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CMCCの20年の歩みを振り返って



齋藤病院(精神科医)
CMCC理事長

        
中 村 陸 郎

                (2011年5月7日、明日館において行われたCMCC創立20周年記
                 念会において述べたもの、紙幅の制約のため一部を割愛した。)

 本日は、ゴールデンウィークというお休みの中の土曜日という時に、このCMCCの創立20周年記念会にご出席くださいまして、まことにありがとうございます。
 実は、皆様も良くご承知の通り、この3月11日に東日本大震災という思いがけぬ未曾有の大災害に日本は見舞われました。このような大災害が発生したために、この記念会も中止にしてはどうかというご意見もあったのですが、1年前から準備を進めてきたというような事情もあり、予定通り開催することにいたした次第です。

 CMCC、日本語で正式に「キリスト教メンタル・ケア・センター」は、1991年5月6日、ちょうど20年前に発足いたしました。 その発会式は富士見町教会で行なわれました。CMCCの創立と発足には、1978年に始まった「神学と精神医学懇話会」が基盤となったように思います。 またこの懇話会は、CMCC発足後も確か2008年頃まで続けられ、CMCCの発展の大きな原動力となったように思います。この20年間を振り返って、バブルの崩壊、景気の後退という時期でもあったこの間に無事にCMCCの活動が続けられてきたことが、何よりも神のお守り、お導きによるものであったこと、この20年のCMCCの歩みが神の大きな恵みによるものであることを思い、私の心は感謝に溢れます。

 CMCCの創立・発展に貢献された人として、初代の理事長を務められた熊澤義宣先生の存在が大きかったことを思います。先生は、神学者として、また牧師としての立場から、CMCCの創立と発展に指導的役割を果たされました。その熊澤先生が、CMCCの発会式の講演の中で マタイによる福音書8章16〜17節を引用され、イエス・キリストは数多くの病人をいやされた、イエスのなされた病のいやしはその病を自らが担うみ業であった(イザヤ書53章4節の引用、注(1))、それはイエス・キリストの贖罪のみ業につながる、従ってCMCCの使命とは、キリストのなさるみ業に仕えることであると述べられています。 キリストに仕えるように、心病める人々に仕える、イエス・キリストを通して私たちに注がれている神の愛によって心病める人々に仕える、このことがCMCCの活動の基本的な理念としてあることをもう一度思い起こし、心に銘記したいと思います。

 CMCCの創立と発展には、熊澤先生の他にも多くの方々が貢献されました。一々お名前は挙げませんが、理事、協力会員、公開講座の講師、CMFの研修のスーパーバイザー、財務部や事務局担当などとしてご協力、ご支援をいただきました。また、これまでの20年間キリスト者ボランティアとして無報酬の中CMCCの活動を担ってくださったCMFの方々のご愛労を覚え、心から感謝いたします。多くの方が経済的に寄付やチャリティ・コンサートなどを通してご協力ご支援いただきましたことについても、深く感謝とお礼を申し上げます。

 20年というと、時代の変化の激しさを思わせられます。 この間には、2001年9月11日のアメリカにおける同時多発テロ事件なども起こりました。 CMCCにとっては、2000年6月にNPO法人となったこと、更に2001年9月に三重CMCCが発足したことが大きな出来事だったと思います。三重CMCCは今年創立10周年を迎えますが、本日、理事長の稲地聖一先生はじめ、三坂幸英牧師、加藤幹夫牧師の3人の方が三重から遠路ご出席くださっています。

現代社会を顧みますと、科学技術はめざましく進歩し、経済的に豊かになってきましたが、日本における自殺者が年間3万人を超え、貧富の格差が拡大し、失業者が増え、情報が氾濫し、悪が蔓延っています。家庭の崩壊が進み、人間関係が希薄になっている時代でもあります。こうした時代であればこそ、CMCCの活動の意義は大きいと思います。 CMFの方々のお働きに今後も大いに期待したいと思います。

 電話相談は、地味な根気の要る仕事です。今回の20周年記念誌の中で、CMFの方々が文章をお寄せくださっていますが、電話を取るときに、はらはら、どきどきしながら電話を取ったという感想が少なからずありました。この「はらはら、どきどき」の関連で、先日出会った文章をご紹介したいと思います。小山晃佑という方の『神学と暴力』という本(注(2))の中の1節です。

一人の苦しむ人の前で、簡単にあきらめたり、見捨てたりするのではなく、真の神ならどうなさるであろうか、とおろおろして迷い、考え、畏れをもって祈ることです。この「おろおろ」こそ神学の本質です。


と、こう書かれています。 おろおろと迷い、考え、畏れをもって祈る、そうした心で電話相談などの活動に従事するということかと思います。色々ご苦労や困難がおありだろうと思いますが、仲間のCMFの方達に相談したり、ス−パーバイザーの先生の助言や指導をいただきながら、良きCMFとして成長し、楽しく働いていただきたいと願っております。


      注(1) 「彼が担ったのはわたしたちの病」(イザヤ書53章4節)
      注(2) 小山晃佑著、森泉弘次、加山久夫訳 『神学と暴力』(教文館、2009年)43頁