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こころの居場所



カウンセラー
CMCC理事
        
竹 前 ル リ

 「私の家にはこころの居場所がなかった」と、ある娘さんがお母さんに訴えました。幼い時から自分の気持ちを親や周りの人に伝えるのが不得意な女の子でした。「ちゃんとお話ししなさい。」「黙っていたら、分からないでしょ?」 そんな風に急がされ、責められると、どんな言い方をすれば分かって貰えるのだろうと焦って、ますます言葉が出なくなったと、昔を振り返って彼女は言います。「お母さんが黙って聴いてくれていたら、あんなにさびしい思いをしないで済んだのに!」お母さんと娘さんはたくさんの苦しみを乗り越えて、いまは二人で過去のつらい経験を語り合えるほど、理解しあえるようになってきました。でも、「こころの居場所がなかった」という言葉を聴いて、お母さんはハッとして、初めて娘の求めていたことが分かった気がしたと言います。

 「確かに、こころがどこにもなかったのです。早くしなきゃ、時間がない、あれをしなさい、これをしなさいって、私は命令するばかりで、この子の心がどうなっているのか、目に見えないから分かりませんでした。先生に叱られないよう、友達にいじめられないように、早く、ちゃんと、間違えないように、って、子どものためを思って言っているつもりだから、悪いとは思っていなかったのですよ。精神科医やカウンセラーに娘さんの話を良く聴いてあげなさいと言われて、できるだけ否定せず聴くようにしていました。でも、子どものためを思っているのに、どうして私ばかり責められるのかしら、と本当は悲しかったのです。でも、こころの居場所という言葉で、はじめて、本当にそうだ、と納得できました。娘もやっとお母さんに分かってもらえたと言ってくれました。それまでは、聴いているつもりでも、心から受け容れていなかったのですよね。」

 お母さんに分かって貰いたいと願い、また自分の苦しみの意味を求め続けた娘さんの努力は大変なものでしたし、娘さんを何とか元気にしたいと、理解する努力を続けたお母さんも本当に立派でした。家族のお互いを思う愛情の深さに、私は感動しました。

 「こころの居場所がない」、なんと適切な表現でしょうか?この親子だけの問題ではありません。今日の社会全体の問題と言えるでしょう。情報化社会は私たちの生活や心のあり方を驚くべき早さで変化させてきました。 私たちは、たくさんの情報を手に入れることに夢中になり、スマホを見つめる時間が増え、目の前の人間関係以上にインターネットでつながる世界に心を奪われていないでしょうか? 家族も誰もが忙しく生活に追われて、お母さんと子どもの大切なふれあいの時間は短くなりました。特に何かを話すのでもなく、ただ黙って一緒にいて気持ちを通わせ合う、愛情に満ちたやさしい触れ合いが昔に比べてずっと少なくなり、いつもせわしなく過ごしていないでしょうか?傍に人がいても孤独、心をどこかに置き忘れたような生活に慣れてしまい、人との親しい触れ合いをむしろおっくうに感じている自分に気付いて驚きます。

 幼い子どもはいつ、どうやって「こころ」の存在を知るのか考えてみて下さい。子どもはワンワン、ニャアニャ、と指さしながら物の名前を覚えますが、目に見えない、形のない「こころ」に、子どもはどうやって気づくのでしょうか? 子どもは、周りとの関わりの中で、嬉しかったり、悲しかったり、怖かったり、自分の心が動かされる体験をしますが、それを周囲の大人から「怖かったね」「淋しいのね」と受けとめられて初めて自分の感情が何であるかを認識でき、受けとめてもらえることによって慰められ、その感情を解消できるのです。その受けとめがないと、モヤモヤした嫌な感じとして、表現されないままに心の奥深くに押し込められ、それが自分でもわけのわからない不満や怒りや攻撃になって突然飛び出してしまうことがあります。これがいわゆるキレる現象です。だから、幼い時に「こころ」を受けとめてもらうことはとても大切なのです。自分に沸き起こった気持ちを受けとめられ、豊かに感じることで、他者の気持ちを想像し、共感することができるようになります。このように自分の気持ちが尊重され、大切にされる経験が、自分と人を愛する能力の基本になるのです。

 現代の子どもたちの置かれた状況はどうでしょうか? 一見子どもたちは大切にされ、 ゆたかに暮しているようにも見えます。けれども家庭でも学校でも、「こころ」が受けとめられず、淋しさを抱え、お互いにいじめたりいじめられたり、ゲーム機やスマホの世界に活路を見出し、仮想の世界に現実で得られない達成感を得ている子どもがどれほど数多いことでしょうか?

 子どもだけではありません、何歳になろうと私たちはお互いに支えあわなければ生き延びられない存在です。とくに強さや効率ばかりがもてはやされがちな社会の中で、病気や孤独に苦しんでいる人々のために、安全な場所を提供することがどれほど大切か、と思うのです。不確実な心の存在を「そのままでいいのですよ、大丈夫!」と伝えることができるのは、同じ人間の弱さを抱えた隣人としての私たちではないでしょうか?

 CMCCの働きは、心が傷ついて休み処を求めている人たちにこころの居場所を提供し、また立ちあがる力を充電する安全ステーションであると思います。世の中の大きな流れの中に巻き込まれ、見失っていた静かで確かな神様のみ声に耳を傾け、大切なこころを再び見出すことができるよう願っています。