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人格的相互関係と生きる力


栄光学園スクールカウンセラー
CMCC理事・スーパーバイザー

      
高 野  利 雄

 1973年、30歳のとき、体調を崩して後、学校現場に復帰した私は生徒たちの心に寄り添う静かな生き方をしていこうと思った。そして76年からカウンセリングの勉強を始めることになった。若さあふれた国分康孝先生、平木典子先生がアメリカとの往来をされながらカウンセリングを日本に伝えておられたころである。両先生には、以来40年にわたり教えをいただいている。一方、当時50歳代後半で上智大学教授の小林純一先生が『カウンセリング序説―人間学的・実存的アプローチの一試み』という独自の人間援助論を著され、評判になっていた。私は79年から上智大学カウンセリング研究所に通った。

  小林純一先生が私たちに教えて下さったのが人格的相互関係という、社会における人間関係を超えた出会いの関係である。先生は、それは説明されてわかるものではなく体験的確証であると言われ、そのためにマイクロ・ラボラトリー・トレーニング(MLT)を開発された。研修生は2年間のうちに3泊の合宿を3回体験するようになっていた。MLTはCMCCの研修でも実施したことがあり、 感想では好評をいただいている。

 小林先生は著書では受容、共感的理解という用語を使われるが、私たちには決してそのようには言われなかった。 「相手の方をそのまま受け止めていますか」「相手の方の気持ちがわかりますか」―と何度も何度も問われた。「そんなことを伝えていましたか、 しっかり受け止めてください」と言葉を重ねられた。答えられずに黙っていると「わからないということは苦しいですね、 あなたはカウンセラーになれるでしょうかね」と耳元で囁くように言われた。時に微笑み、時には怖いほどの真顔だった。

 先生は、人間は 《自分の人生を創造する自由を確信し、自己の選択、責任において生きる》 と言われる。人間は他の存在のように法則で解明されるものではなく、それぞれが自分を生きているのであって、《私が選び、私が生きていくという創造的自由こそが人格である》と言われる。この生き方が自己実現である。

 そして、創造的に生きる自由の確信は、ありのままを受け止めあう人格的相互関係の体験によって生じると言われる。ありのままの自分を見つめ、知ることによって、そのようにある自分の存在が許されていることに限りない喜びを得ていくことになる。

 自分と相手の間に人格的相互関係が体験されると、それによって《生きる力》がわいてくるのである。

 ローマ・カトリックの神父であられる先生ご自身は神との対話のなかにそれを確信しておられたのではないかと思う。もともとは工学を専門とされていたが、終戦による価値の転換から神学と心理学を研究されるようになり、ボストン大学での思索のすえに人間学に到達された。

 《神は人に自由を与え給う、その中で私たちは責任ある選択をしていく、そして神はイエスによる贖罪まで備えて下さっている》 ので、私たちは生きられるのである。

 前述のように、人格的相互関係の体験的確証の場としてMLTが開発された。それはカウンセラー養成の一方法でもある。MLTでは自分が相手のそのままを受け止める体験と自分をありのままに受け止めてもらう体験を幾度も繰り返して、自分が創造的に生きることが赦されている人格的存在であることの体験的確証を得ていく。また、相手もそうした人格的存在であることを知る。これが人格的相互関係である。

 カウンセラーとカウンセリーの間に人格的相互関係があってこそカウンセリングが成り立つ。カウンセリングでは《見立て》といって診断的な仮説や解決課題をたてることをする。しかし、カウンセリーは見立てによって生きる力を得るのではない。自らの内にある課題や直面している環境に向かって、自ら生きる力を得るのはカウンセラーとの人格的相互関係によるのである。日常生活で関わる人々との間にも人格的相互関係があることが望ましい。

 小林純一先生はカウンセリングとしては来談者中心療法を用いられる。カウンセリーが自己を見つめ、ありのままの自己を受け入れ、解放されて生きる力を得ていくカウンセリングプロセスは、聖書的には神が我々に生き方の選択の自由を与え給い、贖罪を求める選択をも与え給う歴史的信仰と重なるように思える。神はいつも、自己への気づきを私たちに促しておられる。

 ユーザーの話に耳を傾け、気持ちに寄り添うCMFのありようは、人格的相互関係に向かうことであろうかと思う。キリストに倣って、ユーザーをじっと待ち、見守っていくことから人格的相互関係がうまれることであろうと思う。