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ストレスとつきあう
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東京女子医科大学ゲノム診療科
公認心理師・臨床心理士・認定遺伝カウンセラー
CMCC公開講座講師 浦 野 真 理 |
2023年秋の第U期講座の終わりにこの機関誌の巻頭言のご依頼
をいただきました。何を書こうかと考えていた2024年の始まりは元日の能登半島地震、2日に日本航空の旅客機と海上保安庁の航空機と
の衝突事故という痛ましい連日の出来事となりました。被災者の方やご遺族が慰められますよう心からお祈りいたします。このような
ストレスフルな出来事があると、私たちの心は平穏ではいられなくなります。連日流される映像に心を痛め、何もできない自分を責め
るような感情も浮かびます。神様はなぜこのような試練を我々にお与えになるのかと問いかけたくなることもあるでしょう。
危機的な状況は人々の心に様々な影響を及ぼします。そこで、心理学の見地からストレスについて書いてみようという思いに至りました。
私たちが生きていく上で、このような危機的状況を経験することはまれではありません。
通常の生活の中でも、些細なことで心を痛め、苦しむことはよくあります。そのようなとき、ストレスに対応できる
スキルを誰もが持てることが大切であると考えています。ストレスに対応できにくくなったとき、他者に助けを求める前に、
自分自身を客観的に見つめることができれば、解決策が見つかるかもしれません。
そもそも人間にはストレス解消法が自然に備わっています。それは「睡眠」と「からだの反応」であると言われています。
睡眠の重要性は昔から知られていますが、最近ではアルツハイマー型認知症の原因であるアミロイドβと呼ばれる脳の老廃物が睡眠中に流されることがわかってきたため、睡眠の大切さが一層強調されるようになりました。私たち日本人は、世界的にも眠りが短い国民で、この50年でも平均睡眠時間が1時間以上短縮しているそうです。睡眠不足が続くと病気のリスクも上がりますし、意欲や記憶の低下、自律神経の不調も招きます。睡眠が短いにも関わらず、その意識が低いのも日本人だそうです。相談に来られるユーザーの中には、いろいろ考えて眠れなくなるなどの訴えをお持ちの方も多いと思います。相談を受ける私たちも上質な睡眠が取れるように心がけたいものです。
もう一つの「からだの反応」というのは、いわゆるストレス関連疾患に現れる反応です。消化器系の潰瘍、狭心症、湿疹、喘息
などの症状が挙げられます。自律神経系の乱れや免疫系の乱れが、ストレスを解消しようとサインを出している結果と考えられています。
そのような症状が出たら、休息を心がける必要があるでしょうし、長く続かないように早めに対応しなければなりません。
身体の不調を強く訴える場合には医療機関と繋がることも大切でしょう。
このようにストレスへの対応を考えることはとても重要だと思います。自分自身の体調を思い返すなど、自分のことに少し敏感でいることも必要になります。
一方で外的な環境から強いストレスを受けるのを意識することがあります。私がCMCCの講座を担当するように
なったこの10年のうちにも数々の社会的変化があり、ストレスに向き合わざるを得ないような状況が出現しました。
一番大きかったのは新型コロナ感染症によるパンデミックです。講座が中止になったのも昨日のことのようですが、
当時はこのまま通常の生活に戻れないのではないかと恐怖にも似た気持ちを感じたのを思い出します。
皆さんも同じように不安などを感じておられたと思いますが、未知の感染症が我々の行動や思考に及ぼす
影響はあまりにも大きいと身に染みました。誰の心にも感染症に罹ることへの不安や恐怖が生じましたし、その後は、
多くの情報に翻弄されました。正しい情報にアクセスできず、不安や焦燥感を募らせた方からの相談も増えたので
はないかと想像します。私の科を受診している患者さんやそのご家族も、行動制限などによって心身の調子を悪く
された方たちが続出しました。
では、なぜ悪い情報に囚われる思考が起きるのでしょうか。私たちの脳にはネガティブな情報ほど記憶に留める
働きがあります。これを心理学では「negativity
biasネガティビティ・バイアス」といいます。つまり人にはポジティブ
な情報よりもネガティブな情報に注意を向けやすく記憶にも留まりやすい働きが備わっているわけです。例えば感染症の
報道で「○曜日には過去最高の感染者」「〇県の感染者数は過去最高」などの情報を見たとします。実際のところ、
この報道だけでは、そもそも検査をしている全体の数がわからないため、患者さんが増えているかどうかは明確には
知り得ません。しかし、感染者数がどんどん増えて状況が悪化しているような感覚に陥ることがしばしば起こります。
これは前述したようにnegativity biasが働くからです。他にも、幼い頃に親に怒られた嫌な記憶や誰かにいじめられ
たなどの過去がなかなか払拭できないことがあります。それに比べ、楽しかった経験やうれしかった思い出は残りづら
くないでしょうか。人間の生存本能に基づいた反応とはいえ、その嫌な記憶に囚われ、一歩を踏み出せないことも
よく経験されることです。
嫌な記憶が残って困ったり、ネガティブな情報が留まって不安になったりしたとき、このような理論を理解すると、
自分自身で認知を修正して、事実を客観的に捉えることができるようになるかもしれません。危機的状況に敏感になることは
時には必要ですが、これが日常生活に影響がないようにしていくための工夫は非常に大切だと思います。自分一人でうまく
いかなくても、誰かに適切に助けを求めることができれば解決できると思います。
私たちは日々のストレスを受けますが、それに対応しながら生きています。ストレスを抱えきれない、
あるいは対応できないときに、誰かに相談しその糸口を見つけていく。現代はストレス社会と呼ばれて久しいですが、
家族以外にも寄り添い理解してくれる人、CMFの皆さんのような存在がますます必要になると感じています。
ストレスとうまくつきあう方法を考えながら、これからも講座を通じて、皆さんとユーザーである相談者の方の支援
になるように一緒に学んでいきたいと思っております。
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