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良き友としてのケアを目指して

日本キリスト教団久が原教会牧師
臨床心理士・CMCC理事

        
藤 崎 義 宜

  人生というものは、よく旅にたとえられます。そこには上がり下がりがあり、明るい時と暗い時、健康で力が満ちている時、病や事故に見舞われている時などさまざまな出来事に満ちています。

 聖書の中には、旅の話がよくでてきます。新約聖書の中の福音書に出てくる良きサマリア人のたとえ話(ルカによる福音書10章25節から37節)も、旅人の話です。

 CMCCが大切にしているものは、人生という旅の中での出会いによる深い関係と友情というものです。

 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」イエスはこれに対して、「正しい答えだ」と述べています。

 この答えには少し、注釈が必要な気がしますが、心というのは、知的なもの、あらゆる知識と知恵を意味します。精神といわれているのは、魂のありか、意志の力の意味です。力を尽くしてというのは、能力、技術、強さを意味します。思いは、想像力、理解力、配慮のことです。愛とは喜び、うれしさをつくりだすことです。つまり自分の存在の隅々まで全ての領域で、神との間に喜びの関係を造りだすことなのです。それは人と人の間にもつながってきます。隣人つまり友だちをつくり、愛するとはどういうことかということです。

 「また、隣人を自分のように愛しなさい」と書かれています。神を愛するように、自分の全領域を使って人を愛する。つまり、自分の全存在の端から端まで、隅々まで、誠実に、真実をもって、自分がそこにありのままの姿ですべて出して、人と関係をもち、喜びを生み出すことです。

 しかし、意外なことに、私たちは自分を愛していません。むしろ、自分を憎み、嫌い、罰し、無視し、犠牲にすることが多いのです。特に自分を愛することは、利己主義、自己中心なことではないかという恐れから、自分を押し殺してしまいます。しかし、永遠の命という尽きることのない命の流れは、自分を愛することから生まれてくるのです。

 サイコセラピーという言葉が日本でも、心理療法という意味でよく使われています。しかし、もともとの意味は、魂のケアあるいは魂の世話ということです。愛というのは、ケアあるいは世話ということでもあります。つまり、痛み、苦しみ、病んでいる心、あるいは魂を世話し、ケアをすることは、愛するということの一つの面であるということです。

 良きサマリア人の話は、こういう背景をもって描かれています。強盗に襲われた旅人は、半殺しの目に会い、祭司や祭司の助手の役割を果たしていたレビ人からも見捨てられてしまいます。このようなときの人間の心理は、惨めさと怒りが錯綜します。その怒りは自分へと向けられ、自分を見捨て、絶望し、自分を逆に責めて罰するのです。当時、旅人であるユダヤ人と仲の悪かった旅の途上にあるサマリア人が、この半殺しの状態にあるユダヤ人を発見します。そして近寄りその傷の手当てをするのです。

 ここに、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」という言葉が具体的に実践されています。人の手当てをし、世話するということは、相手の状態を見て、洞察し、どのような手当てが必要か、知識と知恵を動員し、このけが人がどうすれば回復するのか、その後の経緯を想像力を働かせて、自分と相手に現実的で最も良い手当ての方法を考え、実行します。この出来事によって、互いに仲の悪かったユダヤ人、サマリア人という違いを超えて、旅にある一人の個人としての人間同士という結びつきが生まれます。

 自分を見失い、自分を愛することに絶望した旅人は、サマリア人が自分のもてる力を尽くして、世話し、ケアしてくれるのを体験して、愛され、関心をもたれ、良いことを注いでもらっている自分を発見し、そこに友がいることに気がついたことでしょう。

 またサマリア人も、自分がもてるものを注ぎ込んで人をケアしている自分の中に、不思議な力が入り込んでくるのを感じ、命の充溢を味わい、人を癒している自分が癒されるのを感じたことでしょう。この人にとっても、旅の途上で苦しんでいる人の姿の中に、同じ旅人としての痛みと苦しみを共感する自分を発見し、隣人、すなわち友となったのです。

 CMCCがそうなりたいと思っている援助とは、このようなものです。人は、ただ自分の話を聴いてくれる人を求めて、CMCCに相談をされます。ありのままのその人を真実をこめて、受け止める良きサマリア人としての友は、説教や忠告などによって、その人の話を中断したり、自分の思うようにその人を自分の色に染め上げてしまうことをしません。人生の旅の途中で、自分を見失ったり、自分を愛せなくなってしまった人の話を、丁寧に時間をかけて聴いていくのです。それがその人の心と魂のケアに必要であることを知っているからです。

 現在の話、過去の話、隠された自分の感情、自分でも認めたくない自分を語り、話をすることで、今まで避けてきた自分の人生の話を振り返り、もう一度関心をもち、自分のものにし始めます。ありのままに自分の話を物語る中で、自分を味わいなおし、嫌い、憎んでいた自分に新しい関心を注ぎ始め、自分への世話をし始めます。これは、やがて自分を再発見し、「永遠の命」という尽きることのない生き生きとした命の流れにつながっていくきっかけになっていきます。

 このような、誠実な魂のケアのあり方をCMF(メンタルフレンド)という友として行うことを目指しているのです。