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CMCCの現代社会における役割



登校拒否文化医学研究所 所長・臨床心理士
牧師・獣医師・CMCCスーパーヴァイザー

        
高 橋  良 臣

 私はCMCCの活動の中の一部、臨床心理関係で相談をしている。欧米諸国と違って、日本では心理相談をする習慣があまりない。

 そのような環境の中で、相談員の養成講座を開設し、キリスト教以外の人たちにも奉仕してきたことは、本来のキリスト教の精神そのものである。

  社会を見回すと心の支えを持たず、金銭や自分の名誉に走る人たちが増加しているように見える。私は自分が行っている心理相談についても、キリスト者の役割であると思って、公的機関の働きにも誠実に奉仕してきた。

 その結果だと思うが、知事表彰を受けて欲しいと言われた。お断りしたが、後の人が控えているから先に受けて欲しいと言われ、受けることにした。

 社会的な名誉を欲しがる人が多い中で、CMCCは神様のみ旨の通りに、苦悩する人々と無欲に触れ合ってきた。

 多くの人々は、キリスト教には好感を抱いている。好感は持つが、そこまでである。なぜかキリスト教を心の支えとはしない。キリスト教会の中には、人々に敷居が高いと思わせてしまうような教会もある。そのような教会がある中で、心の支援が実質的にできる組織がCMCCだと、私は確信している。

 私自身、妻を癌で神の国に送った経験がある。本来、妻を神の国に送ること自体は喜ばしいことであるが、罪人としての私の心の悲哀は、キリスト者ではない人々と大差ないくらいであった。

 キリスト者であり、信仰を持っていると思っていても、現実の世の中での出来事に遭遇すると狼狽(うろた)える。そのような時に、心に触れ合い、狼狽える私の気持ちを支えてくれる人が欲しかった。本来なら神様に頼るべきだが、罪人である私は、人を求めていた。

 そのような時に、CMCCの設立を知り、私は参加した。亡き妻が与えてくれた、千載一遇の機会であった。

 当時も私は、親とは一緒にいられない子供たちと生活を共にしていた。偶然かもしれないが、私がそのテレビ番組(徹子の部屋)に出演していたのを見ていたCMCCの発起人(牧師)から、声をかけられた。まさかCMCCの発起人の一人が昼間に放映された番組を見ていたとは思わず、私は自分の中に根強く残っていたキリスト教幻想を捨てることができたのである。

 新興宗教が政治的な背景をもとに勢力を伸ばしている現在、どのようにして、CMCCをはじめ正統派キリスト教会を、より多くの人々に知らせていくのか、大いに悩んでいる。CMCCの心理相談を担当していて、私は、かつて思春期外来を共にしてきた医師とは今でも連絡を取り合っている。その医師はキリスト者ではない。しかし人として信頼できる医師である。投薬を必要とする来談者にはその医師の診察を受けるように勧めてきた。ただし、現在では患者数が増えすぎて、あまり紹介はできない。

 CMCCに来談される方々の相談内容は、現代社会の様相をそのまま映している。先にも述べたが公的機関に相談に来られる人々の相談内容とCMCCに来られる人々の相談内容に大差はない。ただしキリスト者の場合「もっと信仰を理解してほしい」と言う切実な願いがあるのに無視されてしまう。

 不幸なことに精神科医の中には何人か、いまだにフロイト流の無神論者がいる。そのような精神科医は、患者を責める場合がある。「そんな信仰という幻想を持っているから心を病むのだ」あるいは「親がそんな信仰なんて偽善にうつつを抜かしているから子供が病気になるのだ」等と罵る。

 人の気持ちを理解できない精神科医や心理担当者やケースワーカーも中にはいる。相談した人が、更なる心の傷を負わないうちに、信頼できる医師、心理、ケースワーカーに巡り合えるように祈っている。

 CMCCの活動の中には、当事者の会や家族会もある。そこで話された内容を、了解を得て活用する分には問題ない。

 私は、自分の活動の中で知り得た情報は、極力参加者に還元している。中には教会学校で出会って、後に精神科医になった人もいる。地方都市で出会った医師で、大都市の大病院に一週間に一度診察に来ている医師もいる。いずれも信頼できる人たちである。

 私がここまで書いてきたことは、CMCCが実践している一部である。

 何の差別もなく、人と人とを繋げる役割は大きい。その人が人の役に立つとかどうかなどという判断は必要ない。その人と良き隣人になれたら、それが相応しいことなのだ。

 その人の隣人となる場合に、信仰や希望も必要かもしれないが、愛がなければ、本当に虚しい。

 CMCCは愛に支えられている。聖書で述べられる愛は、あまりにも奥深いために、私としては一生求め続けていかなければ、理解しきれるものではないと思っている。

 一生求め続けても本当の愛については、私には追及(追求)しきれないのではないかと危惧している。それでも神様は、求めていれば、きっと与えてくださると確信もしている。

 多くの矛盾を孕みながら、CMCCの一端に繋がって、聖書から学びキリスト者となっている現在、これからもキリストの精神を実践していきたい。

 人が作った組織としての教会以外に、メンタルケアを重視する超教派のキリスト教機関は、生身の人間が作った教会という組織に収まり切れなかった人に、居場所を提供し、心の安定をもたらす。キリスト教会は、キリストの力によって無限の広がりを持つ。CMCCは無限の広がりの中の一つである。

 人と人とのかかわりの中に、心の成長も与えられることは、キリストが望むことである。

 心の成長はキリスト教でいう愛の獲得のことである。十字架のできごとの後の弟子たちの狼狽えは、まさに人間的である。

 その弟子たちが、愛を抱くことができたのは、奇跡的なできごとである。

 キリストが述べる愛は金持ちが行う慈善事業とは違う。貧者がさらに苦悩している人に、わずかな献金をする尊さに繋がる。

 私も貧しい信徒である。常にキリストに求め問いかけ、愛を追いかけていなければ神様の祝福に巡り合えないと思っている。