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主にあってのCMF



スクールカウンセラー
CMCC協力会員

        
高 野 利 雄

向上心と隣人愛

 イエス・キリストが十字架にかかられたということが私たちにとっての贖罪を意味するところから、十字架は私たちのシンボルとなっている。町を歩いていて十字架をみるとホッとするし、旅先では十字架を探すこともしばしばある。

 その十字架に勝手な説明をつけて、勤務していたクリスチャンスクールの生徒たちに語っていたことがある。

 それが「向上心と隣人愛」。

 十字架の縦の線は向上心 ― マタイによる福音書25章にタラントを預けられる僕の話がある。主人はそれぞれに努力をしてタラントを増やした者をほめ、怠惰であった者を罰するというものである。私たちは与えられた能力を自ら伸ばす努力をすることが大切なのだということである。

 十字架の横の線は隣人愛 ― ルカによる福音書第10章に傷ついた旅人を助けるサマリア人の話がある。隣人は誰かという問いに「あなたが行って隣人になりなさい」とイエスが答えるものである。私たちは与えられた能力を自ら伸ばし、その成果を隣人になるべく他の人々のために用いようということである。

 生き方を求める若い生徒たちにとってはわかりやすいようで、かなり浸透していた。 自分がしていることは向上心と隣人愛にかなっているだろうかと自問する。そして自らのありようを模索し、行動化していくのである。

御心を天におけるごとく

 「御国をきたらしめたまえ。御心を天におけるごとく、地にも行わしめたまえ。」という祈りは、ただ待つのではなく、私たちが信仰者の生活として向上心と隣人愛の実践を心することで身の回りから実現していくことなのではないかと思う。

 ヤコブは手紙の第2章で「行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」と言う。第1章では「御言葉を行う人になりなさい」と言う。

 ヤコブの意味する行いとはどのようなことなのか、私は不勉強でわからないのだが、 歴史上多くの信徒がそれぞれに行い続けてきたことが御心にかなっていたのではないかと思う。逆にそうでないことが人間の歴史ゆえに数多くあることも確かであるが…。

CMFの活動について

 昨年からCMFの方たちのお話をうかがう機会がでてきた。私は活動そのものをご一緒にしているのではなく、グループワークを担当させていただいた中からの皆さんのお声をつないでみることしかできない。

 CMFはさまざまに思い悩みながら、 ユーザーの方々のために献身的な努力をしておられる。その姿は、この時代にあって傷ついた旅人に手をさしのべるサマリア人であったり、迷える一匹の子羊を探す羊飼いであったり、術を失くした放蕩息子を迎える父親であったりしている。

 だが、ユーザーのための力になりきれていない、どうしたらいいのか、といった思い悩みを共通にかかえておられる。電話口で「あなたでは駄目だ」と言われたことがある、という方もおられる。ろれつのまわらない方の言葉は何を言っているのかわからない、でも受話器をおろすわけにはいかない。もう、自分を支えることで精一杯になってしまう。

 何故続けるのだろうか、という問いには、学ばせてもらえることが多いので、と言われる方が多い。

  どうしたらいいのだろうか、どこまでやれるのだろうか。実際の問題にふれながら、何をしたらいいのかを考え、行動しておられるのがCMFの方々である。

限界設定ということ

 カウンセリングでは、クライエントが人生を自らのものとして創造的に生きることを援助することがカウンセラーの役割である。学問的には主に心理学の知見をもってクライエントのかかえる問題を見立てながら、気づきをうながすことになるが、宗教・哲学、社会学、福祉学などの隣接分野の知見も欠かせない。

 自分ではとても無理というケースは適任者にリファーすることになっている。自らの限界設定をする。

 電話対応のCMFにはそれが難しいのだから、さぞきついことだろうと思う。ただ、CMFにある道は「主があなたと共にいてくださいますように」という祈りである。

川崎の少年の自殺

 2010年6月、川崎で中3の少年が自殺をした。友人のいじめを止められない自分の力に自信を失い、生きていく価値がないといったことが遺書に記されていた。

 彼は「困っている人を助ける・人の役に立ち優しくする」ことを目標に生きてきたと書いている。それが実現しない、これを認めない子どもたちの世界には、大問題がある。

 これだけの思いをもった少年に仲間がいなかったのだろうか、願いが純粋であればあるほど苦しみが大きいことを教える大人がいなかったのだろうか、聞いてあげる人がいなかったのか、さらにはそこでの罪障感から解放される十字架の赦しを伝えてくれる人に出会えなかったのか。残念なことである。

 CMFの活動には限界があり、苦しくもなる。しかし、CMFの集いは主にあっての交わりである。それだからCMFが互いに祈りをもって語り合い、互いを支えあう集いであってほしいと思う。それでなければ自分を保てなくなくなってしまうからである。