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私たちの訴えと取組み

キューバを知る会通信第四号より

 「キューバを知る会」は、今とても注目されているキューバを知りたい!資本主義的大量消費でない「持続可能な社会」に挑戦し、医療福祉教育が手厚い社会主義国キューバの本当の姿を知り、みんなに伝えたいという人たちが呼びかけてできた会です。
いよいよキューバツアーに出発!!
(3月25日~3月31日)
 かねてから計画していたキューバツアーが、原油急騰、チャージ料高騰などの諸困難を乗り越え、紆余曲折のもと、やっと実現の運びとなりました。来る3月25日に伊丹空港を出発し、成田空港を経て、メキシコ経由で、キューバのホセ・マルテイ空港に3月26日の昼(日本時間)に到着予定です。4日間の滞在計画です。ツアー会社の尽力で、観光地だけでなく、診療所や医学校、日系人経営の農園、老人の家等々も見学できるようです。
 今年はキューバ革命50周年にあたります。この記念すべき年にキューバに行けるのは、当会としても非常に喜んでいます。無事な帰国と、たくさんの記念写真と、お土産話を心待ちにしましょう。
第4回「キューバを知るつどい」を開催(2/12)

DVD鑑賞で「チェ・ゲバラの生涯」を学ぶ。

 去る2月12日に「第4回キューバを知る集い」を行いました。NHK教育テレビ「知るを楽しむ」という連続講座の中の「私のこだわり人物伝 チェ・ゲバラ革命への旅」と題する、4回シリーズのうちの2回分のDVDを見ました。行動する作家、戸井十月さんによる、チェ・ゲバラの生涯を解説したものです。チェの革命的でピュアな精神の一端にふれることができました。チェの年表や、「チェ・ゲバラを讃える曲」(アスタ・シエンプレ)の紹介もありました。以下は、集いのあとで出された参加者の感想の要約と投稿です。
  ★講師紹介     戸井十月(といじゅうがつ)
 1948.10.12東京生れ。10月生まれなので、十月(ジュウガツ)と名づけられたそうです??両親は人形劇団「プーク」で活動。絵描きに転向した父親の影響で、画家を目指して武蔵野美術大学に入学。全共闘運動に参加。大学に失望し、中退。その後「ベ平連」にかかわり、イラストレーター,フリーライター、TV司会等を経て、作家、映画監督、映像デイレクター等々に。暴走族の取材をきっかけに、バイクにはまる。1997年からバイクでの5大陸走破行を開始。すでに4大陸を走破。世界をバイクで走り回る、行動的作家としてかなり有名。主な著書に、キューバに関するものでは「チェ・ゲバラ遙かなる旅」「カストロ・銅像なき権力者」「遙かなるゲバラの大地」がある。その他にも「植木等伝 わかっちゃいるけど、やめられない!」などがある。今年の1月には「ゲバラ最後の時」を出版。画家である父親は、「秩父事件」の調査・研究でも有名な戸井昌造氏(1923生)。母の妹の夫に、俳優の西村晃氏(水戸黄門役)がおられる。

 感想         
・ 初めてゲバラを知った。心に残るものがあった。2つの映画を見てみたいと思った。

・ 映画を見たが、真実に基づいて淡々と描かれている。「39歳別れの手紙」はしんどい映画だと聞いていたので、行くのをどうしようかなと思っていたが、見に行って、ゲバラのことを聞けば聞くほど、すごい人だと思った。自分の信念を貫くのがすごい。
チェの遺骨は、最後、サンタクララの像の下に納骨されている。博物館になっている。

・ チェが死んだときの顔が一番印象に残っている。絶対目を閉じず、あくまで端正な  顔立ちを見ると、「キリストの様に見える」という地元住民の気もちがなんとなく分  かる。死んでもピュアな姿を残した。ピュアすぎて政治家にはなれなかったが、今の  時代にはピュアだからもてはやされる。私もそのようなところを学び、ピュアであり  たい。ジョン・レノンが「世界で一番かっこいい男だ」と言ったが、その通りだ。

・ 2本の映画を見に行ったが、若い人から中高年の人までも見にきていた。「28歳」  の方は、時代が行き来し、ナレーターもないので、若い人は事前に知識がないとしん  どかったかなと思う。映画より本物の方がやっぱりかっこいいと思った。

