一人で育てて行かなくてはいけない。夫はJCOに殺された。」と供述している。
 原子力安全委員会ウラン加工工場臨界事故調査委員会の報告書によればホールボディカウンタ等による測定により被曝が確認された者は上記2名の死亡者の他に事故当時に被告JCOの東海事業所敷地内にいた者(被告JCO及び被告住友金属鉱山の職員ら)で57人、臨界停止措置に従事した決死隊で24人、消防署員3人、応援に訪れた日本原子力研究所、核燃料サイクル機構の職員で57人であった。この測定は事故後時間がたってから行われたものであり、相当な被曝を受けていないと検出されない(決死隊のうち線量計での測定では約56ミリシーベルトの被曝をした者でさえ、ホールボディカウンタではナトリウム24は検出されなかった)が、それでもこれだけ多くの者が被曝したと確認された。

(2)周辺住民の被曝
 周辺住民については、相当な時間経過後に気休め程度の測定しかされなかったので、比較的早い時期に測定がなされた7名についてのみ測定による被曝が確認された。
 その後、周辺住民について被曝量の推定がなされ、過小評価の疑いが強い科学技術庁事故調査対策本部による評価でも、転換試験棟から350m圏内に居住又は勤務する周辺住民265名のうち上記の7名の他に112名が年間線量限度の1ミリシーベルト以上の放射線を被曝したとされている。
 周辺住民の被曝線量については、広島・長崎原爆被爆者の健康実態調査・健康診断に長期にわたって取り組んできた阪南中央病院の中で、東海臨界事故被曝線量・健康実態調査委員会が結成され、周辺住民221名の被曝線量調査を行っており、この科学技術庁事故調査対策本部の評価は被曝線量を6分の1以下に過小評価するものだと報告している。

(3)その他の被害
 本件臨界事故により、直接的な被曝の他に、転換試験棟から350m圏内の住民は1999年(平成11年)9月30日午後3時から10月2日午後6時30分までの2日と3時間あまり、住民避難の措置をとられて舟石川コミュニティセンター等の施設に集められ(避難住民の最終帰宅は10月3日午前6時25分ころ)、10km圏内の住民は同年9月30日午後10時30分から10月1日午後4時30分まで18時間にわたり屋内待避を要請されて外出できなかった。
 本件臨界事故のために事故当日と翌日には、久慈川の取水停止、国道6号線他周辺3路線の通行止め、常磐自動車道東海パーキングエリアの閉鎖、JR常磐線・水郡線の運休、学校の休校、農作物の収穫自粛、沿岸漁業の中止等の措置がなされて経済活動は完全にストップした。そして、本件臨界事故はその後も茨城県内の農・水産業、観光業等に長期間にわたり大きな打撃を与えた。

 4 臨界事故後の被告らの対応
(1)事業者の経済的被害に対する賠償
 被告JCOの発表によれば、2001年(平成13年)12月末までに被告JCOは損害の届出のあった約7000件のうち99.6%と損害賠償について合意し、合意した損害賠償額は147億2000万円にのぼっている。

(2)周辺住民に対する賠償
 しかし、被告JCOは、企業の営業損害、風評被害の賠償には素直に応じる(もっとも、被告JCOの和解提示を不服として損害賠償請求訴訟を提起している事業者もいくつかある)ものの、周辺住民に対しては、居住者につき1人5万円、勤務者につき1人3万円の見舞金及び1回の健康診断の費用、事故当日に着用していたために破棄した衣服類の賠償に応じるのみで、それ以上の賠償には応じないという姿勢を示し続けている。

(3)被告住友金属鉱山の債務引受
 被告住友金属鉱山は、1999年(平成13年)10月1日、当時の代表取締役社長であった青柳守城が自ら記者会見して、地域の被害に対する補償については被告住友金属鉱山が全面的にバックアップすると述べ、さらに同年10月5日、当時の代表取締役専務であった須藤晃一が、自ら記者会見して、被告JCOの臨界事故について道義的、社会的責任があり、誠意を持って対応すると述べ、親会社として補償に応じることを明らかにした。

