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過去をふりかえり今を思う


城西国際大学講師
CMCC協力会員・スーパーバイザー
横浜いのちの電話スーパーバイザー

        
有 田 モ ト 子

カウンセリングを学ぶまで

 大学を出て数年間、私立の女子中・高一貫校で英語を教えていました。その間に出会った子どもたちの中には、さまざまな心理的課題をかかえている人が少なくありませんでした。教科を教えることはできても、子どもたちのかかえる課題をどのように理 解し、どのように関わったらよいのか悩みました。

  さいわい、勤務していた学校と私が中学高校を過ごした母校とが近くでした。母校ではカウンセリングを学ばれた恩師が教科担当とカウンセラーとの役割を兼務していたのです。生徒指導に行き詰まりを覚えていた私は、母校を訪ねて、相談にのってもらうようになりました。話を聴かれる恩師の姿勢は、カウンセリング技術をこえた人間性の深さにあることを感じました。私自身の人格形成に多大な影響を与えてくれた 恩師との出会いがカウンセリングを学ぶ動機づけを高めました。

 学校教育の場でカウンセラーとして働くことを考えて、アメリカ留学を決断しま した。学ぶのなら、当時、日本人の少ない、出入国が簡単でない環境で集中しようと考 えて、中西部にある大学を選びました。教育学部のカウンセラー教育を専攻しました。 そこでの2年間は、苦しかったですが、私の中では最も充実した学びの時となりました。

 帰国後は、神奈川県にある男女共学の私立中・高一貫校でスクール・カウンセラーとしての出発をしました。

電話相談との出会い

 1980年に、横浜に「いのちの電話」が開設される準備の段階から関わるようになり ました。対面による相談に応じていた私にとっては、視覚的情報を得ることのできな い電話相談はどのようになるのか予想を超えたものでした。さらに、固定した相談者 と相談員との関係を維持できない中で、どれだけ相談者に役に立てるのかも心配でし た。電話相談のもつ特性は対面による相談以上に難しく、どこまでやれるのか不安を ぬぐいきれないままでの関わりでした。

 電話相談は面接相談と比べて、心理的な距離が近いのです。面接は、同じ空間を共 有していて、物理的距離は近いのですが、座る椅子の位置をずらしたり、変えたりす ることでより適切な心理的距離を確保することができます。ところが、物理的には遠 く離れている電話相談は、心理的には口と耳の距離といわれる程に接近しています。 そのために、電話相談においては、相談者の感情表出が直接的で激しく、私自身の感 情もゆさぶられ、動揺してしまうことが幾度となくありました。

 相談者の声の調子や口調と言葉を受けて生じる私自身の心の動きに気づきながら、 相談者を理解し、受けとめていくにはどのように応答したらよいのかとまどいました。 特に、相談者との関わりの中で生じる否定的な気持をごまかすことなく、正直に相談者とむきあい、相談者に役立つ建設的な応じ方はどのようにしたらよいのか悩みまし た。困惑と失敗の繰り返しは、面接相談以上に「訊く」力を育ててもらえる絶好の機 会となりました。出会った相談者と信頼関係を築き、相談者自身の気づきを促し、変化を促し、可能性を引き出すことができるような言葉のかけ方(言語化)の力を養う必要性を痛感しました。電話相談に関わったことによって、「きく(聴く、訊く)」力を育ててもらえたのです。

冬の季節にいる今

 スイス生まれの精神科医であったポール・トゥルニエは『人生の四季』という本を書いています。人生を四つの季節にたとえて発達段階を次のように示しています。
     20 歳までが「春」(準備の時)
     20 歳〜40 歳までが「夏」(活動の時)
     40 歳〜60 歳までが「秋」(収穫の時)
     60 歳〜80 歳までが「冬」(成熟の時)
としています。この区分が、今の時代に即したものかはともかく、人生を四季にたとえていることはみごとなものだと思います。この区分からいけば、私は冬の季節にいます。

 冬は成熟の時です。心理・社会的視点から人の発達を8 段階に区分したE.H.エリクソンは、人生の最終の老年期における課題を「統合vs 絶望」としています。これま での人生における肯定的なことも否定的なことも統合して受け入れて死を迎えること ができるのか、逆に、後悔や絶望に捉われてしまうかになると言うのです。

 また、アメリカの老年学者であるJ.ローとR.カーンが提唱する「サクセスフル・エイジング」(豊かな老い)という考え方があります。サクセスフル・エイジングの条件として@病気や病気に関連する障害が生じる可能性が低いことA認知機能・身体機能 の水準が高いことB日常生活への積極的な関与が維持できていることをあげています。

 今のところ、私はこの条件は辛うじて満たしてはいます。しかしながら、この条件のすべてを満たしてはいないのですが、成熟した年を重ねている方々が身近にいます。 その方々の存在自体が周囲の人によろこびや希望、勇気を与えてくれるのです。さらに、笑いをもたらすユーモアに富む話をされます。身体的衰えと死を強く意識しながらも、前向きに志向し、円熟した豊かな老いを実現しているのです。私にとってモデルとなる生き方です。

 「人は生きてきたように死ぬ」(He dies as he lives.)と言われています。だれもが避けることが出来ない死を意識し、一日一日を「良く生きた」と言えるように歩みたいと願っています。この積み重ねが「良き死」を迎える備えにつながると思うのです。 最近は、これまでの人生で経験してきたことを振り返ることが多くなりました。当時は受け入れがたかった出来事にも納得できる、意味があったことに気づきます。後悔やつぶやきよりも充足感を味わえるようになっています。

 最後の日までよく走りぬいたと言える歩みを続けたいと願うこの頃です。