・ キューバの革命が成功して、順風漫歩の人だと思っていたが、コンゴで失敗、ボリ  ビアで処刑される人生、人間性の深さを感じた。

・ 死に顔がきれいだと思った。コンゴで何故失敗したのか?移民だから受け入れられ  ず、難しかったのかと思った。

・ 映画は2本とも見に行った。「39歳別れの手紙」は、しんどい場面が多い、何故こ  んなにがんばってやれるのか、すごいと思った。変装してボリビアに入ったが、チェ  とは気づかなかった。つかまってタバコを吸わせてもらう時、まだ「外に出させてく  れ」と頼んでいる、最後まであきらめないのがすごいと思った。

・ 映画を2本とも見た。「28歳」の方は良かったが、「39歳別れの手紙」は、農民に  裏切られうまくいかない、しんどい場面が多い。
チェ・ゲバラのことは、名前は知っていたが詳しく知らなかった。もっと知りたいと思った。

・ 映画は2つとも見て良かった。チェが、あんなにしんどい中、なぜゲリラ活動を続  けるのか?と考えさせられた。何故、チェがキューバを出たのか?カストロはキュー  バ人、チェはアルゼンチン人だからか?ラテンアメリカ全体を考えてのことか?チェ  の活動はカストロも支援していた。

・ 自分自身も28歳である。考え方、時代背景、思想とか関係するのだと思うが、チェ  は自分の信念を持って生きているのがすごい、尊敬する。何故そんなに行動できるの  か、理解しがたい。今の自分にはわからないので、映画とかテレビとかでもっと知り  たいと思った。

・ 若者が、チェ・ゲバラの名前は知っていても、具体的に何をした人なのか知らない。  もっと知って欲しい。

・ 一回目の映画を見て喘息なのにタバコ吸いすぎ、と思ったのですが、戸井さんが葉巻を吸いながら説明してくれたように、密林で虫除けのために吸ってたんですね。あの髭にも虫除けの意味があったと知ると、あのイケメン具合もさらに増します。また民衆の支持を得るため、ラジオを自作し、放送を始めたり、キャンプの拠点には学校から発電機まで揃っていたことなど、その知恵と行動力には関心しました。
 キューバ革命を成功させた後、次の革命を目指しアフリカに向かったゲバラは最終的にそれを断念しました。言葉の壁などがあったと思いますが、現地住民の意識など、なぜうまくいかなかったのかと、その時のゲバラの気持ちをもう少し詳しく知りたかったです。
 ボリビアで処刑されるときも逃げる手段を考えていましたが、最後まであきらめないというのが重要だと思いました。(私だったら最後は疲れて、おとなしく処刑されている気がします(笑))
 キューバに行く皆さん、現地を楽しんで、たくさん見てきてください。

(キューバを知る会通信第4号  2009.3.11.より)

チェ・ゲバラの革命的でピュアな生き様
(1928~1967)

2歳で重い喘息に
1928年、ゲバラは5人兄弟の長男として、アルゼンチンの裕福な家庭に生まれた。建築技師であった父はいろんな事業に手をだし、家計は不安定だった。両親ともラデイカルな思想の持ち主であり、家は本であふれ、兄弟はみな冒険心に富み、知識欲にあふれた人間に成長した。ゲバラは2歳のときに重い喘息を発症した。この病気が一生付きまとった。
少年時代のゲバラは喘息にもかかわらず、ラグビーなどスポーツに熱中した。だが冷たい水は嫌った。喘息の発作がおきるからだ。生涯、極度に風呂とシャワーを避けたのは、これが理由である。チェスの名手でもあった。文学好きの母の影響もあり、読書にも熱中した。ボードレールがお気に入りだった。喘息を自分で克服しようと、強じんな努力を重ね、並外れた意志力と目的意識が自然に身についた。喘息発作で、登校できない期間が長くあったが、成績は優秀で、学生の間では知識の広さは群を抜いていた。数学と考古学が得意であった。
1946年、ブエノスアイレス大学に入学した。1年次では工学を学んだが、2年次で医学に転じた。相変わらず冒険心は旺盛で、1950年、原付自転車でアルゼンチン3000マイルの旅に出た。