第4 本件加害行為の違法性
 本件臨界事故は、許可を取るためには原子力安全委員会をも平然と騙す被告JCOが、安全性を軽視して作業効率のみを追い求めて次々と許可された工程を無視して違法作業を繰り返したあげく、その違法作業が露見しないように科学技術庁の巡視を欺きつつ作業を短時間でも中断せずに行うという目論見の下で新たな違法作業を敢行する過程で発生したものであり、その行為と動機の違法性が極めて高い。
 沈殿槽へのウラン溶液の投入については、許認可に違反しており(原子炉等規制法違反)違法であることはもちろんのこと、沈殿槽は形状寸法管理がなされておらず、臨界管理は質量管理だけなのであるから、これに取扱制限量(1バッチ)を超えてウラン溶液を投入すれば臨界事故の危険があるのは当然のことであり、沈殿槽への投入に関与した者の過失の程度は極めて大きく、重大な過失があったことが明らかである。未必の故意があったという評価さえあり得ないではない。
 しかも、事故発生後も被告JCOは臨界継続を停止する措置を長時間怠って周辺住民の被曝を増大させた。さらに被告JCOは自らの従業員は速やかに避難させつつ、周辺住民への避難勧告は後回しにして、長時間にわたり原告ら近隣住民を事故の従業員より多く被曝させ続けた(原告らが事故当時作業していた場所は被告JCOの従業員が敷地内で避難していた場所よりも転換試験棟に近い)ものである。加えて被告JCOは事故後転換試験棟からの放射性物質漏洩を長期間放置し、原告ら周辺住民に放射性物質の吸引による被曝をさせ続けたものである。このように事故後の対応においても被告JCOの行為の違法性は高い。
 このように、本件加害行為はその動機において酌むべき点は全くなく極めて悪質な動機によるものであり、行為自体も違法であり、その過失も極めて高いものである上、事故後の被告JCOの周辺住民の被曝防止措置も極めて不十分でありそのために周辺住民に本来ならば回避可能な被曝を追加したものであって、いずれの点からも極めて違法性の強いものである。

第5 原告らの被害
 1 原告大泉恵子の被害
(1)はじめに
 原告大泉恵子は事故そのものによるショックと事故による被曝のために事故直後から身体に変調を来し、胃潰瘍、強度のPTSD、うつ病などの疾病に罹患した。
 原告大泉恵子は、原告大泉昭一の妻であり、大泉工業の作業及び経理関係を担当してきた。しかし、これらの症状のために原告大泉恵子は工場に働きに行くことができなくなり、また、家事もほとんど行うことができなくなった。そのことと、後述する原告大泉昭一の事故後の身体症状の悪化もあり、大泉工業は経営が続けられなくなり、営業の廃止にまで追いつめられた。

(2)本件臨界事故当日の行動
 1999年(平成11年)9月30日、原告大泉恵子は、原告大泉昭一とともに、大泉工業東海工場で自動車部品の組立製造作業をしていた。
 大泉工業東海工場は本件臨界事故が発生した転換試験棟の塀と道路を挟んだ向かい側に位置しており、転換試験棟と直線距離にして工場の最も近いところで約120メートル、工場中心部で約130メートルの距離である。
 原告大泉恵子は、本件臨界事故発生時には、工場南東端の屋外にある洗い場で,はんだ液の汚れを洗う作業をしていた。この場所は直線距離で転換試験棟に最も近い(約120メートル)ところであった。
 その後原告大泉恵子は、原告大泉昭一とともに工場内で作業をしていた。原告らは、当初は窓を開けて作業をしていたが、同日午後1時40分ころ、消防の人が来て、「近くで事故があったので、窓を閉めて下さい。」と言われたので、表側の窓を閉めて作業することにした。 
 同日午後3時頃、不安になった原告らは東海村役場に電話をしたが、話し中でつながらなかった。ようやく、午後3時40分になって電話がつながった。そのころ、青い服を着た人(村役場の職員と思われる)が付近に回ってきて、「舟石川コミュニティセンターに退避して下さい。」と言って来た。原告らはむしろ日立市の自宅に帰りたかったので、「自宅に帰ってもよいか。」を尋ねたところ、「自宅に帰っていいです。」と言われ、車で自宅に帰ることとした。
 原告らが帰る途中、そこここにバリケードが張られ、付近は異常な雰囲気であった。
 原告らは、自宅に帰って午後7時のNHKニュースを見て初めて自宅のすぐ隣で放射線が放出される大きな災害が起こっていたことを知った。そこで、原告らは再度東海村役場に電話し、「JCOの隣の工場のものだが、もう一度コミュニティセンターに行った方がいいか。」と聞いた。役場の担当者の答えは、「作業服、衣類、靴をビニールの袋に入れて持ってくるように。」というものであったため、原告らは夕食もとらずに舟石川コミュニティセンターに移動した。
 原告らは、同日午後8時14分ころに舟石川コミュニティセンターに着いた。ここで、衣服や身体について簡単な検査を受け、「大丈夫です。」と言われたので、ひとまず安心し、センターを午後10時頃に出て家に帰った。
 ところが、原告大泉恵子に、その深夜である10月1日午前3時頃に、ひどい下痢がはじまった。備え置きの下痢止め薬を飲んでも全くきかなかった。また、下痢と平行して口内炎の症状が現れた。

