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奉仕の原点「共にいること」



日本基督教団 吉祥寺教会牧師
CMCC副理事長

        
吉 岡 光 人

長らく入院生活をしているあるご婦人のベッドに、小学生のお孫さんが下校途中に立ち寄って、しばらく時間を過ごして帰って行きました。お祖母ちゃんのベッドの傍らで彼女は本を読んだり、絵を書いたりして過ごします。特別な会話が交わされるわけではなく、ごく日常的なやり取りだけで時間が過ぎていきます。そして夕方になると彼女は家に帰ります。それはお祖母ちゃんが亡くなる時まで続きました。私はこの方の葬儀を担当しましたが、ベッドの傍らに座っているこのお孫さんの顔を眺めて過ごすことが何よりの慰めだったと周囲に話していたということでした。

 私はここに奉仕の原点を感じるのです。

 小学生のお孫さんが、お祖母ちゃんの心の中の葛藤や不安を詳しく聞くことは難しかったかも知れません。お祖母ちゃんにとっても、まだ小学生のお孫さんに深刻な話はしにくかったことでしょう。しかし、呼吸が苦しい時や体に痛みが走った時に、愛する者がそばにいてくれること、黙ってそこで座っていてくれること、ただそれだけでどんな言葉よりも確かな慰め、どんな痛み止めよりも利く和らぎがあったということができると思います。


 19世紀のドイツ人牧師ヨハン・クリストフ・ブルームハルトは、牧師として赴任した町で、原因不明の痙攣と出血を伴う発作を繰り返していたゴットリービン・ディットゥスという若い女性の存在を知りました。時折奇声を発し「悪霊にとりつかれているような状態」の彼女を見て、最初ブルームハルト牧師は距離をおこうとしたそうです。医師も見離していた病状の彼女を見て、どのようにして関わっていいのかわかりませんでした。
  しかし彼は、毎日のように彼女の部屋を訪れてベッドの傍らで祈りをささげることにしました。それが二年ほど続くと、最初は冷ややかに見ていた町の人も、次第にブルームハルト牧師の真剣な働きに共感し、彼の働きをサポートするようになりました。そしてついに三年後のクリスマスの日にゴットリービンは癒されたのです。

 ブルームハルト牧師に対しては、悪霊払い(エクソシズム)ばかりが強調され、それを巡って賛否両論があるようですが、私はむしろ彼が「病んだ者の傍らに居続けた」ということを評価したいと思うのです。病が治ったかどうかという結果云々ではなく、治るかどうかという可能性を探るのでもなく、病んだ者のそばに居続けようとした、ここに「仕える者」としての原点を見ることができるのです。

  技術の進歩は私たちの日常生活のあり方まで大きく変えつつあります。日々便利になっているのは事実です。それを最初から拒否する理由もありません。しかし技術の進歩の陰には必ず負の一面もあるものです。ITの進歩は、物理的距離を埋めることには大きく貢献しています。しかしそれに反比例して、現代人は「顔と顔を合わせる」努力やそれにかける時間は大きく後退していると言えるでしょう。

 そんな時代状況にあって、私たちはやはり、痛んでいる人、悲しんでいる人、病んでいる人のそばに居続けるという、他者援助の原点を忘れてはならないと思います。
 私は最近、ある大学で授業を担当しています。キリスト教関連の科目で、相談の受け方についての講義です。学生にとって多くの関心事は「自分がどう生きるか」とか「何をしたいか」というようなことで、他人に仕えるというようなことは、あまり強い関心を示しません。それはある程度予想していました。しかし、自分と関わりあるような内容になると、ぐっと関心を向けて、真剣に話を聞くようになります。たとえばこういうことがありました。私が次のような内容のことを話した時のことです。
「みなさんが、父親や母親や、お祖父さんやお祖母さんや、あるいはアルバイト先の上司とか、みなさんより年上の人たちから相談を受けたり、本音を聞かされたりするような時があったら、是非ビビらないで聞いてあげてください。何故かと言うと、それは皆さんが一人の人間として信頼されたということだからです。信頼しない人に本音は吐けません。まして悩みや苦しみを話すことはありません。年上の人からそういう類の話をされたということは、一人の人間として信頼されたということなんですよ。自分はまだ若いからそんなことわからない、なんて思う必要はありません。あちらが話したいと思っているのですから。そういうことがあったら、逃げないで、ただ聞くだけでいいですから聞いてあげてください。」

  皆その時だけは真剣に話を聞いていました。そして出席カードの授業の感想を書く欄に、「この間、アルバイト先の先輩からあることを相談されました。自分が人間として信頼されていたのかと思うとちょっと嬉しいです」とか、「こんど田舎に帰った時は祖父ちゃんの話をちゃんと聞こうと思いました」というようなことを書いてきました。彼らなりに大切なことを感じ取ってくれたようです。

  イエス・キリストが病んだ者、小さい者と共におられたように、電話相談にしろ、他の奉仕にしろ、時間と労力を惜しまずに「共にいること」を奉仕の原点としたいと思います。