放浪の旅に出発
1951年、大学を1年休学し、友人のアルベルト・グラナダと、ほとんど金も計画も持たず、バイク「ポデローサ2号」(500cc)で南米の気ままな旅に出た。途中でバイクが故障したので、ヒッチハイクをした。この旅は、ほとんど詐欺まがいの、自由奔放な旅だったが、その後のゲバラの人生を大きく左右するものとなった。チリでは、銅山で働く労働者、特にインデイオが不当な扱いを受け、搾取され、悲惨そのものである現状に強い衝撃を受けた。共産主義者のチリ人労働者と友達になった。ペルーでは、学生でありながら臨床医として、ハンセン氏病療養所で働き、インデイオたちと交流を深めた。次に渡ったコロンビアは内戦で疲弊していた。ブラジルを経て、ベネズエラに到着した。ここで旅は終わる。(詳しくは映画、「モーターサイクル・ダイアリーズ」を見よう!)。友人アルベルトは初志貫徹で、ここでハンセン病院に職を得、ゲバラは医学部卒業試験のため、ブエノスアイレスに戻った。残っていた12科目の必修単位を取得し、「アレルギー疾患について」の論文を発表、1953年晴れて医師の資格を得た。

医師から革命の戦士に
当時のアルゼンチは独裁政権で、ゲバラは軍医強制徴募を避けるために、再びラテンアメリア再訪の旅に出た。祖国からの脱出であった(1953.7)。ちょうどこのときキューバでは、カストロ率いる革命的学生グループがモンカダ兵舎を襲撃した。これは失敗し、メンバー113人のうち61人が殺され、リーダのカストロと弟のラウル(現在のキューバ首相)は投獄された。ゲバラはボリビア、ペルーと旅し、グアテマラに向かった。グアテマラで、ペルー人の亡命女性活動家、アメリカ革命人民同盟(APRA)のイルダと出会い、恋におちいった。イルダはロシア革命に精通しており、レーニン、トロツキー、毛沢東についてのゲバラの教師であった。グアテマラでは、アメリカの反革命干渉に抵抗してゲバラは抵抗軍に身を投じたが、追われる身となり、イルダとともにメキシコに逃亡した。そこで二人は結婚し、娘イルデイタが誕生した。(イルダは1970年はじめに、娘イルデイタは1995年、父親と同じ39歳で亡くなった。)イルダはゲバラに革命家になるように薦め、キューバ人亡命革命家たちと引き合わせた。そのリーダがカストロである。1955年7月、二人は出会い、10時間話し合った。その瞬間から医師ゲバラは革命の戦士になった。

キューバ革命成功
 メキシコシテイー郊外の農場で、ゲリラ軍としての軍事訓練(行軍、登山、個人戦、射撃、ゲリラ戦理論等)が始まった。しかし、メキシコ警察に動きをつかまれ、30人が逮捕された。カストロは1週間、ゲバラは57日間投獄された。容疑不十分で釈放されたゲリラ軍兵士達には、計画が察知された以上一刻の猶予もなかった。おんぼろヨット「グランマ号」に82人(8人乗りで上限25人)を乗せて、キューバに向けてメキシコを出航した。嵐のため7日間かけてやっとの思いでキューバに上陸(座礁)した。しかし待ち構えていたバチスタ政府軍に銃撃を受け、多くが亡くなった。かろうじて生き延びた12名はシエラ・マエストラ山中(反バチスタの農民5万人が暮らし、ゲリラ活動には最適の場所)にこもり、新たなゲリラ戦の準備をした。ゲバラは山中で農民とともに生活し、夜には読み書き教室を開き、医療や歯の治療にあたった。彼の評判は瞬く間に広がった。新聞「自由キューバ」を発行し、ラジオ放送局を開局して、政府軍の「ゲリラ兵は一掃した」という嘘の情報を粉砕した。地元の農民がゲリラ軍に次々に加わり、各地で局地的なゲリラ戦を開始した。1年半がたち、ゲリラ軍の組織も固まり、攻勢に転じた。1958年、ついにエル・イグエで決定的勝利をおさめた。ゲバラは司令官(コマンダンテ)に任命され、革命の指導者の一人となった。政府軍は空軍と海軍も出動させたが、何千という農民が次々に革命軍に加わり、ついに1959年1月1日、ゲリラ軍はサンタクララを占拠し、1月3日にはハバナを占拠した。政府軍は総崩れになった。ついに革命が成功した。