(3) 事故による被曝と事故後の血液検査結果
 科学技術庁事故調査対策本部による「行動調査等に基づく線量の推定について」によると、原告大泉恵子は6.5ミリシーベルトの被曝をしたとされている。しかし、この線量評価は過小評価であり、阪南中央病院「東海臨界事故 被曝線量・健康実態調査委員会」によると、約39.0ミリシーベルトの被曝をしたとされており、この評価の方が正しいと考えられる。
 いずれにしても、原告が一般人の年間被曝限度である1ミリシーベルトを大幅に上回る放射線に非常に短時間の内に被曝したことは明らかである。
 また、原告大泉恵子は,事故直後の1999年(平成11年)10月2日の血液検査結果では、白血球数が12000/mm3で要医療の判定を受け、白血球数はその後も2002年(平成14年)4月の健康診断まで検査の度に正常範囲の基準値の上限(9500/mm3)を超えて要医療の判定を受けている。同様にリンパ球数についても事故直後の1999年(平成11年)10月2日の血液検査の結果で5652/μlとされており、正常範囲の2倍近い異常値となっている。その後の検査ではリンパ球数は減少しているものの2001年(平成13)年4月の健康診断までは検査の度に正常範囲の基準値の上限(3144/μl)を上回っており、2002年(平成14年)4月の健康診断の際の血液検査で事故後初めて正常値の範囲に戻っている。

(4)事故後の原告大泉恵子の心身の健康状態
 原告大泉恵子は、本件臨界事故の翌日の1999年(平成11年)10月1日は、一日家で寝ていた。
 同年10月2日には、この日、避難解除が予定されており、原告らは大泉工業東海工場の状況を確認する必要があったために舟石川コミュニティセンターに行って待機し、午後10時に血液検査を受けた後、ガイガーカウンターによる大泉工業東海工場周辺の線量測定に立ち会った上、工場への立ち入りが許可されたので状況を確認して、夜中に自宅に戻った。
 同年10月3日は下痢が終日続いた。
 同年10月4日は一日中床についていた。
 同年10月5日には息子家族が自宅からアパートに引っ越しをしたが、原告大泉恵子は、体力気力がなく、引っ越しの手伝いができないので、そのような状態で引っ越しの手伝いもせずにいると邪魔になりさらに気が滅入るのでいやいや大泉工業東海工場に行った。このころ原告大泉恵子は、食事を食べると下痢するから怖くて食べられない状態が続き、体重が減っていった。
 原告大泉恵子はその後も、一日中パジャマで、寝たきりの状態で、同年10月17日までは完全に会社を休んだ。
 その後原告大泉恵子は何度か会社に行こうとしたが、会社が近づいてJCOの建物が見えてくると、体がこわばり、結局会社についても満足に仕事をすることはできず、体調が悪くなって午後からタクシーで帰宅するような状態が続いていた。 
 同年10月25日から26日には、毎年行われている大泉昭一の兄弟夫婦の旅行があり、既に旅行会社に料金も支払っていたので、原告大泉恵子も参加はしたが、全然食事が食べられず、苦しかった記憶しかない。
 原告大泉恵子は同年10月末ごろから胃痛の症状に悩まされるようになった。
 原告大泉恵子は、同年11月15日に、従前から面識のある日鉱記念病院の院長とたまたま会った際に、同人が原告大泉恵子のやせた姿にびっくりしてすぐに病院に行きなさいと言ったことから、翌11月16日に日鉱記念病院で、上杉医師の診察を受け、「胃潰瘍」という診断を受けた。原告大泉恵子は1999年(平成11年)11月18日から12月5日まで日鉱記念病院に入院した。
 本件臨界事故以前には、原告大泉恵子には下痢という症状は全くなかった。原告大泉恵子の事故前の体重は50キロ程度であったが、事故直後の10月2日には、46キロとなっていた。入院時の11月には体重は42キロ程度まで下がっていた。当時の原告大泉恵子の心理状態は、「仕事ができない、家のこともできない、自分は生きていてもしょうがない、経理を担当していて、仕事に自分が行けないと会社が赤字を出すことはわかっていた。」というようなものであった。
 原告大泉恵子は、日鉱記念病院を退院した後も体調が悪いので、1999年(平成11年)12月10日に回春荘病院で診断を受けたところ、「うつ状態」との診断を受け、その後同病院に通院するようになった。原告大泉恵子は「臨界事故が起きて下痢が続いて、起きられない。労働意欲がわかない。働かなければいけないのに働く意欲が起きない。」と訴えた。木下医師は原告大泉恵子の訴えに対して「あなたは地獄を見てきましたね。」と労ってくれた。このころは、飼い犬が心配して原告大泉恵子の枕元を離れなかった。その後も、会社に行こうとしても辛くて、足が向かない状態が続いている。
 原告大泉恵子は、2000年(平成12年)4月1日に東海村の願船寺で行われた阪南中央病院の村田医師の講演を聞いた。そのとき、自分の症状が原爆症や原発ぶらぶら病の症状と似ていることに気づいた。
 原告大泉恵子は、2000年(平成12年)4月21日回春荘病院精神科木下和明医師に「うつ状態」という診断書を作成してもらった。
 2000年(平成12年)5月には原告大泉恵子の体重は44キロ程度であった。
2000年(平成12年)11月ごろ、薬が変わり、薬が強くなって眠くなってしまうようになった。一時、薬物への依存を恐れて薬を飲まないこともあった。原告大泉恵子は「うつ病」と診断されて、2000年(平成12年)11月18日に回春荘病院に転院し、同病院に2001年(平成13年)1月10日まで入院加療した。
その後も同病院への通院が現在まで続いている。

