32
      学びつつ歩んだ私の心理学


登校拒否文化医学研究所所長・臨床心理士
CMCC理事
        
高 橋 良 臣

 今年の5月で不登校の子どもとの共同生活は、35年が過ぎました。あっという間に 35年が過ぎてしまいました。

 この間に人間の心にさまざまな模様を観てきました。とくに思春期の人々とその家族とのかかわりが多く、教師や医師や心理関係者 たちとのかかわりもありました。私自身が不本意にも「専門家」とされてしまい、多くを学ばなけれぱやっていけない状態になってい ます。実際に精神保健機関の「専門相談」では多くを学ばせてもらっています。

 精神保健機関に相談に来られる方々の心の相談は多彩です。不登校や引きこもり、病気とは言えないけれど本人には苦痛な軽い神経 症、摂食障害や夫の家庭内暴力や父親の虐待や性や薬物依存など、病院で治療対象にしにくい人々が相談に来ます。

 また、現代文化の影響による心身の発達課題の獲得の遅れが目立つ人も相談に来ます。私自身それぞれの時代の変化(文化的変化) や来談者の特徴を感じ取り、彼らとのかかわりから多くを学んできました。

 カウンセラーも「相手によって影響され変えられる」という精神分析家であるO.F.カーンバーグ(自我心理学と対象関係論を統 合したアメリカの精神分析の大家)やロンドンのN.シミントン(タビストック・クリニッ ク)らの言葉は現実的です。いずれの大家に も面識はありませんが、著作や論文に触れて感激しました。いずれも謙虚です。相手を大切にしています。相手から学ぶことや相手の 自然な気持ちを理解しようという心構えがあります。これらはキリスト教の「隣人愛」の精神と一致するものです。

 多くの学者たちが立派な理論を述べていますが、彼らの臨床姿勢に「愛がなければ、無に等しい」(Tコリント13:2)のです。私の 臨床姿勢の基本は聖書からの学びです。その姿勢と一致する学者たちの理論を学ぶことが多くなります。しかし、実際には著作を読ん でみなければ分からないわけですから、私の臨床センスが問われます。聖書は常に読み続けなければ自分の基本がずれてしまいます。 私にとっては聖書の理解や認識の基本が他の精神分析やカウンセリング理論に影響を与えてきました。

 ある心理学のトレーナーから「君には牧師の悪い癖が残っている」と叱責されたことがあります。その頃の私は聖書理解も「頭で考 えた理解や解釈」であって、「御心のまま」の理解や解釈ではなかったのです。その方の父親は牧師で本人はキリスト教の信徒でしたが 「おれは死んだクリスチャンだ」と公言していた方でした。私は彼の言動とは無関係に、恩師として彼を尊敬しています。

 私は人の心の 理解も「頭で考えて答えを出 そう」としていたと思います。「そんなこと はするな。相手に失礼だ」というのがトレーナーの叱責でした。肝に銘じています。

 精神分析だけが心理学理論に貢献しているわけでは ありません。私の前にいて生きている人が訴えるすべてが心理学に貢献しています。「すべて」のどれほどを私は発見し、認識し、理解 し得るでしょうか。私が見ている部分はどんなに注意深く観察しても、その時は部分的でしかありません。私がかなりの部分を見つめ尽 くしていくためには多大な時間が必要です。その長時間の間にも私の相手は刻々と変化変容を遂げていきます。この35年間は私には必要 な35年間だったのです。

 あれこれと考えるよりも「いま、ここで、起こっている現象を大切にする」姿勢の繰り返しが、私の心理学の歩 みに貢献します。

 実存哲学や現象学の学びは心理学を学ぶ姿勢の基本です。実は獣医師は治療場面では実存的であり、現象学的理論を体 得していない限り、ものを言わない、しかも表情に乏しい動物の臨床はできません。動物は「お腹がシクシク痛みます」などとは言いま せん。観て、触って、どんな動きをするかによってある程度の診断を下します。人間は言葉を使います。その言葉を重視します。そして、顔筋や視線の動きや身振り手振りも参考にします。服装やアクセサリーや化粧も現象学的に観ます。

 さて、人間は「体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします(Tコリント12:23)。 心理学を学ぼうとするとき、そのような人間の特性も聖書は教えてくれます。

 聖書からの学びにより心理学の落とし穴を埋めることができます。精神分析学や心理学は万能ではありません。欠落がたくさんあります。人間学的な発想は近代精神分析学が見失ってきた重大な課題です。聖書はある意味では精神とか自己の基本ですが、その基本を忘れてしまい暴走しがちになるのは、心理学を学ぶ者の側の問題でしょうか。

 精神医学や心理学を学ぶ一部の人には肥大化した自己、尊大な自己が潜伏しているような気がします。一つの関係に関係する内的対象関係が見失われ、軽んじられています。

 この世の経済社会の勢力に支配影響され、経済的な力を人間の精神力の豊かさであると勘違いしている人がいます。とくに経済的に豊かになりすぎた若い人の中には、社会的な規範を理解できない未熟な人が傍若無人な振る舞いをしています。「お金を出して電車に乗っているのだから、電車の中でお化粧しようがパンを囓ろうが、誰も文句を言う権利はない」という心 の貧困さが露骨に現れている時代です。人間同士の関係を無視する人が多くなっています。

 そのような非関係主義者の増加に違和感が起こりストレスを感じます。私たちには何ができるだろうか。聖書が教えて応えてくれるのではないかと期待しています。

 聖書に書かれて いる記述はクリスチャンにとっては宝です。キリスト教精神でカウ ンセリングをしている私にも大切な宝です。多くのカウンセラーはど ちらかというとカ ウンセリング・マインドやカウンセリング技法に、カウンセラーとしてよってたつ根拠を求めています。ロジャースやユングのカウンセリング・マインド、分析療法とか来談者中心療法とか芸術療法とか家族療法など、さまざまな技法がカウンセラーに影響 を与えて います。私にとってはそれらの精神や技法も大切ですが、聖書の記述によって多くの示唆を与えられていると認識しています。