革命後のゲバラ
 革命後、改革は急ピッチで進められた。ゲバラは最初の数ヶ月間は、農地改革のための計画に没頭した。6月には無初任大使として、3ケ月間で12か国を歴訪した。日本も訪問し、東京都知事、外務大臣、通産大臣と会談、トヨタ自動車工場を見学した。当時の通産大臣・池田隼人はわずか15分間だけ時間をさき、「日本と通称協定を結びたかったら、まず日本の繊維製品を買え!」という居丈高な対応をした。秘密裏に広島の原爆資料館も見学した。帰国すると農業改革における工業化の責任者になった。がむしゃらに働いた。午前4時まで働いた(1日2~3時間の睡眠)ので、周りが「午前1時までにしよう」と提案する有様であった。日曜もボランテイアで働いた。(写真はサトウキビ畑で働くゲバラ)大農園を解体し、国営農場を造り、砂糖とタバコ農園を国有化した。かつてキューバの公益事業を全面的に支配し、利権をほしいままにしてきたアメリカは激怒した。CIAは亡命者を操り、カストロ暗殺を含め、新政権の転覆を図った。米大統領ケネデイは1960年、1500人の亡命キューバ人を送り込んだが、国家転覆に失敗した。米に変わり、新たにソ連が砂糖の輸入国になった。60年、ソ連との間に「貿易援助協定」が結ばれた。ゲバラは11月には国立銀行総裁に就任した。61年には工業相に、62年にはキューバ統一革命組織幹部会メンバーを歴任した。その間、イルダとは離婚し、革命軍の若き戦士(看護師)であり、秘書であったアレイダと再婚し、4人の子供をもうけた。62年、ケネデイは国交断絶に踏み切った。アメリカのキューバ侵攻に危機感をもったカストロは軍事面でもソ連との関係を強化した。ついに核戦争の一歩手前の「キューバ危機」にまで発展した。危機は回避されたが、キューバ抜きのフルシチョフとケネデイの秘密合意にゲバラは激怒した。

カストロに宛てた「別れの手紙」
 工業相としてのゲバラの厳格な労働者の管理、几帳面な性格と尊大な語り口、カストロとの特別な関係、人間的社会主義の主張、ソ連批判、献身的な「自主的労働」の提案等々、ゲバラを慕うが、ゲバラの革命思想と行動についていけない勢力が政府の中に生まれた。事実上、ゲバラは内政からは締め出された。再びキューバを代表して3ケ月の外遊に出た。だがアルジエリアでついにゲバラは公然とソ連を批判した。「ソ連は・・帝国主義的搾取の共犯者である・・」。ソ連はカストロに、ゲバラを指導部から追放しなければ援助は削減すると脅した。帰国したゲバラは丸2日間カストロと話しこんだ。しばらくしてゲバラはキューバから消息を絶った。10月3日、キューバ共産党第一回大会でカストロはゲバラからの「別れの手紙」を読み上げた。

再び戦場へ
 65年4月、キューバを去ったゲバラは、新たなゲリラ戦を求めて、200名の黒人キューバ人とともにコンゴのジャングルに入った。しかし、そこでは完膚なきまでに惨敗した。(このあたりのことは映画を見てください。)チェコのプラハに4ケ月滞在した後、変装して秘密裏にいったんキューバに戻った。カストロと相談した結果、新たにボリビアに向かうことにした。カストロが送り込んだ秘密工作員とともに、ゲリラ基地を作り、首都にも地下組織を作った。新たなゲリラ戦が開始された。だが、そこの農民はキューバほど窮乏していなかった。むしろ炭鉱労働者こそが窮乏していた。ボリビア共産党の支援も得られなかった。67年、野営していたゲバラら17人は政府軍6個小隊に包囲され、ゲバラは捕まり、翌日小学校の教室で銃殺された。                   



 (公開された遺体)

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