(5)PTSDの診断
 原告大泉恵子は、2002年(平成14年)6月26日、東邦大学医学部付属大橋病院の高橋紳吾医師(精神科)の診察と詳細な問診を受け、「心的外傷後ストレス障害」との診断を受けた。その診断書において、「事故によってひきおこされたもので、事故の想起、回避症状(近くにいけないなど)、事故に関連する事柄を不意にきかされた際の身体のこわばり、事故以前に存在していなかった持続的覚醒亢進症状が現在に至るまで持続している。JCO事故との因果関係は明白である。」と説明されている。

(6)原告大泉恵子の健康被害と本件臨界事故の因果関係について
 原告大泉恵子は、本件臨界事故以前は下痢、うつ状態、うつ病、PTSDの症状はなく、本件臨界事故後にこれらの症状が発生したものである。そしてこれらの症状は本件臨界事故直後に発生して継続しているものである。
 原告大泉恵子は、本件臨界事故後の血液検査で、白血球数、リンパ球数に異常を生じており、その後も継続的にこれらの数値が正常範囲の基準値の上限を超える状態にあった。このことから、本件臨界事故による被曝によって原告大泉恵子の体に一定の影響が生じていることが推認できる。
 加えて、本件臨界事故は、世界の臨界事故史上でも核分裂数、継続時間等で見ても歴代3位の大事故であり、我が国の原子力史上(原水爆を除く、平和利用では)初めて死者を出すという大惨事であった。この事故の際に直近で被曝をした者が極度の恐怖感、不安を持ち、激しいストレスにさらされることは当然のことである。原告らは、本件臨界事故の関係者を除く民間人では最も近い部類に属する場所で被曝をした者であり、過小評価の疑いの強い科学技術庁事故調査対策本部の線量評価でさえ一般人の年間線量限度(1ミリシーベルト)を遙かに超え、白血病の労災認定基準である(従ってこれを超える線量を被曝した者に被曝後1年以上経過した後に骨髄性白血病又はリンパ性白血病が発症した場合に労災認定上業務起因性がある、すなわち放射線被曝との相当因果関係があると判断される基準である)年間5ミリシーベルトをさえ超える放射線を被曝した者である。後者について言葉を換えれば、原告らは、国の公式見解によってさえ、今後、今回の被曝により白血病に罹患しても不思議はないと言える量の放射線を被曝したのである。このことから考えれば、本件臨界事故及びそれによる放射線被曝によって原告大泉恵子が受けた精神的打撃、恐怖感、不安感ストレスが並大抵のものではなく、心身に変調を来すほどのものであったことは容易に理解できるものである。
 以上の点から、原告大泉恵子に生じた健康被害は、その寄与度については判断が容易でないものの、被曝による健康への直接的影響と、事故によって受けた精神的打撃による影響とが相まって生じたものであり、いずれにしても本件臨界事故によって生じたものというべきである。

 2 原告大泉昭一
(1)原告大泉らの事業
 原告大泉昭一は、自動車部品の組立製造業に従事してきた。大泉工業は夫婦2人とアルバイト1名程度の家内工業であったが、1988年(昭和63年)に東海工場を建てて設備を整え、臨界事故が起こるまでは確かな技術力を評価され、確実な利益を上げていた。

(2)皮膚の既往症等
 原告大泉昭一は、以前から、皮膚は弱く、医者からは後天性紅皮症候群で、原因は不明であり、治療法もわからない病気だと言われていた。しかし、本件臨界事故以前は、日立製作所多賀総合病院の皮膚科に通って、付け薬だけもらっていれば、それほど大きな生活上の支障にはなっていなかった。原告大泉昭一は、本件臨界事故以前から通院はしていたが、それは病院の方が薬が安いということもあり、薬をもらうための通院であった。
 また、原告大泉昭一は、従前より血糖値が高めであることは健康診断等で指摘されていたが、本件臨界事故以前は、治療を要するほどではなかった。

