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反倫理的時代にあつて倫理を考える
−CMCCは倫理運動か−
CMCC副理事長
新宿西共同作業所ラバンス理事長

            
菊 間 俊 彦

 私がCMCCにかかわった経緯を振り返りますと、やはり、畏友熊澤義宣君との長い友情のようなものが大きかったといえます。 同級生ですが、初めから神学的立場は違います。彼は組織神学部門の中の教義学専攻の秀才です。私は同じ組織神学の中の歴史神学専攻です。教義学というのは信仰の規範を神学的に追及し構築するものですから、相当の学者でないと無理です。私は初めから一介の牧師として生涯を全うしようと考えていましたが、旧制の中学時代から歴史の研究に興味をもっていましたので、神学大学では歴史神学 に籍を置いたわけです。これは教義学の歴史的考察のような学問ですから、何を如何に信じるかを古代の教会史からその歴史的変遷を追及するのです。教義とか教理がどのように変遷し、そこにどのような戦いがあったか、言い換えれぱ、信条(信仰告白)成立の歴史を追求するので、これはいわば教会の成立とその変遷を検証するわけです。今なぜこんなことを書いているかというと、エキュメニカルな立場のCMCCの運動の難しさの根拠が、意外と「信ずべきこと、なすべきこと」という古代教会からの神学的変化と、教会の信仰 の違いに伴う「なすべきこと」(倫理)の理解に微妙な違いがあるからではないかと思うからです。この問題を本格的に論じだすと膨大な論文になってしまうので、どこで一つになれるかということを聖書に聴くという基本的なことを通して、単純に、思いつくままに書いてみたいと思います。『心病む人々と共に』 (キリスト新聞社刊)に簡単に書いておいたことでもありますが、それとあわせて読んでいただければ幸いです。

 蛇足ですが、なぜ私が熊澤君と行動を共にしたかという秘密の部分を明かしておきますと、大学院時代修士論文を書くのに東京神学 大学の当時の図書館では無理があり、2年間上智大学の図書館に通ったのですが、そこで小林公一先生につかまってしまい、カウンセ リング研究所を立ち上げる作業を手伝わされたのが運の尽きで、当時、神学生や牧師が心理学をやるのは堕落だといわれていた時代で す。彼はそれを誰にも言わず理解していてくれたようで、その恩義に応える意味でCMCC発足から参加しました。

「キリスト教倫理」は存在するか
 倫理という概念は、先ほど触れた教義学の最後の所で取り上げられるのですが、どうしてもカトリックとプロテスタントの決定的な違いが出てきてしまいます。さらにその違い以上にブロテスタント諸教会の理解の相違は大変なものです。古代のギリシャ哲学者アリス トテレスの倫理思想の上に成り立った思想と、近代のカントの倫理思想の影響を受けたプロテスタント、そして激動の60年代以降に実存主義哲学の影響を受けたヒューマニズム的社会・政治倫理の運動。70年代後半になると時代全体に倫理そのものが荒廃し、現代は無 倫理が社会のあらゆる部門を覆っています。

 倫理はもはや時代の中で力を失いました。このような時、私は「倫理」に「キリスト教」をつける必要はない。しかし、聖書からしか真の倫理は出てこない。その倫理は古代から様々な思想の上に成り立ってきた倫理とは違う。教会の歴史が担ってきた倫理でもない。それなら、聖書を見直す以外ないだろう。従来の倫理思想と根本的に異なる聖書の倫理観に基づくCMCCの運動は新しいエキュメニ ズムになり得るはずだ、という希望を共有したいのです。

聖書の倫理観に対する誤解
 ここわずか20年ぐらいの聖書学の進歩は驚くものがあります。しかし、それに反し教義学の衰退は目を覆わんばかりで、 世界に新しい優れた教義学者は皆無です。キリスト教倫理学は成立し得ないのです。どの教会も、半ば化石化した倫理観 をキリスト教倫理と思い込んでいます。何度も同じことをいいますが、聖書は倫理の手本ではない。福音の告知で、 人間は何をなすべきか、ではなく、神が人間のために何をなしたもうたかにすべてがかかっています。神は御自分の相手と して人間を男と女に創造され、自由と愛の主体としての神の似姿とされ、自由と愛の責任的かかわりに生きることが求めら れました。

 イスラエルの民としての原初的出発点に立つアブラハムは、「神の友」と呼ばれ(イザヤ書41:8、ヤコブの手紙2:23)、 イエスも私たちを「友と呼ぶ」(ヨハネによる福音書15:15)といわれました。モーセに示された「十戒」が一番大きな 誤解の元なのですが、これは戒律ではありません。「十戒」という言葉は聖書にありません。ただの「言葉」ないし 「民への教え」です。十戒は、その冒頭にある言葉「私はあなたを奴隷の家から導き出した神である」をそれぞれの 頭につけて読むと、禁止命令ではなく、「偶像を作る必要はないではないか、殺す必要はないではないか、盗む必要 はないではないか…私があなたの友として一緒にいるのだから」となり、どこまでも恵みに満ちた選びの契約の確認 なのです。旧約聖書には残酷な、荒々しいこと、不道徳なことが多く書かれていることは事実ですが、それとても恵み の選びという神と民との関係を確認させ、感謝と喜びと讃美の応答が求められているのです。この神を信じるか、それ にどう応答するかです。人間に求められているのはあくまでも感謝の応答なのです。倫理は恵みに対する歓びの応答です。 律法もそうでした。トーラーを律法と訳したことに問題があります。

 律法厳守が救済になるのでなく、イスラエルを選んで契約を結んだ神の憐れみと恵みが救済の根拠です。選びと恵みは創造の初めか らある神の働きとして普遍的なものです。CMCCがかかわるすべての人、ユーザーもメンタル・フレンドも神の恵みと哀れみの対象 です。神の友です。そうであれば、共に生きることを目指す者として、すぐ錆付く感受性を絶えず磨きつつ、互いに受容し、傾聴でき る謙虚さを身につけましょう。

 心の病は、きわめて多種多様で、一人ひとり違います。人と人との間の不自然さ、ぎこちなさ、などを見れば、誰にでもその資質は 潜在的にあるといえます。一人ひとりの不安や苦しみは理解を超えます。基本的信頼関係 を失っている人たちの苦悩、淋しさ、不安にたいして、積極的な働きかけは何もできないし、 してはいけません。心を込めて聴き、受け止め気づくこと、自分が変わることを恐れないこと、白分にこだわり続け、白己主張を しないこと。何よりも、自分が自分として生かされていることを喜ぶこと、そして素敵に生きることです。それなしに、愛による関係 の回復は不可能です。あるがままに受け入れる以外私たちにできることは何もありません。キリスト者の倫理は、何かをしてあげる ことではありません。こだわりを捨てた謙虚さを忍耐強く磨いていく責任を生涯守り抜くことは、選びの恵みに生かされている感謝の 応答としての礼拝生活以外からは出てこないことを、絶えず原点に立ち返って覚え、主に仕える思いで、与えられた業に参与し続けま しょう。