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ケアを求める痛み



CMCC理事長
日本基督教団 久が原教会牧師

        
藤 崎 義 宜

 痛むこと、苦しむこと、病むことは、できれば人間にとって避けたいことです。痛みや苦しみは、本人にしかその大変さが分かりませんし、なぜ自分がそのような状態にさらされるのか、自問自答しますし、その大きさと出来事で、自分がいっぱいになり、圧倒され、支配されてしまいます。そこから様々な不信感や、不安が起こり、周りから切り離されてしまった孤立感が生まれてきます。

  痛みも苦しみも、他の人たちからはよく分からない本人の主観的なものです。耐えられないような鋭い痛みや苦しみもあれば、鈍痛のように鈍いが確実にそこに存在し、自分を脅かし、不快にするものもあります。それらの痛みや苦しみは、自分だけで抱え持ち耐えることができるものもありますが、どうしても人に訴え、理解してもらいたいものもあります。

 以前、私が時々お宅に訪問していた方の中に、慢性の痛みをもった方がおられました。この方はもともと体が弱かったのですが、ご主人を亡くされてからキリキリ痛むような腹痛に10年以上苦しまれていました。訪問するたびに、痛みについての話をいやというほど聞かされたものです。お宅の玄関に入る私の顔を見るなり、待ち構えていたかのように、自分のお腹の痛みをこまごまと語られ、しばらくすると別の話題に移るのですが、 またお腹の痛みの話に戻り、自分の過去を物語ら れ、何回訪問しても、同じパターンの繰り返しが続きました。最初の頃は、注意深く耳を傾けていたのですが、何年もそのパターンが繰り返されると、いつまでこれが続くのか、こんなことに意味があるのだろうかと正直不安にもなり、徒労を感じたものです。

 この方が亡くなって、息子さんとお話をする機会がありました。この方のご主人が亡くなってから、今までの家を二世帯住宅にして、家族と一緒にここで住むことにしたこと、家族が二世帯住宅で壁一枚隔てた同じ家の中で暮らすなら安心だと思っていたことなど。しかし、今考えてみると、自分は同じ家の中で安心だと思っていたのだが、仕事が忙しく、一緒に住み始めてほとんど顔を合わせたこともないことなどを改めて感じ、もう少し話をしておけばよかったと思うが、取り返せないとおっしゃっていました。また息子さんのお嫁さんが隣に住んでいるにもかかわらず、お嫁さんのプライバシーに遠慮して自分の方から声をかけることもなく何年も会話がありませんでした。ただ隣に住んで、自分の心の中で孤独と我慢を重ねていただけのようでした。

 この方の痛みは、いろんなお医者さんに行っても、治癒されないものでした。どんな薬を飲んで もほとんど効果はありませんでした。大腸に癒着がみられるというだけで、痛みの原因もほとんど解明されませんでした。ただ内側からくるキリキリする痛みに耐え、不眠の日を重ねるだけでした。

 今から考えるとこの痛みは、孤独の痛み、家族に遠慮して自分の気持ちを素直に告げられない苦しみ、時間だけがただむなしく過ぎていくだけの痛みであったのかもしれません。「心は身体化し、満たされぬ思いは症状として現れる」のだと思います。癒されない痛みは、この方の心の世界の表現、あるいは孤独の訴え、心の叫びだったのかもしれません。

 自分の体の痛みを訴え続けることで、自分が苦しんでいる人間であり、助けを必要としている生きた人間であることを表現し、他の人から関心をもってもらえる手段であったのかもしれないようにも思えます。

 癒されない痛み、和らぐことのない痛みに対する訴えが、自分と他の人を結ぶ関係のきずな、会話のネタ、痛みだけが自分と人を結び付け、関係を持ち続けることができるものだったのかもしれません。この痛みがなければ、この方は全く社会とのかかわりがなかったのかもしれません。買い物に行っても何の会話もなく、買い物を済ませるだけ。隣に家族がいても何年も話しすらしたことがない。痛みを抱えることで、お医者さんと痛みを巡って自分の心を表現し、関係を持つことができる。あるいは、訪問してくれる人に自分の苦しみを訴えることができる。それは深い心の表現、人間であるが故の痛みであったのかもしれません。

 人は、他の人や物、自然などとの関係を求める生き物です。心は関係の座です。他のものとの関係が失われてしまうと、心は病み、ひずみ、あるいはひどい場合には死んでしまいます。たとえそれが痛みであったとしても、それを訴える相手を求めることで関係をつなぐことができるのです。その痛みがなくなってしまえば、この方にとって自分という存在をつなぐ他の人との関係が断たれてしまう。だから痛みは続く、あるいは続かなければならなかったのかもしれません。それが死ぬ まで続く痛みであったとしても。

 人生のある時期、思春期や自分と心がつながっている人との別れや死別などの時には、自分の中に引きこもり、 社会との関係やつながりを切って、心の中で深い作業をしなければならない時があります。しかし、基本的には、 人の心は人や自然、世界とのつながりを求め、そのつながりを失うと無力になったり、ひずんだり、病んだりします。

 私たちは、しばしば苦しんでいる人の症状を取り去り、苦痛から一刻も早く解放されて楽にする、問題の解決や症状の改善、社会復帰などを急ぎますが、時にはこの方の痛みのようにそれを抱え続けることで、他の人との関係をつなぎとめる、あるいは、自分自身の心の深い世界の表現や訴えである可能性もあります。病や障害というのは、ただそれを取り去って、なくしてしまえばよいというものとも限りません。

 痛みや苦しみの背後に、その人の人生の物語や他の人を求める叫びがあります。また、痛みや症状だけが扱われるのではなく、痛みをもつ「一人の人間」として見られ、そのためのケアを求める欲求というのが存在します。

 ケアというのは、病や障害、生きにくさを抱えている方と一緒に寄り添って、かかわり続けるという性質をもっています。治療が症状をよくする、なくしてしまう、元の問題のない状態に復帰させる手段であるのに対し、ケアは人間的なかかわりにより、その人がその人らしく生きていくのを支え、寄り添うというところに特徴があります。

 寄り添うこと、その人の人生と一緒に歩くこと、誠実さと信頼という人間にとってかけがえのない温もりをもって仕えていくケアを、今多くの人々が求めておられると思います。CМCCでのケアは、このように、一人の人間としてのユーザーさんたちに誠実にかかわり続ける人生の歩みでありたいと願っています。ここからお互いに学び合い、出会うことができる、人と人との心と魂の深い関係が生まれるでしょう。CMCCがこのようなケアを通して人生の旅の良き道連れになることができればと思います。