(3)被曝の事実
 科学技術庁の事故調査対策本部による「行動調査等に基づく線量の推定について」によると、原告大泉昭一は6.5ミリシーベルトの被曝をしたとされている。しかし、この線量評価は過小評価であり、阪南中央病院「東海臨界事故 被曝線量・健康実態調査委員会」によると、約43.6ミリシーベルトの被曝をしたとされており、この評価の方が正しいと考えられる。
 いずれにしても、原告が一般人の年間被曝限度である1ミリシーベルトを大幅に上回る放射線に非常に短時間の内に被曝したことは明らかである。

(4)事故の直後からの症状悪化
 本件臨界事故後、原告大泉昭一の皮膚の症状が極度に悪化した。病状が悪化したのは、1999年(平成11年)10月8日のことである。それまで、特に問題はなかったのに、同年10月8日に草を刈った直後から悪化し、皮膚が水膨れのようになってしまって包帯を巻くようになり、包帯がなかなか取れなくなった。今も、原告大泉昭一は、冬の間は包帯をはずせない。最近は顔まで、症状がでて来るようになり、症状はなお悪化している。
 このような症状の悪化と放射線被曝には何らかの因果関係があるかもしれない。また、妻から事業への協力を得られないこと、妻が家事もできなくなったことによるストレスは確実に関係していると考えられる。
 もともと、妻である原告大泉恵子は働き者で仕事も良くやっていた。会社での働きも組立が早くて正確であり、人一倍の労働能力であった。原告大泉昭一だけでは帳簿を付けることも難しい状態であった。したがって、妻が働けなくなると言うことは原告らの事業に多大な困難をもたらした。
 妻である原告大泉恵子が2000年(平成12年)11月から2001年(平成13年)1月まで回春荘病院に入院していた間に、原告大泉昭一は自宅で脱水症状を来たし、吐いて、多賀総合病院で点滴してもらったこともある。
 また、事故直後から大勢のマスコミが大泉の工場に押し寄せてきた。大泉の工場が被告JCOのすぐとなりで広い駐車場があり、現場付近で、車が止められる唯一の場所だったためである。工場にマスコミが詰めかけて仕事にならないことが続き、これも原告大泉昭一に大きなストレスを与えた。

(5) 事業の廃業
 原告大泉昭一・恵子の体調の不良によって、事業がうまくはかどらず、大泉工業は、1999年(平成11年)11月1日に矢田一男を雇用した。毎月、21万9250円の給与を支払ったが、これは、原告大泉恵子が働けず、原告大泉昭一も十分には働けないからであった。
 原告大泉昭一は2001年(平成13年)2月からこの皮膚の病気が極度に悪化し、皮膚が赤くなるだけでなくかゆみが止まらず膿を持つようになったため、同年2月19日に多賀総合病院に入院し、患部の凍結治療をすることとなった。この入院が最終的な会社の休業の原因となり、同年2月20日、大泉工業は事業を休止し、事実上廃業するに至った。原告大泉昭一の入院は同年6月30日まで続いた。
 原告大泉昭一は、現在では2002年(平成14年)4月1日から糖尿病で多賀総合病院に入院している。同人の糖尿病は皮膚の病気の後に発症したものである。以前には発症していなかった。この皮膚の病気と糖尿病との関係は明確ではないが、原告大泉昭一は皮膚の病気の治療ために継続的に用いられたステロイド剤などの強い薬物による合併症ではないかと疑っている。

