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CMCCが目指す「友」の関係



日本キリスト教団久が原教会牧師
CMCC副理事長

        
藤 崎 義 宜

 人生が困難なときに、自分の問題を分かち合える友や家族がいるかどうかで、人生を生きていくのに大きな違いがおこります。苦しいときに、世界の中で孤立して、絶望にさらされていると感じるのと、自分を理解し、守っていてくれる存在があると感じているのとでは、本当に大きな違いがそこにあるのです。自分の力だけではどうしようもない時に、自分の問題を分かち合ってくれる友の存在はとてもありがたいものです。苦しみや、悲しみ、その人が抱えもっている大切な体験を分かち合うことは、人間のつながりを深め、共感を生み出します。

 現在の日本は、年間の自殺者数が3万人を越え、その中でも子どもの自殺者が他の国よりダントツに多いことで、世界の人たちを驚かせています。また、20〜30代のかなりのパーセンテージの人たちが、生活困難の状態にあると言われています。若い世代のフリーターや引きこもり、自殺者の多さは、人間関係や家族関係の貧しさ、困難さがその背後にあるのではないかとも指摘されています。

 また、生きにくさ、将来の見えにくさが、社会全体のエネルギーを乏しくさせ、全体に行き詰まり感を大きくしているのも事実です。どのような仕事でも、職種でも、これをやっていれば絶対安全であるとか、将来が絶対保証されているというものはありません。確実な未来が見失われているのが現状です。不安と先を見通せない闇が、孤立している人の心にのしかかります。

 世界の中で孤立していると感じている自分のために味方になってくれ、理解してくれようとする人がいると、生きていくのに力づけられる思いがします。不安や恐怖、眠れない夜の孤独の中で自分を見失っているときに、自分であることを喜んでくれ、自分であることを肯定してくれる人があることは、なんと心強いことでしょう。自分を見失って浮き足立つ心は、その人の存在を頼りに落ち着きを取り戻し、地に足をつけることができはじめます。

 現実というのは、どの人にとってもいろんな面を持ち、ひとつだけの顔を持っているわけではありません。しかし、私たちは自分にとっての現実というのは、良い面か、悪い面のどちらか一つだけだと思い込んでいます。自分でも知らないうちにものの見方がかたより、一面だけを見て全てだと思ってしまって、他のものの見方があるということさえ思いつきもしないようになっています。

 友と話をするとき、自分が知らず知らずに陥っているものの見方に気づかされ、はっとすることがあります。あるいは、自分が知らずに当たり前だと思っていたことが、人によってはそうではないということに気づかされることもあります。

 気づきは、ものの見方を変え、ものの見方が変われば、人生も変わります。思い込みというのは、どの人もそうですが、自分ではそれに気づくことがありません。でも、他の人と真剣に深く対話していると、この気づきが生まれてくるのです。

 また、自分のこと、家族の関係や世界に対する感じ方や、怒り、悲しみ、恨み、不安、喜び、喪失、さまざまなものを物語っている内に、自分と人生を見返し、読み直すという作業がなされ、自分の中から洞察力が育ってくるのを感じます。物事を見通していく力、その中に意味と必然性のある物語を見ていく力が、その人の人生の再生と生き直しを導く力になります。友との語らいや、友との信頼関係がお互いの魂を育て合います。

 20世紀の初頭から現代人の病として「魂の喪失」というのが、精神科医や心のケアの専門家の間で言われています。トマス・ムーアは彼の著書『魂のケア』の中で、次のように言っています。「現代最大の病、それは『魂の喪失』だ。魂が無視されると、それはどこかへただ消え去ってしまうわけではない。魂は、妄想、依存症、暴力、意味の喪失というものに現われてくる。」と言っています。

続けて、ムーアは、「空虚感、意味のなさ、漠然とした抑うつ感、結婚、家族、そして人間関係への幻滅、価値観の喪失、個人的な充足感への憧れ、スピリチュアリテイーへの飢え乾き、これらの症状は魂の喪失の反映であり、魂というものが切に求められていることを我々に知らしめようとするものである。」と言っています。

しかし、人の話に耳を傾けていくと、病の中に、息苦しさの中に、叫びの中に、存在の重さの中に、ふだんは気にすることもなかった魂が見出されることが分かります。お互いの傷、苦しみ、生きにくさ、秘密を分かち合い、関係が深まると、お互いの存在の貴さと人の人生の重さと豊かさに対する尊敬が少しずつ生まれてきます。

 自分が信頼をして、分かち合うことのできる友に対して自分を物語ることが、魂を回復し、魂を養うことでもあります。CMCCが目指しているのは、魂を見いだし、魂を養い、世話して支える友なのです。

 このような友との対話の中で、自分が自分であることの感覚、それを受け入れ、許せない自分を許し、受け入れることで、大きな変化が起こり、新しい人格や可能性が現れてくることを体験します。ここには、お互いの利害や思惑を超えた大きな喜びと癒しの感覚が生まれてきます。

 あるユーザーの方が、次のような文章を寄せてくれたことがあります。「CMFとユーザーの間柄、これは医師と患者の間柄に似ている。医師は困ったことを一方的に訴える患者を診る義務がある。牧師信徒関係も医師患者関係 に例えることができるだろう。
 怪我人はただ怪我をしているというそれだけで治療を受ける権利を有する。倒れている怪我人を見た人にはただそれだけで応急手当を行う義務が発生する。この神聖な義務を誠実に果たそうとする人々がいる。それがCMCCだ。」

 この文章に、どれだけのCMCCのボランテイア(CMF)の方たちが慰められ、励まされることでしょう。「癒す者が癒され、ケアする者がケアされる」この不思議な関係が、人間関係のなかには起こるのです。友とは、どのような苦境の中にあっても誠実さ、忍耐、信頼と希望を失わないこと、信仰、希望、愛といわれているものを頼りに、ケアする者とケアされる者の違いを超えて、お互いの魂を誠実に培う者たちのことなのです。