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心の健康と魂の健康



放送大学教授・精神科医
CMCC理事

        
石 丸 昌 彦

 主イエスが中風の人を癒やすにあたって、まず「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言なさった意味が、長い間よく理解できませんでした。病の癒やしと罪の赦しはさしあたり別の問題であるのに、いささか強引に結びつけられて不自然ではないか、そんな風に感じていました。

 長年にわたる深刻な病によって生活の自由を奪われた者が、神との関係においてどれほど深く悩むことか、神に見放され捨てられたという思いが、患者をどれほど激しく苛(さいな) むことか、病がもたらす魂の危機の深刻さを私は分かっていなかったのです。

 現実にはこのことが、あるいはこのことこそが、身体の不自由や心の痛みに劣らず、病む人々を苦しめてきたでしょう。主イエスはそのことをよく知っておいででした。

                                    

 国連の専門機関であるWHO(World Health Organization; 世界保健機関)の提唱した、健康の定義というものがあります。ご存じの方も多いでしょう。

 「病気・病弱でないというだけでは、健康とはいえない。身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態にあってこそ、人ははじめて健康といえるのである。」(原文は英語、筆者訳)

 これは第二次世界大戦終結後まもない1948年に発表されたもので、健康問題を論じる際には必ず引き合いに出され、今では健康の概念に関するグローバル・スタンダードとなりました。短い文言の中にさまざまな歴史的背景や未来への展望が織り込まれており、考えるポイントがたくさんあります。

 私たちの立場から特に注目したいのは、「精神的mental」という言葉がそこに加えられていることでしょう。健康問題における「精神」の重みがこうして明確に認識されるまでに、人類は数千年の時間を必要としました。

ただ、ここで言われている「精神的」の意味には注意が必要かもしれません。日本語の「精神」はかなり広い含みをもって使われる言葉です。「精神」という漢字言葉を「こころ」という大和言葉で読み替えればなおさらはっきりするように、情緒的な問題から良心の問題、時には人格的尊厳に触れる問題までがそこに広く含まれてくるでしょう。「心の病(心を病む)」という表現に対してしばしば聞かれる反発も、このような「こころ」の意味の広がりを考えればもっともなことと言えそうです。

 これに対してmentalという英語はやはり多義的ではあるものの、「精神遅滞 mental retardation」といった表現からも分かるとおり、どちらかといえば知的・理性的な意味合いに軸足を置いています。冒頭に述べたような「魂」の問題、つまり人生における病の意味に関する悩みなどは mental という言葉の守備範囲からはやや外れるものであり、依然として「健康」概念の中核には入ってきません。

 実はこの点に関連して、健康の定義の修正の動きがWHO内部で本格化したことがありました。1998年から翌年にかけて、spiritual(仮に「霊的」と訳しておきます)という言葉を加えた「身体的・精神的・社会的・霊的に完全に良好な状態」をもって健康の定義にしようという提案が出てきたのです。日本の行政担当者は提案が本決まりになった場合を想定し、spiritualという言葉をどう訳してどう解説するか、頭を悩ませたと言われます。もしも実現していたら、日本の社会への良い刺激になったかもしれませんが、結果的には動議はWHO総会で採択されず、修正は見送りとなりました。

この修正提案の背景には、当時国際社会での存在感を増していたイスラム文化圏からの強い要望があったと言われます。その後、2001年の9.11事件を境にイスラムの影響力が後退したことなどもあってでしょうか、こうした動きは絶えて聞かれなくなりました。しかし私自身は、霊的な問題に寄せるイスラムの人々の熱心に今でも強い印象を受けるのです。

 健康の定義に含めるかどうかは別として、霊的な問題の重みはたとえばアメリカ社会などでも強く意識されています。在米中に長男の幼稚園で説明会があり、そこで女性の園長が語ったことを今でも思い出します。曰く、親御さんたちはこれからお子さんの四つの面での発達に、目を見張ることになるでしょう、すなわち身体的・精神的・社会的・霊的な成長です、と。ここでも軸は四つ、身体・精神・社会、そして霊なのです。

 翻って私たち日本人は、霊的な次元の重要性をいささか軽視してはいないでしょうか。ことさら霊とか魂とかと言わなくとも、「こころ」の多義性の中にそのことが含まれている、そのように言えるのかもしれませんが、霊的な側面は「こころ」の問題のさまざまな広がりの中でも、特別の注目と注意深い手当が必要であるように思われます。

 そしてCMFの皆さんがご存じの通り、メンタルヘルスの現場はそのことの実例であふれています。多くの人々が自分でも気づかぬままに、精神の健康とあわせて魂の癒やしを希求しているのです。十全の健康を求めるならば、なるほど魂の次元を排除するわけにはいきません。

                                

 さて、ここまでの話はキリスト教の背景を共有せずとも進めることが可能です。実際、一般向けの講演会で本稿と同じタイトルで話したことがありますが、驚いたことに主催者の予想をはるかに上まわる多数の来聴者がありました。「魂の健康」と聞いて、呼び覚まされる何かが人の心の中にあるのです。それは、ある種の渇きではないでしょうか。魂の健やかさについて、真剣に思いを致す必要を多くの人々が感じているのです。

 けれども、難しいのはここからです。ではどうしたら良いのか、「魂の健康」とはつまるところ何のことで、どこにその問題の解決策があるのか、そのことを神にも触れず十字架の救いにも触れずに語ることはとても難しく、少なくとも私などの力ではほぼ不可能なことでした。

 しかしCMCCに集う皆さんに対しては、何の疑いも困難もなしに呼びかけることができます。主イエス・キリストを通して罪を赦され、父なる神との間に平和を得ていること、聖霊の助けによってこの恵みを日々保っていること、これこそが私たちの「魂の健康」なのですから。

 未熟な私たちは、しょっちゅう見失い、逸脱し、錯誤しますが、どこを目ざして歩めば良いかは、はっきり知っており、だからこそこうしてCMCCに集うのです。魂の健康を土台として心の健康を養い育てる、主イエスを手本としてそんな援助を目ざしていきたいと思います。
                                                  (7月23日CMCC特別講座より)