(6)原告大泉昭一の健康被害と本件臨界事故の因果関係について
 原告大泉昭一は、本件臨界事故以前から皮膚病の既往症があり、血糖値も高めであったが、本件臨界事故以前は皮膚病の症状は軽く、血糖値についても治療を要するほどではなかった。本件臨界事故後にこれらの症状が増悪し、皮膚病が重くなり、糖尿病を発症したものである。
 原告大泉昭一においても、本件臨界事故後の血液検査で、白血球数に異常を生じており、本件臨界事故による被曝によって原告大泉昭一の体にも一定の影響が生じている可能性がある。
 加えて、前述したように本件臨界事故は、世界の臨界事故史上でも核分裂数、継続時間等で見ても歴代3位の大事故であり、我が国の原子力史上(原水爆を除く、平和利用では)初めて死者を出すという大惨事であった。この事故の際に直近で被曝をした者が極度の恐怖感、不安を持ち、激しいストレスにさらされることは当然のことである。原告らは、本件臨界事故の関係者を除く民間人では最も近い部類に属する場所で被曝をした者であり、過小評価の疑いの強い科学技術庁事故調査対策本部の線量評価でさえ一般人の年間線量限度(1ミリシーベルト)を遙かに超え、白血病の労災認定基準である(従ってこれを超える線量を被曝した者に被曝後1年以上した後に骨髄性白血病又はリンパ性白血病が発症した場合に労災認定上業務起因性がある、すなわち放射線被曝との相当因果関係があると判断される基準である)年間5ミリシーベルトをさえ超える放射線を被曝した者である。後者について言葉を換えれば、原告らは、国の公式見解によってさえ、今後、今回の被曝により白血病に罹患しても不思議はないと言える量の放射線を被曝したのである。しかも原告大泉昭一は、本件臨界事故後妻である原告大泉恵子が仕事も家事もできずに寝込み、さらには入院するというという事態にも遭遇した。このことから考えれば、本件臨界事故によって原告大泉昭一が受けた精神的打撃、恐怖感、不安感ストレスが並大抵のものではなく、心身に変調を来すほどのものであったとしても何の不思議もない。
 以上の点から、原告大泉昭一に生じた健康被害は、その寄与度については判断が容易でないものの、被曝による健康への直接的影響と、事故によって受けた精神的打撃による影響と、さらには妻である原告大泉恵子の被害から受けた精神的打撃による影響とが相まって生じたものであり、いずれにしても本件臨界事故によって生じたものというべきである。

第6 原告らの損害
 1 原告大泉恵子      合計4619万7379円
(1)治療費 47万4587円
原告大泉恵子は以上の疾病の治療のために47万4587円を要した。

(2)休業損害
 原告大泉恵子は、本件臨界事故後、臨界事故直後には発症した下痢、その後もうつ状態、うつ病、PTSDのために、勤務場所であった大泉工業東海工場に出勤することができず、事故後はほとんど全面的に休業せざるを得なかった。
 原告大泉恵子の症状は、高橋医師の診断を受けた2002年(平成14年)6月26日の時点では症状が固定したものと考えられるので、休業損害としては臨界事故後症状固定の日までの休業損害を算定する。
 原告恵子の収入は、本件臨界事故以前の3年間を通じて
   1996年(平成8年)  282万円
   1997年(平成9年)  282万円
   1998年(平成10年) 282万円
である。この額はこのような規模の家内工業の常として、会社の経費分に自家消費分が加算されていたり、収入として加算されるべき部分に会社利益額が加算されていたりして、過小なものである。
 しかし、この金額を基礎として、1999年(平成11年)9月30日から2002年(平成14年)6月26日までの休業損害を算定すれば772万6027円となる。

(3)逸失利益
 原告大泉恵子は、現在も、うつ病、PTSDに罹患しており、原告大泉恵子の疾患については、高橋医師の診断を受けた2002年(平成14年)6月26日の時点では症状が固定したものと考えられる。
 そこで、症状固定後稼働可能期間の労働能力喪失による逸失利益を算定する。
 原告大泉恵子は、1939年(昭和14年)9月16日生まれであるから、症状固定時の原告大泉恵子の年齢は62歳であり、平均余命(平成12年簡易生命表によれば62歳女性の平均余命は25.07年)の半分に該当する12年間の期間は稼働可能であったと考えられる。これに対応するライプニッツ係数は8.8632である。
 原告大泉恵子が罹患しているうつ病及びPTSDの後遺症は後遺障害等級第5級第2号と評価する余地もあるが、ここでは後遺障害等級第7級第4号として労働能力喪失割合を56パーセントとすると、前記原告大泉恵子の臨界事故以前の年収282万円を基礎として12年間の逸失利益を計算すると1399万6765円となる。
 
(4)慰謝料 金2000万円
 原告大泉恵子は、本件臨界事故により生じた下痢、うつ状態、うつ病、PTSD等の健康被害により、これまでに2回合計3ヶ月弱の期間入院し、臨界事故直後から現在まで通院を余儀なくされている。
 加えて、原告大泉恵子は、現在なおうつ病及びPTSDに罹患しており、これらの疾患については後遺症となっている。
 そして原告大泉恵子は、この事故で一般人の被曝限度を大幅に上回り、前述したように国の基準でさえ、今後白血病を発症しても不思議のない年間5ミリシーベルトをさえ超える放射線被曝を受けた。この被曝自体によって原告大泉恵子は大きな恐怖を感じ、将来ガンなどの病気を発症するのではないかという不安を強く感じている。
 原告大泉恵子は人一倍働き者で、家庭を支え、夫の事業を支えることを生き甲斐としてきた。原告に発症したうつ病とPTSDにより原告大泉恵子は家庭を支えることも夫の事業を支えることもできなくなり、夫は病状が悪化し、大泉工業は廃業に追い込まれた。
 これらの精神的な苦痛を金銭に評価することは困難であるが、原告大泉恵子が本件臨界事故及び本件臨界事故に起因する健康被害により受けた精神的損害を慰謝するのに相当な慰謝料額は金2000万円を下らない。
 この金額は、交通事故の慰謝料基準に照らしても、入院3ヶ月通院32ヶ月に相当する入通院慰謝料が276万円、後遺障害等級第7級に相当する後遺症慰謝料が1000万円(第5級の場合は1400万円)とされていること、交通事故の損害賠償基準は高速度交通機関が社会的に有用不可欠でありまた交通事故は加害者と被害者が相互に入れ替わりうる性質のものであることを考慮して定められているものであることから、交通事故と異なる事故については、特に慰謝料についてはそのまま当てはまらず、悪質な加害行為に対しては慰謝料額が交通事故基準より加重されること(例えば、オウム真理教による犯罪については、破産宣告においても交通事故基準の慰謝料額の1.5倍を下ることはないとされ(東京地裁平成8年3月28日決定、判例時報1558号3頁)、実際の破産手続では交通事故基準の2倍の慰謝料が認められている)からすれば、むしろ控えめなものというべきである。

