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自 已 愛 の 時 代

精神科医・桜美林大学教授

            
石 丸 昌 彦

 『隣人愛』は、私たちにとって最も大切 なキーワードです。キリストにつながる一信徒としてはもとより、人々への援助を志す者としてはなおのこと、「隣人を自分の ように愛しなさい」とおっしゃる主の言葉 は、私たちのアルファでありオメガである 要の石なのです。だからこそ私たちは真剣 にもなれば不安にもなるでしょう。主が命 じられた聖なる捷に対して、いったい自分 はどれほど忠実でありえただろうか、と。

 ところで、この捷の難しさはいったいど こにあるのでしょうか。私たちが自己中心的 な存在であって、どこまで行っても我が身か わいさから抜け出せないところにあるので しょうか。自分を愛することは容易だが、我 ならぬ隣人を自分同様に愛するのはいかに も難しい、そういうことなのでしょうか。

 もちろんそれが第一義でしょう。そして、 それに尽きるものと私は思っていました。と ころがある時、思いがけない問いかけに出遭 って、すっかり考えこんでしまいました。そ れは、「いったい自分を愛するのはそれほど 簡単なことだろうか」という問いだったので す。言われてみれば、思いあたるところがい くつもありました。なるほど、それはそう簡 単なことではなかったかもしれません。

 精神医療の現場に目を向けてみれば、自分 を愛することの難しさは珍しいどころか、む しろありふれた現象です。病気の結果として の自己嫌悪や自己卑下は言うに及ばず、わけ ても痛ましいのは、そもそも自分を愛せない ことが原因となって起きてくる、さまざまな 症状や問題行動でしょう。成長過程で十分な 庇護や愛情を与えられず、本当に大切にされ る経験を積むことができなければ、人はいつ になっても安心して存在することが難しい のです。

 また、今日の社会に蔓延する深刻な問題と して、酒や薬物からギャンブル・浪費・ゲー ムに至るまで、さまざまな型の嗜癖や依存が 挙げられます。これは裾野の広い問題で、た とえば酒害の場合、狭義のアルコール依存症 の周辺に全国で200万人以上の予備群が あるとも言われます。人が進んで悪しき快楽 へと没入していく姿は背筋の寒くなるもの ですが、それはまさに正しく自らを愛するこ とからの逸脱の形ではないでしょうか。

 さらに、私たちの価値観の中に深く食い入 った拝金主義や偏差値信仰の問題がありま す。実に私たちは、日々、見当はずれのもの を労苦して追い求めては、どれほど自分を苦しめていることでしょうか。自分に本当に必要なものを知り、そうした真の栄養で自分を養う者は、実は多くはないのです。総じて私たちは自分自身を私物化しており、主の目から見れば愛の欠如としか言いようのない乱暴なやり方で自分自身を乗り回しているように思われます。

 「しかし神は、『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:20)

 神の前に豊かになることを願いながら、自分のために富を積む悪癖から逃れることのできない私、神が私を愛してくださる、そのような透明な賢さをもって自分自身を愛することができない、罪のただ中の私。

 だから、「あなた自身を愛するように」という掟の前段こそが、実は私たちにとって第一の蹟きの石なのです。自分自身を愛せなくては、人を愛することも難しいのですから。


 「自己愛」という言葉は、日本語の文脈では好ましくない意味で使われることがほとんどです。それはしばしば「ナルチシズム」と同義に用いられ、「自己愛性パーソナリティ障害narcissistic personality disorder」は その典型例です。従来の「境界パーソナリティ」に代わり、いまや「自己愛」が現代を特徴づける流行のコンセプトとなりました。あおりを受けて、本来の健康な「自己愛」を論じることはひどく難しくなっています。

 実際、悪しき自己愛の徴侯を指摘することはいとも簡単です。しつけを知らず我慢を知らない今時の子供たち、ケータイに象徴されるコミュニケーションの超個人化と脱社会化、ゲームが提供する仮想現実の中で自己イメージがほとんど自己神化のレベルにまで肥大していること、当然の報いとして現実の厳しさに直面した時にはあまりにも呆気なく傷つき引きこもってしまうこと、等々。

 要するに私たちは、物が溢れ人が互いに疎遠になった現代の日常の中で、ちっぼけな自己を宇宙ほどにも押し広げた小ナルシストの大群を作りだしている、その結果、子を殺し親を殺し他人を傷つけて顧みない、恐るべき自己愛社会を産みつつあるというのです。

 確かにそうかもしれません。しかし、もう一歩ふみこんで考えてみるとき、この種のいわゆる「自己愛」が、実は本当の意味で自分を大切にしていないこと、つまり真の「自己愛」の欠如から生じたグロテスクな模造品/代替品であることに思い当たります。詳しく述べる余裕はありませんが、その必要もないでしょう。「本当に満たされているならば、ナルチシズム(悪しき自己愛)に走る必要がない」とは、至って見やすい道理ですから。

 してみると私たちは、現代人の自己中心性を慨嘆し非難するだけでは足りないのです。本当に自分を大切にすることを学び、そして伝えることこそが急務ではないでしょうか。健康な自己愛をしっかりと育てることこそ、醜悪なナルチシズムを予防する最大の防壁ではないかと私は思うのです。

 無論このことは、自分勝手の勧めとは何の関係もありません。神の愛を身をもって知り、神が愛してくださったように自分自身を愛することを学んだ者にして、初めて十字架上の御子にならって隣人のために自分を捧げることができるでしょう。

 「私を先に撃ってください」と進み出たアーミッシュの少女たちは、豊かな愛に満たさ れて育ち、自分を愛することをよくよく知っていたに違いないと私は思います。だからこそ危機にあたって、より幼い者たちを躊躇なくかばうことができたのです。

私という者を私以上に知っておられる主、その愛にならって自分自身を愛することを、しっかりと学ばねばなりません。