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魂の声を聴きながら
−自己になっていく道ゆき−



ヴィンヤードカウンセリングルーム室長
CMCC理事・スーパーバイザー

        
佐 瀬  壽 實 香

 一年半前のクリスマスに、酷く体調を崩し、味気ない思いで一人自宅で過ごしていた。ふと、ニューヨークの公共ラジオ放送を聴いてみようという気になった。インターン時代に12月になると、様々なクリスマス関係の音楽がそこから流れてきて、深く慰められていたのを思い出したからだ。

  ところが、予期していた音楽とは違う、しわがれた、非常に思慮深い物言いをする男性の声が聞こえてきた。最初は何気なく聞いていたのだが、そのうちにコンピューターに齧りつくように聴き入った。それは、83歳になったユージン・ピーターソン(聖書の翻訳を含む著作家、詩人、牧師)のインタビュー番組だった。

 彼の言葉を聴きながら、考えた。「もし、自分が80代まで生きることを許されるならば、これだけ自己を受け入れ、さらけ出せるような人間になることが出来るのだろうか?」35冊の著書を表してきた彼は、昨今物忘れが重なり、そのことに怒りを覚えたこともあったようだ。しかしながら、家族の助けを貰いながら葛藤の末に、そのような自分を笑って受け入れるようになったという。

 彼が、自身の怒りも、悲しみも含めた、ありとあらゆる感情と正直に向き合い、それをありのまま分かち合おうという姿勢には驚かざるをえなかった。他者との比較ではなく、自己を神の視点からとらえ、その弱さも強さも内包されたものとしての自己を慈しみ、養い育ててきた彼の人として歩んできた歴史が窺い知れた。

 私たちは、時に自分の理想には程遠い自己を忌み嫌い続けることもある。社会や他者の指標に合致しない自己の姿に深く傷つき、病みもする。他でもない、私もそんな人間の一人であった。

 一方で、ありのままの自己の魂の叫びに耳を傾け、受け入れ、他の人々と分かち合ってきたユージンの姿と、その魂の姿勢に非常に稀有なものを感じた。

 夢中で現在の彼についての情報を探し始めた。そして、YouTubeの中に、今の彼を知る映像を探し当てた。彼の語り口にふさわしい、平安に満ちた瞳と笑顔。自分であること以外の何ものでもない自己の人生を、丁寧に慈しんで生きてきた彼と、それを可能にしてきた彼の神との関係の親しさ、深遠さを改めて見、触発された。

 一体私は神がお創りくださった私という存在をどれ程知ろうと努め、慈しんで時を重ねてきたのだろうか?

 悩み多く、ひどく病んだ思春期と青年期を過ごした私が、神の慈愛と奇跡によって癒され、辿り着いたセラピストの道。その働きには、深い神、自己、他者理解のための創造的、継続的な訓練が不可欠である。すなわち、神が送ってくださった自己の生命(心、身体、魂)の実態に一瞬一瞬に気づくこと。その光と闇とを真摯に探り、受け入れ続けること、自分が自分らしくあるために、乳飲み子をもつ母親がわが子の言葉にならない訴えを聴き取るような姿勢で自己に聴き、育て続ける必要があるのだ。そして、それができる度合いが、他者に耳を傾け、受容していく程度を決めていく。

 職種は異なるものの、ユージンの人となりに触れ、いつの間にか随分生ぬるい水に身を浸してしまったことに気づかされた。完成度はさておき、インターン時代の真摯さと根気とを持って、今一度自己と丁寧に対峙しなければ、私がより高い次元で自己を受容し、私にしか歩めない人生を神がくださった最大の贈り物として生きることはできない。とにかく、その時の流れの中で生き続けていてはいけないということだけは明白だった。

 今から17年前、全精力を傾けて、自己を洗いざらい見つめ直す必要のあったあの時代。毎週、訓練の一環として個人セラピーを受け、その中で、怒り、泣き叫び、歓喜しながら神と共に自己を再構築していた。

 そんな私の働きの一つは、牧師でもありセラピストでもある師と共に、男性刑務所でクラスを教えるというものであった。ゲシュタルト療法(心理療法の一つ)とキリスト教における癒しを融合した療法を用いて、自己と他者の全身全霊に聴くというのがその内容だった。

 私も含めて、皮膚の色、社会的・文化的背景、個々のあり様は多様性を極めていた。しかし、互いを通して未だかつて見たこともない自己の感情に、思いに触れ、癒され、学び、成長していくことから来る喜びを手にしていった。その共通項の何たる偉大なことか。教える側も学ぶ側も、出来る限り素の状態になり、他者に対する信頼の扉を開き続けた。神と人間理解の基盤、そして、対象が誰であれ、平等な人間として信頼と敬意をもって関わり合うという基を作ってくれたのは、彼らの存在であり、彼らとの関わりであった。

 何よりも、言葉にも表れていない自己の魂の声に共に聴き耳を立て、受け入れてくれた彼らの存在があったからこそ、易しくはない、自分自身がまぎれもない自分になっていく道を何とか歩み続けられた。もう、彼らとは誰一人として地上で出逢うことはないだろうが、彼らは神が送ってくれた人生最上の学びのための同志であり、そのことに対する感謝は絶え得ないものがある。

 ここ数年、ご縁をいただいてCMCCでスーパーヴァイズの働きをさせていただくようになった。ボランティアとして、困難な中にある方々の声に真摯に耳を傾け続ける方々を見るにつけ、この上ない敬意を感じる。そして、そのような同志を送って下さった憐れみに満ちた神の姿の全容を、彼らの存在を通じてもっと豊かに窺い知るようになっている。

 そして、改めて与えていただいている自己存在と丁寧に向き合う勇気と英知とを彼らからもらっているのだ。仕上がりがどうなるかはさておいて、一人では容易には出来にくいこの自分が自分になっていくための道を、魂の声を聴きながら、もう少しだけ真摯に、喜んで歩いていくことにしよう。こんなにも豊かな仲間が与えられているのだから。