(5)弁護士費用 400万円
 原告大泉恵子は本件の事件の弁護を原告ら代理人弁護士に依頼した。右弁護に要する費用のうち、被告らに負担させるのが相当な費用は少なくとも金400万円を下らない。

 2 原告大泉昭一      合計 1142万5350円
(1)治療費 42万5350円
原告大泉昭一は前述の疾病の治療のために42万5350円を要した。

(2)慰謝料 金1000万円
 原告大泉昭一は、この事故で一般人の被曝限度を大幅に上回り、前述したように国の基準でさえ、今後白血病を発症しても不思議のない年間5ミリシーベルトをさえ超える放射線被曝を受けた。この被曝自体によって原告大泉昭一は大きな恐怖を感じ、将来ガンなどの病気を発症するのではないかという不安を強く感じている。
 そして原告大泉昭一は、本件臨界事故とこれに続く妻の心身の症状の悪化により、自身の皮膚病を悪化させた。さらに、自身の事業の主要な働き手である妻が、このような症状によって働けなくなり、自らの身体症状の悪化も伴い、会社は廃業せざるを得なくなり、生計の途を失った。
 このような自らの皮膚症状の悪化と糖尿病の発症、妻の病気による近親者としての苦痛、会社の廃業という各事実は、原告大泉昭一に大きな精神的苦痛を与えた。
 加えて、原告大泉昭一は、事故によると思われる健康の異常を訴える地域の人々、自らと家族・子どもたちの今後の健康を憂慮する地域の人々とともに「臨界事故被害者の会」を結成して、その会長に就任し、臨界事故の被害を訴え、被告JCOに健康被害に関する補償を求めて交渉を重ねてきた。
 ところが、被告JCOは、大泉工業の会社としての風評被害については、賠償責任を認めたものの、原告ら住民の被曝による慰謝料の賠償請求、事故を原因とする健康被害に基づく請求については、一切存在しないものとして交渉に応じず、また、健康被害に関する請求を放棄しなければ会社の被害についても賠償しないという理不尽な態度をとって、原告大泉昭一の精神的な苦痛を倍加させた。
 これらの精神的な苦痛を金銭的に評価することは困難であるが、金1000万円を下回ることはない。 

(3)弁護士費用 100万円
 原告大泉昭一は本件の事件の弁護を原告ら代理人弁護士に依頼した。右弁護に要する費用のうち、被告らに負担させるのが相当な費用は少なくとも金100万円を下らない。

第7 被告らの責任
 1 被告JCOの責任
 本件加害行為は、被告JCOの犯罪ともいうべき(現に犯罪として刑事訴追されている)組織的な違法操業の一部として行われたものであり、被告JCO自体の組織的行為として、被告JCOは、本来、民法第709条により、原告らに生じた損害を賠償する責任を負うというべきである。
 少なくとも、本件加害行為そのもの及び本件加害行為の背景となった一連の違法操業はいずれも、被告JCOの従業員らにより、被告JCOの事業の執行につき行われたことが明らかであるから、被告JCOは民法第715条により、原告らに生じた損害を賠償する責任を負う。

