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CMFとしての働きを見直す



CMCC顧問
キリスト教カウンセリングセンター理事長

        
賀 来 周 一

 最近、心の病を巡って、新しい受け止め方がされるようになりました。フィンランドのトルニオ市ケロプダス病院で始まった<オープン・ダイアログ>、あるいはヒーザー・スチュアート他著『パラダイム・ロスト』を通して、石丸昌彦先生(放送大学教授、CMCC理事)が紹介しておいでになる<心のスティグマの克服>(*スティグマとは不知、偏見、差別による傷痕)、北海道の浦河にある「べてるの家」で実践されている<当事者研究>。これらは心を病む人を病者という視点からでなく、ひとりの人間として受け止める流れの中で生まれてきた考え方です。CMCCは、こうした個人の尊厳や権利を重視する立場をすでに<F>(友)という言葉に託して表明してきました。

  加えて、CMCCにとって重要なことは、キリスト教信仰に立った上での隣人との共生のわざを行うという視点です。ここにはヨハネ福音書10章に見るような羊飼いと羊の関係がなければなりません。同じキリストという羊飼いに飼われた者としての羊仲間がそこにいるのであり、たとえ羊は互いをよく知らなくともすべての羊はキリストという羊飼いによく知られており、その中でお互いに共生のわざに従事しているというべきでしょう。それこそ教会らしいわざです。

 しかも「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と主が言われるように、さらに広く社会を見据えた活動でもあります。それは、キリストの体としての教会の働きを社会全体も視野において実践していることを意味します。それがわたしたちCMFの働きであると言ってよいでしょうか。その意味では、単に個人的善意に基づくボランティア活動に終わるのでなく、キリストのわざへの参与であり、またキリストから委託されたわざに従事しているとも言うことができます。自分自身で考えている以上に大きな責任を負っているのです。

 でも、時間と労力に比してあまりにも成果が見えない、一体私の働きは役に立っているのかと、自分の働きに疑問を感じることがなきにしもあらずということもありましょう。とくに信仰者としての自分を考えれば、自分の不甲斐なさを責めることもあり得ます。

 ヘンリ・ナウエンの著作『傷ついた癒し人』にこんなエピソードが書かれています。ある神学生が病院での臨床牧会教育(*牧会者が受ける実践的牧会訓練プログラム)に従事していました。彼は、一人の入院患者で季節労働者を担当していましたが、折角、学習したカウンセリングを活かそうと、懸命に季節労働者に関わる努力をしたのでした。ある日、この入院患者が手術を受けることになり、彼は懸命に祈って手術の成功を願ったのですが、その甲斐もなく再び命を取り戻すことはありませんでした。翌朝の報告会議で、彼は自分の努力の甲斐もなくすべてが無駄になったと嘆きの報告をしたのでした。それを聞いたスーパーバイザーは、彼に問いました。「君は、その人と最後に会ったとき何と言ったのかね」、 「『また明日会いましょう』と言ったのです」と神学生は答えました。するとスーパーバイザーは言いました。「君が普通の人としてそう言ったのなら、単なる挨拶に過ぎない。しかし、君は信仰者としてそう言ったはずだ。だったら、君が言った『明日、会いましょう』の<明日>は、亡くなった人の永遠の明日になっている」と。

 宗教改革者ルターは言いました。「キリスト者は全世界よりも大きい。なぜなら、あなたの中にいるキリストは全世界よりも大きいからだ」と。CMFとしての<私>は小さいかもしれません。だが、<私>をして信仰者たらしめてくださるキリストは全世界よりも大きいのです。だから、その信仰をもって、キリストのわざに参与する<私>のわざは全世界を越えます。信仰者であるとは何と素晴らしいことでしょうか。