 2 被告住友金属鉱山の責任
(1)事故に対する直接的責任
 被告住友金属鉱山は、中性子線遮蔽効果がほとんどないという欠陥を持つ転換試験棟の建設を行い、これを自己の施設であるウラン試験棟を経由しなければ作業員の出入りもできないという欠陥を持つ形で被告JCOに譲渡し、欠陥を持つ技術(溶媒抽出法が海外企業との競争力を持たなかったことが被告JCOのリストラを余儀なくして熟練作業員を減らし、そもそも湿式の精製法をとっていたことが溶液製品の製造につながり臨界事故につながった)を引き継がせ、欠陥のある人材(平然と違法行為を行う人材)を引き継がせて違法操業を行わせて遵法意識を希薄化させて臨界事故の素地を作り、数少ない転換試験棟の熟練作業員であった長谷勝典を呼び戻して転換試験棟の作業員を溶液製造の未経験者だけにして臨界事故の発生に少なからぬ影響を与えた。
 上記の被告住友金属鉱山の一連の行為は、臨界事故に対し相当因果関係があるというべきであり、被告住友金属鉱山は民法第709条又は民法第715条により、原告らに生じた損害を賠償する責任があるというべきである。

(2)親会社としての責任
 被告JCOは被告住友金属鉱山の100%子会社であり、のみならず、その設立自体被告住友金属鉱山の核燃料再転換事業の分社化が目的であり、被告住友金属鉱山の事業の一部というべきである。
 そして被告JCOの幹部はすべて被告住友金属鉱山からの出向者により占められている。被告JCOの現在の代表取締役である稲見智之は被告住友金属鉱山の取締役であったものであり、被告JCOの代表取締役就任後も2001年(平成13年)6月28日まで1年間余り被告住友金属鉱山の取締役と兼任していた。被告JCOの前代表取締役であり臨界事故時の代表取締役であった木谷宏治も被告JCOの代表取締役に就任するまで被告住友金属鉱山の取締役であった。木谷の前の被告JCOの代表取締役であった高木俊毅に至っては実に被告JCOの代表取締役と被告住友金属鉱山の代表取締役を兼任していた。本件加害行為の関係者もほとんどが被告住友金属鉱山からの出向者である。そして被告JCOの過去の違法操業に携わった者の多くは、再度被告住友金属鉱山に戻っているのであり、違法操業も被告住友金属鉱山から出向し、被告住友金属鉱山に戻る者達が行ったことである。
 被告JCOの人事と事業は、実質的には、被告住友金属鉱山のコントロール下にあるのであり、違法操業も本件加害行為も、実質的には被告住友金属鉱山の従業員と評価できる者が、実質的には被告住友金属鉱山の事業と評価できる事業の執行につき行ったものである。
 よって、その実態を直視すれば、被告住友金属鉱山は、民法第715条ないしその類推適用により、原告らに生じた損害を賠償する責任を負うというべきである。

(3)債務引受による責任
 被告住友金属鉱山は、本件加害行為の後、前述の当時の代表取締役社長青柳守城の1999年(平成11年)10月1日の記者会見での発言、当時の代表取締役専務須藤晃一の1999年(平成11年)10月5日の記者会見での発言をはじめ、臨界事故による損害の賠償については被告住友金属鉱山が責任を持つ旨明言してきた。
 これは、被告JCOの損害賠償責任について債務引受もしくは保証をする意思表示である。よって被告住友金属鉱山は、自らの意思表示に基づき、債務引受または保証を行ったことにより、被告JCOと同じ責任を負う

 3 原子力損害賠償法の適用について
 原告らの損害は、臨界事故による被曝と被曝した事実による恐怖感、不安感、ストレス等の通常人が被曝の事実により当然に持つ精神的影響とが相まって健康に影響し、症状として現れたことによるものである。
 原子力損害賠償法にいう原子力損害は「核燃料物質の原子核分裂の過程の作用又は核燃料物質等の放射線の作用若しくは毒性的作用(これらを摂取し、又は吸入することにより人体に中毒及びその続発症を及ぼすものをいう。)により生じた損害をいう。」とされている(原子力損害賠償法第2条第2項)。放射線被曝により直接的に生じる急性放射線障害がこれに該当することは明らかであるが、放射線被曝と精神的影響とが相まって生じる健康障害がこれに該当するとは明確には読めない。仮にこのような健康障害を原子力損害に含めるとすれば、放射線被曝による寄与度がどの水準のものまで含まれるのかも判断に苦しむこととなる。
 原告らは、放射線被曝と精神的影響が相まって生じた健康障害については、原則として原子力損害賠償法の原子力損害には該当しないものと考え、主位的には民法上の不法行為に基づき、念のために予備的に原子力損害賠償法に基づき、損害賠償を請求することとする。

第8 まとめ
 よって原告らは、被告らに対し、主位的には不法行為による損害賠償請求権に基づき、予備的に原子力損害の賠償に関する法律に基づき、損害の賠償及びこれらに対する不法行為の日である1999年(平成11年)9月30日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

証 拠 方 法

 被告らの認否により、争いのある部分について、口頭弁論期日において提出する。

添 付 書 類

 1 資格証明書                         2通
 2 訴訟委任状                         4通  


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